【完結】竜殺しの孫   作:扇架

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十四話

 空が白んだ頃、セラたちはこっそりと城に戻った。フィグ先生に知らせたいことがたんとあったが、体力の限界だった。普通魔法試験の大事な年だろうがなんだろうが知ったことではない。寮の寝室でひたすらに眠った。

「……どうにかなりましたけど」

 バカー先生、僕のこと殺す気だったんじゃ?

「乗り越えたのだからいいだろう」

 夜――地図の間。バカー先生の冷たい声が響く。セラはひんやりとした床に座り込み、ため息を落とした。バカー先生は意地悪である。悪びれもしない。

「グラップホーンを手なづけろなんて言っておいてよくもまあ」

 ヘクターが鼻を鳴らす。ギルもヘクターも、セラと同じく夜を明かしたはずなのに、なぜか元気である。二人とも授業をこなしたらしい。化け物ではないだろうか。それとも体力の差か。

「お前は試練を乗り越えた」

 バカー先生は抗議の声を無視した。腕を組み、舌打ちせんばかりの顔だ。

「……我々が古代魔術を封印した理由がわかったろう」

「教育の失敗ですね。イシドーラは、なにを言っても聞かなかったでしょうが」

「ああするしかなかった」

「わかっていますよ」

 ギルは肩をすくめる。

「父親を廃人にした罪、生徒たちを巻き込んだ罪……あなたたちに黙って、心の欠片を隠した罪。恩師たちに杖を向けた罪」

 殺して、亡骸を解体し、燃やすしかなかったんでしょう。

 ギルがさらりと言った内容は、口調に反して凄惨なものだった。

「あれはおかしくなっていた。心も、器も……」

 バカー先生の声が震えた。彼がはじめて見せた恐怖であった。

「一度殺した……はずだった。アバダケダブラであれは動かなくなったはずだった。だが、起きあがった。また殺し、そして殺し……死の呪文を三度受けて、ようやく止まった」

 感情を……心を抜き取るうちに、あれは変質したのだろう。魂をゆがませたに違いあるまい。

「万が一にでも復活してはならない。我々はあれを解体した。そして燃やした。この世から完全に消し去った」

「だが、ブラグボールには手を下さなかった」

 ヘクターが口を挟む。守護者たちが顔をしかめ、非難の眼をヘクターに向けた。

「彼はイシドーラに依頼されただけだ。記憶は完全に消したはずだった。我々は、人殺しではない」

 ラッカム先生がヘクターに鋭い眼を向ける。だが、ヘクターは堪えていないようだった。

「いいでしょう。数百年前の、黴が生えた歴史のことだ。あなたたちはとうにこの世の人じゃない。言っても仕方がない……だが」

 ブラグボールは執念深かったようだ。

「先生方が記憶を消す前に、彼は日誌に残したんですよ」

 ギルが口を挟む。夜が明けて『三本の箒』を発つ前に、ロドゴクから聞いた話だ。

「日誌は何冊かあって。そこには守護者のことや魔法族の『力』のことが書かれていた。依頼を受けて器を作ったことも」

 受け継いだのはロドゴクだ。兄のランロクは、たいして興味を示さなかった。だが、親切な魔女の話とともに、ロドゴクがランロクに漏らしてしまった。守護者の名と、古い魔法が眠っていることを。

『ささいな興味からだったのだ』

 ロドゴクの嘆きが、耳の底にこびりついている。日誌は隠してあった。持ち出そうとしたが見つかって、ロドゴクは火を放った。どこまで燃えたかはわからない。

「最後の保管所の場所までは、ランロクはまだ把握していないはず。どうもブラグボールは悪筆だったようで。日誌の断片をつなぎ合わせ、読み解くにしても時間はかかる」

 ギルは息を吐いた。守護者たちを見やる。

「保管所の場所は」

 城の地下なんじゃないですか。

「そうだ」

 答えは簡潔だった。ラッカム先生が眉間の皺をもみほぐす。

「ここは魔法の牙城だ。なにかを守るには最適で、イシドーラもそう考えたのだろう」

「じゃあ僕は守護者の試練を乗り越えたんですから、資格がありますね? ランロクはなにがなんでも場所を突き止めて乗り込んでくるはず。先回りしてイシドーラの遺したものをどうにかしないと」

