中央諸国の小さな村に人と共に生きる奇妙な魔族がいた。

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平和の魔族とリンフィロモニア

勇者ヒンメルの死から23年後

中央諸国

聖都シュトラール郊外

 

僧侶ハイターの暮らす家の寝室でフリーレンは毛布を跳ね除け、足を投げ出して熟睡していた。

そんな夜更けにそっと自分の手を引かれて、ねぼすけのフリーレンは珍しく目を覚ました。

 

「すみません。起こすつもりはなかったのですが」

 

「眠れないの?」

 

「……はい」

 

その晩は初秋の冷たい空気の肌触りが特に鮮明で、どこか心細さを感じる夜だった。普段大人びて振る舞うフェルンも、幼い子供の常として眠れない夜を共に過ごす相手を欲していた。

大人として子供に接した経験の乏しいフリーレンであったが、フェルンが魔法の修練に根を詰めすぎていると感じていたために、穏やかな時間を過ごすことには乗り気だった。そうしてフェルンを連れてテーブルに着き、温かいお茶を用意した。

 

「フリーレン様。せっかくですし、魔法の修行がしたいです」

 

「少し熱意がありすぎるよ。フェルンは、魔法はほどほどだと言っていたよね」

 

「はい。ですが、私は早く一人前にならなくてはいけないのです」

 

「だけどもう夜だ。夜にはきちんと眠らないといけないよ」

 

「……明日もありますし、私も早く眠ろうとはしたのですが」

 

フェルンはすっかり目が覚めてしまったようだった。

フリーレンはその様子を見ると、カップを置いておもむろに杖を取り出した。

 

『安らぎの音色を奏でる魔法』( リンフィロモニア )

 

フリーレンが杖を揺らす度、気分を落ち着かせる心地よい音が溢れ出す。

それはちょうど月明かりの中で葉擦れの音に耳を澄ませるような、人気のない波打ち際で水平線を眺めるような、そんな清涼感をもたらす不思議な音色だった。

フェルンはその音を聞いている内に、知らず知らず張り詰めていた意識がほどけていくのを感じていた。聞いている内に少しずつ眠りに誘われて行くようだった。

 

「素敵な音色ですね。これも民間魔法なのでしょうか?」

 

「……そうなるのかな」

 

「随分歯切れが悪いですね?もしかして、この魔法には何かあるのですか?」

 

フリーレンは幼い少女の顔を見て、その瞳にまだあまり眠気が見られないことをじっと確認すると、ゆっくりと息を吐いた。

そして、自らがこの魔法を得た奇妙な村の話を、寝物語に聞かせることにした。

 

「80年は昔かな。私たちがまだ旅立ってしばらくの頃、中央諸国の村に立ち寄ったときの話だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道中街で出会った冒険者から魔族の噂を聞いた勇者ヒンメル一行は、中央諸国の村アーベントを訪れていた。

アーベントは小さな村だった。広さだけならそれほど狭くはないが家々はまばらで、村民全員を周るのにもそれほど時間はかからないように思えた。

その手前でフリーレンは村から魔力を感じ取った。

 

「確かにいるね。膨大な魔力だ。とても強い魔族だよ」

 

その言葉に一行は気を引き締める。アイゼンは斧を持つ手に力を込め、構え直す。

まずは挨拶をしようと入り口を通ると、ヒンメルたちを目に止めた1人の住人が駆け寄ってきた。

彼は30代ほどの男性で、家の前で農具の手入れをしていたらしくその手には鍬を携えていた。

 

「お前さんら、またこの村へ来た冒険者か」

 

「僕はヒンメル。勇者さ」

 

「勇者ならなおさらだ。ここはお前さんらを必要としていない。帰れ」

 

このときヒンメルたちはまだ旅を始めて幾ばくであり、直近で成し遂げた腐敗の賢老クヴァールの封印もまだ広まりきっていなかった。

そして何も実績がない内は王様を始めとしてその実力を信用されないことも多々あった。

しかし勇者と聞くからに拒絶をされたことに対しては流石に目を丸くして、

 

「必要がないってどういうことだい?魔族はもうここにはいないのか?」

 

「この村の魔族には手を出すな。お前さんらが弱いからじゃねえ。むしろ強い自信があるならさっさと引き返せ」

 

