【書籍化】 ま! よ! け! の! 塩! (120年分) 作:哀森賢人/哀しみを背負ったゴリラ
黒色の黴や苔が生え、所々罅割れている壁面。砂と泥で汚れた窓ガラスや金属製の手すり。
夜闇の中に在って尚、薄気味悪い存在感を示す、巨大なコンクリの塊。
D13棟──十年以上前に焼失した筈のその建物は。在る筈のない、在ってはならないその建物は、しかし奇怪な事に、雨空の下で確かに其処に存在していた。
そして、そんな存在しない筈の建物の一階の共同廊下を、間宮二郷は、自身を鼓舞する為に握った拳をその胸に当てながら。五辻レイは、そんな二郷のシャツの裾を右手で掴みながら、早足で進んで行く。
「チッ……思い返してみりゃあ、出会った時からおかしな事だらけだったんだよな」
背後の五辻レイの気配を幾度も確かめつつ、反響する自身の足音にすら恐怖を感じ、体を震わせながら。それでも、怪異と対峙する為の心の麻酔である狂気を失わない様に──恐怖に完全に呑まれない為に、敢えて大きめの声で語る二郷。
「そもそも、笹島先生がバケモノに気付いて怯えてたって話なら──どうして俺なんかに頼るんだって話だよ。 まずは、専門家に声かけるのが普通の発想だろうが。 例えそいつが、本物でも偽物でもよ」
「おや……成程。確かに、それは奇妙な話ですね。子供であればともかく、成人した女性であれば、霊能者を名乗る方を探し、見つける事程度は出来るでしょうから」
この世界には、化物が居る。本来、その存在を認識できる者は少数であるのだが……しかし、五辻レイの返答のとおり、それとは関係なく、『霊能力者を自称する人物』は数多く居るのだ。
その大半は偽物か詐欺師ではあるのだが、そんな事が見た目で判る筈がない。
嘗て【モリガミサマ】に取り憑かれたばかりの頃の四乃が、東雲家の人脈を用いて、多くの霊能力者や払い屋を名乗る者達に助けを求めようとしたように……普通の大人であれば、まずは名前だけでもプロと名乗る者を頼ろうとするのが筋であろう。
「なのに、笹島先生は俺に縋って来た。まるで……初めから、俺しかいねぇって判断してたみてぇにな」
思い返すのは、笹島三那の必死の表情。追い詰められ、潰れそうで、縋る者の居ない、助けを求める者の顔。
ホラー少年漫画の主人公に脳を焼かれている二郷は、メリットデメリットの計算こそしたものの、その助けを求める声を疑う事はしなかった──否、出来なかった。
けれど、それが……その助けを求める声こそが、最初から誘いの為の、二郷と四乃を目の前に引きずり出す為の、釣り餌であったとしたら?
「それに、まだ奇妙な事はあるぜ。このD13棟に……笹島先生の部屋に、俺は今まで何度か通ったんだがよ。その間、一人も見てねぇんだよ」
「二郷君が女性の部屋に通い詰めていた事に対しては、言いたいことはありますが──見ていないとは、一体何をでしょうか?」
「────生きてる人間の姿を、だ」
口端を引き攣らせたようにしながら、震える声で答える二郷。
「有り得ねぇだろ。これだけ大量に建物が立ち並んでるってのに、夕方の、会社員とか学生が帰宅する時間帯だってのに、男も女も子供も年寄りも、ただの一度だって姿を見かけた事がねぇなんてよ」
言葉にする事で、まるで脳を覆っていた霧の残滓が晴れていくように、矛盾が次々と浮かび上がる。
「生活音はして、窓には電気も点いてて、料理の臭いすらしてたんだぜ? なのに、人間はいねぇ……それじゃあまるで、俺を騙して誤魔化す為に、異常を感じさせないために、準備万端に舞台がセッティングされてたみたいじゃねぇか」
辛そうに、苦しそうに、事実を確認するための言葉を吐き捨ててから……そして、二郷は立ち止まった。
後に続いていた五辻レイも、二郷の背中に軽くぶつかり足を止める。
響く靴音はなくなり、訪れるのは静寂。
黴臭いコンクリの廊下には、二人の息遣いだけが残り──直後。
「────うひいっ!?」
漏れ出たのは、まるで首でも絞められたかのような、二郷の情けない恐怖の悲鳴。
