【完結】竜殺しの孫   作:扇架

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十話

 悲鳴が聞こえる。母の声が。両の眼をえぐり取られ、血の涙を流して立っている――のだと思う。その姿は真っ黒に塗りつぶされ、美しかったであろう面影はない。

 ぼんやりした記憶はある。写真も見た。だけれど、いつだって母は黒い影なのだ。

――今のように

 どこ、と呻き、両の手を突きだしながらやってくる。セラはただ立っていた。どこともしれないどこか。灰色の世界。雨が降り、地はぬかるんでいる。

 どこ。どこなの。

 私のセラ。私の娘。

 私を殺した娘!

 生臭い風が吹く。セラは影を見上げる。何かを言おうとして、唇を震わせるだけ。今更なにを言えばいい。セラが家を飛び出したばっかりに。母を捜しにいったばっかりに、あんなことになったのに。

 恐ろしく長い腕が伸びてくる。首にかかり――ぐっと締め上げられる。

『返しなさい』

 私の眼を。返しなさい。

 もう片方の手がセラの頬をなでる。人肌のぬくもり。すっと指が添えられる。セラの片眼に、灼熱の痛みが走った。

「ごめんなさい!」

 私、家を出ちゃいけなかったの!

 

 酷い痛みとともに意識が浮上した。誰かが頭を撫でている。

――影がいる

 あの影が。セラを殺そうとやってきたのだ。眼をえぐり、首を絞めて殺すのだ……。

 悲鳴がほとばしり、手を振り払おうとする。だけれど力が入らずに、ただあえぐだけだった。

「……セラ」

 落ち着きな。怖いものはいないよ。柔らかい声に、一度、二度と瞬く。猫を思わせる緑の眼。赤みがかった髪の……。

「大叔母、さん」

 うん、と彼女は眼を細める。

「助けて。母様が、賊に……眼が……」

「セラ」

「私が悪かったの。家から出たから。一人で出ちゃいけないって言われてたのに」

「セラ」

「助けて……」

 混乱のままに口走る。どうして大叔母さんはこんなに落ち着いているのだろう。なんで顔をゆがめているのだろう。大変なことが起こっているのに――。

「終わったことだよセラ」

 お前は十五歳で、ここはホグワーツだよ。辛抱強く頭を撫でられ、段々と呼吸が落ち着き、混乱も静まっていく。

「ホグワーツ……?」

 見えるのは木の天井。吊り下げられた一角獣のたてがみが銀色に煌めいている。森番の小屋だ。どうしてここに?

「お前はフェルドクロフトで襲われて」

 大叔母が椅子に腰掛ける。セラの背中にクッションを挟んで身を起こさせ、せっせと世話を焼いてくれた。

――そうだ

 眼が。

「また、抉られて――」

 銀色をほしがった小鬼。壊れた小鬼たち。差し込まれる細いなにか。ぷつりと切れ、セラの中からなにかが盗られた。

「ヘクターの坊やがあんたの眼を回収して応急処置して、あんたを医務室にかつぎ込んだから、大丈夫だよ。後遺症もない――怖かったね」

 頷くことも首を振ることもできなかった。まるでフェルドクロフトでの出来事が、夢のようだ。とてつもない悪夢……。

 何日経ったの、とようよう訊けば「五日」と返ってきた。

「しばらく休みな。やんちゃなサロウや謎めいた転校生と遊ぶのも結構だがね」

 おかげでフェルドクロフトの被害は軽微だったから、お手柄だけども。大叔母は渋い顔だ。兄の孫が襲撃された村にいて、怪我をして意識不明で帰ってきたのだから無理もないのか。

 背中の傷は痕が残るよと言われてもぼんやり頷くしかできなかった。包帯が巻いてあることも、鈍く痛むことも今気づいたくらいだ。

 まともにものを考えられないでいるうちに、数日経った。窓辺に飾られた花を見るともなしに見ていると、扉がそうっと叩かれる。大叔母は外出中。賊が数人がかりでこようとも、時間を稼げるだけの守りを敷いている。大叔母のニーズルが、軽やかに椅子から降りた。警戒していない――敵ではない。

