高田馬場の英雄~星の眠る街~   作:霙嵐

1 / 2
二〇一七年。相馬という男

 彼女は華のような少女だった。常にまばゆいばかりの笑顔を振り撒き、誰にでも愛される、そんな子。

 

「すいちゃん!」

 

 今でもあの子が、私の名前を呼んで、小走りにこちらへ駆け寄ってくる姿が、まぶたを閉じれば浮かんでくる。長い黒髪を揺らして、笑顔で、大きく手を振るあの姿が。

 そんなあの子に、私は目を細めて手を振り返す。

 

「ねぇ、私、またすいちゃんの歌聴きたい!今日カラオケ行こうよ!」

 

「また? 一昨日も行ったでしょ?」

 

「えー! おねがい! 一生のおねがい!」

 

 私が渋る様子を見せると、両手で私の手を掴み、祈るような仕草でねだってきた。しょうがないなあ、と、こちらが折れるまでがいつもの流れだ。

 私はあの子に弱い。おだてられると特に。あの子に歌声を褒められると、得意にならずにはいられない。図っているわけではないだろうけど、そうして気分を良くした私は、最後には結局あの子の頼みを聞いてしまう。

 

「すごーい! 98点! やっぱりすごいよすいちゃん!」

 

 飛び上がって、自分のことのように喜んでくれる。彼女が色々な人に好かれる理由だろう。あんまり喜ぶものだから、不思議と気恥ずかしくなる。

 

「ねぇ、すいちゃんさ、もう進路決まってたっけ?」

 

「んーん、まだだけど?」

 

「なら、将来は歌手とかどうかな? 売れると思うんだ!」

 

 真面目な顔して、そんなことを言われた日もあった。冗談だろうと受け流すと、あの子は私の手を取って、顔をずいと近づけてきた。

 

「私は本当にそう思ってるよ。もしすいちゃんにそのつもりがあるなら、私は本気で応援する」

 

 聞いたこともないような真剣な声色で言われ、私は歌手の道に、少し目を向けてみることにした。元々、歌は好きだった。音楽に関係する仕事に就くのも悪くないと思い始めたんだ。

 

「一緒にやらない?」

 

 あの子の言葉に感化されて、歌手のことを知って、しばらくすると私は、彼女にそう提案した。もちろん驚いていたが、歌手に興味を持たせてくれたのは彼女だったし、できることなら一緒に歌手の道を歩めたらいいと考えていた。

 

「やる」

 

 少し気恥ずかしそうに、あの子はうなずく。小指を絡めて、“本気で歌手を目指そう”と、そう約束した。

 

 

 

 そして、それがあの子との、最後の約束だった。

 私が最後に見たあの子は、なんとも形容し難い、元は人間だったともわからない程の、それは無惨な姿をしていた。

 私は自分の口元を押さえて嘔吐し、それ以降はしばらく、記憶が曖昧だ。

 ただひとつ、その記憶の中で確信していたことは、あの子を殺した人間がいる、ということだった。

 

 

 

 

 

 

 高田馬場は東京都新宿に位置する街である。都会のクールかつスタイリッシュな雰囲気を備えつつも、名画座や古くからの大学などが構える、歴史あるレトロな街でもある。

 同じく新宿にある、かの歌舞伎町に比べると幾分か落ち着いているものの、やはり都市であるが故に人気は多い。道行く人は数多く、車通りも絶えない。人々は器用に障害を避けて、混雑する道を歩いていく。

 それぞれがそうする中で、自然と道の“流れ”が作られていた。しかしひとつの影が、その流れを乱すようにして、人々の間を慌て気味に駆けていく。幾度か人に衝突し、往来を行く者は何事かと、通り過ぎた影を振り返る。

 

「はっ……はっ……くそ! なんだあいつ……!」

 

 影の正体は、やや小太りの中年の男であった。髭は整っておらず、服も薄汚れている。みずぼらしい身形だ。

 男は悪態を吐きつつ、足を回す。全身に汗が流れ、服が肌に引っ付いていた。

 そしてもうひとつ、男の後ろを駆ける者がいる。

 

「うおっ……!」

 

「な、なに!?」

 

 まるで風のようだった。通行人が思わず驚きの声を上げる。中年の男とは異なり、その影は人々の間を縫うようにして、一度も接触することがない。もし駆けた場所に線を引くならば、それは稲妻のようになっていることだろう。

 その正体は、一人の青年である。一見、少しばかり長身の普通の男のようだが、目が鋭く、よく見れば体も筋骨隆々としている。このアスリートのような体躯ならば、人並み外れたあの動きも納得できよう。

 青年は猫科の猛獣のように体を傾け、信じられぬ程の速度でぐんぐんと男との距離を詰めていく。

 

「は、早い! いや、だが……」

 

 男はにやりと笑みを浮かべると、後ろを僅かに振り返った。気づけば道の曲がり角から十人弱ほどの集団が、ちょうど男と青年の間に挟まるようにして現れ始めている。

 さしもの青年も、あれほどの人数が固まっていれば流石に一度、足を止めざるを得ない。その隙を見て、すぐに路地裏へ駆け込めば撒ける。

 そのような算段を立て、その時を男は待つ。が、しかし、その思惑は次の一瞬で脆くも崩れ去った。

 

「な、なんだよそれェ!!」

 

 男は見たものを信じられず、口をあんぐりとさせて悲鳴を上げた。

 青年は地を大きく蹴ると、これまでの疾駆の速度はそのままに、飛び上がって壁を走り出したのだ。そうして壁の角に足をかけると、さながら鷹のように飛翔し、集団の頭を大きく飛び越えて、地に降り立った。

 

「お、おぉ!」

 

「スッゲ……」

 

 周囲から歓声が起こる。これが今でなかったならば手の一つでも振るところだろうが、生憎と現在の青年は、眼前の中年男を見据えるばかりだ。

 

「チクショウ!」

 

 男は歯ぎしりして、背後の路地裏へ入っていった。すぐにその後を追う。

 その路地はゴミ袋や割れた花瓶といったゴミが散乱していた。日が当たらないために薄暗く、少しばかり視界が悪い。青年は目を凝らし、男の背中を追った。

 入り組んだ路地だ。しばらく追っていたが、六つ目の角で、男が左右どちらへ曲がったのかが、すっかりわからなくなってしまった。

 