だが……今回ばかりは、それも仕方のない事だと言えよう。
何故ならば、建物の共同廊下を照らしていた頼りない蛍光灯と、周囲の部屋の小窓から漏れていた灯り。
その全てが……唐突に、一斉に消えたのだから。
一三三号室。
二郷の眼前にある一室。
目的地である、笹島三那が住んでいる筈の部屋。
何故か僅かに開いている、その部屋の金属扉から漏れ出ている、橙色の光を除いて。
「……っ!!」
異常事態。余りに明瞭で、余りに露骨で、余りにわかり易い怪奇現象。
それを前にして、間宮二郷の、『青年』のトラウマが──『赤いヒトガタ』への恐怖の記憶が鮮明に蘇る。
怖い。恐ろしい。
悍ましい。耐えられない。
関わりたくない。逃げてしまいたい。
そんな風に溢れ出る負の感情の奔流により、恐怖に負けた二郷のその足は、一歩後ろに──
「っ──糞があっ!! 間宮二郷! 夜分遅くに、失礼っ!! しまああぁぁ────ぁぁっす!!!!」
下がらなかった。
むしろ、派手に音を立て、勢いよく──扉の蝶番が軋む程に強く。
間宮二郷は、まるで恐怖を押し潰すかのように、部屋の扉を叩き開いて見せた。
背中にそっと添えられた、五辻レイの手のひらの温度。
そして、攫われた少女を前にして逃げる姿など、記憶の中に居る漫画の主人公達に見せられないという、狂信。
なにより──己の不甲斐なさで、東雲四乃を危機に陥らせてしまっている事への……そんな情けない自分自身への、強烈な怒り。
それらが、恐怖の中で、間宮二郷が折れずに前へと進む事を可能としたのである。
────────
踏み入った、笹島三那の住む団地の一室。
それは、以前に何度か二郷が訪れた際には、確かにごく普通の物件であった。
昭和レトロ、というよりも、昭和で時が止まってしまったような古めかしい内装。それでも、そこには生活の跡があり、人のぬくもりが存在して居た。少なくとも、二郷の目にはそう見えていた。しかし
「──んだ、よ。コレ」
今、二郷の眼前に広がる光景は、記憶とはまるで違ってしまっていた。
呼吸する度に鼻を刺すのは、甘く煮詰めたような腐敗臭。
黒黴に覆われ、腐り剥がれた壁紙と、所々、穴が開いてしまっている床と天井。
そして……その空いた穴から入り込み、這い回っている、無数のナメクジや蝸牛、蠅といった害虫達。
明らかに長い月日を経た廃墟であるにも拘わらず、しかし何故か蛍光灯の橙色の光だけは明滅しながらも廊下を照らしている。
「なんで、こんな異界みてぇになってんだ……俺が来てた時は、普通の」
「恐らくは、二郷君の中に住み着いていた、不快害虫のせいでしょうねぇ」
呆然と乾いた声を出していた二郷に対して、五辻レイは興味深そうに周囲を眺め見つつ、そう答える。
「不快害虫って……あのナメクジとか蝸牛みてぇな奴か? アレは、俺を眠らせる為のモンだったんじゃ……」
「いいえ? アレはその程度の可愛らしいものではありませんよ」
五辻レイは、視線を二郷へと戻すと、一歩近づいてその喉へと指をゆっくりと這わせる。
「二郷君は、宿主の行動を操る寄生虫についてご存じですか?」
「あ? ……ああ。確か、ハリガネムシとかか?」
「ご明察です」
突然の問いに戸惑いながらも、五辻レイの指を手で掴んで、自身の喉から遠ざける二郷。
五辻レイは、それに対して少し残念そうに肩を竦めてから言葉を続ける。
「繁殖のために、カマキリを水へと沈めるハリガネムシ。蟹を雌化させ、自身を守り育てさせるフクロムシ。蝸牛を日の下へと誘導し、触角を異形に変形させて鳥に捕食させるロイコクロリディウム。この様に、寄生虫の中には、宿主から行動の主体を奪うものが数多くいます」
そう言うと、五辻レイは、懐から取り出した鉛筆で這い回る蝸牛の一匹を突き刺して、それを二郷へと近付けて見せる。
鉛筆に串刺しにされたその蝸牛の触角は──奇妙な色に変形し、肥大し、何より、蠢いていた。
「うおおおっ!!? い、いきなり何しやがるレイちゃん! 流石にこの距離は気持ち悪ぃぞオイ!!」
