艦娘である赤城にとって、欲とは自制するものであった。
この世界は様々な欲望で溢れている。金欲、物欲、承認欲等々、挙げだしたらキリが無いが、その中でも男の少ないこの世界で特に顕著なのが女の持つ色欲だ。
この世の中で女が男と恒常的に関りを持てる事は滅多にない。一時的に関われる事はあれど、それは仕事や任務といった形式上のものが大概で、大体が一度きりの付き合いで縁が途切れてしまう。それ故に個人的に男と関りを持ち続けられる事が、女にとってどれほどのステータスに成っているかはもはや語るまでも無いだろう。
別にそれが悪い事だとは赤城も全く思わない。古来より子孫を残そうと異性に関心を寄せる事は生物として至極当然であるし、そうであるべきだとさえ思っている。
ただ、その希少で限りあるお鉢が自分に回って来る事は無いと彼女は理解しているわけで。
艦娘は醜い。そしてそれが答えの全てだ。
身の丈に合わない希望や欲は、自分を苦しめるだけ。叶う望みの無い希望なんて最初から無いのと変わらないのだから。
心が平穏であれば、日常に波風が立つことも無い。
同時に、漫画の世界のように突然世界が変わるような出来事も起こらない。
艦娘としての使命と信頼できる仲間と上司、加えて少しばかりの娯楽を嗜む日々。それが赤城という艦娘の構成する世界の全て。
そしてそれはこれからも変わる事は無い。
そう思っていた筈なのに。
「……おかしい」
とある日の昼下がり、自身の警備府の食堂で赤城はなにやら一人唸っていた。テーブル上には山盛りの御飯とおかずが載った盆が一つ置かれている。
そんないつもなら嬉しいはずの昼食だというのに、現在の赤城の眉はどういう訳かぐぐっと中央に寄っていた。
というのも、理由はある。
「……最近、妙に私の周囲の仲間たちに男性の影がチラついているような気がしてなりません」
ぶすりとフォークでニンジンを突き刺してそれを口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼しつつ頭を捻らせる赤城。
まず第一の異変は加賀だった。
先の大戦にて栄えある一航戦として共に戦場を駆けた艦としての加護をお互いに持つ、現代でも旧知の仲である彼女が突然男との出会いの話を持ち出してきた。
なにやら急遽着任が決まった若い男の軍人らしく、最初こそ加賀たちも困惑したらしいが、艦娘である彼女たちを嫌悪するでもなく、むしろ積極的に関わろうとしてくるとても気の良い青年軍人なのだと鼻高々に説明されたのが少し前の事。
話を聞いて赤城は、そんなわけあるかと内心で盛大にツッコミを入れた。
そんな艦娘に都合の良い男が簡単に居てたまるかと、同時に加賀の精神の摩耗が酷く心配になった。
「最初はストレスのはけ口としてのめり込んだ乙女ゲームと現実の区別がつかなくなってしまったのかと思いましたよ」
彼女はストレスや疲労で幻覚でも見えてるのではないか、と藤原提督に何度も確認を入れたが特に変わった様子は無いと返されるばかりで真相は闇の中に終わった。
その後はどういうわけか男の話をしなくなった加賀に、現実を見れるようになったかと安心したのも束の間、すぐに次なる異変がやってきた。
夕立がぶっかぶかの男物のTシャツ姿で任務から帰ってきたのだ。
「いったいあの子は何処で拾ってきたんですか、あんなもの」
ブロッコリーをもしゃもしゃと頬張りながら、当時を思い返し頭を抱える赤城。
結構大変な任務だったと聞いていたのに、帰還してきた夕立の表情は輝く太陽のように満面の笑みだった。経緯を聞いても興奮しているのか要領が掴めず、かろうじて把握できたのがとても優しい男の人と沢山お話が出来た事と、その人にそのTシャツを貰った事くらい。
夕立は普段から直観と感覚で物事を話す癖がある。
なのでどこからどこまでが本当で、どこからが夕立の妄想なのかさっぱり判断ができなかった。
要約すると任務後汗や怪我で汚れた艦娘である夕立の姿を全く気にせず仲良く会話した後、土産に自分の私物であるTシャツを無償でくれた男が居たという事になるが、なんだそれはどこの菩薩だ。
「確かに、藤原警備府に男性の新人の方が着任された事は聞いていますが」
事実九条からその話は聞かされていた赤城だ。だがそれだけだ。男の軍人が着任した事なら此処の警備府にも二度ほどある。そしてそのどちらも一週間ほどで我々艦娘に悪辣な罵声をぶちまけながら辞めていった。
普通はそうである。だから居る訳が無いのだそんな男性が。
藤原警備府に男が居るという事実は認めよう。だが艦娘に都合の良い男の存在などとても信じられない。たとえ表面上そうであったとしても、その裏には間違いなく何か企みがある筈だ。
「まあ、そんな企みなんて顔を見ればおおよそは分かりますしね」
悪意に慣れ過ぎた所為で、身に付いてしまった皮肉な能力だ。心根が純粋な龍驤や夕立、人を信じやすい時雨や加賀にはおそらく分からない感覚だろう。
「まあ……さほど気にしなくても、あと数か月もすれば流石に嫌になって辞めていくでしょう」
どんな企みがあろうと、艦娘ばかりに囲まれて過ごす生活にずっと耐えられる男など存在しない。それに所属警備府が異なる自分にはそもそも関係のない話だ。
「表面上に騙されてしまっている夕立や加賀には少し酷ですが、良い薬として今後の糧にしてもらいましょう」
何にせよその男と出会う機会は赤城には無い。
