「ん……んん……?」
「お目覚めですか。おはようございます、ワンワンさん」
「んー……おはようロス。ミネイも」
「おはようございマス」
ベッドで上体を起こした。慣れ親しんだ寮室だ。
ロスたちと交わす挨拶も『いつものように』と感じられるようになった。
えっと。
なんだろう。なんだっけ。
『……菊花賞、勝ちましたよね』
《恐らく。私も寝ていたから……今日の日付から確かめた方がいいんじゃないか》
『あ、んー? そっか、ライブやってないや……』
身体が重い、気がする。手をにぎにぎ、脚をわさわさと動かしてみる。痛みも熱も無い。疲労感もそれほどじゃない。
なのになんだろう、この面倒臭さは。
「ダルい……」
「ダルい?」
ロスが軽く驚いた。私もびっくりした。これまで自分の口からはあんまり出てこない言葉だったから。
アナさんから言われたように日付を確かめるべきだ。そうしたいと思っている。でもなんか、気分が進まない。
そんな不可解な状態は、ロスにとっても驚くべきもので──ただ、驚く理由は違ったみたい。
「千田トレーナーから聞いていた通りですね」
「サキさん、が?」
「身体に特段のダメージは残っていません。ただ気力は使い果たした状態だから、それが戻るまではぼんやりするだろうと」
「……おぉー」
なるほどその通りだ。流石サキさん。
そんな感心さえワンテンポ遅れてやってくる。こんなんじゃカルストンライトオさんに失望されてしまいそう。
「菊花賞は昨日で、今は朝6時。12時間以上眠っていたことになります」
「そっか。……ありがとう」
「……こちらのドリンクを飲んでからなら、昼頃までは寝ていても構わないと」
「ん………………そうする」
スポーツドリンクをちゅーちゅーと啜らせてもらって。
おやすみなさい、と声をかけられた気がするけれど。それもなんだか良く覚えていない。
朝、学園本校舎の食堂にて。
トロゥスポット、コンバスチャンバー、ベアリングシャフトの3人が交わす会話に周りもウマミミを立てている。
「ロスちゃんおはよう! 先輩はどう?」
「おはようございます。6時頃に1度目覚めて、また眠られました」
「先輩が? 珍しいね」
「ワタシが来てからは初めてです」
アナグラワンワンはストイックなウマ娘だ。見ようによっては人間味が薄く感じられるほど、毎日のルーティーンは正確に反復する。
(学園にいるなら)この時間の食堂に居ないことなど無かった。どんな大レースの翌朝だろうと。
「まぁそれが普通だよね。ムーンカフェさんもニュクスヘーメラーさんも居ないし」
「わかる。私はベッドからも立てなかった」
「ベアは割と普段からそうでしょ……」
レースの翌朝、体力も気力も足りなくて動けないというのは珍しい話ではない。どちらかというと動ける方が異常だったのだ。
今朝もこれまで通りに来るのではないか、という疑いもあったようだが。
近くに座っていたホウカンボクはウマホでぽちぽちとメッセージを送る。
もしいつも通りに食堂に来ているようなら引っ叩いておいてくれとムーンカフェから頼まれていたのだ。
ちなみにムーンカフェがホープフルステークスでやらかした翌朝は、早い時刻から約束を果たせと詰め寄っていたわけだが。無かったことにしたらしい。
ともかく今朝はグラとて動けなかった。それは事実なのに、トロゥスポットのしみじみとした言葉は──、
「散々UMA娘扱いされていますが、ワンワンさんも普通のウマ娘だということですね」
「「「「「それはない」」」」」
「そんなに声を揃えなくても……おはようございます先輩方」
──朝食のトレーを持ったアルヘイボゥとアソカツリーまで一斉に否定した。ウマ娘ではあるだろうが普通ではありえないので。
下級生たちは席を詰めて近くに座ってもらう。
「早朝ミーティングですか?」
「ミーティングっていうか、サキさんとワン子の寝顔を診てきただけね。軽くこの先の話もしたけど」
この先。
トロゥスポットが連想したのは菊花賞の7日後、すなわち6日後に行われる大レース。
「天皇賞ですね」
食堂の空気がピリついて、何人かは席を立った。聞いては不味いと思ったらしい。こんな場所で聞かれて不味いようなことは話さないが。
「あぁ、それもあるか。でも本人が寝てる間に決められないわよ」
「千田トレーナーが止めたとして、大人しく了承するんでしょうか?」
「どうかしら。ロスはどう思う?」
「むぐ……」
『アナグラワンワンの行動予測』はトロゥスポットが好んで投げかける話題だが、アルヘイボゥから振られて返答に詰まった。連闘のリスクを承知しているから大人しく従う気もするし、問題無いと言って出たがる気もする。
「千田トレーナーは、止めると思うのです。ウイニングライブに立てなかったわけですから」
「そうね、サキさんが貴女の常識からはみ出すことは少ないでしょう。それで?」
「…………押し通すかはともかく、出たいと望むのではありませんか? 秋華賞も万全ではなかったそうですし、それなら今度もいけると」
アルヘイボゥとアソカツリーはそう思っていない。サキが止めれば取りやめるだろう。「採点は後でね」とこの場では答えずにおいて、代わりに話を元に戻す。
「そうじゃなくて、この先っていうのは──半ばサキさんの愚痴だったけど──メディア対応のこと。あのワン子ったら自分が何しでかしたか絶対分かってないわよ」
「芝」
横からネットスラングで混ぜっ返したのはホウカンボク。