男性は村に魔族がいることを認めたにも関わらず、それを退治する勇者には村に来て欲しくないという。

この矛盾に心当たりがあったのはフリーレンだ。

彼女は長い時を生きるエルフであるために、魔族に支配された人々を見たこともあった。

強く、即座に人を全滅させない知性を持つ魔族には、人々を従わせて日常的に獲物を得るものもあったのだ。

 

「何か魔族を殺せない理由でもあるの?」

 

「いや、言いたいことはわかる。だがそういうことじゃない。いくら何百年も村の住人だからって俺らも魔族をそばに置いておく危険性は理解してる。前に来た魔法使いが教えてくれたからな。そいつも死んじまったが」

 

「私たちの聞いた所では、その魔族に挑んだ魔法使いや戦士たちはみんな敗れてしまったという話でしたが」

 

「ああ、誰も彼も死んだ。無謀だったんだ。負けたとかじゃない。自分から死にに行ったんだ」

 

話を聞いている内に、件の魔族の厄介さが見えてきた。今まで何人もの強い人間が討伐を試み尽く失敗して来たという事実は、さしものヒンメルたちでも苦戦する相手であることを意味していた。

しかも、その相手はこの村に定住しているという。

 

そこでヒンメルたちはアーベントの村長を訪ねてその魔族の恐ろしさの詳細を問うことにした。

村長は朗らかな老人で、思いの外ヒンメルたちを丁重にもてなしてくれた。

 

「この村には強力な魔族がいる。そのことについて、君たちはどう考えているんだい?」

 

「ハルフェは私の生まれる前からこの村にいました。この村の誰もが、彼女の世話を受けて育って来たのです」

 

ヒンメルたちは思わず顔を見合わせた。先ほどの村人の言葉といい、アーベントに数百年もの長きにわたって魔族が住んでいたことは事実であるようだった。

これほど小さな村で大魔族が人を襲わずにいるということはにわかには信じ難かった。

 

「俺の見た限りじゃ、この村は平和でいい村だ。なぜ魔族と共に過ごしていられる?」

 

「それも、この村を訪れた方々が傷つき、命を落とすこととなった原因と同じ魔法のためなのです」

 

「その魔族は一体どんな魔法を使うの?」

 

「魔法自体は単純ですよ。『傷を肩代わりさせる魔法』( アルタスケーレ )といいまして、自分と相手との間で傷を負わせる側に傷を移す魔法です」

 

聞けば、『傷を肩代わりさせる魔法』( アルタスケーレ )とは使い手が傷を負わせられるとき、それを齎した相手が代わりに傷を負い、同様に使い手からの加害行為によっても使い手自身に手傷を負わせるようにする魔法らしい。

 

「この魔法によって、ハルフェと戦いをすることは出来なくなりました。彼女から危害を加えられることもなく、彼女を倒すことも出来ないのです」

 

「だが、自分で攻撃を加えなければいいんじゃないのか?」

 

「試した方も居られました。しかし罠を仕掛けても、不慮の事故を起こす原因をばら撒いてみても、最後に犠牲となったのは人間の方でした」

 

魔法の穴を突こうとした人間は過去にもいたらしい。しかしハルフェの魔法の効果は凄まじく、どんな迂遠な手を用いようと必ず攻撃を意図した側が手傷を負うこととなった。精神魔法を試みた場合にも高い抵抗力に阻まれ、打ち倒すことはできなかったらしい。

 

「流石は大魔族の魔法だね。人知を超えた強力な魔法だ。それにリスクは魔法を強くする。使い手自身も攻撃が出来ない以上、効力もとても大きいだろうね」

 

話を聞いたフリーレンもその魔法の強力さを感じ取る。

すると突然ヒンメルが立ち上がり、イタズラな笑みを浮かべた。

 

「ということは、ひとまず近づくことは安全なわけだ。一度会いに行ってみようか」

 

 

 

魔力探知は常にハルフェの居場所を伝えていた。一行で最も大きな魔力を放つハイターであっても遠く及ばないほどの魔力が、村の近くの丘から感じられていた。

ヒンメルたちが丘へ近づくと、そこには3つの人影が見えた。

 

「ハルフェ。少しいいかしら」

 

「どうしたのデッケ?前に教えた魔法を覚えた?」

 

