――やべえな……やっちまった。
薄れゆく意識のはざまで浮かび上がる益体もない思考の断片。
身体は動かない。目も耳も鼻も、呼吸すらもはや正常に機能しているか怪しいところだ。
「……ッ! ……ッ!!」
近くで誰かが騒いでいるのがうっすらとわかる。人だかりでもできているのか、最早俺にとって音の反射となった喧噪紛いの雑音が辺りに広がっている。
もしかしたら今の俺の身体は思った以上に酷い有様で転がっているのかもしれない。
まあ、それもそのはず。
なぜならば俺こと阿形誠二はつい先ほど、大型トラックに跳ね飛ばされたばかりなのだから。
不運だったかと聞かれれば答えはイエス。赤信号を渡った訳でもなく、横断歩道のない道を無理やり渡った訳でもない。白昼堂々、歩道にトラックが猛スピードで乗り上げてきたわけだ。居眠りか、よそ見か、理由は定かではないが。
では、完全なる被害者かとなると答えはノーだ。
理由は一つ、俺はその突っ込んできたトラックに自ら飛び込んでいったのだから。
「…………!」
ぼやけた視界の先で、一人の少女が泣いている。
時間も余裕もなかったせいで後ろから突き飛ばす形になってしまったのは申し訳ないが、何分緊急事態での事、許せ、名も知らぬ少女よ。
もはや詳しく説明する気力も意味もないが、そういうことだ。
事故を起こしたのは十割トラックの運転手の過失だが、今俺がこうなっているのは半分は俺自身の自業自得でもある。
――それでもまあ、良い。助かったのならそれで、良い。
柄にも無いことをしてしまったと、後悔も当然ある。
それでもどこかほっとしているのは、事故の衝撃で思考回路がバグってしまったからなのか。
ふと、誰かが救急車を呼んだのか、遠くでサイレンのような音が鳴っている気がした。
その無機質な異音の繰り返しをかろうじて耳に受けながら、俺の意識は深い闇の底へと切り取られていった。
そうして俺の二十年余りという短い人生は幕を閉じた。
筈だった。
「……生きてる?」
意識が戻って、最初に感じた違和感はそれだった。
普通であれば絶対に感じないであろう圧倒的違和感。自分が生きていることに疑問を抱くほど、それほどまでに先ほどの感覚は生物的な死そのものだった。
それなのに、だ。
「身体に傷一つないっていうのはどういう事だよ」
とりあえず起こした身体を見回して、眩暈がする。
奇跡的に助かったという線はあるにはある。が、傷が一つもないというのはさすがに無理があるだろ。これならいっそ全てが夢だったと言われた方がまだしっくりくる。
「だが服は破けまくってるし、直前に寄ったコンビニ袋はそのままだし、もうわけがわからん」
ごちゃついた思考。伸ばされた右手に見覚えのある袋。
夢と現実が入り混じったような世界に、思わず天を仰ぎ見て叫びたくなる。
「そもそもどこだここは」
見渡す限りの真っ白な空間。やはり夢か、そうでなければ死後の世界か。どちらにしろここまで何もないとなると、現実の何処かという線は薄そうだ。
「ここは世界と世界の狭間と言われる場所ですよ」
「あー、なるほどな。道理で何もないわけだ」
まさか答えが返ってくるとは思わず、適当な相槌を打ってしまった。
慌てて振り返った先に、一人の女が微笑みながらこちらに手を振っていた。
「どうやら目が覚めたみたいですね」
はた目には実にへんてこりんな雰囲気の女だった。白の布地を基調にした服装に、オフゴールド色の長髪と同じ色彩の瞳。それだけでも十分浮世離れしてるというのに、俺の見間違いでなければ背中から白い羽のようなものまで見て取れる。
まるで絵画に描かれた女神がそのまま現れたかのような存在に、いよいよ現実との乖離を認識させられる。
「……あんた、誰だ?」
「そうですね、あなた方が言うところの女神です」
本当に女神だった。
いや、まだ確証はない。俺の中で自称女神という体で話を進めることにする。
「とりあえず立ち話もなんですし、座りましょうか」