「僕だよ。セバスチャン……とヘクターとギル」

 どうぞと声をかければ、扉が開く。おずおずとセバスチャンが入ってきた。しかめっ面のヘクターと、心配そうなギルも一緒だ。

「目を覚ましたって聞いて」

 ギルがどこからともなく調達した椅子に、セバスチャンは腰かける。寝台には近すぎず、遠すぎない位置に陣取った。

「ごめん」

 フェルドクロフトの問題に巻き込んだ。誰からも見捨てられた迷子のような有様だった。決闘が得意で、妹を救うために走り回り、オミニスの忠告も聞かずに前進していた彼とは思えない。

「誰も死ななかった?」

「君が一番重傷だ」

 ヘクターが不死鳥の涙を持ってなかったらもっと酷いことになっていたかも。

 ちらとヘクターに視線を走らせる。「ポピーとあれこれやっていて、それで、たまたま……あとで話す」と言われては、聞きようがない。セバスチャンに視線を戻す。

「小鬼の……頭がおかしかっただけだから、気にしないで」

 ぐっと吐き気がこみ上げる。大丈夫。ここに小鬼はいない。危険なものはいない。安全な場所なのだ。

「ホグワーツで怪我はつきものじゃないの」

 マクラーゲンの頭が『消失』したこともあったじゃない。そんなにしょんぼりすることも……と言って、首を傾げた。

「――何かあったの?」

 友人が怪我をして、そのお見舞い……にしては、顔色が悪すぎる。墓所で見つけた遺物の影響かと眼をこらすセラに、セバスチャンが笑みをこぼした。力のない笑みだった。

「お見舞いに来たのは僕なのにな……でも、そのうちバレるか――叔父さんに村を追放された」

――なんですって?

「どうして。襲撃はあなたの落ち度じゃ」

「僕が闇の魔術を使いそうになったところを見られてた」

 服従の呪文、インペリオのせいぜい「イン」だけだったじゃないか。

「あの呪文、ちょっと杖捌きが独特なんだが……察したらしい」

 無言呪文できるほどの実力じゃないし僕。

「だからって追放? 未遂じゃない」

「お前のあのときの様子は尋常じゃなかったし、使おうとしたということは邪心があるからだ。サロウ家にふさわしくないだとさ」

 本当に闇の魔術を使ったら退学にしてくれると仰せだよ。アンにも会うなって。

 セバスチャンは拳を握る。その手は震えていた。

「あんまりにも酷いわ」

 セラは呆然と呟いた。だって服従の呪文を止めたのに。小鬼を自害させようとするのも防いだのに。ソロモンは、甥が闇の魔術を使おうとしただけで、追放するのか。フェルドクロフトの長の家系だからか。正しくなければならないのか。

――防いだ、はずなのに

 唇を噛む。ぼんやりと視える光景がある。灯りが躍るどこか。へたり込むセバスチャンと、彼に杖を突きつけて、詰るアンと。

『あなたのせいよ! セバスチャン、全部、あなたの……!』

 倒れ伏す誰か。これは決定的な崩壊なのだとセラは察していた。

『なんでこんなことを!』

 アンの絶叫が木霊して、セラは耳を塞いだ。ああ、この未来はまだ回避できていない。極めて高い確率で「起こるかもしれない」未来だ。

「セラ?」

 あたたかい手のひらが、セラの肩に触れる。寝台の傍らにかがみ込み、気遣うように見てくる群青の眼。

「少し疲れただけよヘクター」

 嘘だ。とてもとても疲れていた。本当に先視なんて役立たずな能力だ。視てしまったからには知らんぷりできないのだ。

――どうか

 宿命の星を針一筋だけでもいい、ずらせたら。朧に視えている、明るい兆しをたぐり寄せられないだろうか。

 未来の霧の彼方に、手を振るセバスチャンとオミニスと、ギルの姿があるのに。

 

「……なんで拗れるかな」

 緑溢れる庭園の、古びたベンチでため息を吐く。温室の一角で、害がなく美しい植物で溢れている。普段ならここで本を読んだり間食をしたりと穏やかに過ごすのだが、セラの気持ちは晴れない。

