こんなことなら別の手段を使うべきだった。
潮風に髪をべとつかせ、肌は荒れ、胃は痙攣を繰り返し、足元は揺れている。
船から港へと降り立ったセラは深く息を吐いた。
「……墓所はおろか、小鬼の拠点にまで踏み込んだのに」
まさか船旅がだめだったとは。
くすくす笑いが降ってくる。セラは反駁する気にもなれない。その代わり、面白がっている彼――ヘクターの腕をぎゅっと掴んだ。痛いほどに掴んだはずなのに、ヘクターは声もあげない。嫌なひと。
「セラの勇敢さと」
船酔いどうこうは関係ないだろ。
柔らかく言ったのはギル。セバスチャンは無言。オミニスは鼻を鳴らした。
「心配するなセラ」
俺達は君が吐こうがどうしようが、だ。
オミニスの発言は不器用な優しさゆえか、ただの無神経か、それとも馬鹿なのか考えないことにした。なにせオミニスである。善人なのは間違いないがオミニスである。
――なんで彼らは
十日も船に揺られて平気なのか。
リヴァプールからニューヨークへの旅は、セラにとっては過酷だった。姿くらましでバラけるよりは安全だし、わざわざポート・キーの許可を得るよりは面倒がないはずだったのだ。
マグルの服装をてんでわかっていないオミニスに服を調達してやったり、その他諸々の手配があったけれど。だいたいはヘクターがやってくれたし、オミニスに「お前が想定しているマグルの服装はざっと百年くらい前のものだぞ」と諭していたし。生粋どころか偏屈な魔法族に虐げられて育ったオミニスは、現代マグル――貴族が鬘を脱ぎ捨てたことを知らなかったらしい。仕方のないことだ。
出発前のあれこれに頭が痛くなってきたセラは、ヘクターに呼びかけた。
「休ませて」
一泊して、目的地に行きましょう。
◆
街灯が悪趣味なほど輝き、石畳がてらてらと光っている。あちらこちらから聞こえるのは客引きの声。深く被った頭巾の下からそっと窺えば、しどけなく胸元をはだけさせた娼婦たちがいた。ドレスには深い切れ込みが入っている。セラは目のやり場に困った。結果、なるべく視線を下に向け、己の靴ばかり見るはめになる。
「ただの置物と思えばいいだろう」
「男のあなたがそれを言うわけ?」
同行者もとい付き添いのヘクターに囁く。腹の立つことにヘクターは堂々としていたし、娼婦にも、彼女らに捕まって娼館に引きずり込まれる『客』にも無関心なようだった。
「あんまり色気がありすぎると萎える」
セラは無言になった。なにが悲しくて恋人とニューヨーク版ノクターン横丁の深いところ――歓楽街にいるのか。イギリスから船に乗って吐きながら来た意味はあるのか。
――馬鹿なんじゃないか
うかうかと頼まれごとを引き受けてしまった自分が憎い。
利用されてるだけなんじゃ、と言ったのはセバスチャンだった。アズカバンからポッター家へ帰ってみれば、セバスチャンがぐったりしていた。かくかくしかじかで事情を訊き、セラは大いに褒め称えた。なにせセバスチャンは小鬼を嫌っていた――憎むまではしなくなったが、嫌いなのだろうと思う。それでも妊婦を助け、混ざり子が生まれるのに手を貸したのだ。
セバスチャンが言うほど、セラはお人好しではない。ロドゴクは別にして、小鬼への嫌悪感はどこかにあるのだ。それにならず者だって嫌いだ。嫌いなのだけど。
「私は色気がないって?」
過去から現在へ意識を戻す。今頃イルヴァモーニーにいるであろうセバスチャンたちのことは後だ。おそらく、すんなりと癒やしの樹の雫だか葉を手に入れるはず。
以前から、ちらちらと視えていた「可能性」がやっと現実のものとなるのだろう。アンはもう大丈夫。
「男が胸やら尻ばかりみてると思うなよ」
「あなたは紳士ですとも」
セラは顔を上げ、ヘクターの形のよい唇を見やった。そうですとも、ヘクターとの進展はせいぜい接吻止まりである。相当に我慢しているのだろうと察しているが、未婚の男女二人がどうこうするわけにはいかないのだ。ふしだらで不道徳どうこうというのはマグルの理屈。魔法族の上流が婚前のあれこれを控えるのは、ややこしいことになるからだ。たとえばゴーント家のオミニスと、リアイスの誰それがどうこうして子どもでも生まれるとする。子どもの処遇だの名誉の問題だので下手したら戦である。
