視線の先、自身が発艦した艦載機の目標とした場所からもくもくと黒い煙が上っている。
同時に索敵機の妖精から敵艦反応完全消失の報告を受け、龍驤はそこで初めて小さく息を吐いた。戦闘で激しく波打っていた海面もゆっくりと穏やかな水面に戻っていく。
「んー、敵影反応無し! 任務完了じゃなっ!」
本日の旗艦である重巡洋艦、利根がその溌剌とした声で高らかに勝鬨を上げる。少し離れたところで接敵していた別部隊からも無事任務完了の報告が届き、利根はその愛嬌のある八重歯をのぞかせながらニカッと笑ってこちらにVサインを送ってくる。
そんな彼女に軽く手を上げて応えながらも、龍驤は内心で何処か戸惑っていた。
体調面に問題は無い。艦載機の発艦はスムーズだし、目標位置とのズレも無くピタリだった。いつもは煙や波で失いがちな視界もやけに鮮明で、発艦した艦載機の操縦性も妖精を通してとても滑らかに感じた。
別に調子は悪くない。いや、この場合
なにしろ敵を撃破するよりも鋭敏になりすぎた感覚を抑える事の方が大変だったのだ。突然感覚を共有している艦載機の妖精がアクロバット飛行を始めた時は流石の龍驤も焦った。彼女たちも自身の乗る艦載機のあまりの操縦性の滑らかさにテンションが上がっていたようだった。
感覚も艤装の性能も普段とは明らかに違う。だが、その理由が分からない。
「うちの隠されていた力が急に覚醒した、ってわけでもあらへんやろしなあ」
それなりに長い艦娘の歴史でもそんな突飛な話は聞いた事が無い。とはいえ気分だけでなくここまで性能面でも上昇が顕著だと、単に調子の問題で片付けて良いものでもない気がする。
これまでも調子が良いと思った事は幾度となくあったが、これほどはっきりと自覚したのは初めてだ。だからこそ戸惑っている。
「龍驤、なにしとるんじゃ。帰投するぞ?」
「ん、了解や」
任務中という事も忘れて考え込んでいると、いつの間にか隣まで近づいてきていた利根が怪訝な表情で覗きこんでくる。そのまま二人ですっかり凪いだ水面をゆっくりと進んでいく。
「それにしても今日の龍驤はなんぞ凄かったな! 吾輩あんな曲芸みたいな旋回をする艦載機を初めて見たぞ!」
「あー、やっぱそう見えた? なんやうち、今日異常に調子良かってん」
興奮した様子でツインテールを揺らす利根にとりあえずそう答えておく。
傍から見ていた彼女でもそう感じるほど、やはり今日の龍驤の動きは際立っていたようだ。だとするとますます謎は深まるばかりだ。
「少し見ぬ間にずいぶんと練度を上げたのじゃな」
隣を進む利根が感心したように一人勝手に頷いている。
練度とは艦娘がその艤装をどれだけ使いこなせているかを測る指標のようなもので、工廠にいけば妖精がいつでも専用の装置で計ってくれる。それは演習や実戦を通して上昇する、ゲームなどでよく目にするレベルのような概念であり、軍では分かりやすく統一して練度と定義している。
現在では一部の例外を除いて1から99まで数値化されていて、当然数値が上がるほど性能面も上昇するため、その値が高い艦娘ほど艤装を使いこなしていると言って差し支えない。
未だに謎の多い艦娘の性能面において唯一と言える明確な指標でもあり、同時に彼女たちの性能の上昇は国の存亡の未来に直結するため、軍はあの手この手で様々な方法を模索しているが、今のところ艦娘本人たちの地道な努力以外に性能を上昇させる新たな発見があったという正式な報告は無い。
それとは別に彼女たち自身にとっても仲間の戦力増加は単純に任務の成功率を上げてくれるため、こうして利根も龍驤の見違えるような変化に感心しているわけなのだが。
「いや、実のところ練度は前会った時とほとんど変わってへん」
「なんじゃと?」
龍驤の言葉に利根が大袈裟に反応を返してくる。
「任務前の練度確認で嫌というほど見とるから間違いない。それにうちかて新人やないんやからそうほいほいと練度が上がらん事ぐらい利根も分かっとるやろ?」
「むむむ、確かに」
任務前の練度確認は必ず行われる上、練度は上がれば上がるほど上昇しづらくなる事は提督になるような者なら誰でも知っているような基本事項だ。それ以前に利根とは任務や演習でよく一緒になる間柄。本人は少し見ぬ間にとか大仰に言っているが、前回会ったのは本当にほんの二週間ほど前の話。そんな短期間で練度に大きな変化など起きるべくもない。
「とはいえだからこそうちも、自分がこんなに調子がええ理由が分かっとらんのやけども」
「ま、まさか赤城の性能に対抗しようとしてドーピングのような怪しい何かに手を出したのかっ!? い、いかんぞ、早まるでない!」
「しとらんしとらん」
何か妙な事を口走りつつ肩を掴んでくる利根に、ぐらぐらと揺さぶられながら龍驤は軽い口調で否定の言葉を挟み込む。
「試してへんからなんとも言われへんけど、薬とかそんな危険を冒してまで練度を急に上げても意味ないやろ」
「そ、そうじゃな。でも、本当に心当たりは無いんか?」
「……心当たり」
利根に言われて、龍驤は改めて考える。
言われてみれば、今朝の鍛錬の時も妙に調子が良かった事を覚えている。しかし昨日は普通だった、朝起きた時も同様に。その観点で考えると、理由となる物事が起こった時間は自ずと限られる。それはつまり早朝会議から、鍛錬までの間。
となると変化の原因はもしかして――彼に触れられたから?