「元魔法警察だ。厳格なのは仕方ない」

 セバスチャンの件は様子見するしかないんじゃないか。実にまっとうな意見を口にしたのはヘクターである。

「少なくとも襲撃はなくなるだろう……イライアスがルックウッドの館を潰したから」

 正確には、義兄率いる杖十字会と、フェルドクロフトの有志たちが、だ。セラは昏倒していたので直に知っているわけではない。が、遅れてやってきた義兄が血塗れのセラを見て怒髪天を突いたらしい。おかげでルックウッドの館から、小鬼が一掃された。いっそ館ごと爆破してやろうかと義兄はお怒りだったのだが、良識のあるルーカンや、フェルドクロフトの住人が必死に押さえたとのことだ。

「俺もその場にいたら、イライアスと組んで爆破してたろう」

 グリフィンドール男子たちは、頭に血が上るとなにをしでかすかわからないのだ。たしかに吹き飛ばして更地にしてしてしまったほうが楽だけども。

「ビクトール・ルックウッドを引っ張ってきて同意させるか、ほかのルックウッド姓の人間を見つけ出してどうこうするしかないんじゃないの?」

 投げやりに言った。セラが考える問題ではないのだ。ルックウッドのことはルックウッドに任せるべきだ。本来ならば。

「この小競り合いが終わって落ち着いたら、フェルドクロフトの人間が考えるだろう」

 小鬼の反乱と賊の活動を小競り合いの一言でヘクターは片づけた。彼にとっては大した問題ではないのだろう。なにせ数十年続いた泥沼の戦の主役だったのだ、リアイスは。

「いつ落ち着くのかしら」

 スカーフに触れる。リアイスにとっては小競り合いでも、脅威にさらされる側にしたら切実な問題だ。セラも間接的に巻き込まれたようなものだ。ホグワーツにも、小鬼の一味に家族が浚われた生徒もいる。ほかにも恐喝のための子浚いだとか、厭な話ばかり。

「鋭意努力中だ」

 秘密結社という名の生徒たちの相談窓口になりつつある杖十字会が、あれこれと動いているようだった。

「密猟者はてんわやんわらしいが」

 ヘクターはくつりと笑う。

「あなたとポピーのせいでしょう」

 フェルドクロフト襲撃前、ヘクターがなにをしていたかというと、ポピーとともに密猟者を探っていたらしい。驚いたことに「ホーンテールホール」という闘技場を密猟者たちは運営していたのだ。その存在を探り当てたのはポピーで、ヘクターは彼女に協力し、禁断の森に踏み込んだ。密猟者をなぎ倒し――ヘクターならそれくらい朝飯前である――闘技場もといテントに侵入。小鬼の銀の首輪によって拘束され、無理に戦わされていた竜たちを解放し、ホーンテールホールは崩壊した。燃えさかる現場から卵を回収し、脱出を果たしたのだ。

「ついて来てって言われたら闘技場だったんだからどうしようもない」

 ポピーには恐れ入る。這々の体で出てきた密猟者に囲まれても好戦的なんだから。ヘクターは大層渋い顔だ。

「パーシバルの助太刀がなかったら少し危なかったよ」

 グリフィンドールの卒業生の名だった。セラたちが入学したときに七年生で首席だったのだ。明るく快活で人気者だった。調査のために禁断の森に来ていたのだという。

「今度お礼の手紙を書いておく」

 ヘクターたちにとってもだが、セラにとっても恩人だ。不死鳥の涙を提供してくれたのはパーシバルだった。ダンブルドア家は不死鳥と縁が深く、パーシバルは「祖父の友人」だという不死鳥をともなっていたのだ。善人で勇敢である。そして勘もよい。厭な予感がするからと、不死鳥の涙をためらいなく差し出すのだから。

――順風満帆でしょうね

 ちらりと視えた限りでは、学生時代の恋人――確かケンドラと言っただろうか――と結婚し、二人か三人の子に恵まれるようだ。親切な先輩が幸せそうでなによりだ。

 拗れた家族の泥沼を見たものだからいっそう思う。セバスチャンに関しては、今のところセラにできることはない。オミニスがそれとなく見守っているだろう。

 なるべく早くに全快しないと、セバスチャンが気に病みそうだ。フェルドクロフト襲撃から二週間。大叔母と校医の許可は出たものの、片眼を抉られた衝撃か、背中を切りつけられたせいか、歩行杖に頼っている。

