獣の唸りを思わせる、いいや悲鳴にも似た風が吹く。
肌にまとわりつくのは、手で撫でさすられているかのような不快感。しかも、その手は湿り、ふやけているのだ。
――厭わしい
海鳴りも、風の唸りもなにもかも。
セラはきゅっと唇を結ぶと、銀にも見える白金の髪を括った。肌に張り付いて仕方がない。
こちらへ、と導かれる。黒々とした岩場を踏む。ドラゴン革の長靴が、波に洗われた黒岩を捉え、歩を進める。
岸からの道筋に、石段を刻もうという努力を放棄したらしい。いかに整えようが海の――波の力がいずれ段を削る。足場の悪さに不便を覚えるのならば、浮遊魔法の一つでも使えばいい。
生臭い海風が、セラのローブをはためかせる。色は深い蒼。星や秤が挿されたそれ――神秘部の装束は、帰り次第洗浄しよう。
帰り次第か。己の思考に唇をゆがませる。そう、セラは帰ることができる。だが、聳える要塞、絶対の監獄から帰れるものがどれほどいよう?
成立してよりただの一人の脱獄者を出していない監獄。
行きて帰りれはせぬその場所の名を、アズカバンと言う。
◆
角燈の灯が揺れる。生み出される光の環に浮かぶのは、黒い壁と鉄格子。こびりついているのは茶色い何か。
乾いた血だろうか。先導され、静かに歩を進め、セラは息を詰める。大監獄アズカバン。海の只中にあるそこに、なにが染み着いていてもおかしくはない。
傍らの守護霊をそっと撫でる。アズカバンには吸魂鬼がひしめいている。今は、看守とセラの守護霊によって払いのけられているだけだ。
「こんなところにお嬢ちゃんがなんの用だい」
「どうだいこっちに来ないかい」
けらけらと笑う声を黙殺する。
通路は海からの風が運ぶ臭気と、なにかが朽ち、腐り落ちるような悪臭が充満している。口を開く気にはなれなかった。強いて、並ぶ格子に眼をやらない。やったところでどうしようもない。
杖を強く握りしめる。囚人たちは吸魂鬼によって無力化されている。それでも、左右からまとわりつく、粘るような眼に不安を覚える。
「ここの罪人は」
まだ軽い罪なのですよ。看守がセラに言う。知っているとは返さなかった。ここにいるのは中間層だ。罪が重くなればなるほど、深い階層か、高い階層に閉じこめられる。
――セラの祖父は
竜殺しのジークフリートは、中間層よりは深く、最下層よりは浅い場所に放り込まれたという。罪状は殺人。それも肉親殺し。判決は終身刑。
『幸せにおなり』
その言葉が、祖父との最後の記憶だ。
細く息を吐く。祖父はこんな場所に送られ、名誉もなにもかも失って死んだのか。きっとぞんざいな扱いを受け、ここにいる囚人たちのように臭気をまとわせて。狂っていればまだ救いがあったかもしれないが、祖父は正気のまま息子を殺め、正気のまま死んだのだ。亡骸は孤島のどこかに葬られている。夥しく並ぶ墓石のどれかの下に眠っていることだろう。
黙々と歩を進める。幸せにおなり、と言った祖父の言葉が何度もよぎる。まるで祈りで、呪いのようだった。
好いた人はできた。さっと踵を返し、岸で待つその人のところへ行きたいと思っているのだから、好きなのだろう。単にすがる誰かを欲しているのかもしれないけれど。
ここはとにかく陰気で、光もなく、風は錆び、希望はない。まるで、親を亡くし、祖父がいなくなった幼い頃に戻ったかのような気分だ。
額にじっとりと汗がにじむ。看守はセラは階段に導いた。ゆっくりと、慎重に降りていく。怪物の口の中に飛び込む心地だ。それとも冥府下りでもするのだろうか。どちらも間違ってはいない。アズカバンの暗渠に封じられた者が、再び陽を見ることはない……その命が失われて初めて、外へ出られるのだ。
息が弾む、踊り場から扉を開け、看守がセラを手招いた。延びる通路と並ぶ鉄格子。通路中ほどの格子の前で、看守が立ち止まる。
「こちらです」
セラは鉄格子――古代語が隙間なく刻まれたそれを睨む。正確には、隔ての向こうにいる男を。
「卒業おめでとうと言おうか」
男は粗末な衣を纏い、けれど打ちひしがれた様子はない。からかうようにセラに向かって片手を上げれば、鎖がこすれる耳障りな音がした。
「就職祝い金でも戴けるのかしら?」
セラは腕を組み、鼻を鳴らす。髪も髭も伸び放題の囚人を睨みつけた。その姿に、白金の髪を持つ誰かの姿が重なるが、見ないことにした。今はいずこかの時に現れる、幻影に気を取られていられない。
「どういうつもり」
ビクトール・ルックウッド。
冷え冷えとした声にも、囚人ことルックウッドはにやりとするばかり。酷く痩せていて、汚らしくなっていても不敵さは薄れていない。アッシュワインダーズの首領は悪びれる様子もなく言った。
「女に飢えていてね」
「豚とでも交わっておくがいいわ」
吐き捨てる。セラを呼び出したのは、格子の向こうにいるこの男だ。組織の面々の名を吐いてやる。だが、お役人どもお前らにではない……。
「俺を倒した勇敢な女だ。逢いたくて逢いたくて焦がれるほど」
小娘相手によくも言う。ビクトール・ルックウッドの年齢はしかと知らないが――役にも立たない情報だし――セラと親子か年の離れた兄か、という年齢差だろう。そしてビクトール・ルックウッドは年若いだけの女を……ホグワーツを卒業したばかりの小娘の肌を求めるような男ではない、はずだ。
