寮の部屋に戻ると、ボゥ先輩が寝ていたベッドが無くなって2段ベッドに置き替えられていた。
その他の私物なんかは……うん、常識外れに大きかったりキラキラだったりはしない。新品ではないけどボロボロでもない。故郷で使ってたものを持ってきたのかな。だとしたら全く愛情を受けずに育ったわけじゃないんだろうけど……。
そんなことを考えていたら、ロスから時間を貰えるかと訊ねられた。ミネイがお茶を淹れてくれて、手伝おうとしたら断られて、渋々席についたりしながら。
「うん。今日は練習もできないし、ゆっくり聞ける」
「ありがとうございます。では早速本題……の前に、お詫びしておいた方がよさそうです」
「お詫び?」
「そのご様子だと、理事長たちから色々と聞かされたのでしょう。ですが──」
本題というのはロスの動機だろう。
その前に謝るべきとして切り出されたこと。アナさんの予想にはあったみたいだけど、私には全くの想定外。
「──『スウェーデンで虐げられている可哀想な
「…………はい?」
理解に苦しむ。
対するロスも説明に困っているようだった。組織や国同士の思惑が色々と絡んで、全てを正確には把握していないというのだ。
「なので……はっきりしていることだけ。
まず、これは証明が難しいんですが。ワタシは繋駕競走に関わることを強いられていません。国からも親からも。仮にこの名でなくとも、自ら喜んで生涯を捧げたでしょう」
証明が難しいっていうのは分かる。やらされてるとしてもこう言う(言わされる)だろうから。
でも本心だとして、なんのために?
「……なら、日本に来る理由は無さそうだけど」
「それは本題ですので後ほど。
ワタシはシンボリルドルフ氏に全てを明かし、条件付きの協力を取り付けました。具体的には嘘の片棒を担いでもらっています」
「え゛」
「尋常なやり方では
言葉を失う私の内側で、アナさんだけは納得している様子。
《……まぁ、案じていた児童虐待はそもそも無かったというのが真相か。その点は喜ぶべきかも知れない》
『え、待ってください全然分からないんですが』
《理事長らがどこまで知ってるのかは私も分からん。ただ、スウェーデンとこの子は
ロスからの説明をアナさんに脳内補完してもらいつつ聞いていくと──、
「つまり、日本側の同情をひいて優しさを引き出すために芝居をしたってこと? スウェーデンもそれに口裏を合わせて、嫌われ役を引き受けてる?」
「はい。ワタシの目的は祖国にも益となるので。
騙しておいてなんですが、貴国にもアナタにも害を為したいわけではありませんよ」
──結局そこに戻って来る。ロスの目的。繋駕競走がすっかり廃れたこの国で何をしようというのか。
それは案外シンプルな、考えもしなかった未来の話。
「アナタのボディバランスや路面判断は素晴らしい!──っと、失礼。
トゥインクルシリーズを引退したら是非ワタシの
「ぇ…………」
「いえ結構、今すぐ色よい返事が貰えるとは思っていません。アナタの邪魔はしたくありませんし、邪魔をしないことがシンボリルドルフ氏との約定でもある。時間をかけてゆっくり口説き落としますよ」
「あ、うん……うん?」
なるほ、ど? 何を言われたのか一瞬分からなかったし、色々と訊きたいこともあるけれど。
まずひとつ、さっき言ってた『繋駕競走を強いられてはいない』ってのは本当だと思えた。きっとロスは本当に繋駕が大好きなのだ。つい母国語が漏れて、クールぶった表情をキラキラさせる位に。
とはいえ乗り手になって欲しい、か。
今のところお断りする理由こそ無いものの、どうにも遠い未来に感じられてしまう。前にムンちゃんと『平地競走を引退した後のキャリアとしてアリかもね』なんて話をしたけれど、あれだって具体的な自分ごととして考えてたわけじゃないし。
そもそも私のトゥインクルシリーズはまだ2年目。そして怪我や病気とは無縁。なんなら最高齢現役選手の記録とかも塗り替える自信がある。
この時はまだそんな風に思っていたんだ。
──後から思えば、私は自身の未来をかなりぼんやりと捉えていたらしい。ロスはそのことを突きつけてくれた。
「ずいぶんと気の長い話じゃない?」
「そうでもないですよ、レースへのデビューは飛び級などできませんので。
ワタシの本格化は恐らく再来年から。タイミングぴったりとも言えるでしょう」
「…………ん?」
「なにか?」
「タイミング、ぴったり?」
「はい。アナタは今クラシックで、次の年明けからシニアが始まる」
「そうだね」
「だから丁度いいでしょう? “最初の3年間”はそこまで。シニア2年目は厳しいはずです」
「えっ」
「えっ?」
………………なんて?