「そろそろ行くか」

 ヘクターが立ち上がる。セラは差し出された手をありがたくとり、立ち上がった。次の授業は薬草学なのだ。かつん、と杖が石畳を叩いたとき、誰かの足音が近づいてきた。セラとヘクターは眼をやる。ギルだった。肩を落とし、ため息を吐いていた。

「どうしたのよ」

 三人そろって歩き始める。階段を降りようとして、ヘクターに手を引かれる。一歩一歩慎重に降りているセラに、ギルは呻いた。

「守護者が無茶を言ってきた」

 ニーフ先生がね。校長室に忍び込めって。

「どうにかなるでしょう」

 それとなくフィグ先生に言って、ポリジュース薬を用意してもらったのが遙か昔のことに思える。先視もたまには役に立つ――と思っていた。

「ポリジュース薬はフィグ先生が持ってたんだけど」

 あれ、変身したい相手の一部が必要で。

――しまった

 すっかり忘れていた。ポリジュース薬があるから安心だ。あれは調合に手間がかかるから、用意だけしておけば問題ないと思っていたのだ。

「騒がしいのが嫌いって言って、朝昼晩、大広間で食べないよなあいつ」

 ヘクターが校長をあいつ呼ばわりしても、誰もなにも言わなかった。なぜ子どもが嫌いなのに校長になったのだろう「あいつ」。子どもを殺そうとする親でも、すべきことをすれば子どもをつくれるわけだけども。校長はそこまで狂っていないだろうが。

 暗い考えを振り払う。仕方ない。

「私が材料をとってくる」

「廊下の角でぶつかるとか?」

 ギルがとぼけたことを言った。断言するけれど、女生徒がぶつかって転ぼうが、校長は舌打ちして立ち去るだろう。まったく紳士的とは言い難いのだ。

「もっといい方法があるの」

 

「今からでもクィディッチを再開すべきです!」

 ホグワーツの橋の上に、冷えた風にも負けない熱い声が響く。黒い眼を光らせるのはマダム・コガワ。東方は日本よりやってきた魔女である。専門は飛行術なのだが、生徒の間では「得体の知れない呪いが使える」だとか「魔法のような手つきでオリガミとやらができるらしい」という噂である。

 クィディッチを愛するクィディッチ狂いの言に鼻を鳴らしたのは黒髪の魔法使いだ。呼び止められ、戯言を聞かされて迷惑だ、と顔に大書してある。

「怪我人が出たのだよ」

 生徒の安全のためにも、今年は中止だと言ったがね、マダム・コガワ。建前を振りかざし、鬱陶しい追求を逃れようとする。フィニアス・ナイジェラス・ブラックは面倒ごとが嫌いなのだ。そして頭の悪い子どもはもっと嫌いだし、小うるさい「常識人」も同じくらい嫌いである。小さな魔女が常識人かは議論の余地があるけれども、彼にとって鬱陶しく煩わしいのは変わりない。

「失礼。私は忙しいのでね」

 さっと踵を返す。つきあっていられるか――と思ったとき、かすかな音が聞こえた。ふくろうだろうか。ふと上を見れば、影があった。ふくろうより大きなそれがちらりと見え、鋭い痛みに悲鳴を上げた。

「なんだ!? マダム・コガワ、君の使いかね!」

 頭を抱えてうずくまる。なんというやつであろう。髪の毛をむしられたらしい!