「しまった、どっちに行った……?」

 

 青年が小声でつぶやく。まだ若いはずだが、その声は低く、ともすれば威圧感すら感じるようだった。

 ひとまず左へ向かい、気配がなければすぐに引き返そうとした。この辺りから、気づけばゴミが減っている。人通りが少ない場所なのだろう。

 そうして少し歩き、見えてきたのは開けた突き当たりだった。五坪ほどの殺風景な空き地。男の姿はない。

 

(ハズレか)

 

 胸中でそう思い、すぐ様もう一方の道へ引き返そうとした。その時だ。

 

「おらァァ!!!」

 

 突如として人の気配が現れたかと思い振り返ると、眼前には焦げ茶色の一升瓶が迫っていた。咄嗟に顔を引いて避ける。

 すぐに視線を前に戻す。するとそこにいたのは、逃げたと思っていた中年男だった。男は忌々しそうに舌を鳴らすと、虚空へ向かって瓶を振るう。

 

「クソが! あと少しだったのによ……!」

 

 興奮した様子の男とは対照的に、青年は毅然とした態度で冷静に言い放つ。

 

「ようやく見つけたぞ。食い逃げ男。お前のせいでファミレスの店員が困ってんだ」

 

 言いつつ、ゆったりと一歩のみ踏み込む。

 

「一緒に来て貰おうか」

 

「断る! お前みたいな育ちの良さそうな奴にはわからねぇだろうな……俺たちのような底辺のひもじい思いが!」

 

「食い逃げする理由にはならねえよ! フードバンクにでも行けばいいだろうが」

 

「うるせえ! 酒飲んで騒いでいたら出禁になったんだ!」

 

「知るかよ! 自分のせいだろ! ファミレスに迷惑かけるんじゃねえ!」

 

「く……こ、このガキが!!」

 

 怒鳴り合いの末、男は頭に血が登ったらしい。再び一升瓶を振り上げ、青年の脳天めがけて振り下ろす。

 しかし彼が半歩下がるだけで、瓶は対象を失って空を切った。

 

「おっ…… この!」

 

 続けざまに二度、三度と男は瓶を振るうが、それが青年に命中する気配は微塵もない。四度目を振った時、ついに動きを見切られ、素手に瓶を掴まれた。

 

「くそぉ!」

 

 その様子に、青年が呆れたように息を吐く。

 

「おいじいさん、いい加減にしろって。食い逃げだけなら、どうせ大したお咎めじゃねえ。だが……」

 

 青年は、顔を男にずいと近づけ、力強く言った。

 

「ここで俺を殴れば、いよいよ笑い事じゃあ済まなくなる」

 

 目が泳いでいる。葛藤していると見えた。

 

「なあ、大人しくついて来いって。多分だけど、店に謝罪すれば、罰も少しは軽くなるかもしれな……」

 

「う、うるせえ!」

 

 しかし男はまたしても怒鳴り、青年の手から一升瓶を引き離す。そして瓶の底を突きつけた。

 

「俺みたいな奴は明日に希望もねえ! いつ死ぬかもわからねえんだ! 貴重な生きていられる時間を、刑務所なんかで使ってたまるか!」

 

 瓶を両手で持ち直し、男は叫ぶ。

 

「俺は絶対に逃げてみせる! 邪魔するんじゃねえ!」

 

 唾を飛散させながらそう言った男に、青年は後ろ頭をかきながら溜め息を吐いた。不恰好だが、あれはあの男なりの臨戦態勢なのだろう。

 

「そうか、わかった。なら……俺も手加減はしねえ」

 

 男に対応し、こちらも拳を構える。青年の鋭い目も相まって、その構えには圧倒的な存在感があった。男も腹を決めた筈だが、これにはおっとのけ反る。

 素人目にもわかる。この上なく安定した体幹。隙がなく、甘い攻撃をしようものなら容赦ない反撃が返るに違いない。何より、先ほどの逃走劇で見せた脚力。あの力で蹴られようものなら、体がどうなるかわかったものではなかった。

 しかし今さら降参などできない。男は覚悟を決め、思い切り手に握った一升瓶を振り下ろした。

 

「う、うおおぉぉっ!!!」

 

 こめかみを捉えた。男はそう確信する。

 しかし次の瞬間、この閉鎖的な空間に突風が起こった。焦げ茶色の瓶は破片を散らして砕け、男の腕には強烈な痺れが走る。男はその場から数歩も退き、どうにか腕の痛みを堪えて視線を戻した。

 

「ど、どうなってんだ……」

 

 そこには足を上段に、蹴り上げたままの姿でぴたりと静止する青年の姿があった。思わず後退る。

 彼はゆっくりと足を戻すと、再び構えを取った。そして、

 

「ふっ!!」

 

 またしても、突風。次は顎に衝撃を感じた。守りの構えを取る暇すらなく、雄牛が突進したかと錯覚するほどの力が全身を巡る。男はふわりとした浮遊感を味わった。

 

「ぐっ……!」

 

 後頭部から地に落ちる。数秒遅れて、男は自分が今の一撃で宙に飛ばされたのだと理解した。およそ人間のものとは思えぬ、埒外の威力を持つアッパーであった。

 男の意識はそれで途絶えた。しばらくは目を覚ますことはないだろう。

 青年は構えを解くと、肩の力を抜き、ふぅと細く息を吐いた。ポケットからスマホを取り出し、どこかに繋ぐと耳元に当てる。少し間を置いて、通話が始まる音がした。

 

「“白上さん”、捕まえましたよ。食い逃げ犯」

 

 青年がそう伝えると、電話口から、屈託のなさが伺えるような女性の声が届いた。

 

「おぉっ! 流石ですね~颯馬くん。首尾はどんなもんでした? 怪我とかない?」

 

「ああ……少し抵抗されましたけど、大丈夫ですよ。いつも通り。怪我人も多分いません」

 

「そっかそっか! 良かった~。じゃあ、犯人の身柄は引き取っちゃうから、場所教えて貰えますかな?」

 