瞬間、目の前に二脚の椅子と丸テーブルが現れた。比喩ではない、自称女神が軽く手を振ったかと思うと、本当に一瞬で。まるで最初からそこにあったとでもいうかの如く。
これで現実ではない事がほぼ確定した。
なるほど、疑っていた事も筒抜けか。
微笑む女神――自称は外した――に促されて、椅子に腰かける。
対面を見ると、女神は俺の手に持っていたコンビニ袋に興味津々のようで、ちらちらとしきりに視線を送ってきている。
中身はどこにでも売っている菓子なんだが、このまま持っていても仕方がないので開けて机に広げてやる事にする。ちなみにラッコのマーチとコンソメポテチだ。
女神はそれをキラキラとした瞳で、嬉しそうにつまんで口に入れている。ずいぶん俗っぽい女神もいたもんだ。
「それで、女神さまは俺の事を知っているのか?」
「はい。一部始終を見ていましたから」
「一部始終?」
「阿形誠二さん、つまりあなたが外出してからトラックに轢かれ死亡するまでの間です」
さらりと告げられる真実。
だが、あまり動揺はない。
「やはり俺は死んだのか」
「残念ですが」
残念と言われて、しかしそれほど大きなショックはなかった。なによりあの状態だったんだ、納得とはいかないまでも疑念が晴れて、少しスッキリしたぐらいだ。
そうか、とつぶやいて大きく息を吐き、力を抜いて椅子から伸びた背もたれに身体を預ける。
だが同時に、新たな疑問が湧いてくる。
「じゃあ今アンタとこうしてポテチをつついてる俺は、いったい何なんだ?」
本当に死後の世界とは言うまいな。
「簡潔に説明すると、死亡してそのまま霧散するはずだったあなたの魂を私がこちらに引き寄せて、身体を再構築しました」
「…………なんだって?」
思わず聞き返してしまった。
簡潔な筈なのにどういうことか、女神の答えはまったくもって意味が分からなかった。
魂を引き寄せ? 身体を再構築? 突如として出現したファンタジー要素に治まっていた頭痛がぶり返してくる。
なんとか落ち着いて思考を巡らす事数分、拾える情報から導き出した答えを俺は口にした
「あー、なんだ……つまり一度死んだ俺を女神さまが生き返らせた、と?」
「その通りです」
「なぜ?」
「そうですね、言葉で説明するのはとても難しいのですが……あの時私は、あなたがあのまま死んでいく事をそう、とても惜しいと思ってしまったのです」
惜しい、苦笑と共に語られた女神の言葉の中に、幾分の謝罪の意を感じたのは俺の気のせいか。確かに事故に遭ったのは不運ではあったが、世の中そんな事は日常茶飯事とは言わないまでも、よくある事だ。
まさか目の前の菓子目当てということはあるまい。流石に……いや、ないよな?
考え込む俺をよそに、女神が続ける。
「腑に落ちませんか?」
「まあ、な」
女神の真意が見えない。仮に同情や憐憫の類で俺を生き返らせたとして、この場所に呼ぶ必要はなかったはずだ。奇跡的に命をつなぎ留めた形にでもして病院やそこらで意識を戻させればよかった話だ。
感じる違和感。
何か大前提を間違えているような、胸に閊えるわだかまり。
今一度女神の言った言葉を頭の中で並べてみる。
そうして俺は一つの解答にたどり着き、今日何度目かの大きな息を吐いた。
「女神さま、一つ確認したい事がある」
「なんでしょう」
「俺は元居た世界には戻れない、そうだな?」
「あらら、先に気づかれてしまいましたか」
右頬を搔きつつ肯定する女神に、やはりかと予測が正解だったことを理解する。
元の世界の俺は既に死んでいることになっている。
これは最早変えられない事実で、女神が手を加えたのはその後の話。つまり厳密にいえば、俺は生き返ったのではなく、死後、新たな身体を与えられたことになる。
なんとなく子供向けアニメでやっている、自分の顔を食料として分け与える狂気のヒーローが思い浮かんだが、深く考えるのは止めた。これ以上の負荷は精神に良くない。
「申し訳ありません。本来であれば最初に説明すべきところを、菓子のあまりの美味しさに我を忘れて夢中になってしまいました」