どうしよう、ボゥ先輩からの言いつけを破る形になってしまうけれど。こんな大事そうなことを教わらないわけには。
「“最初の3年間”って、なに?」
「っ!?」
ロスは絶句した。目の真ん丸っぷりからして常識なんだろうけど……参ったな、聞いた覚えすら無い。
私の戸惑いはますますロスを混乱させたようで、耐性のない彼女はすぐに限界に達した。部屋の窓から顔を出し、下の階に向かって叫ぶ。
「アルヘイボゥ先輩! 早速ですが通訳をお願いできますか!?」
中立的に言って、今回ワン子は悪くない。この子は本当に“最初の3年間”を言葉すら知らないだろうから。
これは大人や年長者から子供に対する気遣い・道徳の類であって、子供は知らなくたって良いことだ。
レースと関わりの深い家に生まれたならともかく、ワン子のように一般家庭出身のジュニアやクラシックなら知らないウマ娘が過半数だろう。かく言う私も知らなかったし。
「ジュニア、クラシック、シニア1年目。ウマ娘が一番輝けるのはこの3年弱だって言われてる。とても短くて、短いからこそ、かなり好きにさせてもらえるのよね」
身体を壊すようなやり方は別として、それ以外ならほとんどダメとは言われない。それが“最初の3年間”の特権だ。どうしても必要なこと以外は強いられもしない。
(だからこそ、トロゥスポットが正直に頼んでいたらURAは認めなかったはずだ。『勧誘するならシニア1年目が終わってからにしてくれ』と断るだろう。シンボリルドルフさんもワン子の“3年間”を侵さない前提で協力したみたいだし)
「前に不思議がってたじゃない、『入学式で原稿を読むだけのたった数分の仕事なのに、生徒会の人たちはずいぶん恐縮してた』とか。ああいう雑事もシニア2年目以降の世代がやるのが原則だから、クラシックのアンタに頼んだのは異例なの」
「……聖蹄祭の実行委員とかも?」
「そ。ほとんどのアスリートにとってあんなお仕事は鬱陶しい時間泥棒だけど、誰かがやらなきゃいけない。そういう面倒事はできるだけ上の世代が引き受ける感じ」
もちろんジュニアでもクラシックでも、委員会や生徒会には参加できる──本人が望むなら。
シニア2年目からはそれらが義務に近くなる。『やりたくなくても下の世代のためだ、やってくれ』みたいに。
クラシックからシニアに上がった新年、同期たちが集められた場ではっきり予告されたっけ。正直なところ面倒臭いとは思ったけど、誇らしさのようなものもあった。引退せず戦い続けてる証としての義務だから。
まぁそのタイミングで初めて知らされるというのは稀な話で、クラシックの内からそれとなく覚悟を促されたりもあるんだけど。
ワン子には、ちょっと言い出せてなかったのよね。私たちもサキさんも。
だってこのUMA娘にとって、“最初の3年間”の意味は大きく変わる。
「今のアンタみたいな
「タイトルぐらとにぃ!?」
「流石は先輩、言い得て妙ですね」
ワン子は心外そうに言うけれど──微妙に可哀想な話でもあるけれど──アンタがシニアに3年も5年も居続けてご覧なさいよ。出走数があまりにも多すぎて下の世代が困るでしょうが。速さと違ってその頑丈さはウマ娘が競える域にないんだから。
「新世代のためにトゥインクルシリーズの引退を勧められてドリームトロフィーリーグに……嫌な言い方だけど、“隔離”される。そんな可能性は否定できな──」
「あ、また先輩と走れる?」
「──喜ぶんじゃないの鬱陶しい。
まぁ名誉といえば名誉かもね。強さの証明とも言えるから」
あまりに強く、故にシニア2年目が無かったウマ娘──真っ先に名前が挙がるのはもちろんシンボリルドルフさんだ。国内では前年の有馬記念が最後で、その後に海外で負った怪我*が理由とも言われるけど、それよりは『強すぎたから後進に道を譲った』と説明されることが圧倒的に多い。
「ただトロゥスポットの言い方も極端ね」
「おや、そうでしたか?」
「シニア2年目が無いってわけじゃないのよ。交渉の余地もなく無理やり引退させられるなんてこともない。『レースの頻度を落とせ』とは言われるでしょうけど」
「なるほど。聞き齧りで知った風なことを申しました、謝罪します」
「大げさ。……少し前ならあったかも知れないし」
今はほら、シンボリルドルフさんの片腕というか同志なエアグルーヴさんがURAの上の方にいるから。“4年目”以降の扱いも昔とは変わったらしい。
例えば──あくまで例えばの話──安田記念。ワン子は『シニアになってから走る』と言ってクラシックでの出走を回避した。仮にトロゥスポットの言った通りなら安田記念連覇が既に不可能ってことになる。
流石に可哀想だ。だからシニア2年目(以降)をまるっと取り上げられるようなことは無い。『他は我慢するので幾つかのレースには出させて欲しい』とか約束すればたぶん認められるだろう。あまりに多くのレースを喰い散らかすところが問題なのだ。
