【書籍化】 ま! よ! け! の! 塩! (120年分) 作:哀森賢人/哀しみを背負ったゴリラ
「クソっ、一体、何がどうなってやがんだよ……!?」
夕暮れの商店街。闇に飲み込まれる直前の赤い光景の中を、間宮二郷は歩いていた。
ふらつく足取りで、ぶつぶつと呟いているその姿は、まさに不審者そのもの。買い物客からも距離をとられ、冷たい視線を向けられており……しかしそれを気にする余裕など、今の二郷には無かった。
「笹島先生が、四年も前に死んでる? ンな事が、ある訳ねぇだろうが……!」
自分に言い聞かせる為の、必死な言葉。
二郷が思い返すのは、邂逅から現在までの間に、三那が見せてきた日常の姿。
不良達を打ち倒した後で声を掛けて来た時の、ロッカーと壁の隙間で震えていた姿。
二郷が怪異の理解者であると聞いた時の、心から安堵した表情。
友達がいないのだと。職員室で孤立しているのだと独白した小さな声。
羊羹一つにこだわっていた、ほほえましい器の小ささ。
四乃と五辻レイに見せてた、教師としての気遣い。
そして何より、生徒達に対して向けられていた愛情と、生徒達から向けられていた信頼。
聖人君子ではなかった。清廉潔白でもなかった。けれど、二郷から見た笹島三那という存在は、確かに人間であったのだ。
記憶の中の彼女は、決して化物などでは有り得なかったと、今でも二郷は信じているのである。だからこそ──
「なのに──なんで三塚先生は、嘘を吐いてなかったんだよ……!」
思わず叫んでしまった事で、更に集まってしまった奇異の視線にも気付かぬままに、二郷が思い浮かべるのは、喫茶店で三塚女史が取り出して見せてくれた写真。
そこに写っていた、三塚女史の隣で笑顔を浮かべている人物は──年齢こそ二郷の記憶よりも若いものの、間違いなく笹島三那であった。
『間宮くん……悪い冗談で言ってる訳じゃないなら。もしもお姉ちゃんに会ったっていうのなら、でもそれは、ただのそっくりさんですよ。結構、大きな事故だったんですから。お姉ちゃんの遺体は、お母さんと混ざってしまう程に……あはは』
思い返す、別れ際の三塚女史の言葉。あの悲しそうな表情には嘘など感じられなかった。
何より、三塚女史が二郷に嘘を吐く理由もなかったのだ。
挙句の果てに、二郷がほんの数粒だけ出した『魔除けの塩』。心苦しく思いながらも、二郷がそれを密かに混ぜたコーヒーを飲ませたというのに……化物相手であれば毒物に等しい其れを呑んでも、三塚女史には何の異常もなかったのである。
つまるところ。彼女の方は、間違いなく人間だったのだ。
そうであれば、答えは一つしかない。
死者が蘇り彷徨っている。それに似たような現象が起きているとするならば、それを齎す存在は、怪異、妖怪、悪魔、幽霊、化物──この世ならざる超常に他ならない。
故に、確かめなければならない。調査しなければならない。
真実を。
その為に、二郷は、三那の住む団地に向けてその歩を進めようとして──
「……そんで、調査して、暴いて。その後どうすんだよ、俺は」
その足は徐々に重くなり……とうとう、止まってしまった。
「『テメェの正体は何だ。死んでる筈だ、バケモノはくたばりやがれ』って……そう言うのか? バケモノだったら、笹島先生を、ぶん殴って塩撒いて、除霊すんのか……?」
現状で、怪異【ツリクイ】の排除は終わっていると、二郷はそう考えている。
以前に【モリガミサマ】と対峙した時は、東雲四乃の死という明確な危機が間近に迫っていた。故にこそ、彼女の実家に押し入り家族を恫喝するなどという、犯罪に片足どころか両足を突っ込む様な真似が出来た。
だが、今回は違う。明確に見える、差し迫った危機が無い。
「……なら、もう良いんじゃねぇか? 目ぇ瞑って、何も知らなかった事にしても」
漏れ出た言葉は、あまりに間宮二郷らしくなく、あまりに力無いものであった。
『さかさネジ』の原作では四人の犠牲者が出た。それを、今回は被害者を一人だけに抑える事が出来た。それも、一人の死者も出す事なく解決できたのだから、それでいいのではないか──二郷は、そう考えてしまう。