「いや、謝るべきところはそこじゃないが……まあいい」
この女神、見た目に反して中身はポンコツだ。
一つ咳ばらいをして、女神はまっすぐにその輝く金色の相貌をこちらに向けてきた。
「阿形誠二さん、あなたに行ってもらいたい世界があります」
「行ってもらいたい世界?」
俺の反復に女神はその世界の構造とやらについて、つらつらと説明をし始める。
曰く、その世界の海では化け物と艦艇の加護を受けた少女たちが戦争をしている。
曰く、その世界の男女比は均整がとれておらず、男が大幅に少なくなっている。
曰く、その世界の美醜への価値観もまたこの世界とは異なっている。
曰く、その世界で童貞は希少価値らしい。
などの情報を途中で面倒になったのか、あろうことか女神はその謎力で直接俺の脳内に送り込んできた。おかげで俺の脳は無事パンク、数分の間頭を抱えて悶絶するはめになった。
一度死んだ俺を生き返らせて、また殺す気かこの生臭女神は。
「とまあこんな感じの世界なんですけど、理解してもらえましたか?」
「そりゃ知識として直接頭に叩き込まれれば、一応な」
とはいえにわかには信じ難い話だ。
元居た世界の常識とはあまりにかけ離れすぎていて、理解はできても正直まったくそんな世界を想像できない。
「どうか、行ってもらえませんか?」
「ちなみに断ったらどうなる?」
「死ぬまでこの世界で私と二人きりです」
「正気か? そもそもまず俺に選択肢ある?」
「ありませんね!」
このクソ女神、滝つぼに叩き落してやろうか。
「とにかく行くのは良いとしてだ、そもそも俺にその世界で何をさせるつもりなんだ? 一般人の俺にできることなんてほとんどないと思うがな」
「阿形さんは何もしなくて良いですよ。下地はこちらで準備しますし、あなたにはあの世界を肌で感じ、思ったままに行動してほしいんです」
「余計よく分からんな」
「その中で、少しだけ彼女たちの助けになってくれれば、本当にそれで」
女神の言葉に、自然と浮かぶ艦娘と呼ばれる少女たちの存在。
送られてきた知識の中では何やら複雑な立場に置かれているようだが、今はそれ以上は分からない。
「さて、無事阿形さんの同意も得られた事ですし、そろそろ時間ですね。あと服も直しておきますね。そのままでは何かと不都合でしょうから」
言って、女神は目をつぶり俺に向けて両掌をかざしてきた。
同時、周囲から溢れ出る光の奔流が俺を包むように広がっていき、ボロボロだった服を直していく。
「唐突だな」
「これ以上、ここにとどまる理由もないですから」
確かに、言われてみればその通りか。
見れば机の上に広がっていた菓子も、きれいさっぱりなくなっている。まさか菓子がなくなったからお開きなんてことは――いやもう考えるのはよそう。
「目を閉じて心を落ち着かせて。しばらく浮遊感が続くと思いますが、流れに身を任せてください。自然と意識が落ちていきますから。次に目を覚ました時には向こうの世界です」
「わかった」
言われたように目を閉じて、深呼吸を一つ。
「そうだ、最後に一つ聞いておきたかったんだが」
「なんでしょうか」
「俺のことを惜しいって思った理由ってなんだったんだ? 特にこれといった理由なんてないと思うんだが」
一拍して光の奔流がさらに激しくなったかと思うと、徐々に身体が浮遊感に包まれていくのが理解できる。
「それでは逆に聞きますが、阿形さんはあの事故の瞬間、いったい何を考えていたのでしょうか?」
「別に何も。ただ目の前で少女が轢かれそうになっていたから、咄嗟に身体が動いたってだけだ」
深い理由も無いので正直に話したが、答えはなかった。
代わりに、最後に光の奔流の隙間から見えた女神の表情は、優しく微笑んでいるようだった。
意識が途切れる。結局、理由は教えてもらえなかったな。
刹那、誰かの願うような祈りが耳に届いた。
『願わくば貴方の無垢な優しさが、少女たちの救いとならんことを』