「流石にまだよ。壁に色を付けるイメージが持てなくて。そうじゃなくて、この子。遊んでて頭を打ったみたいで」

 

茶色の髪の女性が小さな子供の背中を押すと、立派な角を生やした金髪の少女が右手をその子の頭に乗せる。

魔族の右手が淡い黄色の光を放つのと、フリーレンが杖を構えるのは同時だった。

 

「フリーレン!よせ!」

 

「吹き飛ばすだけだよ」

 

次の瞬間、魔族は子供の前に進み出るとフリーレンに視線を向けた。

途端、フリーレンはまるで視線から圧力を受けでもしたかのように勢いよく後方へと飛ばされた。

ヒンメルが即座に飛び出し、丘から突き落とされるフリーレンを空中で抱き止める。

 

「驚いた?村で話を聞いて自分なら対処できると得意になったのかもしれないけれど、傷と呼んでいるのはわかりやすいからであって、別に傷しか防げない訳じゃないんだよ。身体、魔力、精神、感覚に、体の動き、どんなものでも、意図して損なわれるものは跳ね返る。これが私の魔法だ」

 

「……そんな魔法、魔族だってそうは使えないよ」

 

「それは当然だよ。私は最も賢い戦略を選び取った。狩りや戦いに時間を割くことなく存分に研究ができるんだから」

 

その尊大な口振りはまさに魔族らしい傲慢なものだった。彼女こそ得意になっているようだったが、表情は依然として石から切り出したように冷たかった。

ヒンメルたちが手をこまぬいていると、それを確認した茶髪の女性が話し出す。

 

「また、わざわざいらないお節介を焼きに冒険者がやって来たみたいね。生憎、この村はハルフェと共にあるの。よそ者は帰ってくれないかしら」

 

「必要がないのなら、余計なことをしたりはしないよ。僕らはこの村が心配だっただけさ。何事もないならそれが一番だ」

 

デッケと呼ばれていたその女性はヒンメルの言葉に少し目を見開き、刺々しい視線を引っ込めた。

そしてそばの子供をひと撫でして村の方へ送りだすと、手招きをした。

剣呑な雰囲気が霧散し、ヒンメルたちは丘の上へと上がっていく。

フリーレンだけは、杖を構えたままだった。

 

「すみません。いきなりつっけんどんにしてしまって。この村に来る人の中には忠告を聞かずハルフェを殺そうとする人もいるの。その度私たちの村で埋葬しなければいけなくなって、とてもうんざりしていたわ」

 

「本当に、彼女は人を襲わないようですね。先ほどは、村の子供の傷を治していたようですし。女神様の魔法とは違うようですが」

 

「ええ、ハルフェはとても心優しいのよ。私たちはもう何百年もハルフェと過ごしてきたのだもの。危険がないことくらいわかりきっているわ」

 

デッケは本当に一切の警戒をしていないようだった。見ればヒンメルたちも近くに魔族がいることを受け入れた様子だ。ハイターもアイゼンも、警戒は解かないなりにどこか和やかな空気を醸している。

ヒンメルたちは魔族の厄介さを身に沁みて知っているはずだった。しかしフリーレンは歴戦の戦士をも欺く能力が魔族にあることをわかっていた。

彼女は涼やかに佇む金髪の魔族を睨みながら言葉を紡ぐ。

 

「それは違うよ。どんな魔法を使おうと、どんなに友好を示そうと、魔族は人に慣れない猛獣だ。それに、忘れていない?『傷を肩代わりさせる魔法』( アルタスケーレ )は強力な魔法だけど、使い手はハルフェなんだから、解こうと思えばいつでも解ける。」

 

「流石に聞き捨てならないな。私は他の魔族とは違うよ。何にも不安のない生活を気に入っているんだ。それに長いこと使い続け、磨き続けて来た私の魔法は、もはや私にも解けない」

 

「他の魔族と違う。それも聞き飽きたよ。お前たちはいとも簡単に嘘をつく」

 

「本当だよ。フリーレンと言ったっけ?とても長い時を生きているみたいだけど、一度も人を殺していない魔族にあったことはある?」

 

その言葉が本当なのか確かめる術はなかった。たとえ自ら手を下さなかったとしてもハルフェが人の死に触れ続けてきたことは確かであったし、魔法をかける前にただの一度も人を食らったことがないなど信じられることでもなかった。

