肌を撫でるのは細かい雫。霧のような雨が『谷』に立ち込め、時折吹く風が霧を揺らめかせていた。白くなびくレースのようだな、とセバスチャンはぼうやりと思い、苦笑する。
僕は詩人じゃないはずなんだが。
「アンのせいかな」
出ていく直前『お母様』とレースを編んでいた。母親がいて、そして仲がよければあったかもしれない光景。
――あくまで
かもしれない、なのだけど。
ポッター夫人……いいやポッター家とサロウ兄妹に血の繋がりはない。遡ればどうだろうね、とポッター家の長男ことイライアスは言ったものだが。
「他人のほうがよっぽど優しい」
他人だからこそかもしれない。
ふんと鼻を鳴らし、籠を持ち直す。『谷』――村の、しっとりと湿った路をそっと歩いた。ポッター家には恩がある。おつかいくらいなんてことない。
しかも、たかが買い物でも褒めてくれるのだから面映ゆい。
――叔父と違って
ドラゴン革の靴が――イライアスのお古だ――柔らかな地を踏む。これまたドラゴン革のマント――これはイライアスの父、ポッター家の主から譲られたものだ――が霧雨を弾く。被った頭巾から雫が滴り落ちていく。
叔父に褒められた覚えがなかった。にこりともしないし、セバスチャンは叔父が苦手だった。
静かな村中に、セバスチャンが泥を踏む音が響く。湿ったそれは耳障りで、うっかり水たまりを踏めばもっと波立った。
サロウの家にいたとき、セバスチャンの心には細波が立っていた。ホグワーツに行けてほっとしたものだ。いつだってオミニスがいたし双子の妹――アンがいた。叔父を見るたびに、彼が甥姪を引き取る代わりに支払った代償を思わずに済んだ。
セバスチャンだって、叔父が甥姪を引き取って当然だとは思っていなかった。もちろん道義上の問題がある。叔父だって冷血漢ではない。実質的に引き取るしか選択肢がなかったのだろう。
泥が飛ぶ。ズボンの裾が汚れたろう。セバスチャンは唇を噛む。
――たぶん
叔父はセバスチャンたちを引き取らないほうがよかったのだ。
胸の奥底に刺さった針のようなものだった。触っても痛いだけなのに触らずにはいられない。時折気になって、でも抜けはしない。
『あなたとあなたの叔父様は』
耳の底に、柔らかな声が蘇る。綺麗な銀色の眼も。
『どうしても合わないだけ』
この未来には、なるべくしてなったのよ。彼女は囁くように言った。ホグワーツを卒業して、一緒にポッター家に帰ったときだ。ホグワーツ特急の中は噂でもちきりで、ついでにヘクターは機嫌が悪くて、オミニスは沈黙を選び、ギルはくつくつ笑っていて、セラは頭を抱えていた。そりゃあそうだろう。セバスチャンとセラが大変親しい仲なんて噂をとうとう打ち消せなかったのだから。
気まずくて「僕はやっぱりフェルドクロフトに行こうか」と提案したら、叔父とセバスチャンは合わないのだという旨のことを言われたし、罪悪感を持つ必要がないとも言われたのだ。
お人好しだよ。
ぶつぶつ言いつつ、足を動かす。占いにのめり飲むご婦人たちの気持ちがわかる。確信的になにかを言われる――しかもそれが望む言葉なのだ――ということは、とてつもない安心感をもたらす。
しかも、セラは真の先視だ。彼女こそがセバスチャンの運命を変えたのだろうと思っている。セラは口を割らないだろうが。
きっとセラが止めなければ、セバスチャンは叔父を殺していたろうから。
立ち止まる。固く眼を瞑った。ゆるゆると吹く風と、かすかな薔薇の芳香。じっとりと汗が浮かぶ。
「落ち着け」
小さく呟く。自分自身に向かって。
「僕は、」
間違える前に引き返せた。ここはあの墓地じゃなくて、ゴドリックの谷だ……。叔父を貫いた緑の閃光は夢幻、実現しなかった未来だ。
呼吸を一つ数え、二つ数え、三つ数え、セバスチャンは浅く息を吐く。大丈夫だ。僕はあれこれやらかしたけれど、致命的な間違いはしなかった。周りの人間のお陰で。
再び歩を踏む。頭の芯がぐらついた。アンと違ってセバスチャンは、のうのうとポッター家に受け入れられるだけの人間じゃないのだ。アンを呪った運命を憎み、呪いを解こうとするのを無駄なあがきだと言う叔父を……そう、叔父を憎んだ。どうしてわかってくれないのだと思った。あれは確かに憎しみだった。小鬼へのそれよりは数段控えめだったが、どこかに殺意はあったのだ。