笹島三那を敵と見做さず、現実から目を逸らしてもいいのではないかと。写真は、唯の他人の空似という事で良いのではないかと、そう考えてしまったのである。
何故ならば、そう思い込まなければ、笹島三那を……怪異として処理しなければならなくなるからだ。
見て見ぬふりをする。見なかった事にする。知らなかった事にする。
仮に……間宮二郷が敬愛している数多の物語の
躊躇いはするかもしれない。第三の選択肢を見つけ出そうとするのかもしれない。
けれど、それがどれだけ辛くとも、思考を止めて目を背ける事だけはしなかった筈だ。
「そうだな……何日か様子だけ見て、それで決めよう」
であるのに、今宵、二郷は彼の最大の武器である『行動する事』を躊躇った。
心の中の主人公達に、胸を張れる行いを選べなかった。
過ごした時間が、判断を誤らせた。
故にこそ──
────────
──三日後。
間宮二郷の姿は、一年C組教室に在った。
何の変哲も無く。異変も無く。日常は穏やかに、只々続いている。
「よーし、ここの文法について尾張、答えろー」
「はーい」
午後の日差しの中で、教卓の前に立ち授業を行っている笹島三那の姿。
猫背気味の姿勢と、高身長かつメリハリの有る体つき。そして、気だるげな態度は、二郷の眼で見ても異常は無く、とても怪異であるなどとは思えない。
(やっぱし、どう見ても人間だよな……)
相変わらずの寝不足のせいか、ぼんやりと霞がかかったような思考で三那を眺める二郷。
そんな二郷の視線に気づいた三那は、何を勘違いしたのか、他の生徒には見せない、にへらとした笑みを浮かべながら手を振ってきて……それを見て、示し合わせたように周囲の視線は二郷に向き、無駄に居た堪れなくなる。
「まみや君、先生と何かあったの? あやしいなー!」
「ははは俺はいいと思うぞ! 年の差も!」
嗣原と重音ガ、いつもの様に笑顔で二郷に語り掛ける。いつも通りの光景だ。
教室の中には喧嘩や口論もなく、青く爽やかで活力に満ちた、何の変哲もない日じょうだ。
「……間宮くん、デレデレしないで」
「おやおや、間宮君は僕というものが有りながら、やはり胸という吸引力には逆らえませんか」
「いやいや、デレデレとか意味わかんねぇし、俺は胸派じゃねぇよ……」
東雲しのト、五辻れいも、いつも通りだ。
両腕に絡みつく二人を器用に解いてから、二郷は嘆息する。
(ああ……ここ三日間観察したけど、やっぱし何一つ異常はねぇな。そうだ。やっぱし何かの間違いだったんだ。笹島先生が死んでて、正体はバケモノだなんてよ)
視線の先では和梨が、三那が黒板に書いた問いに対する回答をミスし、三那がそれに対して正答を懇切丁寧に解説している。そうだ、本当に何の変哲もなイ日常だ。
(偶然の、他人の空似。そっくりさん。もしくは、本人も知らねぇ生き別れの双子だったりするのかもな。笹島先生は、人間だ。そうに決まってる。ああ、安心した)
与えられた安堵の感情と共に、漏れ出る溜息。
霞む視界を右手で擦りつつ、二郷は欠伸をして、襲い掛かって来た強い眠気に抗えず。机に伏した。
──────―
その翌日も、更に翌日も。やはり異常は無かった。
何の変哲もないただの変わらぬ日常だ。穏やかな日常だ。当たり前の日常だ。
「まみや君、お弁当作って来タから食べよう?」
「ボクも、作ってきましたよ。料理はとくいですから」
長い黒髪の少女。
肩口までの黒髪の少女。
二人の少女に差し出される弁当。周囲の男子たちから向けられる羨望の視線に、しかし自身が主人公ではないと思っている二郷は、居た堪れなさを感じていた。
けれど、友愛の印であると自身に言い聞かせていルが故に、それを断るという選択をする事もできず、口に含んで蜜の味が良く効いた、蕩けるような舌触りの其れを飲み込む。
「おう、サンキューな。今日も美味いぜ」
満面の笑顔で喜ぶ二人に対して、歩み寄って来た笹島三那は、机の横に立ち、弁当をじっと見つめてくる。
「おー、美味そうだなー……」