とはいえ彼女がアーベントで過ごした数百年の期間人に危害を加えようとしたことがない以上は否定する根拠がないこともまた事実だった。

フリーレンが思考に耽っていると、デッケがハルフェに親しげに話しかける。

 

「そういえば、ハルフェに教わった魔法だけれど、壁に色が付かない代わりにへんてこな模様が出来てしまって、それを見せたらボーデンに笑われてしまったわ」

 

「別に問題はないんじゃないの?部屋の模様替えをする魔法だし。好きなように変えればいいじゃん。何で内装を変えたがるのか、その魔法を頼まれた90年前からずっとわからないけど」

 

「好きなように出来てないのが問題なのよ。まあ練習あるのみね」

 

驚いたことに、ハルフェは人間に魔法を教えているようだった。

魔族は誰もが魔法を大切にし、生涯ただ一つの魔法を研鑽する。

ハルフェもまた自身の強力な魔法を一つ持っていたが、他者のために魔法を扱うことは例外的だった。

 

「ハルフェは人間に魔法を教えているの?」

 

「そうなの。おかげで役に立つ魔法をいつでも使えるわ。それに、困ったことがあったら魔法で助けてくれるのよ」

 

そういって、デッケは嬉しそうに指折り数えて教えてくれた。

壊れた道具や建物の修理、草刈りに畑の開墾、傷の治療、出産の介助までやっているという。

村中が彼女の世話を受けて育ってきたという村長の言は嘘ではなかったらしい。

 

 

 

村で人と過ごす魔族の姿を見て、ヒンメルたちはしばらくアーベントの村に滞在することにした。

その魔族に本当に危険がないのか見守るというのが一つ。そしてヒンメルはさらに、ハルフェの人助けを手伝いたいと考えていたようだった。

 

「この村にいる間、ハルフェと交流してみようと思うんだ。確かにこの村で多くの人が命を落としたようだけれど、彼女は人を傷つけていない。それならもしかすると仲良くなれるかもしれないだろう?それに、気に入らないじゃないか。勇者よりも人助けの得意な魔族がいたなんてことになったなら」

 

それからは平和な日々が続いた。

フリーレンは昼まで眠り、ハイターとアイゼンは草原でかけっこをしたりしていた。

そしてヒンメルはハルフェと村人たちとの交流を楽しんでいるようだった。

 

ハルフェにとって人の社会で生き人の生活を助けることは日常であるようだった。

困っている人を見かければ手助けを申し入れ、老人の話や子供の遊びに付き合いさえしていた。

相変わらずの無表情からは親切心も愛情も感じ取れなかったが、作物の世話をし、子供を撫でる手つきには慈しみさえ感じられた。

 

小さなアーベントの村には魔法が浸透していた。

十分に魔力を持つ者は魔法で日々の労働を補助しており、出稼ぎに出て生計を立てる魔法使いもいた。

しかし村の戦力は魔法ではなく、魔物の襲撃には戦士が対処した。

 

総じてこの村は勇者一行の手を借りずとも不足はないようだった。

何もすることがないフリーレンには村に溢れる魔法の数々は刺激的で、ついに自分もハルフェと話をしようと決めた。

たとえ意味を持たない鳴き声でも、その魔法が魅力的である不思議を解決するには他に手段はないと考えたのだ。

 

「ハルフェ、お前はどうして人間たちの役に立とうとするの?自分の魔法を高める時間を割いてまで、わざわざ大したことのない魔法を使っているよね」

 

フリーレンの問いにハルフェはしばし考えて、言葉を返す。

 

「時間を削ってはいないよ。私はこうして生きることで無限の時間を手に入れたの」

 

魔族の寿命は長い。彼らに老衰はなく、死因といえば専ら他者からの殺害だ。

殺さない代わりに殺されないハルフェは、確かに途方もない時間を生きるはずだった。

しかしそれで疑問が氷解する訳ではない。

 

「けれどそれなら、人と接する必要はないよね。洞窟なりどこかに籠って静かに生きればいい。どうせお前は人を食えないんだから」

 

「……私は魔法が大好きなんだ。ここでは色んな発想が得られるし、気にいる魔法もあるかと思って。それに、せっかく言葉があるんだから」

 

「またそれか。それはお前たち魔族のよく使う詭弁だ。魔族の言葉は和解の役には立たないよ」

 