「鍵がいるのだ」

「おい」

 ヘクターの声だった。セラは天を仰いだ。これだけギルを振り回しておいて、鍵とは。ちらとヘクターを見てみれば、フィグ先生になだめられていた。

「落ち着きたまえよ」

「どうせこいつら守護者候補を何人もだめにしているに違いない。ホグワーツの地下を勝手に利用した挙げ句にやっかいなものまで遺しやがって。肖像画になってるんだから、あれこれ小康状態になったときにでもリアイスに一言いえばよかったろうがバカ野郎どもが」

「これだからリアイスは」

 守護者たちとヘクターの間で火花が散った。セラは手を叩いた。軽い音が地図の間に響く。

「で、鍵とはなんですか。手に入れるのにまたギルが動かないといけないの? 先生方」

 ふう……とラッカム先生が息を吐く。

「守護者の杖がいるのだ」

 素材はもうある。

 かすかな音がした。皆、そちらを見る。小箱である。はじまりとなった箱。ポートキーであったそれ。

 ギルが一歩二歩と進み、片手で持つ。かすかな水音がした。

「杖材はその箱。芯は……憂いの篩の記憶だ」

 試練の先々で開示した、すべての記憶。我々の誤りの記録。

「杖つくりに依頼し、杖をつくりなさい。それこそが守護者の杖で最後の保管所への鍵だ」

 なにを悠長な、と文句を言うことはやめた。言っても仕方がないのだ。

「……今にもランロクの襲撃がある、というわけではないだろう」

 フィグ先生はひどく落ち着いている。顎をさすり、ギルを見た。

「オリバンダーに依頼するしかないか。私は先生方に事情を話そう」

 セラは眼を瞑った。ちらりちらりと影がよぎる。赤黒い輝き。小鬼の高笑い……じわりじわりと迫る未来。

「今日、明日ではないでしょう。先生……」

 いまのうちに、お話ししたいことが。

 意を決して口にした。

「ミリアムさんの居場所がわかりました」

 は、とフィグ先生が息を呑む。眼を見開き、凍り付いたように動きを止めた。

「彼女が……?」

「詳しいことはロドゴクが知っています。そして……」

 どこかの墓所。弱々しい月明かり。取り出される柩。重い音とともに、蓋がずれる。ふわりと香る花。眠るひとりの魔女。

「ミリアムさんは綺麗な姿で眠っています」

 青ざめた顔。豊かな髪はくしけずられ、最大限の敬意でもって清められている。血濡れた衣の上から、銀の装束を纏わされている。美しい銀の冠は、頭の傷を――あまりにむごいそれを隠すためのもの。ロドゴクは、ミリアムに刻まれた暴力の痕をできうる限り拭い去っていた……。

「まだ時はあります。学校のことも、古代魔術のことも心配しないで」

 どうか彼女を迎えに行ってあげてください。

 

 

「オリバンダーさん、快く引き受けてくれたよ」

 『地図の間』での話し合いの翌日――昼食時、ギルが隣の席に滑り込んできた。セラはソーセージを取り分けてやった。

「昼食べてから戻ってきたらよかったのに」

「あんまり授業もさぼれないじゃないか」

 今まで散々「フィグ先生の用事」で授業を欠席しておいて今更だ。今回の用件――ダイアゴン横丁に行き、オリバンダーに杖製作を依頼する――が加わったところでたいしたことはない。

「どれくらいかかるって?」

 問いながらも、セラは答えを視ていた。狭い室内。恭しく箱を持ったオリバンダー。壁の暦は……。

「二週間くらいかかるらしい」

 うん、と返す。杯を空にして、水を満たす。揺らめく水面をのぞき込んだ。大広間の喧噪が遠のいていく。なんてことのないおしゃべり。クィディッチが再開されないだの、校長の悪口だの。フィグ先生ってばまた留守なんだだの。フィグ先生は大事な人を迎えに行ったのだ。少し遠い場所にある……でも大丈夫、再会できるはずだから……。

 揺らめく水面が黒く濁る。金臭さが鼻を突く。ちらちらと赤黒い光が躍る。

『これは小鬼のものだ』

 我が祖が作ったのだ!