 颯馬と呼ばれた青年は、女性の言葉に辺りを見回すと、都合が悪そうに唸る。食い逃げの男を追って、ずいぶんと路地裏の深くまで入り込んでしまった。ここまで来て貰うというのは、流石に手間だろう。

 

「あ~……ちょっと変な場所まで来ちゃったんで、通りまで出るのに時間かかるかも。車呼べるところに出たらまた連絡するんで、少し待ってて貰っても大丈夫ですか?」

 

「あれ? そう? わかりましたよ~」

 

 その言葉を聞いてから通話を切る。スマホを再びポケットにしまうと、地面に寝そべる男の体を持ち上げ、肩に担いだ。

 小太りの大の大人だ。これまでも、今回の食い逃げのように食い意地を張って生きてきたのだろう。重いはずだ。肩にはずっしりと重圧が伝わってくる。しかしそれでも、颯馬の体幹は少しも揺らいではいない。傍目にも、彼の身体の強靭さが伝わってくるようだった。

 

 

 

 男を担いだまま、颯馬は表通りへと出た。彼の姿を見るなり、往来を行く人々は顔をぎょっとさせて足早に通り過ぎていく。

 先の約束通り連絡をすると、五分もしない内に彼女は警光灯を備え、車体に大きく「警視庁」と記された白黒のパトロールカーに乗って現れた。颯馬の目の前で車を止めると、フロントガラスを開ける。

 姿を見せた“白上さん”は、日本人には珍しい整った白髪に、晴天のような青い目を持っていた。これまた通りすがる人たちが、しかし颯馬の時とは違い、足を緩めてその白髪を興味深そうに観察している。

 だが今日は、その青眼だけは見えなかった。

 

(なんでグラサン掛けてんだこの人……)

 

 何故か今の彼女は脚を組み、いやに大仰に背もたれへ体重を預け、濃い黒のサングラスを掛けていた。車を運転していたが、まだ日差しが目を眩ましてくるような時間ではない。

 妙に貫禄を出して、また変な「おふざけ」でも思いついたのかと、内心で訝しんだ。

 

「えっと、白上さん? 捕まえてきましたよ?」

 

 すると、やけにゆっくりとサングラスを持ち上げ、彼女は青眼をあらわにする。そして不敵ににやりと笑みを浮かべ、わざわざ声を低くしつつ言った。

 

「いやいや……颯馬くんはいつも仕事が早くて助かるよ。うん、実に助かる。では、例のブツを渡してもらえるかね?」

 

「なんすかそのノリ。変なものでも食べました?」

 

「何を言うかね颯馬くん。私はいつでもこんな感じさ。さあ、早くそれを後ろのトランクへ……」

 

「人間をトランクに入れちゃダメでしょ」

 

 突っ込みを入れて、サングラスを奪い取る。いつまでも彼女の一人芝居に付き合ってはいられない。

 

「あー! やめて! 返してくださいよ!」

 

 おふざけの道具を取られるなり調子を戻して、奪い返そうとこちらへ手を伸ばしてきた。颯馬は一歩下がって彼女の手が届かない距離を開ける。

 

「いや、なにしてるんですか」

 

「君からなかなか連絡が来ないから暇だったんです。それでちょっと暇潰しに……」

 

「なかなか来ないって……十分くらいでしょ」

 

 そう言うと彼女は口を尖らせ、ハンドルを抱くようにして体重を乗せた。どうやら拗ねたらしい。

 

「てかなにこれ。こんなの持ってましたっけ」

 

 手の中のサングラスを見つめた。不機嫌そうな声が返ってくる。

 

「待ってる間に買ってきたんですー。千円もしたんですー」

 

「また変なものを……」

 

 呆れた様子でサングラスを返し、担いでいた中年男を後部座席に寝かせる。重圧から解放され、颯馬は肩をとんとんと拳で叩いた。

 彼女は本名を“白上 吹雪”といい、呼び名は颯馬の中では「白上さん」で固まっている。顔を合わせるときはたまにこうして謎の行動をし出すのだが、これでもれっきとした警察官であり、彼女を慕う者からは、「白上婦警」と呼称されることもある。

 出会いは少々、特殊なもので、颯馬が十一の頃に初めて知り合った。話すと長くなるが、颯馬がこうして食い逃げ犯を捕らえたのも、吹雪の存在が関係している。

 

「あーあー、笑ってくれると思ったのになー。善意のつもりだったのになー」

 

 吹雪が椅子の下で足をバタつかせながら、颯馬の良心に訴えかけるように、声を大きく言った。

 

「悪かったですよ。機嫌なおしてください」

 

「ふーん。どうしよっかなー」

 

「……なら、今からでもやります? スパイごっこ」

 

「もう遅い!」

 

 ぷいとそっぽを向き、目を合わせようとしない吹雪。彼女に知られないよう小さく溜め息を吐き、後ろ頭をかくと、パトカーの窓枠に手を乗せる。

 

「じゃあ、どうしたら許してくれますか」

 

 そう言うと吹雪は顎に手を添えて、うーんと唸る。

 

「なんでもする?」

 

「……できる範囲なら」

 

 すると急に満面の笑みを浮かべ、俊敏な動きで同じように窓枠に手を乗せてきた。

 

「なら、久しぶりに私のこと“フブキ姉ぇ”って呼んでください!」

 

 その願いを聞いて颯馬はうっと声を詰まらせ、少しのけ反った。“フブキ姉ぇ”というのは、十五の頃まで彼が吹雪を呼ぶときに使っていた名だ。以降は思春期に入り、その呼び名に気恥ずかしさを覚え、白上さんへ変わったのだが、向こうは忘れていないようだ。

 当時はどうしても心細かった。血の繋がりがないとはいえ、吹雪を親しく話せる姉のように思いたかったのだろう。

 

「そ、それくらいなら……いや、けどな……」

 

「はやくはやく!」

 

 ためらう颯馬に、吹雪は満面の笑みのまま急かす。

 数秒の間の後、息を深く吸い込み、吐き出す。腹を決めた。たしかに今でも恥ずかしいが、それでこの人の機嫌が直るなら安いもの。なるべく吹雪に口を近づけ、決して周囲に聞かれぬよう注意を払う。