「そうじゃないよ。言葉には力があるでしょ。始まりが何であれ、ひとたび言葉を覚えれば言葉なしでは生きられなくなるんだよ。そして言葉は私たちを理性的で文化的な存在にするんだ。自分の意思を言葉にして整理するとき、知性を以て自分を制御できるようになるからね。だから私は獣とは違う」

 

フリーレンの目の前で金色の髪が靡く。

強い意志の込められた青い瞳がじっと見つめていた。

 

「目先のものに囚われて、みすみす大事なものを見失ったりはしないよ。私に挑んできた人間たちとは違ってね」

 

ハルフェと別れ、間借りしている家へと帰る途中、フリーレンの頭にふとした考えが過ぎった。

ハルフェは自らを脅かす存在を恐れ、人を襲うことと引き換えに最強の盾を得た。

しかしこのまま彼女が生き続け、長じて年上の魔王やエルフをも見送ったとき、彼女の脅威となる強者がいなくなったのなら。

 

『傷を肩代わりさせる魔法』( アルタスケーレ )は用をなさなくなる。

 

 

 

次の日。家の前で鎌を使って草を刈るデッケを見つけたハルフェは、思わず疑問を尋ねた。

 

「どうして魔法を使わないの?せっかく私が教えたのに」

 

「簡単な話よ。魔法が特別だと思いたくないの。この鎌も草刈りの魔法も同じ道具で、使い方を知っていると便利なだけ」

 

「……わからないな。魔法ほど素晴らしいものはないのに」

 

デッケはくすりと笑むと、ハルフェに振り返る。

その顔はどこか寂しげだった。

 

「私も魔法は好きよ。だけど誰もがそれを使える訳じゃないでしょう?魔法が特別だと思ってしまったら他の人を蔑ろにしてしまうかもしれない」

 

「……そういうもの?」

 

「そういうもの。それにね。私、結婚することになったの。そうしたら、好きなことばかりしていられないから」

 

夫が出来れば、ハルフェに魔法を教わる時間は今ほど取れなくなる。

そうしてハルフェのもとを離れた人は多かった。

2人がしばらくそのまま黙っていると、突然、隣の家の扉が勢いよく開かれた。

 

「おい待て、どういうことだ!?」

 

「ボーデン?聞いていたの?」

 

「そんなことはいい!そんな話、僕は聞いていないぞ!」

 

ボーデンはデッケの隣人で仲のいい幼馴染だった。

彼は何やら信じられないものを見るような唖然とした顔でデッケに駆け寄ると、言葉を捲し立てる。

 

「幼い頃、あの丘で夕日を見ながら約束したじゃないか!僕らは夫婦になろうと!」

 

デッケは答えなかった。ただ視線を宙へと彷徨わせただけだったが、それは彼女に心当たりがないことを何よりも雄弁に語っていた。

ただ旧知の友人のいきなりの変貌に困惑していた。

 

「忘れて、しまったのか」

 

ボーデンは俯き、絞り出すように呟いたかと思うと、突然顔を上げた。目は暗く澱んでいた。

腕を振り上げ、デッケへと掴み掛かる。デッケは鎌を構えて防戦し、2人はもつれるように倒れ込んだ。

 

「何をするの!離して!」

 

「僕のものにならないなら、お前なんて!」

 

2人の男女は取っ組み合って争い始めた。デッケは戦いに役立つ魔法を知らず、ボーデンは怒りに我を忘れて無手だった。

感情のままに力を振るう男は膂力で圧倒していたが、デッケの方もまた死に物狂いであり、手に持つ鎌を警戒して攻めきれずにいた。

地面に横たわり互いに相手を押し込めようとがむしゃらに暴れていた。

 

「家のことなんだから仕方ないでしょう!?」

 

「そんな、こと!僕のことなんて!お前はっ!死ね!」

 

そのとき突然大きな音と光が届く。デッケは確かに、手を前に伸ばしたまま呆然とする少女の姿を見た。

数瞬の空白を経て、ボーデンははっと我に返る。

デッケはすっかり放心してしまっていて、そのままボーデンに組み敷かれてしまう。

男は彼女の手から鎌を奪い取って振りかぶった。

 

「そこまでだ!」

 