ゴーント家の方々は、今頃カンカンかしら。まさかオミニスを連れ戻すなんてしないとは思うけれど。
あれこれと考えながらも、薄汚れた路を行く。なんでも上流もとい富豪御用達の歓楽街はワシントンの『裏』にあるらしい。ニューヨークは小金持ち向けとのことだ。ギルってばさすが北米出身だけあってよく知ってる。まさか少年の頃に……? と疑いの眼を向ければ全力で否定された。
歓楽街に男女二人の姿はよく溶け込んでいた。無用な雑音を省くため、目眩まし呪文を使っている。
声をかけられることもなく、二人は歓楽街の奥、より暗いほうへと進んでいった。
道端にうずくまるのは盛りを過ぎた娼婦だろう。どこかで叫びが聞こえる。取り立てだろうか。
――こんなところにいるのか
靴底がざらつく。奥へ行けば行くほど、建物がみすぼらしくなっていく。華やかに飾り立てる気力を無くしているようだ。装ったとて、ろくな客が来ないのだろう。
うかうかと踏み込んだ愚か者から金貨を奪い取るだけ。
裏の領域には、MACUSAも介入を控えるという。そこまで手が回らないのが実情だろう。ある程度の目こぼしだ。
やがて、とある建物の前で足を止めた。看板の金文字は無惨にも欠け、色褪せている。眼を細め、館の名を読み取った。
あの襤褸布に書かれていた場所と同じ。ルックウッドは嘘をついていなかったし、幸いにも館はまだ存在していた。
ヘクターが古びた扉の、錆びたノッカーに手を伸ばす。鈍い音が二度、三度と響き、やがて軋みながら扉が開いた。
けばけばしい色のローブが見える。
甘い夢を見せる館へようこそ、と言いかけ、魔法使いは二人をみやり、つと眉をひそめた。
「……金貨の工面がまだつきませんで……」
借金まみれらしい。
「取り立てじゃないし、私達は別の用事よ」
頭巾をとる。男は眼を丸くした。
「こりゃ上玉で。一晩いくらになるかな」
どうしましょう、女衒に連れられた哀れな女扱いである。そして女衒ことヘクターから殺気がこぼれている。
ひょいとばかりに杖を取り出すと、ためらいなく男に向けた。
「女主人がいるだろう。案内してくれ」
「やっぱあんたら取立て」
「違うってば」
ヘクターに怯える男に、金貨を何枚か握らせた。
「人のよろしいことで」
さすがお貴族様だこと。
薄暗く、なんとなしに湿った室――いわゆる応接室か――に通され、待つこと十数分。館の女主人が登場し、優雅に嫌味を飛ばしてきた。英国人嫌いらしい。ついでに貴族も嫌い――お高く止まった偽善者は特にというわけだ。
「お客の相手をできる年齢でもないでしょ」
それともどこかに転売した?
軋むソファに腰掛け、セラは女主人の眼を見た、オリーブ色の肌をした、美しい人だ。暗く荒んだ眼をしていなければだが。
転売、の言に女主人がにっこりする。眼だけが笑っていない。北米の魔法族はマグル――ノーマジとの関係を絶っている。だからといって、女主人の祖が受けた屈辱がなかったことにはならないし、ノーマジ出身の魔法使いや魔女たちがもたらす思想とは無縁ではいられないのだろう。より白くあれと。
ノーマジ生まれと生粋の魔法族の格差はあまりなくとも、肌の色の差はある。奴隷売買という忌まわしい歴史の落とした影は濃いのだ。
何度かレパロで補修したのであろう、ひびの入った卓に金貨を積んでいく。
一枚、二枚、三枚……と。どうせルックウッドの「依頼料」からの持ち出しだ。構うまい。
四枚、五枚、とんで十数枚を数えたとき、舌打ちが聞こえた。
「やせっぽちの小娘にそこまでするかね」
「私が引き取ったほうがいいでしょ」
それとも売り物になるまで何年も仕込むの? ああ、畜生みたいなお客にあてがうの? 幼児趣味の……。
「清楚なお嬢さんと思ったけれど」
なんとまあ気が強いし口も回るし悪趣味だ。女主人は息を吐く。
「小鬼やならず者を相手にしてればこうもなるわよ」
なるほどね。女主人はまじまじとセラを見て言った。
「売ってやる」
「お代は?」
「お気持ちで」
厄介なこと。セラはローブのポケットから革袋を取り出して卓に置く。重い音が響いた。
「これで借金を返しなさいよ」
その代わり、どこぞのろくでなしの娘はもらい受けるわ。