「ほほほ。校長に遊んでほしかったんじゃありません」

 ざまあみろとばかりに言うマダム・コガワの笑声を背に、鷹は羽ばたく。嘴に黒いものをくわえ、空を駆け上がる。天文台の上にたどり着き、待ち受けていた影、伸べられた腕に止まった。

「首尾よくやったわけだ」

 嘴から黒いそれ――むしってきた毛を吐き出し、鷹は銀の眼を瞬かせる。腕を蹴り、身を変じた。

「銅貨ハゲよりは小さい範囲よ」

 多少は血が出たんじゃないかしら。さらりと言い、セラは息を吐く。ギルが差し出してきた杯を受け取って、念入りに口を濯いだ。

「ありがとうセラ」

 ギルはとても、とってもきらきらした眼をしていた。憧れの誰かを見る眼である。

「動物もどきだなんてすごいなあ」

 僕もなれたらいいのになあ。ポリジュース薬で校長になりすまし、校長室に侵入するのも結構な冒険だと思うのだけど、ギルにとっては違うらしい。

「ちょっと面倒だからおすすめできないわね」

「……校長がホグズミードに向かい始めた」

 ヘクターの言に、待機していたフィグ先生が頷く。

「では私も行ってこよう」

 省との会合帰りに引き留めておく。フィグ先生が扉を開け、振り向いた。

「幸運を」

 そうして階段を下りていった。

 セラは石壁にもたれかかる。いつもなら鷹に変身するなんてなんでもないのに、今日は酷く疲れていた。

 ギルが薬瓶に黒髪を投じる。煙を上げ、薬はどぶの色になった。

「うっわ」

 言ったのは誰だろう。三人ともかもしれない。あまり飲みたくない色なのは確かだ。セラが飲むんじゃなくてよかった。本当によかった。

「これがあいつの成分入りの薬」

「言わないでよヘクター!」

 ええい、とギルが薬を飲む。ポリジューズ薬による変身って見たことがないのよねとついつい見てしまう。しまおうとした。

「君は見なくていい」

 ヘクターに問答無用で後ろを向かされる。ああ、空が綺麗だこと。何かが破れる音がして「痛いんだけど」と文句も聞こえ、セラは納得してしまった。ああそうか。校長のほうが背が少し高いし、成人男性だから厚みその他もあるのだから、ギルの制服は破れてしまうわけで。つまり……セラは見たくもないものを見るはめになりかけた、と。

 上半身裸くらいなら義兄で見慣れている。夏休みにどこかに遊びに行って暑い暑いと言いながら、井戸の水を豪快に被る男なのだ。「イライアス! 妹とはいえ女の子の前ですよ」と義母にはり倒されていたが。セラには優しい義母だが、息子の躾はしっかりしていた。

「くすぐったいってば」

「我慢しろ完璧な変身のために」

「無理無理無理」

 なにやら楽しそうな野郎どもである。

「もうちょっとかっこよくしてほしい」

「なにを求めてるんだお前」

 なにをやっているのか。振り向きたくて仕方なかったが我慢である。そう、義母は器用なのだ。変身術も得意で。セラに教えてくれた。

『なにかあれば変身してお逃げなさい』

 そんな機会がないことを祈るわ、と義母は言っていた。フェルドクロフト襲撃時、鷹に変身していれば逃げ切れたか。どうだろう……距離を稼ぐ前に捕まっていたかもしれない――と考えているうちに「もういいぞ」と声をかけられた。

 振り向けば、偉そうな校長がいた。相変わらず華麗な衣である。スリザリンカラーの緑と銀を基調としていて、もちろん素材は最高級品。あちらこちらにブラック家の『双狼』があしらわれている。

「なんだねその目つきは」

 レイブンクロー五点減点。校長の言に拍手を送る。

「完璧だわ。いつもの最低な校長」

「僕に言ってるわけじゃないってわかってても心が痛いよ」

「……こいつの服がもうちょっと単純なものだったらよかったのに」

 ヘクターが眼を細めた。どうやら服を変身させたのはヘクターのようだ。なるほど時間がかかるわけだ。

 校長もどきことギルは、善は急げとばかりに動き始めた。天文台を駆け下りていく。あとは彼次第だ。

 セラとヘクターも塔を降り、昼食に向かった。校長がなにやら忙しそうにしているという噂が広がっていた。

 多少不審でもなんとかなるだろう。そう思っていたのだが、ギルはウィーズリー先生に捕まってあれこれ言われ、時間を食っていた。しかしセラにもヘクターにもどうしようもない。ポリジュース薬の効果は一時間で切れる。合言葉は手に入れたから、時間は足りるだろう。つまり、魔法薬学の授業が終わった頃に、成功か否かがわかる。

