ムンちゃんに2バ身ほどの差をつけてホームストレートを過ぎ、第1コーナーに差し掛かる頃。
最後方のニュクスさんが動いたようだ。
『残り2000mを切りました。先頭は第1コーナーへ──おっと!? 接触があったか1人つんのめったようです、しかし転倒は免れましたレース続行しています』
『ひやっとしましたね……いやよく
ニュクスヘーメラーの急加速がきっかけでしょうか、意表を突かれてバランスを崩したようです』
っと、誰か転びかけたらしい。
私の安全感覚からいくと(やや距離を取り過ぎな方なのでドゥたちに付け入られたけど)、ニュクスさんの『ギリギリ安全』な間隔はかなり
それに加えてタイミングも予想外だったはずだ。
『まだ半分以上残っているここで仕掛けた狙いはどの辺りと考えられますか?』
『うーん……常識的な作戦ではありえません。周りの選手にも想定外だったでしょう』
《あの子、脚質は追込みなんだよな?》
『サキさんが間違うとは思えないので、そうなんでしょうね』
《勝つ気が無いのだろうか……》
解説さんの驚きもアナさんの疑問もごもっとも。このタイミングで動くのは、追込みはもちろん差し脚質であっても合理性に乏しい。
一般論としては、ね。
ニュクスさんは……合理とか理屈とかを超越(逸脱?)したUMA娘なのであてはまらないかも。
『ニュクスさんは気質が追込み向きじゃないんです』
《Oh……冗談で言ってたわけじゃないのか》
『たぶん言葉通りの意味ですよ』
合宿中の模擬レースで追込みを試していた時のニュクスさんはかなり手強かった。なのにより早い段階で前に出たがるのだ。本人曰く、『独りきりで走る時間が長くて退屈』なんて理由で。
それも寮母さんのアレにとっては合理的な面もある……かなぁ。“尊い”と感じられるものを目にすればするほど速くなるんだろうから。
自前の“領域”だけでも変幻自在な運用ができるニュクスさんが、あんなファジーな力まで手にしたとなると。
先読みなんて土台無理じゃないかって諦めたくもなるよね。良くも悪くも臨機応変としか。
『先頭はもうすぐ第2コーナーを抜けて残りは1400m、全体のペースが少し上がってきたか』
『特に後方、ニュクスヘーメラーが引っ張るような形で中団と合流しました。その集団を縫うように、現在13から12番手あたりじわじわと位置をあげています』
後ろの方はさておき、ニュクスさんよりは読み易いライバルはというと。
これまでのところ2番手で静かにしている。位置取りだけ見たら先行策っぽいけど、今のペースってムンちゃん的には差しだ。ドカンと伸びる末脚を残している──それこそマンハッタンカフェさん*のような。
仕掛けてくるのはきっと第4コーナーを抜けて最終直線に入る辺り。もちろん私との差によって前後はするだろう。残り400m地点±50mくらい?
