中央トレセンに来るウマ娘は幼い頃からレースに関心を持っていたケースが多い。憧れを胸に抱いて育ったということだ。
それは特別輝いてみえた優駿であったり、あるいは特定のレースであったり、クラシック3冠などの業績であったり。『自分もあんな風に』と願い、鍛えて勝って実力を示し続けて……そんなアスリートばかりなのがトゥインクルシリーズという夢舞台。
というわけで、『グレードにもタイトルにも拘らない者』はそう多くない。
アナグラワンワンは『誰と競えるか』でレースを選ぶ。GⅠを多く走るのはそこに強敵が集まるからだ。独特の基準が周りにはまるで理解できなかったので、SNSで出走計画を明らかにするまではしばしば当日に驚かれた。
そして現在、彼女と似たような基準でレースを選び同じような驚きで迎えられるウマ娘がもう1人いる。
菊花賞前の時点で11戦4勝。
国際GⅠの東京優駿4着、同じく宝塚記念2着、ダートの国内限定GⅠである東京ダービーではアナグラワンワンをおさえて1着。掲示板を逃した経験は無い。
ちなみに11戦のうち9戦は今年の3月以降。この7ヶ月間で2度の連闘*を含めて9戦した、押しも押されもせぬ高耐久UMA娘。
その名をニュクスヘーメラーという。
菊花賞を目前に控えたある日。
映像を流していたモニターをスリープにし、紙の資料も一旦山に戻す。大切な作戦ミーティングではあるが、一旦休憩だ。
「ニュクスは……勝つことへの拘りが薄い方ですよね」
葵は眉間を揉みながら呟いた。これは質問というより確認に過ぎない。問われた側もあっさりと頷く。
「そうですね、勝ちたくないわけではありませんが。楽しいから走っているというのが大きいです」
「勝っても負けても楽しいですか?」
「んー……はい。結果がどうであれ楽しさが減ることは無いかと」
『これまでの公式レースで最高に楽しかったもの』をニュクスヘーメラーが挙げるとしたら、東京優駿またはその10日後にやった東京ダービーのどちらか。前者は4着、後者は1着。それでも彼女が得た歓びは甲乙つけがたい。どちらもこの上なく楽しかった。
「トレーニングも結構楽しそうですけど」
「楽しいですよお、葵さんのおかげで。でもそれは、うーん……なんと言いますか」
葵が言外に含めた心配は伝わっている。レース中の最後の粘りとか気合いの伸びとか──それこそ秋華賞でナーサリーナースが見せたような──そういったものが弱いのではないかという懸念。
実際、東京ダービーを最後に勝ちきれていない。
宝塚記念ではドゥームデューキスに、レパードステークスと不来方賞ではティーガードンナに、紫苑ステークスではホウカンボクに敗れて2着が続いている。しかも全て半バ身前後の僅差で。
トレーナーによっては『勝てるレースを選ぼう』と言うだろう。しかし現時点のニュクスヘーメラーに悔しさは薄いのだ。だから強敵との激突には前のめりなほど積極的。
あるいは『真剣味が足りない』と叱る者もいるかも知れない。トレーナー室に山と積まれた資料──菊花賞対策のためだけに用意されたもの──を、全て頭に入れていると知らなければ。
「ちゃんと鍛えて、やれることをやって……でないと本番も楽しめない気がして」
「なるほど。勝ちを目指すからこそ楽しいと」
勝つために、勝てるように、できる限りをやっている。動機こそ『そうしないと楽しくないから』だが、楽しむことには真剣だ。
その欲求を重荷に感じたりはしていないらしい。葵は柔らかく微笑んでかつての担当を思った。
「デジタルとは対照的ですね。状況だけは似ているように思いましたが、杞憂のようです」
「デジタルさんが? 私と似たような、勝ちに執着が薄い……あぁ、なるほど」
「はい、想像してる通り」
“尊み”の伝道師にして栗東寮の寮母、アグネスデジタル。そのモチベーションは『ウマ娘ちゃんたちを間近で観ること』であって、勝たなくても達成できる。そのことを重く──後ろめたく感じていた。
「勝ちに拘れない自身に……罪悪感、のようなものがあったみたいで」
「拘らなきゃいけないと?」
「はい。でなければ失礼だと、彼女は苦しみました」
対して、ニュクスヘーメラーは違う。
「ほへー、真面目ですねえ」
アナグラワンワンに出会う前、まだ自らをイヴィルアイだと思っていた頃。
少女には制御も何もできておらず、それでも走ることは好きだった。好きだからこそソウルはぎらぎらと燃えたのだ。
