「お疲れ、時雨」
ドックでの艤装の修復が終わり、施設から出てきた時雨を彼が出迎えてくれる。
「あ、阿形さん、わざわざ待っててくれたの?」
「ああ、ちび共にもうすぐ終わるって報告受けてたもんでな」
「そうなんだ……そっか」
そう言いつつ、時雨は自分の姿を上から見た。
風呂上がりのような自分のもっさりとした姿に、もっとしっかりと髪を乾かしてくれば良かったと今更ながらに思う。服もフラットな短パンとTシャツという色気のいの字もない恰好になんだか良く分からない気恥ずかしさがせり上がってくる。
「飯にしようと思うんだが、体調は大丈夫そうか?」
「う、うん。流石に傷はすぐには治らないけど、体調はすこぶる元気だよ」
「よし、なら準備してるから一緒に食おうぜ」
そう言って歩き出す阿形の横にとてとてと並んで歩く。あまりにも自然で、当然のように一緒にと誘ってくれる事が嬉しくて、つい時雨は顔が緩んでしまいそうになるのをなんとか堪える。
「もしかして、阿形さんが準備してくれたのかい?」
「ああ、まあ……な。自分でもあんまり上手くできたとは思ってないんで、口に合わなかったら残してくれて全然かまわないからな」
頬を掻きつつ、照れ隠しなのかそっぽを向く彼の表情が新鮮で、時雨はつい少しだけ意地悪をしてみたくなった。
「そうだね。僕の舌は鳳翔の料理で鍛えられてるから、阿形さんがどれほど頑張ってくれたのか楽しみだよ」
「ぐああ、そうだった! 普段からあんな一流の料亭の女将みたいな人の料理食ってんだから、俺の料理なんて比較にもならんわなあ! ……今からデリバリーに変えるか」
「い、いやいや、ごめん冗談だよ! 阿形さんの料理とっても楽しみだよ、僕!」
予想外の方向転換を図ろうとする彼を、時雨は慌てて制止した。
危うく彼の手料理という一大イベントを台無しにしてしまう所だった。やはり慣れない事はするべきではないな、と時雨は一人内心で反省する。
「僕のために作ってくれた事が、本当に嬉しいんだ。味なんてそれこそ気にしないよ」
「とりあえず情熱と愛情だけはたっぷり込めました」
「あ、愛情を……」
料理の決め手は情熱と愛情だって誰か偉い人が言っていたと彼は胸を張っていたが、時雨は今それどころではない。急に愛情とか言われるものだから、いろいろ想像してしまって頬が珠に染まっているのが自分でも分かった。
やはり彼の言葉は突拍子もないところからクリティカルで飛んでくる。男性から愛情なんて言葉、生まれてこの方一度もかけてもらった事のない時雨だけに、嫌でも身体が反応してしまう。
時雨は彼に気付かれないように肺の空気を一度吐いて、大きく吸った。
こんな彼の言動にいちいち反応する娘なんて、いくら艦娘に大らかな彼とは言えいつか面倒に思われてしまうに違いない。
冷静に落ち着いて、いつも通りの自分を演じるんだ。と時雨は心を奮い立たせてシャキッと背筋を立てる。
「とにかく、阿形さんの料理楽しみだよ。さ、食堂に向かおうか」
「ああ、その場所なんだが」
気を取り直して先導しようとする時雨を、阿形のなんとも歯切れの悪い言葉が遮った。
目的地は食堂ではないのか、と思う暇もなく彼は苦笑のような表情と共に一つの提案を口にした。
「俺の部屋で、一緒に食わないか?」
「…………うん?」
思わず力の抜けた声が出てしまった。今、彼は何と言った?