私がルックウッドを買っているようじゃないの。セラは舌打ちをこらえる。成したことはともかく、ルックウッドは莫迦ではない。それなりの勢力圏を築いたのだし、婦女子への乱暴は少なかった……とされる。組織に魔女がいたせいもある。脅すだけなら磔刑の呪文で用は足りる。暴走したのは一部の下っ端だったという。
むしろ、暴走したのは小鬼のほうだ。
苦い思いを飲み込んだ。
「私のことを愛しているのなら、名を吐いてくれるのでしょうね」
ルックウッドの笑声が、通路に木霊する。喉を鳴らし、彼のぬめるような視線がセラを這い回った。
「俺が見込んだ通りだお嬢さん。肝が据わっているし」
ユーモアのセンスもある。
馬鹿馬鹿しい茶番にもほどがあった。セラは眉間に皺を立てたまま、挙げられた名を羊皮紙に書き留める。それなりの「いいとこの」の出もいて驚いた。なるほど、アッシュワインダーズの資金源だったのだろうか。探し出して捕縛しなければならない。もっとも、それはセラの仕事ではないのだけど。
羽ペンの音が止まる。どこからか風の唸りが聞こえる。じゃら、と鎖が鳴った。
「さて。俺は差し出したぞ」
「売ったの間違いでしょう」
「じゃあ買いたいんだ愛しい君」
ルックウッドはまだふざけている。小娘が動揺する様が見たいのだろう。なにせ、アズカバンは退屈だろうから。沈黙呪文をかけるのはまだだ。忍耐の時である。
「言ってごらんなさいな、哀れなあなた」
ぽんと言葉を投げた。要求がどうであれ、なんとかなるであろう。省のしかるべき筋に言えばいいのだし、短期の監視付き仮釈放くらいなら……。
「――娘がいる」
是非ともお嬢さんによくしてやってほしいものだ。
「今、なんて」
娘? ルックウッドに? そんな話は聞いたこともない。そもそも、娘連れで犯罪を犯す者はいないだろう。多少の良識があれば、だが。
「大陸にいるはずなんだが。俺はこのとおり、可哀想な豚になったのでね」
返事もままならないセラに、ルックウッドがなにかを投げてよこす。格子の前に落ちたそれを、セラは指を差し入れて引き出した。汚らしい襤褸であった。赤茶の文字で場所と名が記されている。
「娼婦との間にできた子に、あなたが父性を抱くなんてね」
「なんであれルックウッドの子だ。てんでばらばらに散った一族の中で、確実にルックウッドを名乗れる」
「さっさと名乗り上げれば」
「そうだとも。賢いお嬢さん……父祖の遺産はあれのものになる」
館もな、とルックウッドは囁き、夢見るような眼をした。
「別にお嬢さんの養女にしろってんじゃあない。細々と手を貸してくれればいいし……ホグワーツにも通わせてやってほしい」
俺は行けなかったのでね。ぽつ、とルックウッドが言う。
確か、とセラは記憶を手繰る。ビクトール・ルックウッドは大陸で育ち、イルヴァモーニーへ行き、中途退学したのだったか。
「私が噛む理由は……」
「あんたはポッターだ。魔法使いや魔女だろうが、妖精だろうが癒しを与える家の娘だ。このままじゃ、か弱い娘が歓楽街の闇に沈むぞ?」
「信用してくれてどうも。でも……」
戯言を切って捨てようとする。いくらルックウッドの言に懇願の響きがあろうが、呑まれてはいけないのだ。
が、続く一言に瞬いた。
「イルヴァモーニーに、癒しの樹がある」
もしかするとあの娘の呪いを解く鍵になるかもしれないぞ。
あの娘とはアンのことだろう。ルックウッド自身が呪った娘だ。本人曰く命を失うよりはいいだろうという主張だった。
「前はそんなこと言ってなかったじゃない」
二年ほど前の、ルックウッドを捕縛した夜、目の前の男は解呪などできまいと言った。解き方などわからない、と。
「時間だけはたっぷりあるからな」
そうして思い出したのさ。イルヴァモーニーに眠る樹のことを。学生でも一部しか知らんがね。癒しのことは秘密なのさ……。
「ホグワーツ卒に言ってもいいの」
「対価には足りないか?」
セラは眉間に皺を刻む。ああ、やりにくい。ルックウッドのことは決して好きではないし、善人だとも思わないが……。
「可愛い子かしら」
ルックウッドはにやりとした。
「母親はいい女だった」
鼻を鳴らし、踵を返す。
ルックウッドは父親としてはマシな人種だろう。たとえ、己の罪悪感を薄めるだけの行為だとしても、娘のことを気にかけた。
「さようなら」
あなたとあなたの娘が会うことは、ないでしょうけどね。
告げた言葉に、誰かの声が重なった。
あなたを覆う土がどうか軽いものでありますように、と。
唇を引き結んだまま、来た道を戻り、階段を上り、外へ出る。灰色の空、吹き付ける風は冷たい。
岩場を踏んで、岸へ降り……小舟に乗り込む。
「お待たせ」
「なにもなかったか」
金の髪に群青の眼を持つ魔法使いが、静かに問いかけてくる。いいや、そう装っているだけだろう。セラが付き添いを断ったから。
彼に身を寄せ、軽く抱きついた。ぬくもりが衣を通して染みていく。
「厄介ごとが一つ」
闇の中の希望が一つ。