午後1時、ゲートインの直前。
アナグラワンワンの方からトリウムフォーゲンに声をかけた──スウェーデン語で。
「約束は忘れてませんね? 私が勝ったら遠慮なく妹さんのこと訊きますから」
トリウムフォーゲンは軽く驚きながら応える──フランス語で。
「ついさっき警告されたわ。グラがあっちの言葉で話しかけてきたら無視しろ、どうしても言い返したければフランス語にしろってね」
「…………トーヴェさんか……」
「そう、悪意に敏感なトレーナー。悪巧みが空振りに終わって残念ね?」
「ちぇー」
そう、悪巧み。母国語で話しかけることがどうしてそう働くのかは分からずとも、トリウムフォーゲンに僅かでもデメリットを与えようとした盤外戦術なのは分かった。小細工とも言えるし小悪党ムーブとも言える。
意外そうなリアクションは『そこまでする必要があるか?』という戦力認識によるものだ。ムーラン・ド・ロンシャン賞とヴェルメイユ賞を通してアナグラワンワンの実力は証明されている。トリウムフォーゲンも同格あるいは自分以上と認めている。
にも関わらずそこまでするのかと考えて、トリウムフォーゲンはむしろ自信を深めてしまった。とあるフランス皇帝の軍服に似せた勝負服が、ますます魂と親和していく。
『あちゃー……』
《どうやら裏目ったな?》
『そうみたいです』
『ゲートイン前に勝利宣言などがあったでしょうか? 闘志が火花を散らす凱旋門賞、いよいよスタート間近となりました』
『今年もフルゲート24人*、国外からは4人の選手が挑戦──今スタート!』
ゲートイン完了とほぼ同時のスタート。ここでの
『フランスのウマ娘だけは事前に知らされている』などと囁かれることもあるが根拠のない噂話だ。いずれにせよレースが始まってしまえば関係無い。
『まとまったスタート、集団から飛び出したのはスウェーデン出身でここまで無敗の3冠ウマ娘、トリウムフォーゲンです』
『先ほどお話のあった4人の国外勢の中では最も支持を集めました。主戦場はフランスですので皆さんも馴染み深いでしょう』
先頭を取ったのはトリウムフォーゲン、1バ身後ろにフランスの逃げウマ娘ルーテデラソワ。3バ身ほど開いて団子状の大きな先行集団が続く。
『さぁこの集団は混戦模様だ、スタート後の直線で早速激しい競り合いが始まっている!』
『他3人の国外勢はここに飲み込まれています。耐えるか動くか──おっと日本からの刺客アナグラワンワンは少し位置を下げるか?』
アナグラワンワンを含めて3人、国外から来て先行に位置取ったウマ娘たち。彼女らはみな集団での削り合いを強いられる。
もちろんフランス側の数名もスタミナを消費するが、最初から
卑怯などとは誰も考えない。こういうやり方で来ることは分かりきっていて、それが嫌ならトリウムフォーゲンのように集団を置き去りに逃げればいいのだから。
可能ならばそうしない方が不自然だ。そしてアナグラワンワンは確実にできる。
ならばそれは油断か、手抜きか──、
『グラ、何を考えてるの!? いくらなんでもハンデ付きで私に勝とうだなんてふざけた話……!』
──もしくは策略か、だ。
『っ、落ち着け落ち着け、あの性悪トレーナーが言ってたことだ。グラがおかしなことをするならそれは勝つための行動で、私の怒りや動揺をターゲットにしてくる可能性は高い。うちの性悪と比べたらグラの敵意は分かりやすい位よ』
事実、アナグラワンワンは意図して先行に陣取った。現在ずるずると順位を下げているのも計画的なこと。
しかしトリウムフォーゲンには分からない。トレーナーのトーヴェも説明できるほどには確信できていない。
何をそんなに警戒しているのか?
逃げの位置で1vs1の戦いを展開する方が──トリウムフォーゲンの認識ではフランス勢など敵ではない──やりやすいのではないか?