 

「ふ、フブキ姉ぇ……」

 

 たしかにそれを耳にした吹雪の表情は、徐々に笑みからしたり顔へと変わり、車の奥へどさりと倒れ込んだ。してやったりという腹がよくわかる。

 

「たはー! いいですねー、颯馬くんにフブキ姉ぇと言わせるのは! 昔は考えたこともなかったけど、今となっては優越感というものがありますよ!」

 

 よほど嬉しいのか、サングラスのテンプルを鳴らしながら座席をごろごろと転がっている。それに謎の敗北感を覚え、歯を食い縛って窓枠から離れた。そしてパトカーの扉を開け、後部座席に座り込む。

 

「くそ……」

 

 扉を閉めると、胸元からボックスの煙草を取り出した。箱には「Peace」と綴られ、デザインは全体的に黄色い。銘柄“Peace”のロング。俗に「金ピース」や「金ピ」と略される煙草である。颯馬の愛飲する煙草だ。

 煙草を一本。口に咥え、火を灯そうとしたそのときだった。

 

「あ! こら!」

 

 目にも止まらぬ早さで、口元から煙草が抜き取られる。吹雪が咄嗟にそうしたらしい。頬がわずかに膨らんでいた。

 

「颯馬くん、君まだギリギリ未成年でしょ! 煙草は吸っちゃダメです!」

 

 叱られるが、無視してもう一本を取り出そうとすると、今度は箱ごとひったくられた。颯馬の口から溜め息が漏れる。

 

「白上さん、もう今月で二十歳ですよ俺。それくらい見逃してくださいよ」

 

「ダメ! 私はこれでも警察官なんですから、非行を見過ごすなんてできません!」

 

 それに、と続ける。

 

「本当に、体によくないんですよ? これ」

 

 声色が悲しげなものに変わっていた。吹雪の表情を見ると、眉を八の時にしてこちらを見つめている。

 

「私の同期にも、何人か癌でまともな生活ができなくなった人がいます。本当に苦しそうだった」

 

 颯馬の手を取ると、吹雪は少し顔を寄せた。

 

「私は君に、そんな風になってほしくない……」

 

 悲哀と不安に満ちた視線を向けられ、言葉に詰まる。無論のこと、煙草に含まれる害の存在は承知の上での喫煙だったが、これほど泣きそうな声で改めて言われると、否応なくそれを再認識せざるを得ない。

 颯馬は少し瞑目すると、右手のライターを吹雪の手に置いた。

 

「わかったよ」

 

 穏やかにそう頷くと、彼女の頬が緩んだ。

 

「……うん! それでいいんです!」

 

 にこりと笑うと、運転席へ戻っていく。鼻歌を歌い出した吹雪に、颯馬が呆れたように微笑んだ。

 

「まったく、テンションが高いと思ったら落ち込んで、拗ねたと思ったら急にはしゃぎ出すんだから、変な人ですね」

 

「誰のせいだと思ってるんですか! ほら、そろそろ署に行きますよ。その人を連れてかないと」

 

 吹雪がそう話を切り上げると、颯馬はシートベルトを締めた。それを確認した後、アクセルを踏み込み、警察署へ向けて走り出した。

 

 

 

 道中、流れる窓の外を眺めていた颯馬に、白上婦警が話しかけてくる。

 

「ん? どうしました?」

 

「さっき渡し忘れちゃったので」

 

 赤信号で止まっている内に、彼女は一封を手渡してきた。一枚の茶封筒だ。中を覗くと、十枚の一万円札が内封されていた。

 

「どうも」

 

 礼を言って胸に仕舞う。これは食い逃げ犯を捕えた報酬である。

 颯馬は一度、十一歳の頃にたった一人で警察が手を焼くほどの狡猾な万引き犯を見つけ出し、制し、私人逮捕をしたことがあった。その時の背丈はまだ、郵便受けにすら届かぬくらいだ。そんな少年がなんの人脈も情報もなく、万引き犯、それもそれなりの体躯であった男を独力で捕らえてしまったのだ。

 警察官たちは、自分らが額を小突いて頭を悩ませるようなことを、未だあどけない容姿の少年がいとも容易く解決し、さぞ驚いていたことだろう。

 そこに目を付けたのが吹雪だった。これは偶然だと軽んじることはせず、彼の天才的な能力を見込み、自分のもとで働かないかと誘った。内容としては、腰の重い警察が出動を渋るような軽い事件を解決するといったものだ。断る理由のない颯馬は、二つ返事で受け入れた。

 報酬は今のように、ひとつ解決するごとに十万ほどの金が支払われる。事件によって多少は変動するが、基準はそのくらいだ。それが月に五、六回あるので、颯馬の月収は五十万前後となる。失敗は、これまでに一度としてない。

 警視庁の金を使うわけにはいかないので、支払いは全て吹雪からである。彼女は実家が太く、報酬については心配がないという。

 身体が成長するにつれて、荒事となる可能性の高い事件も頼まれるようになったが、恵体の颯馬にとっては一般人を制するなど赤子の手をひねるようなもの。危険だと思ったことはなかった。

 

「これで今月は四回目ですね。あと一回か二回はなにか起きそうだ」

 

 再び窓の外を見やり、そんなことを言った。縁起でもないと思う反面、これがなくては生計を立てられないので颯馬にとっては必要なことだ。

 吹雪から「そうですね~」と間の抜けた返事がくるだろうと思っていた矢先、その予想に反して、返ってきた声色は少し低いものだった。

 

「……颯馬くん、そろそろ普通の仕事とか~なんて、考えてたりしませんか?」

 

「え?」

 

 予想外の言葉に、思わずばっと弾かれたように吹雪の方へ顔を向ける。今さらなにを、という思いが表情に浮かんでいた。

 

「白上さん、俺、中学校も行ったことないんですよ。まともな企業に就職なんてできるわけ……」

 

「いやいや、颯馬くんほど腕が良ければ……ほら、別に就職はしなくても、探偵さんとか!」

 

 いきなり何を言い出すのかと困惑したが、一瞬だけ探偵もいいかと思ってしまう。しかしその考えは振り払った。

 