とりあえずそう結論付けて、彼女は食事へと集中するのだった。
その三日後。赤城は提督に呼び出された執務室でわなわなと震えていた。
「だ、男性の方の実地演習依頼を受け入れるのですか?」
「ああ」
赤城の問いに、九条は事も無げに肯定する。
手渡された任務依頼の詳細が書かれた用紙に指で皺を寄せつつ、赤城は混乱する心を抑えつけるように普段と同じ声音を絞り出した。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「先生から直々の依頼だ」
あっさりとそう答える九条。
しかし赤城には分からない。彼女と藤原提督との間柄は重々理解しているつもりだが、それでも他人にほとんど興味を持たない目の前の人物が軽々しく男を受け入れるとは到底思えない。
事実、軍本部からの直接的な指令以外で彼女は男はおろか、女の実地演習依頼さえ引き受けたことはなかった。
なのに何故。
「不満か?」
ふいにそう問われ、赤城は慌てて背筋を伸ばした。
「い、いえ、決してそういう訳では」
「隠す必要はない。お前が男という存在に疑念を抱いているのは知っている。だが、良い機会だ。一度彼という存在に触れて、見識を広げてみろ。何か新しい発見が見つかるかもしれんぞ?」
不敵な笑みを口元に浮かべながら、九条はそんな言葉を告げてくる。
まるでその男の事を知っているかのような口ぶりだ。
「この男性を御存じなのですか?」
「以前に少しだけ会話をした程度だ。と言っても携帯越しでだがな。彼には夕立の件で一度世話になっている」
以前とは、つまり例の疑惑のTシャツ事件の時の事か。
九条の説明を聞きながら、赤城は多少なりとも今回の経緯を理解できた。世話になったとは聞こえは良いが、裏を返せばそれは立派な借りでもある。相手がどう思うかはともかくとして、他人に借りを作るのが嫌いな彼女の事だ、今回の依頼の受諾はその借りを返す意味もあるのだろう。
「この件、他の二人には」
「龍驤には先ほど妖精に書類を持っていかせた。今頃、内容を読み込んでいる事だろう。長期遠征任務中の夕立には伝えていない。予定では帰還は演習が始まった後だ、下手に先に伝えて遠征先で早く帰りたいとゴネられても困るからな」
夕立のゴネ散らかす姿でも想像したのか、九条の表情にはやや苦笑が浮かんでいた。
普段は素直で人一倍明るい夕立だが、一度へそを曲げてしまうと暫くは何をしても機嫌が直らないという頑固な側面も併せ持っている。
立場的に要望を断らざるを得ない事の多い――それでも相当甘いが――彼女にとって夕立の機嫌を取る事はある意味どんな艦隊指揮よりも難しい事なのかもしれない。
ともあれ、提督が決めた以上それに反対する意思は赤城には無い。
「説明は以上だ。他に何か質問は?」
「いえ」
だが期待はしない。どれだけ耳触りの良い言葉を並べられようと、最終的に辿る結末は見えている。
心の動揺は様々な不協和音へと繋がっていく。だからこそ心を乱さない事が肝要だ。
再度資料に視線を落とし、もう一度顔を上げた時には既に赤城の瞳から動揺の色は消え去っていた。
「え、えらいこっちゃで、赤城!」
その一方で、部屋の外に何故か居た龍驤は滅茶苦茶心を乱されていた。用紙を手にしているところを見るに、内容を確認していてもたってもいられず執務室から赤城が出てくるのを待っていた可能性が高い。
ともに自室へと続く廊下を歩幅を合わせて歩く。
「例の演習の事なら、たった今提督から聞かされたところです」
「さ、さよか。って事は間違いではないんやな、若い男の軍人が此処に実地演習に来るっちゅう話は」
はーっそかそかとつぶやく龍驤の様子を赤城は横目で観察する。
その様子は期待半分不安半分といった感じで、何度も用紙を眺めては奇妙な溜め息を繰り返す龍驤に、赤城は努めて平静な声音を意識しながら忠告を言葉にした。
「あまり期待しない方が身のためですよ」
「分かっとるよ。この前痛い目見たばっかりやしな、流石のうちもそこまで夢見がちやあらへん」
この前の話を根に持っているのか、どこか拗ねたように龍驤が言う。
とはいえ赤城としても嫌味で言っているわけではなく、純粋に優しい龍驤が傷付く姿を見たくない故の忠告ではあるのだが。
「夕立には連絡行ってんのかいな」
「任務に支障が出てはいけないので、伝えていないそうですよ」
「あー、確かに夕立の事や、騒ぎそうやもんな」
数分前の提督と同様の想像をしたのか、龍驤はたははと乾いた笑みをこぼした。
そのまま二人して、静かな廊下をゆっくりと歩く。
「……良い人やとええなあ」
龍驤はきっとこれからも希望を持ち続ける。たとえどんな理不尽な目に遭っても、彼女はそこからすぐに立ち上がって前に進める艦娘だ。男に関心があるのも勿論だが、少しでも艦娘への見る目を変えていきたいという思いも人一倍強い。
それは彼女の良いところでもあり、同時に赤城にとって少し羨ましい部分でもあった。人としての強さと弱さは表裏一体で、龍驤はまさにそんな心の持ち主なのだ。
「……そうですね」
龍驤の言葉に赤城も小さく同意を返す。
希望や欲は未だ持つ気にならないが、この健気で優しい心を守るためにも自分が油断するわけにはいかない。自分の目で見極めるのだ、経緯はどうあれ、大切な仲間と平穏な日常を脅かす者には容赦をするつもりはない。
龍驤の小さな歩幅に合わせながら、赤城は人知れず決意を新たにするのであった。