いやいや、ホープフルステークスで残り600からのロングスパートに敗れたことは忘れてない。残り700地点、第3コーナーの出口あたりで来ることも想定しておこう。
なら私の勝負どころは──、
『2番手ムーンカフェ、先頭との差を僅かに詰めたようです』
『アナグラワンワンはまだタイミングを窺っているように見えますね』
──まだ
『この向正面は加速しやすいようにも思えますが……その先の登り坂ですか?』
『いえ、彼女なら坂は苦にしないでしょう。問題はカーブかと』
そう、第3コーナーがキーポイントだ。
スタート直後も通った京都外回りの第3は、直角かなって言いたくなるような曲がり方をする。スピードがそこそこなら問題ないけど……仮に今〈カリギュラ・ゼノ〉でトップスピードに乗っちゃうと、そのまま曲がるには私でもかなり無理がある急カーブっぷりだ。
せっかく加速しても外に膨らんじゃう。それが嫌ならすぐ減速する羽目に。だからここではまだ溜める。
『溜めて溜めて爆発の方が効率良いですもんね』
《悠長なことを言っていて良いのか? 〈新月〉を使われたら爆発もできなくなるぞ》
それは確かに。
ムンちゃんの“領域”は私とアナさんを一時的に切り離し、【ブラッドアーツ】が封じられると〈ゼノ〉は真価を発揮できない。ボゥ先輩の血から得た〈風梳る3色柱〉がどうなるかははっきりしないけど、使えなくなる可能性は充分にある。
ただし、あの月面世界には相手を減速させるような効果は無いので。その前にスピードを稼いじゃえばいい。後は私の体捌き次第。
『ムンちゃんが〈新月〉を開くのは早めに見積もっても3コーナー出口。こっちはそのコーナーを曲がると同時に〈ゼノ〉と【ブラッドアーツ】と〈
《そう上手くいくもんか?》
『できなきゃ敗けるでしょうね!』
伸るか反るか。
『ごく短い区間で限界まで加速すること』と『その速度を落とさずゴールまで維持すること』を両方達成できれば私が勝つ。簡単じゃないけどやってやろう。
『向正面も半ば、残り1200mの標識が迫ってきました。再びの登り坂です』
『勝負どころが近いですね、先頭アナグラワンワンはまだ溜める構え』
この坂を登ったら。
そんなレースプランで動いていた。
……うん、〈新月〉の裏バージョンに無警戒だったのは確かだ。
言い訳をさせてもらうと、ちゃんと理由はある。『これまでに使ったことがないから』とかじゃなく、『
つまり〈新月〉が追い払う他者の“領域”をムンちゃん自身の強化に回すような感じだろうと。〈極点〉に警戒してればそれがそのまま転象への注意にもなるだろうと。
実際にはまるで違う効果なんだけど……いや、これは予想できなくても仕方ないって。
完全に意識の外だったし、そもそも私にはソレらが視えてすらいなかったんだから。
領域転象──
「来なさい、シユウ!」
《シユウだと!?》
『アラガミ!?』
ここは夢の中じゃない。現実の、京都のターフだ。
なのにムンちゃんの背後には蒼黒の鳥人めいた姿が視える。彼女を抱えるようにして大きな翼を広げると──速度を揚力に変えたみたいに、軽々と坂を駆け登ってくる!
『坂の入口でムーンカフェが動きました、3バ身あった差をぐいぐいと詰めていく!』
『かなり早い攻勢ですよ、アナグラワンワンも驚いているように見えます』
《──違う、アラガミじゃない。ムーンカフェが視ていたという浮遊霊の類か》
『【喚起】に引き寄せられるみたいにアラガミの形を取るっていう!? あんなにはっきり!』
去年の春にも軽く聞いたし夏の合宿では割と踏み込んだ話も教えてもらった、ムンちゃんの体質──幽霊みたいなものが視えてしまう、という。
『基本的には視えちゃうだけで害は無いから気にしていない』という雑多な(元がなんだったのかも分からないような)無数の霊魂。
私の周りではアラガミの姿にまとまって敵意を向けてるとは聞いてたけど、それが実際の危害に繋がったことはないからすっかり忘れていた。
《なるほど〈新月〉の逆。〈
『…………ムンちゃん……』
なんでもないことみたいに話してくれたけれど、視えてしまうモノは──視えてしまう事実は──孤独を招いたのだと思う。だって“お姉様”との出会いとかを語るにしてはかなり落ち着いたテンションだった。
だからそれらを無いものにする〈新月〉は心地よい“領域”のはずで、逆に〈盈月〉は不本意な力なんじゃないだろうか。シユウの翼で坂を登る様子に、一瞬だけしんみりした気持ちになる。
そしてすぐに背筋が冷えた。
『ヤバ……!?』
《そういえば合宿中にアラガミの特徴とかをかなり話したな?》
『アラガミを絵に描くついでの雑談だと思ってたのにぃ!』
ムンちゃんは知っている。私たちほどじゃないにせよ、どのアラガミがどんな長所を備えているかを。そしてそれらの名前も。
ニュクスさんに詳しく話すと不味いかもと思って、ニュクス・アルヴァのことだけは伏せたけれど。他は隠す理由も思い当たらなくて、訊かれるままにぺらぺら喋ってしまった。
パジャマ姿でのまったりトークに紛れてちゃっかり情報収集するの、勘弁してくれないかな!