「探偵さんなら、別にわざわざ危ない仕事をしなくても、たまに猫ちゃんをお家に帰してあげるだけでいいですし!」

 

「いや、なんですか急に……」

 

 訝しみつつ首をかしげる。吹雪のハンドルを握る手に、力がこもったような気がした。

 

「……颯馬くんが強いのは、よくわかってますけど、やっぱりこの仕事って危ないこと……ですから」

 

「なにを今さら。そもそも八年前に仕事を持ちかけたのは白上さんじゃないですか」

 

 颯馬にとっては、その一言はただの事実であり何気ないことだった。しかし、それに吹雪は強く下唇を噛み、目を伏せた。

 信号が青に変わり、再び外の景色が流れ行く。

 

「それは……そう、なんですけど……」

 

 いったい何だというのか。普段から変わり者だとは思っているが、今日はそれに輪をかけて様子が変だ。

 思えば「フブキ姉ぇ」と呼ぶことを求めたのもずいぶんと久しぶりのことである。無論、そういった日も人である限りあるだろうが、颯馬はどうにも違和感が拭えなかった。

 その時、吹雪の方から突然、電子音が鳴り響く。どうやら携帯電話に着信が入ったらしい。

 

「すみません、一回止まりますね」

 

 颯馬に断り、車を路肩に停めて呼び出しに応じる。通話の邪魔をしないようにと、口をつぐんだ。

 

「あ、署長。お疲れ様です。今ですか? さかえ通りにいますが……」

 

 通話の相手は、この高田馬場に署を構える“戸塚警察署”の署長のようだ。学のない颯馬は警察についてさほど詳しくないが、署長といえばその中でも重鎮といえる立場の者のはず。吹雪によほどの信頼があるのかは知らないが、その署長は何故か頻繁に彼女へ連絡を寄越していた。その回数は二日に一度ほどだと、いつか吹雪本人の口から聞いたことがあった。

 まさか署の警察官すべてに同じ頻度で連絡することはないだろうし、やはり吹雪にのみそうしているのだろう。理由は不明だが、署長はたしか五十路で硬派な男……のようにみえた。直接に顔を合わせたこともあるが、まさか吹雪に下心を持っているというわけではないだろう。

 

「はい? ええ、颯馬くんも一緒ですが……」

 

「え?」

 

 いきなり彼女の口から自分の名が飛び出し、思わず声を上げてしまう。何故この通話で自分の存在の有無を訊いたのか、まったくわからなかった。

 

「え? ちょっと待ってください。彼は今、仕事を終えたばかりで、まだ疲労が……あ! ちょっと!?」

 

 一方的に通話を絶たれたらしく、驚愕の表情のまま固まる吹雪。颯馬が運転席に身を乗り出す。

 

「白上さん? どうしたんですか?」

 

「あ……えっとですね」

 

 颯馬が問うた。

 吹雪はぎこちない動きでブリキの玩具のようにこちらへ首を回してくる。その顔には、気まずいような、申し訳ないような感情が現れていた。

 

「その……署長が、颯馬くんをすぐに警察署へ呼んでくれと……」

 

「ど、どういうことだ?」

 

 困惑し、思わず口調が荒っぽくなる。警察署に呼び出されるようなことをした覚えはない。何故ほとんど接点のない署長が自分を呼んでいるのだ。

 正直なところ、あまり会いたくはない。特にこれといった理由があるわけではないのだが、あの頑固そうな雰囲気と、他人を睥睨するような目がどうも好かない。語調もどこか偉そうで、会う度に帰り際には胸中になにか気持ちの悪いものがこびりついていた。

 

「わかりません……けど、颯馬くんはきっと会いたくないですよね? 颯馬くん自身で断れば多分……」

 

 颯馬の内心を察して、吹雪がそのような言葉をかけてくる。しかし、言い終わるより先に青年は前髪をぎゅっと掴み、背もたれに盛大に倒れ込んだ。シートががたんと大きく音を立てる。

 

「いや、行きますよ。俺が行かなかったら、どうせ白上さんにそのしわ寄せが来るんでしょう。それは胸糞が悪い」

 

「でも……」

 

「いいんですよ。行くと言ったら行きます。たしかにあの署長は苦手ですけど、少しくらいの我慢はできないと」

 

 言いつつも、かなり大きな溜め息を吐いた。用件が済めば、長居はしない。そう誓って腹を決めた。

 

「そう、ですか? わかりました。そこまで言うなら」

 

「ただ、警察署に行く前に夕飯済ませときましょう。まだ早いですけど、せめてもの抵抗として署長を待たせてやりたい」

 

 悪戯っぽい笑みを見せて、前髪の間から目を覗かせる。それに吹雪はくすりと笑いをこぼし、ハンドルを握り直した。二人とも、まるで子供が悪巧みをしているような表情である。

 

「よっしゃー! どこいきます!?」

 

「マックでどうですか」

 

「颯馬くん昨日も一昨日もジャンクフードだったでしょ! ダメです! 今日は栄養のためにココスに行きましょう!」

 

「あ、そこ、この男が今日の昼に食い逃げしたところですよね」

 

 颯馬が横で未だに眠り続ける中年男を一瞥する。

 

「え!? そうなの!?」

 

「知らなかったのか……」

 

 

 

 それから一時間ほどで夕食を済まし、警察署に辿り着いたのは日も暮れようとする十八時頃であった。署の駐車場に車を停め、二人は揃って降車する。颯馬の肩には、食い逃げをした中年男が再び担がれていた。

 食後ということもあり、少しばかり眠気を覚えた颯馬が欠伸をこぼす。

 

「……それじゃ、行きますか。白上さん」

 

「はい。まず犯人を誰かに引き渡しましょうか」

 

 玄関扉に手を掛け、中へと入る。ここは常に整然とした雰囲気があり、清潔さを感じさせる。掃除がよく行き届いているのだろう。

 今まさに定時上がりで帰ろうとする警察官の男が、食い逃げ犯を担ぐ颯馬を見て目を丸くする。吹雪に会釈をすると、足早に去っていった。

 ばつが悪そうに彼は後ろ頭をかく。

 

「やっぱこれ、やめたほうがいいですかね?」

 