疑問に思うのももっともである。
なにしろ、アナグラワンワンについてずっとよく知っているはずの真壁ですら似たようなことを訊ねたのだから。
8月の末、合宿終了間際のこと。
「トリウムフォーゲンの戦力を高く見積もり過ぎじゃないかな。もちろん油断ならない相手ではあるけど、ムーンもワンワン君もどこか格上と見ているような──そこまでの脅威だろうか?」
模擬レースで披露された〈カリギュラ・ゼノ〉の実演を受けて、真壁がこんなことを言った。
これに対して賛否を明らかにしなかったのはニュクスヘーメラーのみ。他は全員が首を横に振る。
特にサキは小さく溜め息まで溢して肩を竦めたほどだ。『はぁコイツ全然分かってないわ』と言わんばかり。流石に言葉にはしていないが。
事実、真壁の天秤は偏っている。葵ははっきりと指摘した。
「それはおかしな比較ですよ真壁くん。“領域”ありのワンワンさんと“領域”無しのトリウムフォーゲンさんを較べてるでしょう」
「それはそうです。だって彼女はこれまでに“領域”を使ってない──だったよね、ムーン」
「ええ。私もグラも視たことがありません」
「なら戦力評価に含めようがないでしょう?」
一般論としては正しいかも知れない。
仮に真壁が言うように『トリウムフォーゲンが“領域”を使ってこない』場合はなんの問題も無いのだ。それならアナグラワンワンが勝つ。
しかしあの強敵に“領域”が無いとは考えにくい──もとい、感じられない。
「トリィさんが使えないわけありません」
「仮に今使えないとしても、【喚起】で目覚めたら即使いこなしてくる。トリィはそういう天禀の持ち主ですよ真壁さん」
彼女を強敵として注視してきたウマ娘2人による直感だ。データ的なものではない。
真壁はデータが無いからと却下するほど狭量ではないけれども、しかし作戦立案には繋がらないと考えていた。
ここからは数多くの“領域”を観察してきたサキたちによる推論と、そして『最も危険な可能性の想定』である。
「ディアヌ賞でムーンに抜かれそうになっても、トリウムフォーゲンは“領域”を使わなかった」
「トリィさんも、私とは違うタイプですが手抜きとか嫌う
「ディアヌ賞はシャンティイだから」
「そう。それにクラシック3冠の達成より前でした」
6月のディアヌ賞と10月の凱旋門賞では条件が違う。
まず立地──ロンシャンレース場から凱旋門は目と鼻の先。
次に戦績──7月にフランスクラシック3冠を達成したこと。
「ただ加速するとかこっちを減速するとか、そういうのなら良いんです。真っ向勝負するだけですから」
「厄介なのは〈
「諸々の条件を考えると、トリィさんの“領域”が敷く法則は──」
ナポレオン・ボナパルトの軍服に似た勝負服には未だ
そこから導かれる“領域”は。
「──〈
「そ、んなこと……ありえるのか? いや無いとは言えない……」
真壁は呻いた。いくら“領域”が物理法則に縛られないとはいえ、ゴールする前から結果を決めてしまうような因果律操作など想像の埒外だったのだ。
ではあり得ないと言い切れるか──無理だ。(レース結果は全てのウマ娘の血と汗と涙の結実だと銘記してもなお)奇跡としか思えないような事態も指折り挙げられるから。ウマソウルの神秘を前に人智は無力である。
「ですから真壁さん。誰かに卑怯と言われようと私は──」
「いや、いや。それを卑怯だなんて言うものか。きっと最善だろう……勝利を祈ってる」
「──ありがとうございます」
グラもアナも、視たことすらない“領域”の効果を正しく類推できているという自信は無い。しかし『トリウムフォーゲンに“領域”を使わせてはいけない』ことは確信に近いレベルで直感している。
だから……手段を選ぶつもりはない。
トリウムフォーゲンに“領域”を使わせずに勝つ。
これがアナグラワンワンの思考のベースだ。
自らのルーツ(勝利を持ち帰るべき土地)がここではなくスウェーデンだと意識させようとしたことも、侮りに見える振る舞いをして怒りを誘ったことも──どちらもトーヴェの助言で防がれたが──強い警戒の表れである。卑怯だなどとは思わない。
トリウムフォーゲンが実戦で“領域”を開いた経験が無いのは事実。しかし『ヤバい』と感じたら確実に使ってくるだろう。だから危機感を感じさせない──手遅れになる瞬間まで。
それを踏まえてスタート時は先行に控えたし、今は集団から遅れるように後ろへ下がろうとしている。
自らの脚はもちろん、アナの血の力を後半で炸裂させるために。
『隊列が伸びながら上り坂に差し掛かりました、先頭2人と先行との差は少し詰まりまして2バ身あるかないか』
『先行集団縦長に伸びました、今回アナグラワンワンは差しで戦うつもりのようです』
トリウムフォーゲンはある意味で拍子抜けしていた。『どうしようか』などと悩む余裕は無いと思っていたのに、実際は先頭を脅かされず600mを過ぎつつある。
『もっと突き放すだけの余裕はある。この位置に留まってもいい。ならここは……観察だ』
目を離すのは悪手との判断。
危機感を抱かせる暇も無く抜き去って勝負を決めたいアナグラワンワンとしては嬉しくない動きだ。いっそ大きく距離をとって欲しかった。
ただしこの判断には代償を伴う。