だから、セバスチャンは呪文を唱えようとした。禁術のひとつを。いくら遺物に影響されたからといって、しようとしたことは消せない。
『誰しもぐらつくことはある』
影のない人間なんていない、と言ったのはスリザリンの寮監――イソップ・シャープだった。あの事件のあと、それとなく見守られていたのはわかっていた。セバスチャンは問題児だった。だから、卒業の式典が終わったあと、背を叩かれて驚いた。けして優等生ではなかったから。
『周りを大事にしろ。お前のことを思い、止めてくれたのだから』
問題が解決したわけではなかったが、あの言葉に少しだけ救われたのは確かだ。
セバスチャンは自分で助かったわけではない。助けられ、機会を与えられたのだ。叔父に手をかけていればアズカバン行きは免れなかったろうし……もしかしたら、己は悪くないと勝手な理屈をこねていたかもしれない。あまりの罪の重さに耐えかねて。
ありがとうと言っても「なんのことかしら」とセラは言うのだろうけど。お人好しだ。そんな彼女は今頃海の上だろうか。所用でアズカバンに行くのだと言っていた。非番なのに。いや、神秘部のローブを纏って出て行ったから、どうなのだろう……。
意地悪な上役でもいるのだろうか。それで視察かなにかを押しつけられたとか? 新人だし。
振り回されてなきゃいいけど。どこか陰のある先視を思い返していると、風がひょうと鳴った。か細い女の声のようだ。秋の午後で、霧雨で。太陽は隠れていて、つまり冷えている。風もうめきたくなるだろう。
さっさと帰ろうと足を早めようとして、またも風が鳴いた。本当に女の声に聞こえた。
行き交う人などない。商店は通り過ぎたし、用も済ませた。雨のなか好んで外出する者なんてあまり……。
首を傾げつつ、籠を腕にひっかけて、空いた片手は杖に添え、振り返る。アッシュワインダーズの残党やら、小鬼の残党はそこここにいる。さすがに『谷』の近辺では聞かないが。
女がぬかるんだ路に膝を突いていた。セバスチャンは顔をひきつらせた。緊急事態発生である。どうしたものか、とそっと近づいた。こういうときはなんて声をかければいいのだったか。
「どうしました?」
転がり落ちたのはそんな言葉。ポッター家の人々が、怪我や病をかかえた魔法使いや魔女、それに妖精や……ほかの種族に語りかける声。
女の前に膝を突く。上から見下ろせば怖がるのだと、いつかセラが言っていた。
弱り切って、すがるように来た人も多いからと。
「どこか」
痛みますか、と訊いて、女を観察する。すり切れ色あせた外套、顔はは頭巾でわからない。髪はだらしなく伸び、もつれていた。靴もあまりいい状態ではない。
両腕で腹を抱えるようにしている。腹痛の薬はあいにく持っていないなとまで考えて、セバスチャンは唇をなめた。地に突いた膝から、じわじわと冷気がしみていく。
女が抱えた腹。外套でわかりにくいが……。
「……身ごもっておられますね」
女がうめく。肯定と受け取った。
「助けて」
か細い声だった。希望もなにもかも引きちぎられた声だった。
女が俯けていた顔を上げる。雨に濡れ、やつれた面。
「マンゴ……怖くて、ポッター家なら……」
混ざり者をはらんでしまった私を、助けてくれると。
呻きの合間の囁きに、セバスチャンは眼をつぶった。
余計なことは訊かなかった。担架を出現させ、女を抱えるようにする。そっと寝かせ、己の外套を脱いでかけた。
望んではらんだわけではないだろう。忌まれ、追われ、ぶたれ、さまよいたどり着いたのだろう。
きっと女は小鬼に襲われたのだ。
そうして迫害されたのだ。理不尽にも……。
「大丈夫ですよ」
なるべく優しく声をかける。弱った女への接し方なんて知らないが、やるしかないのだ。他人だろうが血がつながっていなかろうが、セバスチャンはポッター家の薫陶を受けているのだから。
「行きましょう。あなたを助けてくれるところへ」
杖を振る。銀色の輝きが杖先から飛び出した。