「う、うーん。たしかにインパクトは強いですけど……」

 

 吹雪は苦笑しつつ靴を履き替える。通行人を驚かすのは颯馬の望むところではないが、相手が目覚めない以上はこれの他に動かす手段がない。犯人を捕らえるにおいて、彼のやり方では大抵の者がしばらく目を覚まさないのだ。もう少し、人の目を引かない移動手段を考えるべきかもしれない。

 

「まあ、それはおいおいね…… とりあえず今は署長に会いに行きましょう」

 

 うなずき、来客用のスリッパに履き替える。廊下を進み、刑事課の部署に足を踏み入れた。残業に勤しむ警察官たちの内、数名が吹雪と颯馬を見やり、やはり肩の男に驚いた表情となる。

 署長は、この刑事課の奥に陣取っている。普段は何をしているのか知らないが、颯馬がごく稀に顔を合わせる時は、たいてい偉そうに座っているだけだ。署長の仕事内容など知らないし、興味もない故それについて特別に何か思うことがあるわけではないが、強いて言えば他の警察官が忙しなく動いているというのに、さながら仏像のような署長の様子には奇妙な違和感を覚えたことがあった。

 

「田淵さーん、この人をお願いできますか?」

 

 署長の机に向かう途中に、比較的暇そうな女性に男を預けた。田淵さんとやらの人柄が良いのか、吹雪の人望が厚いのか、彼女は特に嫌な顔もせず円滑に男の身柄を引き受けた。

 

「ふう……では、行きますか。颯馬くん」

 

「ええ」

 

 気は進まないが、仕方ない。自分のことで吹雪に累が及ぶことは避けたい。あの署長のことだ。呼び出しに応えなければ、矛先が吹雪へ向いてネチネチと小言を繰り返すくらいのことはするに違いない。

 連なる机の間を進み、部署の奥へ向かう。そうして吹雪について行くと、そこに彼は構えていた。

 あまり覚えていないが、以前より顔にシワが増したのではないか。狐のように目が細く、鼻が大ぶりという特徴がある容姿だ。仏像のように物静かで、しかしその醸し出す雰囲気に謙虚さなどは感じられない。

 見れば白髪も増えているような気がするが、それは吹雪のような美しく整ったものではない。荒っぽく整髪剤を付けるのみで、手入れはしていなさそうだ。

 今の今まで眠っているのかと思うほど微動だにしなかった署長が、二人が机の眼前まで辿り着くと、椅子を引いて姿勢を正す。そして口を開いた。

 

「遅かったじゃないか。待たせてくれるね」

 

(一言目がそれかよ)

 

 颯馬が内心で舌打ちを放つ。知っていたが、やはりこの男は一言一言が癇に触る。顔を合わせて数秒もしない内にそれを再認識できるのだから、それも別格のものだと思った。

 顔をしかめそうになるのを我慢して、青年は小さく会釈をする。

 

「申し訳ありません、署長。先刻に彼が食い逃げの犯人を捕らえてくれていたものですから、仔細を聞いたりと時間がかかってしまいました」

 

 吹雪が上手い口で署長をなだめる。署長は大仰に鼻を鳴らすと、「まあいい」と小さく呟いた。

 

「前置きは飛ばさせてもらう。私も暇ではないのでね」

 

(暇そうにしてたろうが)

 

 颯馬の悪態を知る由もなく、老年の男は一枚の写真を机に滑らせる。吹雪と颯馬は一歩近づき、その写真を覗き込んだ。

 そこには黒のジーンズに黒のスニーカー、黒のパーカーを身に纏った謎の人物が捉えられている。フードを深々と被り表情を見せぬようにしており、そのため性別はわからない。どうやら屋外にて撮られたもののようで、その姿は今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうに思えた。

 颯馬が気になったのは、被写体との距離である。これが謎の人物からやや離れた位置で撮っていることがわかるのだ。視覚情報のみでの判断になるが、およそ三十メートルは距離を取っている。それに、画角も横からのもので、物陰に隠れながら撮影したのだとわかった。間違いなく、隠し撮りした一枚だろう。

 

「これは?」

 

「耳にしていないかね? 昨晩、報告によれば二十時頃に、この黒パーカーの人物がウチの警察官に暴行を加えたのだ」

 

「ふむ……」

 

「夜中に顔も見せない格好で街を歩いていたものだから、パトロールをしていた計二名の警察官は訝しみ、この人物を職務質問した。しかしそれに応えず、ますます疑心を持った彼らはフードを取るよう迫った。

 このとき既に二人は、黒パーカーを挟むようにして立っていてね。逃がすまいという思いが伝わったのだろう。この人物は正面の警察官の顎を拳で正確に打ち抜き逃走したらしい」

 

「すると、酔っぱらいではなかったと」

 

 吹雪はそう相槌を打った。もし酒に酔っていたならば、的確に急所を狙うことはできないだろう。

 

「そして残された方はすぐに応援を呼び、黒パーカーを追った。これで既に暴行事件だからな。パトカーは二台が手配され、七人の警察官が追いつき、四方から取り囲んだ」

 

 横に並ぶ吹雪が驚いたように目を見開く。警察官が七人。およそ一人に対して出動する人数ではない。身のこなしからこの数が適当だと判断されたならば、よほどのことだ。

 

「それでも抵抗を続けた黒パーカーに、彼らは捕縛をするべく近づいた。しかし、一斉にかかったものの、一人として触れることすら敵わず、昏倒させられ逃走を許してしまった……らしい」

 

 一通り説明を終えたようで、署長は椅子の背もたれに体重を預けた。

 

「ええ……?」

 

 聞いていた吹雪が、信じられぬという風に首をかしげる。颯馬も同様の感想を持った。包囲を脱するでも口で警察官を惑わすでもなく、全ての者を伸ばすなど並みの力ではない。

 

「なにか武器を持ってなかったんすか」

 

 ここで初めて颯馬が口を開いた。ぶっきらぼうだが一応は敬語を使っておく。

 

「そのような報告はない。丸腰だったのだろう」

 

 署長はちらりと颯馬を一瞥し、答えた。

 

(素手で……警察官七人を全て?)