時雨は一度頭を振って、右耳を二回、左耳を三回とんとんと軽くたたいた。妄想が進み過ぎて幻聴まで聞こえてしまうとは本格的に不味いかもしれない。
不埒な妄想を振り払うかのように一度咳ばらいをして、時雨は真剣な表情で彼に向き直る。
「ごめん、ちゃんと聞こえなかったみたいだ。もう一回言ってくれるかい?」
「時雨が良ければ、俺の部屋で一緒に飯を食ってほしいんだ」
ずごんと胸に何か大きな塊が飛んできたような衝撃を受けた。
バクバクと爆音で鳴る動悸がとても抑えきれない。ちょっと待ってほしい、無理だこんなの。冷静になんてなれるわけがない。
自分にいつも優しくしてくれる男性が、ご飯を食べるために自室に誘ってくれている? これはなんの冗談だろうか。いっその事ドッキリと言われた方がしっくりくる。
その可能性を加味してチラリと彼を見るが、
「…………」
少しだけ緊張したように、しかし真剣な表情で言葉を待つ彼の姿を見て、時雨の脳は沸騰した。
この人は駄目だ。この人の存在は艦娘を駄目にする。今まで忌避され嫌悪され続けてきた時雨の心に、この男の無防備すぎる純度百パーセントの好意と善意の言動はあまりに刺激が強すぎた。
その濁流のような感情の奔流をすんでのところで押しとどめたのは、彼に嫌われたくないという時雨の根底に芽吹いた単純にして強固な理性の盾だった。
「嫌なら、食堂とかでもいいんだが」
「嫌なんかじゃない! 行く、行きたい! 阿形さんの部屋!」
「お、おう、そうか。良かったよ。実は料理も既に部屋に運んでいたところだったんだ」
普段の時雨だったら遠慮していたかもしれない所を、自分の意志で希望を口にしてくれたことが嬉しくて、阿形は思わず時雨の頭を撫でりと撫でた。
時雨は撫でられている間、感じた事のない感情にむにむにと口を動かしつつも与えられる幸福を全身で享受した。
「それじゃ、行こう。料理が冷めちまう」
「うん!」
最後に時雨の頭をぽんっと触れて、先導するように彼は前を歩いていく。
最後に触れられた頭の感触の余韻に浸りながら、時雨は軽くなった足取りで彼の後を追って行った。
「すごいや……これ全部、阿形さんが作ったのかい?」
目の前のテーブルに並ぶ沢山の料理に、時雨は驚嘆の言葉を漏らした。
「全部簡単にできるお手軽料理だがな。鳳翔みたいな凝った料理は俺には到底無理だ」
「それでも十分美味しそうだよ」
唐揚げや焼き飯など確かにお手軽ではある料理かもしれないが、自分のためを思って作ってくれた事だけでも有難い事だった。
「あ、しまった。応接室からクッション持ってくるの忘れたわ」
「僕は別に床でもいいけど、ちなみに夕立はどこに座ってたの?」
「それはベッドだな」
「ベッド!?」
時雨は思わず瞳を見開いて備え付けてあるベッドを見た。夕立が此処に座ったなんて、相も変わらず怖いもの知らずな性格を遺憾なく発揮して帰ったようだ。
「あはは、ごめんね。夕立、自分の気持ちに素直過ぎるところがあるから」
「確かに、躊躇せずベッドに飛び込んでたな」
――な、何やってるんだよ夕立! 男の人のベッドに無遠慮に飛び込むなんて普通激怒されるよ!?
「本当にごめん。夕立には僕からよく言っておくから」
「いや、別にそれぐらい構わんが。時雨も疲れてるなら少し横になっていくか?」
時雨の心労を他所に、彼は至極普通の表情でとんでもない事を提案してきた。普通女が男のベッドに入るのは例えそういった関係でも許されない事があると言うのに。
「……阿形さんは僕や夕立がベッドに入っても、嫌じゃないの?」
「まあ、確かに自分のベッドに時雨たちみたいな美少女が寝転がるのは少しばかり緊張するな。正直なところ、臭いとか大丈夫か不安になる」
「……大丈夫だよ、阿形さんはとても良い匂いだから」
彼の言葉があまりに現実味が無くて、時雨もついいらない事を言ってしまっていた。
「しかし今回はベッドでは机と高さが合わないな。時雨はとりあえず俺の枕をクッション代わりに敷いて座ってくれ」
「あ、ありがとう」
手渡された枕を、時雨は両手で抱える。同時にそこからふわりと香る彼の匂いが時雨の脳髄を激しく揺さぶった。思わず反射的に顔を埋めてしまいそうになるのを、鋼の理性でなんとか踏み止まる。
こんな艦娘破壊兵器をあっさり手渡してくるなんて、この人は一体何を考えているのだろうか。とりあえず時雨は言われた通り枕を床に敷いて、そこに腰を下ろした。
「ま、何はともあれ任務お疲れ様、時雨。ささやかだが慰労もかねて乾杯しよう」
「ありがとう」
手渡されたコップを受け取って、時雨は改めて阿形の顔を見た。
彼は自然体で、でも少し嬉しそうにコップを掲げている。
「それじゃ、乾杯!」
「うん、乾杯!」
少し前はこんな風に男の人と一緒に食事をする日が来るなんて思ってもみなかった。自分には縁のない事だと、興味のないふりをして諦めていた。
艦娘にとって何かに希望を持つことは決して簡単な事ではない。それは今でもあまり変わっていない。
けれど。
「ありがとう、阿形さん」
貴方が此処に来てくれて、僕は、ううん、僕たちはとても救われた。貴方はきっとそんな事は微塵も思っていないのだろうけど。
「頼りない僕らだけど、これからも一緒にいてくれると嬉しいな」