 吼える唸る。獣のように。この小鬼は、罪無き魔女を惨殺したのだ。

『邪魔はさせない』

 けらけらとした笑いとともに、ぷつりと光景が切り替わった。

『なにを企んでいるのやら』

 ちらちらと舞う雪。空は深い紺。煙突から煙が立ち上っている。夕食時だろうか。

 背の高い影がにやりと笑う。古びているが上等そうな外套、すり切れた靴。傷だらけの手袋。頭にはシルクハット。オリバンダーの店から出てきたギルに、手を伸ばす。

『散々ひっかき回してくれた礼はしなければな』

 先を、と念じる。今度はどこかの廃墟だ。男――そうだ彼はビクトール・ルックウッド――と、その配下たち。ギルをぐるりと囲んでいる……。

「セラ」

 肩を叩かれ、我に返る。どっと喧噪が戻ってきて顔をしかめた。軽い頭痛を抱え振り向けばヘクターがいた。

「なにか視たのか」

 ヘクターを見て、ギルを見た。唇を舐める。

「小鬼の問題の前に」

 片づけたいことがあるの。

 ◆

 とある雪の夜。打ち捨てられた廃墟。そこが誰の所有だったのか、今では誰も知らない。いいや、関心がない。探ろうと思えば探れるだろう。掘り起こそうと思えば掘り起こせるだろう。だが、置き去りにされた歴史に、それをするだけの価値はない。小さな館だったであろう建物は、石組みの壁が崩れ、屋根は落ち、床は抜け、朽ちるに任せるはず……だった。

「――先視か」

 凍った草を、靴が踏む。ギルに杖を突きつけていた影は、口笛を吹いた。

「追っていたはずが、追われる側だった、と」

「学生一人を嬲り殺そうっていうんだもの」

 こちらも相応の準備はする。セラは杖を構え、眼を細めた。吐息が白く凍って流れていく。周りを固めるのは、ヘクターをはじめとした、杖十字会の面々。アッシュワインダーズもとい、ルックウッドを追っていたナティもいる。腕の立つセバスチャンも、攪乱が得意なポピーも巻き込んだ。

「餓鬼だけでなにができると?」

 ルックウッドは鼻で笑う。ギルに突きつけた杖は、小揺るぎもしない。

「その餓鬼どもにひっかき回されたのはどこの誰かな」

 義兄ことイライアスは笑顔である。凶悪な闇の魔法使いたちと相対していても、義兄は義兄であった。単に妹からの「お願い」にはりきっているだけだろう。

 まさか「アッシュワインダーズを待ち伏せするから、杖十字会を動員してちょうだい」と言って、すんなり出してくれると思わなかった。あっさり「いいよ」と返されて拍子抜けだ。

「大人を呼べばいいものを、傲慢……無謀なことだ」

「いや?」

 僕らはとっくに勝っているからね。義兄が杖を掲げたその瞬間、轟音と閃光があたりを圧した。

 

「……してやられたな」

 く、とルックウッドが笑う。がっちりと拘束され、彼は膝を突いた。

「こんな」

 未熟で愚かな生き物どもに。

「殺されないだけ感謝しなさい」

 セラは冷たく返した。皆、せっせと己の仕事をしている。無力化したアッシュワインダーズたちを拘束し、転がしていた。

 ギルが襲われると察知して待ち伏せていたからこそできた荒技だ。主立った面々を揃え、ルックウッドたちの注意をそちらに向ける。が、彼らは知らなかったのだ。上空に伏兵がいることを。箒に乗り、透明呪文で身を隠した彼らは、イライアスの合図で雷轟薬を炸裂させた。あとは学生とはいえ戦いに長けた面々だ。闇の魔法使いだろうがなんだろうが食いつき、無力化し、杖を折り、たまに足やら腕やら折り、縛り上げて今に至る。