 

 この話が真実ならば、凄まじい手練れである。警察とて貧弱ではない。日々の鍛練にて培った体力や、武術も武道家に比べれば些少ながら心得ているはず。たかだか一人の人間に敗するなど普通は考えられない。

 

「なら、この写真は?」

 

 現場の警察官が全員伸されたのならば、この写真があることはおかしい。そう思い颯馬が問う。

 

「報告のため、一人だけ物陰に潜んで現場を撮影していた者からだ。昨晩の事件後すぐに届けられた」

 

 写真を手に取り、再び眺める。やはり黒パーカーの人物は闇に紛れて見えにくい。撮られた場所は、建物の雰囲気からして明治通りだろうか。そのように推し量りつつ、颯馬はあることに気がついた。

 

「白上さん、見てください。この人、けっこう身長が低くないですか?」

 

 そう言って吹雪の目の前に写真を差し出す。すると彼女もじっとそれを眺めた後、「たしかに」と呟く。

 ここに写っている人物、よく見なければ気づけないが周囲の柵や設置物から推測するに、身長はおよそ一六〇センチメートル程しかない。なにも身長が戦闘の全てではないが、これほどの背丈の人間が七人を圧倒するというのは現実的ではないだろう。

 

「体も全体的に細身ですし……」

 

「うーん……たしかに不思議ですね」

 

 二人が唸っていると、間に署長の声が割って入ってくる。

 

「おそらくは何らかの武術に深く通じている者……あるいは特殊な訓練を受けた者なのだろう」

 

(ふわっとしてんなあ……)

 

「それで、颯馬くんに用事というのは?」

 

 写真から視線を外し、署長へ向けた吹雪が、ついにそこへ踏み込む。颯馬も気になっていたところだ。この話と自分に、いったい何の関係があるのか。一般人である颯馬を警察署などに呼ぶ程のことなのか。

 問われた署長が、おもむろに口を開く。

 

「簡潔に言えば、君にこの人物を捕らえて貰いたいのだ。“比嘉 颯馬”くん」

 

「……なに?」

 

 突然の頼みに、眉をひそめて声を低く返す。署長は椅子を回してこちらに体を向けた。

 

「君の働きは噂で聞いている。これまでの幾度とない数々の私人逮捕。先月は刃物を所持した強盗犯の二人をたった一人で制圧したそうじゃないか」

 

「まあ……そんなこともありましたね」

 

 当然これも吹雪から寄せられた仕事のことである。コンビニで警察が正面から犯人を捕らえようと手ごねいていた時に、一般客を装って入店していた颯馬が負傷者が出る前に強盗犯を制圧したときの話だ。

 あまりに多く不審者の相手をしてきたため、それほど記憶に残っていない。頭の片隅からその時の光景を引っ張り出し、曖昧な返事をした。

 

「なぜ君がそれほど事件現場に遭遇してしまうのかは置いておいて、それらの功績を踏まえて今回のことを頼みたいのだ」

 

 颯馬が吹雪から報酬を受け取って仕事をしていることは誰にも伝えていない。無論、署長にもである。

 

「……タダで体を張ることはできませんよ」

 

 危険事に巻き込むつもりなら、相応の対価を貰わねばならない。吹雪からの仕事もそうしてきたのだ。颯馬にしてみれば八年前からの常識である。

 

「もしこの人物を捕らえてくれたならば、警察側から感謝状を贈らせて貰うさ。この街のために、一肌脱いでほしい」

 

 その言葉に颯馬はあからさまにむっとした表情を見せた。数名の警察官をも上回るほどの実力の不審者を無賃で捕らえろと。それはもはや彼にとっては侮辱に近しかった。

 

(ふざけてやがる)

 

 やはりこの男は精神の根から受け付けない。どう断ってやろうかと考え始めるほどには苛立っていた。

 

「署長さん。お……僕は別にボランティアじゃあ……」

 

 その瞬間、颯馬の言葉を制止するように袖がつままれた。吹雪である。「気持ちはわかるが抑えてくれ」と、目で訴えかけてきている。

 颯馬は胸中、舌を鳴らすと言いかけたものを飲み込んだ。

 この街で行動するつもりなら、警察との軋轢を生むべきではない。それは彼も理解していた。

 息を細く吐き、冷静さを取り戻す。

 

「…………そうですか」

 

「どうだ? 引き受けてくれるかね?」

 

 この男の考え方は気に食わないが、それは自分と反りが合わないだけ。そのように考え、慎重に言葉を選ぶ。

 

「もし仮にこれを請け負えば、その黒パーカーに関する情報は渡してくださるんですよね」

 

 さもなければ何処にいるとも知れない不審者を追うことはできない。流石にこれには頷くだろうと思っていたのだが、

 

「申し訳ないが、組織内の情報を部外者に教えることはできない。君で独自に捜査をして貰いたいのだ」

 

(本気かこいつ……)

 

 青年は一度抑えた怒りがまた再熱するのを感じた。金は払わない。タダで犯人を捕まえてほしい。ただし捜査に関する情報は渡さない。これまでにふざけた話があるものか。

 本気で犯人を捕まえるつもりがあるのかとすら疑う程の扱いに、颯馬の堪忍袋の緒はまさに切れる寸前であった。

 

「お、落ち着いてください颯馬くん。気持ちはわかります。わかりますが……」

 

「大丈夫。俺もわかってますよ白上さん……」

 

 怒りに震える声で返す。

 横に吹雪がいるからどうにか堪えていられるものの彼女がこの場に立ち会ってなければ、今頃は怒鳴り散らして立ち去っていそうだった。

 

「署長、彼にも少し考える時間をあげてくださいませんか。すぐに答えを出すというのは難しいのでは……」

 

 吹雪のフォローに老年の男は不機嫌そうに溜め息を吐く。イラついているのはこちらだと怒鳴りたかった。

 

「……そうかね。ならもう行っていい。ただし、返答は今日中に頼むよ。私も多忙の身なのでね」

 