そのせいで病毒をばら撒いた。
無自覚だったのは最初だけで、早い段階で本人にも知らされた。その上で対応を考えようという大人たちの判断だ。
今になって当時を振り返ると、ニュクスヘーメラーは恐怖すら覚える。
『私はあの頃から走ることを楽しんでた。歓喜以外の重いものを山ほど──行き過ぎなほど──背負い込んでたのも本当だけど、心の何処かは走る度にウキウキと踊ってた気がする』
なんて無責任で向こう見ずな子供だろうと自分でも思う。過去として振り返ればの話だが。
逆に言うと、走ることの喜びはそれほどに大きく強い。そして重石になる
自身の名を知るまでは羨むしかなかった幸せを、存分に噛み締めている最中なのだ。享楽に耽っていると言えなくもないが、そうなるのも無理はないといった開き直りもある。
だからニュクスヘーメラーは悩まない。罪悪感など抱かない。少なくとも“最初の3年間”は楽しさ優先で走ろうと。
目前の菊花賞にも具体的な勝ち筋を描けているわけではない──というより勝ちを確信する方が間違いだ。合同で行った夏合宿でのあれこれを思い返せば。
「私の勝率を最大化するには……間近で観察して“尊み”をチャージする、くらいでしょうか」
「選択肢の1つにはなりそうね。いえ、デジタルは遠くからの姿にも趣を見出すけれど」
「なんでもアリじゃないですか。
だったら例のアレ、『
「それはその、確かに菊花賞には最高の武器になる気がしますが……デジタルも理由があって
お互いも世間も認めるライバル同士、アナグラワンワンとムーンカフェ。
直接対決は今回で4度目。芙蓉ステークスとホープフルステークスはムーンカフェが勝ち、皐月賞はアナグラワンワンが獲った。
約半年ぶりの決戦が激しいものになることだけははっきりしている。
そんなものを間近で浴びれば、アグネスデジタルから継いだ因子は大喜びすることだろう。死ぬかも知れない。
「…………あら? ニュクス、そっちのノートはなんだったかしら」
「あ、これは私たち3人の落書き帳です。一応持ってきただけで、作戦会議に役立つようなことは書いてないですよ」
「見てもいい?」
「もちろん」
合宿中はウマ娘3人の寝室に置かれていた大学ノート。ぱらぱらとめくってみれば確かに落書き帳で、井の字に◯☓をつけて遊んだ形跡もあれば数学の課題を説明したような書き込みもある。見開き2ページを使ったマンハッタンカフェの肖像画などは誰が描いたか問うまでもない。
「ムーンカフェ、絵が上手なのね」
「私もワンワンさんも『上手すぎて怖い』ってドン引きしたやつです」
そんなまとまりゼロなノートだというのに、葵は何らかのヒントが拾えないかと素早く頭に叩き込んでいく。
しかしその手は──、
「うーん、実物より美化されてる気もするけど……ひゃっ!?」
「わっ、どうしました葵さ──あぁ、それ」
──悲鳴と共に止まった。
そのページも、ムーンカフェのリアルタッチな描線で埋められている。凶々しく、生々しく、荒々しい──アラガミたちの姿だ。
『ついに迎えた菊花賞、好天に恵まれた京都レース場は満員御礼となっております』
『アナグラワンワンが勝てば5大競走の総取り、文字通り空前絶後の大記録。“最も強い”を証明する*ことになるでしょう。しかし17名のウマ娘たちにそれを許す者は居ません』
晴れていることは好条件と言えます。重バ場になるほどワンワンさんが有利でしょうから。
贅沢を言えば無風が望ましかったのですが、こちらは残念。今年は冬の訪れが早いとかで、時おり乾いた風が鳴いています。
『やはり注目はイギリスで大金星をあげたムーンカフェでしょうか。9月頭のリュテス賞で3000mを勝った経験もあります』
『ニュクスヘーメラーもダートでアナグラワンワンを降しました。パドックの様子を見てもこの3名が大本命ですね』
大本命、ですか。そう言って頂けるのは光栄ですけれど……今のワンワンさんにとって風は味方。
凱旋門賞のゴール前で見せたアレは、映像じゃ分からなかったけどたぶん“領域”の類。常識は通じないので風向きとか関係無しに力に変えてしまいそう。
まぁこの段階でうだうだ考えても始まりませんね。
──いえ、もう少しうだうだしていたい気も。
ワンワンさんは7番、ムーンさんは9番。間の8番ゲートは、あそこに入る選手が可哀想なくらいに狭く感じられます。