「はい。ですが、鳥にとってはコレがご馳走に見えるんです……そうなるように、宿主を作り変えるんですよ。心も、体も」
そこまで言われた事で、初めて二郷は一つの可能性に辿り着いた。そして、恐る恐る、思いついたその可能性について、五辻レイへと確認するために口を開いた。
「いや……おい、待て。って事はあの蝸牛モドキは」
「そうです。二郷君に、この団地が正常であると誤認させ、異常性を感知出来なくし、この部屋が普通の部屋に見えるよう、知覚を改竄していた……。つまりこの部屋は、今見えているこの光景こそが現実で、二郷君は、寄生した不快害虫によって、最初から偽物の平穏を見せられていたんですよ」
五辻レイのその言葉と、蠢く鉛筆に突き刺された蝸牛を見て、二郷の顔が蒼白になる。
何故ならば、今しがた五辻レイから聞いたその内容が真実であるとすれば、この団地に通い、語らい、時に飲み物や料理をご馳走になった日々──その意味が、悍ましいものへと反転するからだ。
「僕が用いるような霊的な洗脳操作ではなく、極めて物理的な思考の改竄であった事が、二郷君にとって不利でしたね。体内に潜まれてしまえば、あの『塩』を自分で飲みでもしない限り、時間を掛けて脳が──」
「レイちゃん。そいつぁ、いつからだ」
「はい?」
五辻レイの言葉を遮るようにして、二郷が口を開く。
それは、恐怖とはまた別の固さを持った言葉であった。
「俺は、いつから寄生されてたんだ」
「……」
「頼む、教えてくれ」
真剣な二郷の言葉に対して、五辻レイは一度黙り込み思考してから、やがて、ゆっくりと言葉を返す。
「不快害虫の大きさからみて、恐らくは、二郷君が高校に転校してきた直後かと」
「……そうかい」
その言葉を受け止めた二郷は、そこから言葉を繋げる事は無く、ゆっくりと室内の廊下へと歩を進め始めた。腐った床板が軋む音も気にすることなく、前へ前へと歩を進め──やがて、当然の如く其処に辿り着いた。
閉まった襖────リビングへと繋がっている筈の襖。
笹島三那と間宮二郷が、幾度かの日常を過ごした空間と、今、二郷が立っている廊下の、境界である襖に。
「……っ」
間宮二郷は、冷や汗を流し、手の震えを、無理矢理に力を込める事で誤魔化しながら。
恐る恐る、襖の引き手を持ち────そして、勢いよく其れを開いた。
黒く腐り果て、風化した壁紙。
卓上に置いてあるケトルの模様は、ヘドロのようなもので見えなくなっており、壁際に置かれている、桐箪笥であっただろう物体は、その半分が腐り果て、羽虫が集っている。
ダイヤル式の黒電話は、大きく砕け、更に電話線が切断された、無惨な状態で床に転がっていた。
全てが変わってしまったその光景。
全てが終わってしまったような光景。
しかし、その光景の中に────
「おー。こんな時間にどうしたんだ間宮と五辻ー。幾ら先生と生徒とはいえ、女の家に夜遅くにアポなし訪問は悪い事だぞー」
笹島三那だけが、何も変わらずに其処に居た。
ナメクジの這う机の前で、椅子に腰かけ、何時もの様に女性用のスーツを着込んで。まるで異常など何も無いかの様に、困ったような、それでいて歓迎するような笑みを、二郷へと向けていた。
そんな三那を前にした二郷は、一度大きく息を吸ってから、やがて覚悟を決めたかのように、口を開く。
「悪ぃな、笹島先生。玄関でクソでけぇ声で呼んだけど、返事が無かったからよ。勝手に上がらせてもらったぜ」
「んー? テレビの音が大きすぎたかー? まあいいさ。折角だ、今日はもう遅いし、夕食でも食べていくといい。五辻も一緒に──」
「いや、悪ぃが遠慮しとく。今日は別件で用事があって来たんだ」
古めかしいブラウン管式のテレビが流す、不快な砂嵐の音が響く中。
二郷が急に自分の言葉を遮った事に、不思議そうに首を傾げた三那に対して、二郷は、懐から経文を、ポケットから十字架を出すと────
「────笹島先生。東雲四乃ちゃんを、返せ」
はっきりと。迷わずに、そう言った。