 その言葉を最後に、署長は机上にあった本を手に取り、椅子を回して背を向けた。そのまま読書を始め、もうこちらには一瞥もしなかった。

 拳を握りしめる相馬を手で押し、「失礼します」と慌て気味に言い残し刑事課を去る吹雪。そのまま署を後にすると、車に戻り二人並んで後部座席へ座った。

 そして、シートに座した相馬。彼はわなわなと体を震わせ、我慢の限界に達する。そして自分の拳を膝に打ち付け、ついに胸中を暴発させた。

 

「あんのクソ署長!! いい加減にしやがれ!!」

 

 車外に漏れだしそうな声量で吼える。吹雪が颯馬の手を握り、必死に彼の背中をさすっていた。

 

「あわわ……そ、颯馬くん! そうですよね。わかります、わかりますよ~……」

 

 まるでジョッキーが馬を宥めているような光景である。怒る青年をどうにか落ち着かせようと、吹雪が必死になっていた。

 録に学校にも通えていなかった颯馬は、理不尽への耐性というものが人一倍にない。故にあのような横暴に対しては抑えが効かなかった。

 

「なんだってんだアイツは! 対象の情報は組織内のものだから渡せねぇだと!? ふざけんな! どうやって居場所を突き止めろってんだ!!」

 

 特に今日はいつにも増して自制ができていない。普段は苛立つことがあっても、ここまで感情を表に出すことはしなかった。よほどストレスが溜まっていたらしい。

 

「う、うぅ~……わ、わかりました! 颯馬くん、一本だけ! 煙草、一本だけいいですよ! だから落ち着いて……!」

 

 困り果てた吹雪が自分の中で折衷案として、懐から没収した煙草を取り出した。本来なら決して吸わせたくはないが、今は仕方がない。喫煙者は煙草を吸うと落ち着きを取り戻せると聞いたことがある。いま颯馬の冷静さを呼び起こすには、これしか方法はない。

 フィルターを彼の口に咥えさせると、先端に火口を近づけた。火が移り、内部の葉から煙が立ち上ぼる。

 青年は大きく息を吸い込むと、フィルターを口元から離し、吐いた。息と共に、白い紫煙が宙を漂った。

 それを幾度か繰り返していくと、徐々に颯馬の目から鋭さが薄れていく。最後の一吸いを終えて吸い殻を携帯灰皿に放り込むと、一度、深呼吸をした。

 

「はぁ……すみません白上さん。手間をかけさせて……」

 

「いえ、やっぱり嫌でしたよね。署長」

 

「まあ……そりゃもう」

 

 嫌という程度ではない。あのままあそこにいれば、確実に殴っていた。無事に済んだのは間違いなく吹雪のおかげだ。

 

「ありがとうございます白上さん。冗談じゃなく危なかった……」

 

 自嘲するかのように、半笑いで頭を下げた。吹雪が苦笑して颯馬の肩を押し、姿勢を戻す。

 

「もう……今度から、嫌だったらちゃんと断っていいんですよ? 君は昔から怒りっぽいんだから」

 

「ええ、気をつけます」

 

 二人で片笑んで落ち着きが戻ったことを確認する。やはりこの人は自分の姉のような存在だと、改めて思った。欠如しているものが多い自分には、どうしても必要だと。

 

「あーと……それで、どうします? 署長の依頼。やっぱり受けたくないですよね?」

 

「断る。……と言いたいところですが、この街の治安がこれ以上悪化するのは、高田馬場に育った者としては無視できない」

 

「え、それじゃあ」

 

 背もたれにどさりと倒れ込み、半ば諦めたような声で言う。

 

「引き受けます。署長のためじゃなく、街のために」

 

 吹雪はその答えに一瞬驚いた表情になるが、すぐにくすりと笑い、微笑んだ。

 

「うーん、これはまた良い子に育ってしまいましたねえ…… フブキ姉ぇは嬉しいですよ」

 

「やめてくださいよ。あと、頭撫でないでください」

 

「これは失敬」

 

 彼女はぱっと頭から手を離し、今度はにこりと笑った。その後、車の扉を開き、運転席へと移った。

 

「家に帰りましょうか。送りますよ」

 

「お願いします。少し眠りたいので、着いたら起こしてくれますか」

 

「はいはーい。了解でーす」

 

 そう言ってエンジン音が車内に響くと、颯馬は瞼を閉じ、腕で目元を覆った。その様子に、一度後ろを振り向いた吹雪が安心したように口角を上げる。

 アクセルを踏み込むと車が発進した。

 

「それにしても、“街のため”かあ……そんなことを言うようになったんですね……あんなに小さかった子が」

 

「やめてくださいって。なんか恥ずかしい」

 

「何か守りたいものでもできたんですか~?」

 

 そう問うた吹雪に、颯馬はふっと笑い、ええ、と頷いた。

 

「できましたよ。大切なものなら、今もすぐ側にいますから。この車の中に」

 

「あら、口説き文句まで」

 

 もう一度、彼はふっと笑う。

 

「この街を守ることは、それを守るということでもある。この八年で、そんなことを思うようになった」

 

 颯馬は言いつつ、腕をわずかにずらして片目で窓の外を見つめた。かなり体勢を崩しているため、ここからは空しか見えない。

 

「もう二度と、大切なものは、失いたくないからな……」

 

 再び目を閉じ、それ以上は声を発することはなかった。颯馬の自宅に到着するまで、それ以降に二人の会話もない。

 既に日は完全に落ちきっていた。空は暗い。

 そういえばこの十数年で、星がめっきりと見えなくなった。都会とはいえ、以前は郊外まで行けば綺麗な星空が見えたものだ。もう街では二度とそんなものを見ることはできないだろう。

 ただ、たしかにそこに美しいものがあることは知っている。見えにくけれど、たしかにそこに。

 自分は、そこに目に見える美しいものを大切にし、守ろうと思っている。即ち、かけがえのない人を。

 普段なら気恥ずかしくて、こんなことは考えない。いったいどうしたのだろう。

 

(まあ……たまには、いいか)

 

 ゆっくりと体から力が抜けていく。そのまま徐々に颯馬の意識は暗闇へと落ちていった。

 

(姉さん……俺、姉さんのことは守れなかったけど……)

 

 大切な人の姿を、思い浮かべながら。

 

(フブキ姉ぇだけは、絶対に守ってみせるよ)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。