「いや、やんねぇぞ。先生も自分の弁当あンだろ?」
「それが、半額弁当を狙っていたらあっという間に売り切れてなー。今日は味噌と羊羹だけなんだ」
「偏食ってレベルじゃねぇな!? ……だあっ、もう! 二人とも、先生に分けてやっても良いよな!?」
笑顔で了承する二人を見てから、二郷は三那へと弁当のおかずを取り分ける。メープルシロップのような香りのするそのおかずを、三那は喜んで食べていた。
この日も、何事も無く、何の変哲もない日常は過ぎ去った。
────────
何日経っただろうか。相変わらず、代わり映えの無い何の変哲もない日常は続いてイる。
朝の陽ざしの中、蜜の甘い匂いが漂う教室の中で、間宮二郷はたくさんの友人達と雑談を交わしていた。
「それでよぉ、そんな状況なのに横島さんは言ったんだよ。あの煩悩の塊みてぇな横島さんがだぜ!?」
「すごい」
「すごい」
「かっこいいね」
「おもしろいね」
「たのしいね」
「ゆかいだね」
皆心からの笑顔を浮かべ、自身の話を聞いてくれる事に、二郷は嬉しくなる。
自身のホラー少年漫画趣味をこうまで真摯に聞いてくれる相手は、少ないからだ。
初めは距離を感じていたクラスメイト達ともすっかり打ち解け、二郷はすっかり真っ当な学生生活を満喫していた。
「間宮―。雑談もいいが、そろそろ授業の時間だから準備するんだぞ」
「あ……うっす」
少し呆れたような声の笹島三那に、頭に手を置かれて、自身が時間を忘れて夢中で語り過ぎていた事に気付き、少し顔を赤くする二郷。
そんな二郷に対して、左右に立つ二人の黒髪の女子が、慰める様にして腕を絡めてくる。
「おまっ……やめねぇか! 嫁入り前なんだから、慎みを持ちやがれ慎みを!」
先程注意をされた事もあり、照れ隠しも交えて、その手からするりと抜け出る二郷。
校庭では、体育の授業中の学生の声が響き、相変わラず梅雨の湿った空気が肌をなぞる。
窓枠には、蝸牛がゆっくりと這いまわっていた。
そうして今日も、何事も無く、何の変哲もない穏やかで平穏な日常が過ぎていく。
この平穏は崩れる事無く、代わり映えの無い、怪異など存在しない毎日が、間宮二郷の人生にはずっと続いていくのだ。
二郷は幸せを感じながら、これからもずっと、それを享受していくのである。
…………。
……。
「あン?」
──不意に、廊下から漂ってきた何かの香りが、鼻の先を擦った。
纏わり付くような蜜の甘い匂いではない。
懐かしさを感じるような、それでいて官能的な香りだった。
「んー、どうした間宮?」
「あ、いや。すまねぇ、ちっと廊下……トイレ行って来るぜ」
「おー、もうすぐ授業だから、早く済ませて戻れよー?」
「あいよ、了解だ」
特に理由も無く、トイレに行くなどと言ってしまった二郷は、自身が無意味な嘘を吐いてしまった事に疑問を感じつつも、級友達の視線を背に感じながら教室のドアを閉めた。
「うげぇ……廊下に出ると、流石に蒸し暑ぃな」
朝の廊下は、教室から追い出された熱気と夜の間の湿気が堆積した、不快な空気を湛えている。
窓枠を這うナメクジや蝸牛を尻目に、やけに長い、人の気配も話し声も聞こえない廊下を、二郷が額の汗を拭いながら、香りを辿って進んでいくと……。
「ん? なんだありゃあ……ひ、ひいいいいっ!?」
『其れ』は居た。
廊下の奥、その暗がりの中に……この世ならざるモノがいた。
日の光が届かぬ闇の中に、白色の笑顔を浮かべた『何か』が居た。
ここ暫く、目にすることがなかった、化物。
この蜂蜜のような日常の中に、存在してはいけない異物。
それを見て、間宮二郷の根幹にある【赤いヒトガタ】への恐怖の記憶が蘇り、頭にかかっていた靄の様な眠気が一気に晴れる。
「く、くそっ……バケモノが! だあっ、な、なんで除霊道具を一個も持ってねぇんだよ俺は!?」
こんな時に限って、水晶も、数珠も、経文も。怪異対策の道具を何故か一つも持ち合わせていない事に気付き、悲鳴をあげる二郷。無意識に、一歩、二歩と、震える足で後退してしまう。
(と、とにかく逃げねぇと……!)