「──全っ然知りませんでした……」
「今回は珍しくアンタの無知じゃない。ただしこれから出るレースは考え直しになるかもね」
「あっほんとだ。あー、少し厳選しないと。凱旋門は獲りたくなったし、キング&クイーンも……あとせっかくだから愛チャンピオン*とか……」
「はいはい、今は目の前の秋華・菊花・秋天でしょ。具体的なことはその後にでも考えなさいな。誰から何を望まれようが、アンタは現にトゥインクルシリーズのトップランナーなんだから」
付け加えた一言にトロゥスポットは不満げな顔をした。それでも言いかけた言葉を飲み込んだ辺り、ワン子の“3年間”に割って入るつもりは本当に無いらしい。
それ以降は強く出てくるだろうけど、シニア2年目以降だってウマ娘の正当な権利だ。仮に強引な手段でスウェーデンに連れて行ったとしても……ワン子なら走るなり泳ぐなりして自力で帰ってきそうだし。
「え、っと……あぁそっか……うん、はい。落ち着きました」
実際のところ、シニア2年目以降のことはほとんど何も決まっていない。色々考える必要はあるにせよ絶望する必要なんて無い。
恐らくその辺りをアナさんから言い含められて、ワン子は落ち着きを取り戻す。
「今年と来年のレースは、色々考え直します。これは私の自業自得で……気付かせてくれたロスには感謝しないとね」
「いえ、心を乱してしまったようで申し訳ない」
「あんまり申し訳ないって思ってないでしょ。思う必要もないけどね、平気だし」
うーん、まぁ、うーん。『秋華賞の6日前なんて大事なタイミングでそんなこと言うなよ』な面もあるし、『でもこのUMA娘には本当にノーダメージだし』ってのも本当だ。
……なんなら期限を切られたことでやる気を増してる可能性すらある。そんな笑みが垣間見えた。
しかしその表情は一転。何かに気付いて翳りを見せる。
「あ。……ねぇロス、そちらと国の狙いとかお芝居とか、トリィさんはもちろん知ってるんだよね……?」
「………………」
トロゥスポットは答えない。
ワン子は大慌てだ。
「待って目を逸らさないで!?」
「……あの
「できそうにないから慌ててるんだよ! 下手したらトリィさんの中で『妹を拐った敵』みたいに見られない!?」
凱旋門の覇者はずいぶんと情の深いお姉さんらしい。ワン子が恐れるってどんなレベルの直情型なのよ。
「おぉ、よく分かっておいでで」
「否定してよ……殴り込みに来たりしそう……」
「姉が1人ならするかも知れませんね。大丈夫、ワタシにミネイがいるようにトーヴェも監視と拘束が役目です」
「うわぁ。でもあのトレーナーさんなら安心──いやいやいや。誘拐犯みたく誤解されるのイヤなんだけど?」
「流石にそのレベルの誤解は正します。ワタシからも言葉を尽くしましょう。直感優先の珍生物が納得するかは別ですが」
「…………しそうにない!」
「しないでしょうね」
私の想像の中ではトリウムフォーゲンがどんどんおバ鹿になっていく。
実の妹としてフォローのひとつくらい無いのかしら──あっても言わないか。アリーの口からホウカンボクを褒めるような言葉が出てくる方が驚きだし。
ともかく外野から見ているだけの立場からすると、正直な話──、
「『ジャパンカップで私が勝ったら妹は連れて帰る!』とか言い出すんじゃないの」
「言いかねませんね。もちろんワタシは日本に留まりますが」
「…………むしろ連れ帰ってもらおうかな」
「まぁまぁ、そう仰らずに」
──とても愉快だ。
普段は人を振り回してばかりのワン子だから、振り回されるのに慣れてないのよね。頭を抱える様には溜飲が下がる思いさえする。それはアンタの周りの
……どうせ長くは続かないだろうし。
トリウムフォーゲンがどうかは知らないけど、トロゥスポットはまだまだ井の中の蛙に思える。ワン子の近くで過ごしたら遠からず常識を染められちゃうんじゃないかしら。
……あれ? もしトロゥスポットがUMA娘の影響で平地競走にハマっちゃって、トゥインクルシリーズを走りたいとか言い出したらどうなるんだろう。
それこそ国際問題なのでは……?
ま、まぁアレよ、大人の考えることだわ。現状は
知ーらない。
水面下での組織同士のあれこれは、イヤな話も混ざるのでこれ以上は深く踏み込みません。
とりあえずスウェーデンは『繋駕の未来を背負って立つ姫が稀有なる才能と見込んだのだから勧誘をバックアップする』という姿勢、日本は『本人の意思を最優先、特に“最初の3年間”は横槍を入れてくれるな』という姿勢を基本としてなんやかんや折衝しています。
やよいちゃんのストレスは深刻ですが本筋とは関わらないのでカットします。ごじあい。