『全体のスピードはややゆっくりと進行しています、縦長の隊列のままコーナーに入っていきます』
『先頭は──っと、今、ガラスが激しく揺れています。西からの風が強まってきたようです』
南進していた選手たちは右へ、つまり西へ曲がっていく。風は正面からその進路を阻んだ。
先頭をいくトリウムフォーゲンは壁となってルーテデラソワや後続集団を守ってやった形。それを承知で逃げをやっている面はあるものの、流石に今日の風を『なんの障害にもならない』などと強がるのは無理がある。
──これでこそ。
難関を前にして自然と上がる唇。
『上体が起きたら力が逃げる、低く屈め──あの時のグラみたいに。ターフを
3月以前のトリウムフォーゲンにはできなかったことだ。アナグラワンワンによるロンシャン芝への最適化を目の当たりにして、自分なりに無駄を排した加速体勢。
2番手が明確に遅れ始める。
『コイツのこういうとこホント嫌い!!』
ルーテデラソワの好き嫌いはともかく、非常識なことは確かだ。正対する風を避けるために身体を倒すことは理に適っているし、ゆったりとした曲がりで横風に変わるから加速に適したタイミング──などとは全く言えない。最高点を過ぎたコースは急落を始めているのだから。ここで前傾加速など狂気の沙汰である。
トリウムフォーゲンはこれまでもフィジカルの強さを押し付ける逃げ勝ちを続けているので無理だとは思わないが、ルーテデラソワはこれを見過ごせない。先頭のマークが任された
『今仕掛けないと手遅れになる! フォロー頼みますよ先輩方!』
領域具現──
ここにいるフランス籍ウマ娘20人のうち、ルーテデラソワは唯一のクラシック級である。
他は全員がシニアで、“領域”を開けない者も多いが知らない者はいない。【喚起】で引き出される可能性はあるが、相互干渉で無駄打ちになるリスクも理解しているから実際に使うのは4人ほど。
その面々にとって、ルーテデラソワの“領域”は開戦の合図だった。
領域具現──
領域転象──
未現領域──
それはナーサリーナースとミルファクによる〈魔の森の蛇妖〉より遥かに洗練された、しかも計4人が絡む
『残り1200mでトリウムフォーゲン速度を上げた! 一旦離されましたがルーテデラソワ追随、これに合わせて先行集団が位置を上げて前後に分かれていく!』
『前進する3人はお互いを風除けにしながら効率的な加速をできていますね』
3番手から5番手のフランス勢はヒトミミから視てさえ高度な連携で先頭へと迫る。
ウマ娘から見ると逆に理解が難しい“領域”の怪物。スプリンターズSでアルヘイボゥの同期たちが組んだ即興とはモノが違う。
先頭は残り1000m地点。
もう200mで下り坂が終わり、ほぼ平坦な
フランス勢はトリウムフォーゲンを捉えんと前進する『攻撃』役と、間に留まって後続を阻む『防御』役とに分かれた。
この時アナグラワンワンは──7バ身後ろから進出を開始する。
『位置を上げます!』
《それがいい。あれはトリウムフォーゲンでも無視はできない》
順位は17番手。喰核を纏うとすぐ、前半で『削り』を担当していた4人を抜き去って13番手に。
近くにはイギリスとアイルランドから来た2人。前方には5人の『防御』役が居て、その3バ身と少し向こうに先頭集団。
力尽くで壁を貫くこともできなくはない。しかしトリウムフォーゲンのために力は残しておきたい。そこでこの
「どけぇぇえ!!」
レース中に雄叫びを上げるウマ娘など珍しくもない。ルールにも全く抵触しない。たとえそれが正体不明な
「っ!?」
「なに今の!?!?」
フランスの『防御』役も国外のウマ娘も、この叫びを無視できなかった。脚に力が籠り速度は上がる。後続を阻むはずの壁に綻びを生じてしまう。
その穴に国外からのウマ娘を押し込むようにしてグラは位置を上げ、先頭への距離を詰めていった。あと6バ身、更に詰めていく。
『坂を降り終えまして
『先頭トリウムフォーゲンを4人が捉えようというところ、後続集団も死に物狂いの追走*です』
『もうすぐ! アナさん、
《ああ、そっちは問題ない。しかし前が……》
先頭まで5バ身。
アナグラワンワンのレースメイクとしては、残り600m地点──現在地から200m先──辺りが仕掛けどころ。
そこに差し掛かるまでトリウムフォーゲンが“領域”を使っていなければ、アナの力を全て注ぎ込んだフルチャージの〈疾風突き・縮地〉によって危機感すら抱かせずに射抜いてしまえる。ここまで【ブラッドアーツ】を使わずにいるのはそのためだ。
……しかし、何事も計画通りにはいかないもの。
フランス『攻撃』役の連携型“領域”は、さながら巨大な雄鶏*のように先頭のトリウムフォーゲンを
『フランス勢なんか敵じゃないみたいな態度だったくせにー!』
《トリウムフォーゲンは傲慢だったし、フランス勢にも矜持があったようだな》
ゴールまでは700mを切ったところ。仕掛けどころである残り600m地点はまだ遠く、〈縮地〉でも貫き切れる距離ではない。
アナグラワンワンからはまだ4バ身以上も離れている。しかしフランス勢はとうとうトリウムフォーゲンの横に並んでしまった。
先頭を守っていた無敗の3冠女王は、このままでは敗けると確信し──その現実を、魂で跳ね除ける。
領域