『坂の頂点はすぐそこ第3コーナー入口に差し掛かりまして、2人の差は既に半バ身にまで詰まっています』
『コーナーで抜きにかかりそうです、後方ではニュクスヘーメラーもみるみる順位を上げてきた!』
急カーブの手前ではまだ加速できない。だからごめんだけどニュクスさんのことを意識してる余裕は無い!
ムンちゃんだって今のスピードで3コーナーを回るのは難儀しそうだけど──、
「マグナガウェイン
「マジで!!?」
──
アレらは私みたいに神機で再現してるわけじゃない。だからシユウもマグナガウェインも同時に存在できるし、っていうかムンちゃんが呼びかけた2体以外もまだまだ山ほど
そこら中に浮かんでいるという浮遊霊たちに、私たちがアラガミの形を与えムンちゃんはソウルの力を与えたって感じ?
『アナさんの言ってたアラガミ動物園*、これが!』
《ここまで勢揃いしたのは私でも見覚えないぞ。壮観だなー》
『現実逃避しないでください、アレ消せたりしません!?』
《ん──無理っぽいな、意識して集めてたわけじゃないし》
ムンちゃんからの指示待ち状態になってるっぽいのも納得いかない……いや、襲いかかって来ないだけマシと思うことにしよう。
問題のコーナー。
スピードをやや抑えたまま最内の経済コースを行く私に、ムンちゃんは(おそらく)トップスピードで襲いかかる。そのまま減速することも膨らむこともなく──、
『ニュクスヘーメラーはなおも猛追、先頭とは5バ身といったところ、今4番手にあがってきました』
『先頭は第4コーナーに入るところ2人並ぶか、並んだ! 外を行くムーンカフェが僅かに前か!?』
──外に喰らいつき、ほんの少しとはいえ抜いていく。
このスピード、そのフォーム。
「え、そんな練習いつの間に」
「この2週間よ。ぶっつけ本番なんて危なっかしいことしないわ、貴女じゃあるまいし」
「“領域”ってレース以外じゃ使えないものって聞いたんだけど!」
「貴女にだけは言われたくない」
ウマソウルの極致とはなんだったのか。割とほいほいできてる*じゃない?
ええい、考察はおしまいだ。幸い〈盈月〉ならアナさんはここにいる。【ブラッドアーツ】も使えるってこと。
「負けないよムンちゃん!」
「こっちこそ!!」
「こ、これが“
うわ、ニュクスさんまで距離を詰めて来た。とっても楽しそう。まさに勝負はここからだ。
……それにしても、本当に信じがたい。今のムンちゃんは
走る最中に受ける力って普通は『空気抵抗や風』と『地面からの反作用』の2つだけで、それ以外は前向きの力であっても速度には直結しない──私が初めて〈アバドン〉を纏ったホープフルステークスみたいに。あの時はムンちゃんに怒られるほどのへっぽこフォームになっちゃったけど、みっちり練習してなきゃああなるのが自然なのだ。
それをムンちゃんは、たった2週間で? 独りで?
真壁さんにだってこんな走り方を教えられるとは思えない。
できるかできないかで言えばアナさんは容疑者に挙がるだろう。夢の中でムンちゃんと何かしてたとか。でもありえない。〈極点〉のことを裏切りとして謝ってきたアナさんはそんなことしない。もしムンちゃんから頼まれてそれに応じたなら、はっきり私に断って筋を通した上で特訓をつけるはずだ。
じゃあムンちゃんに教えたのは、マンハッタンカフェさん?
それとも──私の知らない誰か?