 鞄を肩にかけ、授業へ向かおうと地下牢に歩を進めれば、シャープ先生とばったり会った。箱を持っている。授業の教材なのだろうか。

「どうしたんです先生?」

 いつもなら、もう教室で待ってますよね。声をかければ、先生はため息を吐いた。

「親愛なる校長の仰せでな。薬を持ってこいと」

 ギル、あなたはなにを言ったのか。ちら、と眼の端に影がよぎる。ギルと、後をついていくセラ。セラは箱を持っている。

「私が持って行きますよ。先生は授業がありますものね」

「……頼めるか。加点しておいてやる」

「ちなみに何の薬です?」

 シャープ先生の唇が震えた。どうやら笑ったらしい。

「おできの薬だ」

「授業の板書はとっておいてやるから行ってこい」とヘクターに言われ、セラは箱を抱えて校長室に向かう。

「助かったよ」

 僕、校長室の場所知らないから。セラから箱を奪い取り、ギルが笑む。校長の変身は解除していた。「蔑みの眼で見られる続けるのってきついよね」らしい。セラとギルは「校長の大事な用」で届け物をしているというふれこみだ。

 階段を上り、上り、静かな廊下へ出た。さらに上へ。しんとした通路の先、ガーゴイル像にギルが合言葉を告げた。

「染まらず濁らず色褪せず」

 純血よ永遠なれ。

 

 

 ギルを見送って、セラはため息を吐く。ハンカチを取り出して、ソファに敷いた。そっと腰を下ろしまたため息。歩行杖をソファに立てかけてぼんやりとあたりを見回す。あちこちに銀の蛇が装飾され、複製であろうか……タペストリーが誇らしげに壁に飾られている。家系図だろう。個人の趣味にとやかく言うものではないが、ホグワーツの校長がこうまであからさまに純血を誇り生家を誇っていいものなのだろうか。

 薬も、ついでに託された請求書も執務机に置いたし、セラはここを後にするべきだ。どぎつい純血主義むき出しの室にいて、居心地がいいわけでもない。が、どうにも動けない。頭が重い。

――療養一ヶ月でもいいくらいだもの

 無理もないのだろう、と自分を納得させる。校長がフィニアス・ナイジェラス・ブラックだったばっかりに、余計な仕事も増えてしまった。ニーフ先生だって、まさか今の校長がこれほどに「あてにできない」とは思わなかっただろう。

「ホグワーツの未来は暗いわ」

 このままじゃね。一人で言い、一人で笑う。ちかり、と銀色が煌めいて、ふとそちらを見た。硝子ケースがある。剣が一振り納められていた。柄に輝くのは大粒の紅玉。首をひねる。あんなものがあったかしら。ブラック家の剣なのか……いや待て……。内装が変わっている。

 銀色の魔法道具が並び、セラの隣には止まり木がある。そこで眠っているのは美しい鳥だ。深紅と黄金の体躯。優雅に流れる尾羽根。

――なるほど

 未来か。いつかもわからない未来だ。それにしてもあの剣が気になるな、とセラは立ち上がる。室の奥へ歩を進め、まじまじと剣を見た。ヘクターの剣に似ている。彼は「写しらしいぞ」と言っていたように思う。いや「錬金術師の暇つぶしの作品」と言っていたのか。と、いうことは原型があるわけで。それはもしかしてセラが見ているこの剣かもしれない。ゴドリック・グリフィンドールの名が刻まれているのだから。

 なんでまた校長室にあるのか。いつかどこかの時代で発見されるらしいのはわかった。ヘクターには黙っていよう。言ったところでどうしようもないし。

「――なんで、」

 声に眼をやる。膝を突く影がある。黒髪の少年――セラと同い年くらいだろうか。俯けた顔の輪郭は鋭く、目鼻立ちは髪に覆われて窺い知れない。

――どこかで見たな

 少年が顔を上げる。誰か……背の高い男――いや老人を燃えるような眼で睨みつけていた。煮えたぎる怒りが血の涙となってこぼれている。

「あいつを、始末しておかなか――」

 強烈な嫌悪が滲んでいる。先を、と願ったけれど幻は解けていった。

「一体なにがあったの」

 なにが起こるの。今にも壊れてしまいそうな少年。酷く窶れていたように思う。どこで見たのだったか。スカーフに触れる。眉間に皺を立て、どうにか記憶をたぐり寄せようとする。あの整った顔立ちは貴族の血統だろう。シリウス・ブラックと似通うところもあるから、もしかしてブラック家の……?

