【書籍化】 ま! よ! け! の! 塩! (120年分) 作:哀森賢人/哀しみを背負ったゴリラ
洋風の店内には、レコードからジャズが流れ、髭を湛えたマスターがハンドミルで挽くコーヒー豆の香ばしい香りと、日替わりメニューであるブルーベリーケーキの僅かに酸味の有る甘い香りが合わさり、どこかノスタルジックな空気を醸し出している。
怪しい新興宗教の信者達に拳でフルコンボを決める事で、絡まれていた女性──三塚三津子を助け出した二郷は、現在、その三津子からお礼にと強く誘われ、商店街の中程に在る喫茶店の、窓際テーブル席に腰かけていた。
「ああ! 成程、そうでしたか。間宮くんは、東雲さんのお友達だったんですね?」
「あ……ああ、そうなんすよ。同じ高校でクラスメイトやらせて貰ってまして、三塚先生の事もよく聞いてるっす。良い先生だったって」
アイスコーヒーを喉に流し込みながら、微妙に引き攣った笑顔で、『面識が無い』筈の三津子の名前を呼ぶ事が出来た理由を騙る二郷は、その内心では、自身の迂闊さに深く恥じ入っていた。
(くそっ、そりゃあ当たり前だよな。『間宮二郷』の両親でも俺の事を忘れちまってるってのに、元担任が覚えてる筈がねぇじゃねぇか。知り合いムーブして話を無駄にややこしくしやがって……自覚が足りねぇぞ、俺)
間宮二郷と三塚三津子の関係は、そう深いものではない。
少なくとも、二郷自身はそう考えている。
原作の間宮二郷少年としての記憶。そして、間宮二郷となってからの記憶を含めても、半年にすら満たない僅かな期間。
たったそれだけが、共有した時間であり、教師と生徒として過ごした時間であったからだ。
そして、今はその僅かな時間さえも【モリガミサマ】との戦いの果てに、二郷の過去ごと消え去ってしまっているのである。
故に、三塚女史に対して名前を呼びかけるというのは、完全に二郷の失策であった。
アイスコーヒーのストローで氷をかき混ぜながら、羞恥心を誤魔化す二郷に対して、しかし三塚女史はタンポポのような笑顔で言葉を掛ける。
「あの東雲さんが私の事を覚えててくれたなんて、嬉しいですね……えへへ」
「そうっすか? 担任の先生の顔と名前なんて覚えてて当然ですよ。一生続く縁なんスから。もし俺が九鬼子先生とか鵺野先生の生徒なら、多分死ぬ寸前まで覚えてますよ?」
「い、一生って……あはは。間宮くんは随分と教師への感情が、その、深いんですね」
苦笑しつつ、頼んだブルーベリーケーキをスプーンで一口掬い、おいしそうに食べてから、一度大きく息を吐いて三塚女史は続ける。
「……その、東雲さんは今、元気ですか?」
「応、元気です。毎日元気で、俺ともう一人のダチと一緒に、学校に通ってるっす」
「そうですか……良かった」
短い応酬の後、訪れたのは僅かな沈黙。それは三十秒にも満たないものであり、やがて三塚女史は覚悟を決めたように、再度口を開いた。
「えーと、間宮くんが東雲さんとお友達なら、例の『接触禁止』の噂は知ってますか?」
「接触禁止って……ああ」
「……その様子だと、知ってるみたいですね。……そうです、中学の頃までの東雲さんには、関わった人が不幸な事故に遭うって噂がありました。勿論、噂だけなら良かったんですが……実際に、怪我とか事故とかが多発して、ですね」
言い辛い話であるだろうに、それを何とか暗い話題にしないよう、努めて穏やかな口調で語る三塚女史に対して、二郷は内心で逆に申し訳なさを覚える。
それは二郷が、三塚女史が語っている事が、風評の流布でも偏見でもない厳然たる事実である事を、知っているからだ。
【モリガミサマ】の花嫁としての呪い──強大な化物による、東雲四乃への人間関係の断絶。間宮二郷の記憶は凡そ殆どの人間から消え去ったが、東雲四乃に関する記憶や過去は、世界から一切消え去ってなどいない。故にこそ、その呪いの記憶は、未だ関わった者達の心にも深く刻まれているのである。
怪奇現象を知らぬ者達にすら訪れた、この世ならざるモノによる災厄として。
そして──