しかし、二郷が後退するのに合わせて、白い顔は接近してくる。
このような化物相手に安易に背を晒せば、どのような目に遭うか判らない。二郷の経験が、そう語っている。
故に、恐怖に頬を引き攣らせながら、それでも、解決策を求め、生き残るために思考を加速させる二郷。
その時であった……そんな彼の背後から、声がしたのは。
「おーい、どうした間宮―。もう授業はじまるぞー。戻ってこーい」
笹島三那の声。
二郷が反射的に振り返ろうとすると、しかし今度は眼前の白い顔が言葉を発した。
『 らえ ちらへ こちら 』
無機質な声に肌が泡立つ。二郷の本能が告げている。眼前の化物は、並の化物ではない。魅入られれば、逃げる事など叶わないであろうと。
ならば、答えは決まっている。やるべき事は決まっている。
二郷がするべきことは、三那を抱きかかえて、一刻も早くこの場から逃げ去る事だ。
わき目も振らず、全力で逃げ去る事である。
だから。間宮二郷は、一歩踏み出した。
────白い顔の、化物の方へと向かって。
「おい、何をしてるんだ間宮ー、そっちは危ないぞ。先生が守ってやるから、早くこっちへ来い。一緒に逃げるんだ」
「は、はは……気ぃ使ってくれてるのに、悪ぃな先生……どうも俺、頭がおかしくなっちまったみてぇだ」
涙目で、震える声でそう答える二郷。
恐怖で心臓は暴れ、呼吸も乱れ、もはや過呼吸寸前である。
にも拘わらず、二郷は更にもう一歩。三那ではなく化物の方へと向けて、歩を踏み出す。
耳に届くのは、焦ったように背後から駆けてくる、笹島三那の足音。
「間宮──」
「だってよお、こいつから……白檀の香りがしてるんだ」
そう言って、最後の一歩。白い顔に。白い、笑顔が描かれた仮面に向けて踏み込むと────眼前で、その仮面が砕けた。
そして、砕けた仮面の奥から現れたのは。
現れ、二郷を抱き締め、二郷の背後に居る筈の三那へと向けて言葉を発したのは。
「────やあやあ、どうも。寝坊している二郷君を、夢の中にまで甲斐甲斐しく起こしにきました。二郷君の、都合の良い女です」
瞬間。白い光が満ち──
────────
間宮二郷が目を覚ますと、その眼前に顔があった。美しい少女の顔だった。
そして、少女のその顔は。その唇は。間宮二郷に重なっており────深く、舌を絡めていた。
「んぐうっ!?」
とっさに距離を取ろうとする二郷であったが、少女の腕は二郷の首と胴に絡みついており、更には脚まで使って纏わり付いている。
振り解くためには加減無しの力が必要で、しかし少女に対して暴力を振るう訳にもいかず……故に、未だ状況の理解が出来ていない二郷には、目を白黒させる事しか出来ない。
そうしていた時間は、果たして刹那か永遠だったか。
……やがて、キスをしていたその少女──五辻レイは、一際舌を深く押し込んでから、次いで勢い良く。まるで魚でも釣り上げるかのようにして、その頭を上げた。
「────んぐ、ごぽあっ!?」
二郷の喉から漏れる声。抜け出ていく舌の甘い味。そして、その後に訪れた、生臭い大きなものが自身の喉を抜けていく感覚。
反射的な吐き気を覚えつつも、自身の喉奥から抜け出た『何か』……五辻レイが舌先で絡め、捕え、引き摺りだした『其れ』へと、二郷は視線を向ける。
「……!?」
重力により床に叩きつけられた『其れ』の外見は、例えるのであれば、拳程の大きさのナメクジであった。それも、羽の様に人間の指を無数に生やし、触角の先端には昆虫のような複眼があるという、異形のナメクジだ。
床に落ちたナメクジは、生えている無数の人間の指を足の様に利用して、その場から逃走しようとしたが、五辻レイの靴下を履いた足が、即座に其れを踏み潰した。
「ごぼっ、うげぇ、おえええっ……!!」
「おはようございます。随分お寝坊さんでしたねぇ、二郷君。お陰で、健気な僕は待ちきれずに、迎えに行ってしまいましたよ」
「げほっ、ごほっ……れ、レイちゃん……!? 一体、何をして……つか、何でキス……?」
「乙女に恥ずかしい事を聞かないでください──などとロマンチックに言っても良いんですが、残念ながら必要に駆られての事です」
五辻レイは、先ほどまでナメクジの化物を踏みつぶしていた足を上げ、汚れた靴下を片方だけ脱ぎつつ言葉を繋げる。
「キスの理由は、先程ご覧になったとおり、二郷君の中に居座っていた不快害虫を物理的に駆除するため。そして、いよいよ時間の猶予が無くなったからです」
「は、はあ? 時間って何の事だよ……つか、ここ俺の部屋だよな? さっきまで教室に居たよな、俺……?」
未だ状況が全く理解できていない二郷。
五辻レイは、そんな二郷の前で椅子に座ると、足を組み、いつもの通りの胡散臭く、気味の悪い笑みを浮かべながら、返事を返す。
「良いニュースと、悪いニュースをお話しましょう」
人差し指を上に向ける五辻レイ。
「良いニュースは、先程まで僕がしていたキスの連続時間は六時間、多くの同年代男女の累計キス時間を上回りました。おめでとうございます。流石、二郷君。さすにごです」
「ろくっ……!? いや、今要る情報かそれ!?」
口に手を当て、思わず赤面する二郷。
そんな二郷を楽しそうに眺めた後、五辻レイは薄く目を開き、夜の沼の様に暗い、光の無い瞳を見せて続ける。
「悪いニュースは、二郷君が三塚先生とお会いになったと聞いたあの日の夜から、二郷君が眠り続けた三日間。その間に────東雲四乃さんが【ツリクイ】に連れ去られました」
その言葉を聞いた間宮二郷は、蒼白になり固まった。
悪夢はまだ、終わっていない。