――シンガー巡査には連絡した

 追っつけくるはずだ。セラたちはしこたま叱れるだろうが、仕方ない。怪我人を出してしまったし、ナティもギルをかばって昏倒しているし……被害がまったくないわけではない。

 ギル一人でもどうにか切り抜けられた……かもしれない。包囲を抜け、追ってきたルックウッドと一騎打ちをし、ギルは死の呪文を使い勝利する。そんな未来もあったのだ。が、セラはそれをよしとしなかった。

 セラはルックウッドに杖を突きつけ、問いかけた。

「一年くらい前の夏、ルックウッドの館で」

 あなた、女の子に呪いをかけなかった?

 ルックウッドの視線がさまよう。

「過去視の異能者じゃないはずだが?」

「とある未来を視てね」

 ちらと視えた断片だ。僕はルックウッドを殺してしまった。セバスチャン、君言ってただろう。アンを呪った小鬼が……。

「未熟で愚かな子どもを呪うのは、どんな気持ちだった?」

「小鬼に殺されるよりはマシだろうよ」

「……死ぬより辛いことがあるって、あなたは知らないのね」

「眼をえぐり取られ、母親を殺され……父親に殺されかけた令嬢が言うと重みがあるね」

 くつくつとルックウッドが笑う。セラは彼の胸を蹴った。十半ばの娘ができる精一杯の力で、容赦なく。

「解除方法は」

「無理だね」

 もう一度蹴る。ルックウッドがせき込んだ。そのまま身を折る。

「俺の館にあった力の断片で……試しに呪ってやったのさ」

 解けやしない。誰にも。きっと守護者にも。それともお嬢さん、呪いには必ず答えがあると思っているのか。そんな甘いものじゃないさ。

「伝説の霊薬でもあればともかく」

 そんなものはどこにもない。

「哀れな子どもは」

 きっと永遠に呪われたままだ。

 セラは拳を振りかぶる。大の大人の頬を、渾身の力で殴りつけた。拳がすりむける。熱い痛みが広がった。ルックウッドの唇が切れ、血が飛んだ。

「ああ、残念だ。こんなことになって」

 あのときあの場所にいたのが悪いんだ。かわいそうな女の子だな。

 セラはもう一度頬を殴った。

 世を騒がせた闇の魔法使いの頭から、シルクハットが吹き飛び、雪と泥で汚れた地に伏せた。

 

「無茶をしたね」

 ため息を吐いたのはウィーズリー先生だ。彼女は大卓に載った紙面を叩く。ルックウッド捕縛される……シンガー巡査主導のもと、作戦は実行された……。協力者にはホグワーツの上級生もおり……。

「勝てたんだからいいでしょう」

 さらりと返したのはヘクターだ。

「セラがいたからだけどね」

 笑顔で言ったのはイライアスだった。そうして、室を――集まった面々を見回した。卓についているのは校長を除くホグワーツの教師陣。そして森番を務める大叔母。生徒はセラ、ギル、ヘクター、イライアスと杖十字会の主立った人間たち――セバスチャンもいる――だった。

「それで? 君の可愛い義妹が視たと……そして、エリエザーも我々に警告していた」

 シャープ先生がちらりとフィグ先生を見て、セラを見た。

「小鬼がホグワーツにやってきます」

 本当のことを言う。そう、ランロクはやってくる。袂を分かったとはいえ同盟者が捕縛され、頭に血が昇っている。日誌の解読は完璧ではないとはいえ済んだのだ。

『入ってしまえばこちらのもの。陽の射さない闇の中こそ』

 小鬼の領域。

 あれは必ず手に入れる。小鬼がつくった小鬼の宝は。

 極めて近い未来だ。今、彼は進んでいるのだ。闇の中を。銀のドリルで掘り進め、ホグワーツに牙を立てようとしている。

「彼は魔法族を憎んでいますから。ホグワーツを壊そうとしている……」

 古代魔術どうこうは口にしない。ちらとギルを見ればかすかに頷いた。やっぱり秘密にしておいたほうがよいのだろう。それに、ランロクが古代魔術――イシドーラの置き土産を手にすれば、ホグワーツを蹂躙するだろう。別に嘘は言っていない。どうせランロクは力を手に入れてなにがしたいなんてことは考えていない。ただ、憎み壊したいだけだろう。小鬼を踏みつけてきた社会を。彼にとっての理不尽を。