「前代未聞すぎて呼び方に困るのよね……」
「これもクラシック5冠というのでしょうか?」
一般にクラシック5冠と呼ばれるものは天皇賞と有馬記念を含む。なので現時点では未達成だとトロゥスポットも分かっているが、大レースを5つ総ナメにしたのは事実である。
むしろ5つどころではない。
「皐月・ダービー・菊花のクラシック3冠と、桜花・オークス・秋華のティアラ3冠を両方獲った……で間違いないですか?」
明らかな事実を挙げながら、コンバスチャンバーは不安げだ。競走ウマ娘としての常識が激しく否定するのである。『そんなウマ娘が実在してたまるか』と言いたくて堪らない。
「つまりクラシアラ6冠」
「変なまとめ方しないでよベア……」
ベアリングシャフトの雑なセンスはともかく、アナグラワンワンの為し遂げたことを一言で表せる名前は無い。『同じ年の4月と5月と10月にGⅠを連闘しその全てに勝つ』という意味不明な業績なので当たり前だが。
目指したウマ娘さえ居るかどうか。居たとしてもその夢を語れば考え直せと諭されただろう。良識ある大人なら無理があると言うはずだ。
しかしそれが、不可能とは言えなくなってしまった。困った話である。
「学園……というか、周りも態度を決めかねてるみたいなのよ。これを讃えてしまって良いものかって」
「あー。真似する子が増えたら大変ですもんね。私たちは入学式で散々脅されましたけど」
頷くコンバスチャンバー。ただしアルヘイボゥや大人たちの危機感を共有できてはいない。
「ええ、トレセンまで来てくれた子はいい。でも一般の親御さんとか、レースに詳しくなければ軽く考えるでしょう? 『最近話題のアナグラワンワンはできたじゃないか』って」
「え、そんな風に?」
ベアリングシャフトが思わず問い返した。それほどに意外だったのだ。そしてその感性の方がこの席では多数派で、突然のアウェイ感にアルヘイボゥは軽く戸惑う。
「え……。あ、そっか。
貴女たちみんなそういう家の出だものね。親御さんもレースへの関心は高かったか」
「アルヘイボゥさんのお宅は違ったんですか?」
「私がトレセンに入った頃ならまず分からなかったと思うわよ、連闘の無理さ加減なんて。アスリートじゃない人が経験する疲れって2〜3日で抜ける程度のものだし」
そう、一般家庭出身のアルヘイボゥは中央トレセンにおける少数派。
以前の両親はウマ娘レースに特段の興味を抱いていなかったから、いくら前人未到の大偉業と報じられてもどれほどの不可能事かは理解しがたかったはずだ。なのに『達成可能であること』だけは伝わってしまう。厄介なことに。
下級生たちは揃って頷いた。『なるほど、世間にそういう反応があるなら悩ましいことだ』という納得と。『だからってアルヘイボゥ先輩が悩む必要は無いのでは?』という生暖かさを滲ませて。当人は気付いていないが。
お人好しな先達の気分を変えようとトロゥスポットが言う。
「ご家族といえば、ワンワンさんのご母堂はパワフルな方ですね」
アナグラワンワンの母親。彼女は一般人だが、今やちょっとした有名人である。年が明けて以降、娘の走るレースには大きな横断幕を持って駆けつけるので。
「そういえば昨日も来てたけど、ゴール後に倒れたの見て平気だったのかな?」
「真っ青になって関係者エリアに入ろうとして、警備員に止められてましたよ。呼び出された千田氏……千田ギン氏がとりなすまでは長いこと揉めていました」
「うわあ」
控室に殴り込むようなことこそ無かったものの、そうしかねないほどの剣幕だった。その後は病院へ付き添い検査結果が出るまでそわそわし通しで、異常無しと分かっても学園までついて来てぎりぎりまで娘の傍にいた──なお娘は今のところ何も知らずに眠っている。
娘の側のSNS等で一切触れられないので多少の空回り感もあるが、世間からの評判は『娘の走りに脳を灼かれた名物オカン』として概ね好意的だ。
応援の声が大き過ぎるとかウイニングライブではしゃぎ過ぎとかいった苦言も少しばかり聞かれるが、それも含めて苦笑まじりに受け入れられているといったところ。
……なのだが。
アルヘイボゥの様子は憂いを忘れるどころか苦々しい。
「……申し訳ありません、ワタシは何か間違えたでしょうか」
「あ、ううん平気。ワン子のお母さんね、前に軽くご挨拶させてもらって……別に嫌ってるとかじゃないのよ?」
今年の初詣の際にアソカツリー共々顔を合わせている。その時点では好き嫌いを抱くほどの印象も無かった。
ただ、アナグラワンワンの応援に来るようになってからじわじわと苦手意識を持つようになり──それがはっきりしたのはアイビスサマーダッシュの後だったか。
「ライブの時、誰がセンターでも力いっぱい盛り上がってくれる良いお客さん……なんだけど。それがワン子そっくりで、なんというか」
「「「???」」」
揃って首を傾げる下級生たちに苦笑い。伝わらないことはアルヘイボゥも分かっている。
あの母親はステージからでも見つけられるほど動きが激しい。それが気恥ずかしい経験を思い出させるのだ。
「去年まで、ワン子はウマ娘レースのことをなんにも知らなくてね──」
アナグラワンワンが初めて観たウイニングライブは京王杯スプリングカップ*のもの。ギンが引くほどの熱狂ぶりで、センターのアルヘイボゥは何故か申し訳ない気持ちになったものだ。
話の流れで『“ローテ”ってなんですか?』についても後輩たちに暴露しておいた。なんとなく腹が立ったので。