「本当はですね。私は東雲さんの担任の先生でしたから、そんな噂は嘘だって励まして、大丈夫だって言って、側に居てあげないといけなかったんです。なのに……なのに、ほんの少し。たまたま……たった一回だけ、運の悪いタイミングで『事故』に遭っただけで、私は其れを諦めて、距離をとってしまったんです。責任から、逃げたんです」
三塚女史が無意識に押さえた左腕。その袖の隙間から二郷の目が僅かに捉えたのは、大きな歯形のような傷跡であった。
「東雲さんが入院したって聞いた時も、お見舞いのお花を出す事くらいしか出来なくて、そのまま卒業してしまって──呪いなんて無かった、普通に話しても大丈夫だったんだって判っても……私、謝りに行く勇気すら出せなかったんです……あはは」
困ったような、力ない笑み。己の情けなさを嗤うような、悲しい笑み。
「だから、私は東雲さんには恨まれてるか、覚えてすら貰えていないと思ってたんです……それを、良い先生だなんて言って貰えるなんて……教師失格の私を、覚えてくれていただけじゃなくて、良い先生だって呼んで貰えてたなんて……嬉しいなぁ」
嬉しいと言っているのに、なのに三塚女史の表情は、あまりに苦しそうなものであった。自分の事を許せていない。その感情が。罪悪感が。羞恥心が。自己嫌悪が、深く入り混じった、悲しい笑顔であった。
だから────
「あはは、ごめんなさい。こんな事、初対面の間宮くんに言っても仕方ないんですけど、東雲さんのお友達に、私が良い先生だと勘違いされたままなのは、なんだか苦しくて……」
「────三塚先生」
「はい? ──はえっ!? 間宮くん!? な、何を!」
間宮二郷は思考をするよりも早く、言葉と共に、その両手で三塚女史の左腕を掴んでいた。
掴み、その眼を真っすぐ見つめて、はっきりと届くように言葉を紡ぐ。
「三塚先生は、良い先生だ。四乃ちゃんだけじゃねぇ、俺もそう思ってる。俺は、先生を尊敬してる」
断言するその言葉に、三塚女史は少し体をこわばらせながらも、返事を返す。
「そ、尊敬って……今日、会ったばかりなのに」
「先生は、四乃ちゃんの為に、今日までずっと悩んでくれてたんだろ? ずっと、四乃ちゃんを心配して、心の中で恐怖と戦ってくれてたんだろ? なら、先生として尊敬するのに十分だぜ。俺も、四乃ちゃんも」
「ち、違いますよ……私はただ、臆病で何もできなかっただけで」
「何かしたいと、そう思ってくれてたじゃねぇか」
あの【モリガミサマ】の悪意に襲われても尚、そう思ってくれていたではないか。
そんな、言葉にできない気持ちを込め、二郷が言葉を重ねる度に、論理とは別の何かで解けていく三塚女史の体の緊張。
卑下を重ねるその言葉を遮るように。二郷は三塚女史の左手を握る力を更に強め、体ごと顔を近づけて、告げる。
「それでも。どうしても先生が自分を悪ぃって思っちまうなら────俺が味方する。俺は、頼りないかもしれねぇけど、先生の味方だ。味方であるって、そう決めてる。だから、困った事があれば、何でも俺を頼ってくれ」
……。それは、いつかの教室で。夕暮れの教室で。三塚三津子が間宮二郷へと与えた言葉。
誰かに頼っても良いのだと、他者からそう言って貰える事が少ない二郷が貰った、世界から消されてしまった言葉。ただ一人、二郷だけが覚えている言葉であった。
「頼ってって、名前しかしらない高校生に、そんな事……あ、あれ? あれ?」
「……」
「ど、どうして、涙が……あれ? え、えへへ……ご、ごめんなさい……あれ、あれぇ?」
そんな、知らない筈の言葉に返事を返そうとして。しかし、言葉の途中で、瞳から零れだしてきたものに気付いた三塚女史は、慌てて右腕の袖で流れる雫を拭う。
一度、二度。何度拭っても、次から次へと溢れる涙に、三塚女史は困惑しながら、笑顔を作ろうとして失敗し、やがて、左手を握る二郷の両手に縋るようにして額を預け、声を殺して泣き出した。
堪えて来た後悔が、凝り固まった心が、ようやく溶けだしたかのように。