慌てて駆けつけたヒンメルがすんでのところでボーデンの腕を掴んで止め、デッケの身は無事だった。

しかし辺りを見渡してもどこにもハルフェの姿はなかった。

 

 

 

「まさかこの平和な村で人同士での争いが起こるとはな。ヒンメルがいなければ止められなかった」

 

「僕も間に合わなかったよ。ハルフェはもう、死んでしまったんだろう?」

 

「ここに来てからずっと感じられていた魔力ももう感じられません。魔族は魔力の制限が得意ですから、確実ではありませんが」

 

「いや、私はあのとき魔力の残滓を感じとったよ。魔族は死んで魔力に還る。生きてはいないだろうね」

 

唐突に訪れた魔族の少女の死は、思いの外沈痛な空気をもたらしていた。デッケを始め村の多くの住人はハルフェと少なからず懇意にしていたし、それでなくとも数百年このアーベントを支えてきた伝統の崩壊は村の今後に影を落としていた。

それでもこれ以上長居をして村のために出来ることはなかった。ヒンメルたちは旅の道中の人助けを大切にしていたが、魔王の討伐を放り出して村に居着くという選択肢はなかったからだ。

ハルフェが死んでもその魔法は村に残っているということだけが救いだった。

 

「だけど良かったよ。ハルフェが死んだということは、あいつは人を殺そうとしていたってことだ。あいつは飢えていたんだよ。もしかしたら、いずれ自ら魔法を解いて人類の脅威になっていたかもしれない」

 

「……ハルフェはデッケと仲が良かった。咄嗟に争いを止めようとしたのかもしれない。もちろん情があった可能性は薄いだろうけれど、長い間人助けをしてきた癖が残っていたということもあるだろう?少なくとも、ハルフェは、彼女だけは、人類と魔族が共存できる可能性だったんだ。僕はそれが惜しい」

 

「結果論だよ。最後に誰の命も奪わなかったのは偶然だ」

 

「フリーレン、結果論を言うのなら、思い出を飾るのは生きる者の特権ですよ。この村の人々は、彼女を素敵な過去として語るでしょうね」

 

それは複雑なことだった。村の功労者を讃えることは、将来魔族に付けいられる隙を作ることになる。

村を去る前に最低限の警鐘は必要だった。

しかし、最後まで命の奪い合いを成立させなかった魔族はとても不思議な存在だった。

そのことはフリーレンも実感していた。

 

「私はハルフェの家に行ってみるよ。何かがあるかもしれない。……でも確かに、結局あいつは戦いと言えることをしなかった。それを思えば、あるいは平和の魔族と呼んでもいいのかもしれないね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでは、その魔族は死んでしまったのですか?」

 

「うん。確かに死んだよ。あれだけ言っておいて、結局あいつの理性は負けたんだ。それが人を殺したい本能になのか、友人を守ろうとする衝動になのかはわからないけれどね」

 

「魔族とは、もう少し恐ろしいものだと思っていました」

 

「その考えは間違っていないよ。あいつらに会話は通じない。人類を殺そうとする猛獣だ。そして、ハルフェも最後までそんな魔族のままだった、と思う」

 

フェルンはその話をうまく飲み込めずにいた。未だ魔族に出会ったことがなくおおまかな話しか聞いたことのない彼女にとって、ハルフェは善良な存在に思えたのだ。けれど、フリーレンの元で魔族を殺すための修行を熟すフェルンには、フリーレンの話す魔族の凶暴性についても確かなものを感じられていた。

それに、過程はどうあれ彼女の存在により命を落とした者も少なくない。

初めて聞かされた特殊な魔族をどう捉えるか思案していた少女は、ふと初めの疑問を思い出す。

 

「そういえば、『安らぎの音色を奏でる魔法』( リンフィロモニア )とは結局何だったのですか?」

 

「ああ、その魔法の話だったね。単純なことだよ。その魔導書はハルフェの家で見つけたんだ。あいつは人間たちに魔法を教えていると言っていた。そのために書いたんだろうね。きっと、ゼーリエも知らない魔法だよ」

 

突然口に出されたゼーリエという人物が何者なのか尋ねようとしたフェルンだったが、自嘲するように笑みを溢したフリーレンの様子を見て、思わず口をつぐんだ。

 

「しかもこれは何の力も持たない、役に立たないくだらない魔法だ」


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