私なんですけど。怖いなぁもう。
『さぁゲートイン。3000mの旅は向正面半ば、登り坂の入り口からスタートします』
『第3第4と外側コースを回ってホームストレッチを駆け抜け、さらにもう1周してゴールとなります。クラシックの子たちはほとんどが未経験の長距離レース、どう組み立ててくるか──今スタートしました!』
奇をてらわず最善のスタートを切──んん、ちょっと遅れましたが。幸い私の勝負どころは後半です。大きな問題にはなりません。
『おおむね揃ったスタート、するすると抜け出したのは先頭アナグラワンワン、2番手にムーンカフェ』
『1バ身から2バ身あけて先行集団、やや詰まった展開です──おぉっと1人大きく距離を取ったのはニュクスヘーメラー、最後方から前を狙います』
『スタートも含めトラブルがあったようには見えません、意図的なものでしょう』
いいですね、そういうことにしておきましょう。私の脚質は追込み。最後方に位置取るのは実に自然なこと。
『第3コーナー下りながらスピード乗ってまいりました、ここでアナグラワンワン更にぐんぐんと前に出ます、大丈夫でしょうか』
『かかってしまっているかも知れません。パドックでの気合いの入りようは凄かったですから』
『4度目の対戦となるムーンカフェは脚を溜めるようです、前後ばらっと隊列が伸びてきた』
んん? んー、いいえ。ワンワンさんが速すぎるのではありません。後ろの集団が遅いというべきでしょう。
『3000mレースの前半ですから抑える方が普通ですが……む? 失礼しました、タイムとしてはアナグラワンワンもそこまで飛ばしていません』
『全体がスローペースということでしょうか?』
『はい。むしろ前の2人以外が抑えすぎという可能性もあります。スタミナの配分は経験がものをいうところですね』
抑えめに走る気持ち、ちょっと分かってしまいます。今の先頭と2番手がライバル関係にあることは誰でも知っていますので。潰し合って共倒れになる可能性も無くはない、というか充分ありえる話です。
下手に手出しせずそれを待つというのも作戦としてはアリでしょう。消極的すぎて私の好みではありませんが。
びょう、と乾いた風。肺に少し混じって、冷気が身体に巡って。
……うん、やっぱり後方待機は退屈ですね。位置を上げましょう、合間に“尊み”を探しながら。
脚質だけ考えるなら早すぎる前進なんですが、脚だけであの2人と戦うのは厳しすぎます。デジタルさんの因子にできるだけ元気になってもらわないと。
『さぁホームストレートのスタンド前を大歓声の中駆け抜けまして残り2000mを切りました。先頭は第1コーナーへ──おっと!? 最後方で接触があったか1人つんのめったようです、しかし転倒は免れましたレース続行しています』
『ひやっとしましたね……いやよく
ニュクスヘーメラーの急加速がきっかけでしょうか、意表を突かれてバランスを崩したようです』
む、なんだかイヤな言い方。まるで私が危険走行でもしたみたいじゃないですか。
接触なんてもちろんしていません。追い抜きながら相手の様子をじっくり観察していただけ──誰でもすることだし私もされること。驚いて姿勢を崩したのは気の毒に思いますが、こちらのせいにされても困ります。
『まだ半分以上残っているここで仕掛けた狙いはどの辺りと考えられますか?』
『うーん……常識的な作戦ではありえません。周りの選手にも想定外だったでしょう』
仕掛けた? とんでもない。確かに少し前進はしましたが、私はまだまだ『溜め』の段階。ムーンさんも、先頭のワンワンさんも。
具体的に何をしてくるかはさっぱり分かりませんけどね。夏合宿で見せてくれた手札に限っても、ワンワンさんはやれることが多すぎる。先読みなんてほとんど不可能なほどで、事前のレースプランなんてものは通用しないのがデフォルトです。
これは葵さんとのミーティングでも共有した認識で、どうしてもレース中の閃きや直感に頼らざるを得ません。
恐らくムーンさんの視点でも同様でしょう。となると彼女の動きも読めないわけでして。
ここまで1200mを走ってみた感覚から言えば……本格的な戦いが始まるのはバックストレッチの終わり、2度目の第3コーナー辺りでしょうか。
そこは是非とも間近で観戦したいですね。デジタルさんのソウル的にも、私個人の感情としても。