遠い、消えた筈の思い出が、記憶とは別のどこかに残っていたかのように。
店のマスターが、黙ってコーヒーのお代わりをサービスで出してくれた事にも気づかず、暫くの間、その涙は止まらなかった。
────────
暫くの後。目を赤く腫らしたまま、それでも肩の荷が下りたかのように、三塚女史は照れながら二郷に笑いかけた。
「ご……ごめんなさい。年下の子の前で、先生なのに恥ずかしい姿を」
「いや、泣いて過去を整理できんなら、その方がいいだろ。あんまし過去に囚われてると前進できねぇって、敬愛する花岡隊長の至言だぜ」
「え? 隊長って……間宮くんの知り合いの方ですか?」
「おっと──ゆうやみ特攻隊の話に興味お有りですかねぇ!?」
「い、いえそれはまた今度……ふふっ」
今日一番の気持ち悪い喰いつきを見せた二郷に、軽く引いてから……しかし、ついつい笑ってしまう三塚女史。
好きなホラーバトル漫画について語れなかった事で、若干肩を落としている二郷に対して、三塚女史は少し遠い眼をしながら、微笑んで声を掛ける。
「間宮くんは──私の大切な人に、どこか雰囲気が似てますね」
「んあ? 大切な人? 恋人っすか?」
「ち、ち、ち、違いますよ!? お付き合いした事なんて一度も──って何言わせるんですか! 先生をからかわないでください!」
「え。す、すんません……?」
本当に困惑した様子の二郷を前にして、自身の過剰反応であった事に気付き、頬を少し赤らめつつ、咳払いをして三塚女史は続ける。
「似てるのは、私のお姉ちゃんにです。小さい頃の私を、いつも守ってくれて。お母さんが仕事で居なくて眠れない夜は、子守唄を歌って寝かしつけようとしてくれて……ただ、ちょっとだけズレていて、歌ったのが気味の悪いわらべ歌で、私が泣いちゃったりもしたなぁ」
「家族っすか……いいですね」
二郷が優しく目を細めたのは、間宮二郷少年の両親の事を思い出したからだ。
不登校であった二郷を、それでも見捨てる事なく見守ってくれた優しい両親。
もう、取り戻せない大切な陽だまり。
そんな二郷の共感に、本当に嬉しそうにしながら三塚女史は言う。
「はい、本当に。お姉ちゃんは、いつも私の手を引っ張ってくれて、誰の悩みも笑わず真剣に聞いてくれて、皆から慕われて……少し、頼みごとを断れない所がありましたけど、それでも自慢のお姉ちゃんでした」
「……はぁ、羨ましい。そのお姉さんは、
「ふふ、なんでその職業の二択なんですか」
そして、二郷の妄言にくすりと笑ってから、少しだけ……もう完治した古傷が疼いたかのように、三塚女史は笑顔を僅かに曇らせつつ、それでも優しい声で言った。
「ごめんなさい。最初に言っておいた方が良かったですね。お姉ちゃんは……亡くなってます。四年前に、私のお母さんを連れて病院に向かう途中、交通事故に巻き込まれて」
「あ……いや、悪ぃ。そいつぁ、俺がデリカシーに欠けてたぜ……」
「いいんですよ、もう昔の話ですから。私も、気持ちの整理はついてます」
気まずそうに謝罪する二郷に対し、苦笑しつつそう言いながら、三塚女史は胸元のポケットから財布を取り出し、そこに挟んであった古い写真を二郷に見せる。
「ほら、綺麗な人でしょう? 本当に優しいお姉ちゃんで……間宮くん? どうしました?」
取り出された写真。
其れを見た直後、目を見開いたまま動かなくなってしまった二郷に対し、心配をして声を掛ける三塚女史。
そんな三塚女史の声に反応し、二郷は先程までとはまるで違う、硬く……そして、震えた声で言葉を返す。
「……な、なあ。先生」
「はい?」
「その、亡くなった先生のお姉さんってのは、なんて名前だったのか、聞いてもいいっすか?」
「お姉ちゃんの名前ですか? お姉ちゃんは、お母さんが違う父の連れ子で、ずっと母方の姓を名乗ってましたから、私とは苗字は違うんですけど……綺麗な名前でしたよ。私の名前が昔っぽいから、羨ましかったなぁ」
そして。思い出を振り返るように、穏やかな笑顔を浮かべながら、三塚三津子は言った。
「お姉ちゃんの名前は────笹島三那です」