 あ、と声を上げる。そうだあの子を視たのは――。

「オリバンダーの店」

 杖の整備に出向いた日、彼を視たのだ。小さな男の子で、痩せていた。細長い箱が山積みで、杖選びは難航していて。店の主は変わっていて、きっと数十年は先の未来なのだと思った。

 東洋龍の角だというそれを差し出された男の子は、無事に杖に選ばれていた。芯なしの杖なんて珍しいなと驚き、オリバンダー……セラの時代のオリバンダーに「貴女様の薔薇とセストラルのたてがみの杖は、完璧な状態です」と言われても生返事をしてしまったのだ。

――ブラック家の子が

 あんなに痩せて、きつい目つきで、とびきり珍しいであろう東洋龍の角を手に入れる? そんなこともあるのかもしれない。そもそもあの子がブラック家の子だとも限らない。きっとそうであろうというだけだ。妙に気にかかってしまうのだけど。

「あんまり幸せそうじゃないのよね」

 小さな男の子は、少なくとも五年生か六年生にまでなるわけだが。あの荒んだ目つきときたら。

「……誰かそばにいてくれればいいわね、あなた」

 名も知らない、いつの時代の子かもわからない少年に向かって語りかけた。

 ◆

「なんと」

 イシドーラがそんなことを? 深夜の教室に、フィグ先生の呻きが響く。

「彼女は治療と言っていましたけれど」

 どう見たって危ないでしょう。机に腰掛け肩をすくめたのはギルだ。

「忘却術を使うのならまだしも、感情を抜き取るだと」

 魂を欠けさせるようなものだ。ヘクターは吐き捨てる。壁にもたれかかり、しかめっ面だった。

「古代魔術はそこまで都合のよいものじゃないでしょうね」

 ヘクターの言うとおり、魂の欠落でしょう。

「彼女にその自覚がなかったとしても、実際には魂を裂いていたのだろうな」

 禁忌の術だよ。我々の時代ではお伽噺にも等しいが。

「――その術は、封印され、忘却されてきたものです。先生はなんだってご存じで?」

 ヘクターの声が、眼が、鋭くフィグ先生に向けられる。

「私は研究者であるし、失われた魔法についても調べていた。無論、数百年前のあれこれも」

 安心したまえ、魂をどうこうなんていう愚か者はそうそうおるまいし、やってのける者もいるかどうか。もはや伝説で、忘れられるべきものだ。

「極めて邪悪で浅ましく、魂がなんたるかを知らぬ愚か者で……卓越した才がなければやらんだろうな」

 イシドーラの術と昔の「それ」は似通っているが異なるものだ。

「……問題は」

 抜き出した感情を、彼女はどこにやったのかだが。

 セラはフィグ先生の言に耳を傾け、ぼんやりと事の輪郭が見えてきたような気がした。守護者がなにを隠しているのか。危惧しているのか。

「ルックウッドの館に」

 銀の残骸のようなものがあったんですよ。ギルのくすんだ青の眼が、月光で鮮やかな色を帯びた。

「魔力の残滓らしいのも、少し」

 もしかして、と誰も言わなかった。言わなくても全員が同じ考えにたどり着いたのだと、顔を見ればわかった。

 フェルドクロフトは小鬼の害に悩まされていた。彼らはルックウッドの館を根城にしていた。そして銀の残骸と――魔力の残滓。

 イシドーラが抜き出した『感情』は、ルックウッドの館に廃棄されていた。あるいは保管されていたのではないか。

 そして。

 ランロクがそれを手にしたからこそ。得体の知れない力を使えるようになったのではないか。

 竜ですら従えるような力を。

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