少し恥ずかしいが、これが今の自分の正直な気持ちだ。そんな時雨の様子を彼は物言いたげな表情で言葉を返してきた。
「……時雨、左手を出してくれないか」
「え、こう?」
言われて、差し出した左手を彼は両手でぎゅっと握ってきた。手を通して伝わる熱が、時雨の体温を少しずつ上げていく。
なんだろう、彼の表情がやけに真剣で胸のドキドキが止まらない。
「この前、監査官が来た日の事を時雨は覚えているか?」
「えっと、僕が任務で別行動だった日の事だよね」
「ああ。実はその日、俺は鳳翔と加賀の手の甲に誓いのキスとやらをしたんだが」
「えっ……それって」
その話を聞いて、時雨は衝撃と共にある事を思い出した。そういえばある日を境に何故か加賀と鳳翔が事あるごとに手の甲を眺めては笑みを浮かべるという謎の奇行を繰り返していたのが不思議だったが、そういう事だったのか。
「それを時雨にもしたいんだが、嫌だったら断ってくれ」
「ええっ!? 阿形さんがぼ、僕なんかに……それに確か手の甲にキスする意味って」
「確かに意味はあるらしいが、俺としては相手を守るための決意としての行為と解釈してる」
手を握られたまま、まっすぐに目を合わせられ緊張で汗が噴き出てくる。手の甲とはいえ男性にキスをされるなんて当然初めてだ。
ぽっぽと耳まで真っ赤になりながら、時雨は消え入りそうな声で呟いた。
「阿形さんは……僕なんかで良いの?」
「最初に出会った艦娘が時雨だった事は俺の人生最大の幸運だったと思ってる」
「そんな、大袈裟だなあ」
出会った時の自分は絶望に暮れた顔をしていただろうか。多くの人から貶され貶められ、口数も少なくなった自分は彼の瞳にどんな風に映っていたのだろう。そういえばあの日の夜もこうして一緒にご飯を食べたっけ。それほど時間は経っていない筈なのに、遥か昔の事のように感じられる。
握られた手を愛おしそうに眺めながら、時雨は彼に向けて微笑を浮かべた。その瞳から滲んだ涙が一滴の雫となって時雨の頬を流れ落ちていく。
――僕はきっとこの日の事を一生忘れない。
「それじゃあ、お願いします」
時雨の言葉に彼はこくりと頷いて、静かにその唇を彼女の左の手の甲に優しく触れさせた。時間にして数秒にも満たない僅かな刻、しかし時雨はその瞬間確かに満たされた。
「ふふっ、なんだかくすぐったいや」
「なんか悪いな。巻き込んじまったみたいで」
「そんなことないよ。こうして男の人から誓いを受け取るのって世の女の子の憧れなんだ。だからちょっと優越感」
そう言って本当に嬉しそうに手の甲を眺める時雨。
感覚的には元の世界で言う女の子からほっぺにキスされたみたいなものに近い気がする阿形である。
「相手が俺ってことで、残念ながら自慢にもならんだろうけどな」
「……阿形さんはこれ以上他の艦娘とは出会わない方が良いかもね」
主に艦娘の脳破壊的な意味で。
「な、なんでだよ! 俺はもっといろんな艦娘の子と会ってみたいぞ!」
「全世界でもそんな事を高らかに宣言できるのは阿形さんぐらいだろうね」
改めて食事を続けながら、他愛もない話に花を咲かせる二人。
異世界から現れた青年と世界の歪みに翻弄される少女の点と点が本当の意味で繋がった今この瞬間を、女神は一体どんな表情で眺めているのだろうか。
「それで、阿形さんはこれからどうするか決めたのかい?」
「ああ、悩んでいたけど、決めたよ」
今日、時雨の傷付いた姿を目の当たりにして、この平穏は当たり前ではない事を知った。同時に艦娘を取り巻く環境の過酷さを垣間見た。
彼はまだ艦娘の事を何も知らない。
「俺はもっと艦娘の事を知りたい。そのために当面は藤原提督に仕事を振ってもらう事にする」
「それは僕たちのため?」
「それが半分、あとの半分は自分のためだな」
この世界で彼ができる事はまだ多くは無い。しかしこの決意はこれからさらに多くの艦娘の心を救うのだろう。
時雨は彼を見ながら、なんとなくそんな事を考えていた。
でも。
――あんまり頑張り過ぎちゃうと、僕のところに来てくれなくなっちゃうかもしれないからほどほどにお願いしたいな。
「時雨、どうした? 傷が痛むか?」
「ううん、大丈夫。阿形さんのために僕もこれからもっと頑張るよ」
「ほどほどにな。戦っている以上。怪我をするのは覚悟の上だろうが、それでも傷付いた仲間を見るのは心が痛む」
どこまでも優しい彼の言葉に、時雨は優しく苦笑した。きっとこれから彼の周りにはどんどん人が集まってくる。だからこそ自分は今以上に頑張らなければいけない。その人たちに埋もれない様に、その人たちに負けない様に。彼の頭の片隅でいいから忘れられない様に。
でも不思議と怖くは無い。
「これからどんな未来が待っているのか、楽しみだな」
きっとそれは彼が居てくれるから。
コップの中の氷をカランと動かしながら、これから起こるであろう出来事に時雨は一人想いを馳せるのだった。
ちなみに夕立が彼のTシャツを着て帰った事を知った時雨は、一念発起して同じようにおねだりした事で見事彼のTシャツをゲットした事をここに記しておく。
ここで一先ず導入部終了です。
次話からもう少し世界が広がります。
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