 古代魔術のこともなにも知らないままなら、ただ怒りをくすぶらせ、生きていくだけだったろうに。知ってしまったばかりに彼は内乱を起こし――歴史に名を刻まれるだろう。世を騒がし、討伐された者として。

――同情などしてやらない

 彼はミリアムを殺したのだ。少し会っただけだったけれど、セラは彼女が好きだった。フィグ先生が迎えに行って、今は綺麗な柩で眠っている……まだ埋葬はしないのだという。彼女の大事なものが奪われたままだから。

 セラは窓の外を見た。赤黒い夕暮れの空。どんどんと陽が暮れていく。

「今夜、決着がつきます」

 唇が勝手に動く。予言の響きを帯びた声。確信だけがある。小鬼の乱は終わるのだ。

「私たちは」

 柔らかな声。ふとそちらを見る。オナイ先生が大卓に置いた水晶を撫でていた。どこか遠くを――未来を視る目つき。ナティの母――ムディワ・オナイは優れた占者だ。先を視る者どうし、セラとも交流がある。

「求めに応じて駆けつければよいですね?」

 問いではなく、確認だった。セラと同じものが視えているのだろう。小鬼の群と、赤黒い光と……戦う教師陣の姿が。

「といっても『地下』に行く路はない」

 配管でも通るかい? 楽しげに言ったのはヘキャット先生だった。

「それはどうとでもなるよ、ダイナ。時が定めたとおり、その場に居合わせるはずだ」

 ヘクターを見ながら言ったのは大叔母だった。リアイスは創設者の末裔だ。なんとかできるのだろう。たとえば、姿現し防止の魔法を解除できるだとか。

「先視たちが言うんです」

 なるようになりますよ。ヘクターはにやりと笑った。

 ◆

「試練を乗り越え、鍵を手にし」

 君は守護者となった。ラッカム先生が静かに言う。『地図の間』には守護者がそろい、ギルを見下ろしていた。

「あとは君に……君たちに託そう」

 守護者たちがそろってなにかを呟く。それは歌のようにも、呪文のようにも聞こえた。りん、と軽やかな鈴の音がして『地図の間』が銀の輝きに染められていく。踏みしめた床がゆうらりと揺れた――気がした。

 ぱしゃり、と音がする。セラはゆっくりと眼を開いた。足下を水が流れていく。中央にはぽっかりと穴が開き……いいや、水となって解けていく。銀色の、憂いの篩の記憶にも似た色だった。それは集まり、階段となり……扉となった。

 ふう、とあたりが暗くなる。足首に粘るなにかが絡みつく。なんだ、と見ればそれは触手だった。

――悪魔の罠

『地図の間』に触手がひしめいている。上を見れば、明かりがこぼれていた。首を傾げる。上階に行くには階段を使えば……まるでここが井戸の底のようではないか。とてもとても広い井戸。なにかを待ち受ける罠がひしめいて。

 遠くから雷鳴のような声が聞こえる。なにかが吼える声。犬か、それとも狼か。

 いつの未来だろうか。片手で眼を覆ったとき、女の子の「薪がないわ!」という叫びが聞こえた……。

「……セラ?」

 ヘクターがセラの手を掴んでいた。『地図の間』は変わらずそこにある。いつかの未来の光景は跡形もなかった。

「なんでもないの」

 首を振る。行くよ、と扉の前でギルが手を振っていた。隣にはフィグ先生もいて、心配そうにセラを見ている。数分経っていると思ったけれど、ほんの数秒の幻視だったらしい。

「行きましょう」

 ヘクターの手を握り返す。彼とともに階段を降り……扉は開かれた。

 

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