「…………いやいや、ありえんやろ」
脈絡も無く脳内に浮かんできたのは今朝の艤装確認の時間。異性である彼から初めて触れられた両腕の感覚を思い出して、龍驤は跳ねる動悸を無理やり抑えつけるように言葉で思考を否定した。同時に首筋にかけて熱が上ってくるのを自覚する。
こんな事だから赤城に夢見がちと呆れられるのだ。
彼が任務で、仕事で来ているのは分かっている。この予想がどれだけ的外れで、願望に満ちた欲深い世迷言である事も。
それでも頬が緩んでしまうのを龍驤は抑えられなかった。
彼から触れてくれた事が、その緊張が、熱が、その両手を通じて伝わってくる優しさや温かさが本当に嬉しかったから。
「おわあっ、なんじゃあ!? 何か考えておると思ったら急に茹でたタコみたいに真っ赤になりおった!?」
とはいえ恥ずかしい事に変わりはない。
意志ではどうにも止められない龍驤の身体の変化を見て、利根が吃驚仰天といった様子を見せてくる。
「と思ったらなんぞニヤニヤしとるっ!? どうしたんじゃ龍驤、どこか体調悪いんかっ!?」
「……見んといて」
何を勘違いしたのか、余計顔を覗きこんでくる利根に龍驤は真っ赤な表情のまま弱弱しく拒絶の言葉を投げかける。まるで羞恥の心を暴かれているようで龍驤は必至で顔を背けるが、無情にも利根が回り込んでくる。察しろという言葉は、単純明快な思考の持ち主の利根には些か難しいようだった。
「何故じゃ!? 何故龍驤は涙目で真っ赤になりながらニヤニヤしとるんじゃ!? 吾輩はこういう場合どうしたらいいんじゃ!?」
「……やから見んといてぇ」
「ち、ちくまァーッ、ちくまァーッ!」
穏やかな海に緊迫感の欠片も無い二人の会話が流されていく。
結局二人の珍道中は他の部隊のメンバーと合流するまで続いたのだった。
次の日、朝食に赴いた俺を待っていたのは地獄だった。
既に他の三人は席に着いている。それなりに広い食堂の空間で、円卓のテーブルに固まって黙々と食事を取っている。
此処では別に朝食を揃って食べるなんて取り決めは無い。とはいえ揃っていても別に良い。仲間なのだから一緒に食事をする時があるのも当然だ。
じゃあ何が地獄かって? そりゃ空気だよ。
「……おはようございます」
「ああ、おはよう」
「…………」
「…………」
「…………」
既に準備されてあった俺の朝食の席に座って挨拶するも、返ってきたのは九条提督からのみ。ちらりと周囲の様子を伺うも、誰一人として視線が合う事は無い。
理由は分かってる。間違いなく昨日の風呂の件だ。現在行動を共にしていない鳳翔にもバレていたぐらいなのだ、彼女たちが知らないはずが無い。
丁度対面に座る赤城から、溢れんばかりの怒気が立ち昇っているのをまざまざと感じる。俺から何か切り出すべきかとも思ったが、あの顔を見たらとてもじゃないけど口を開けない。開いたら最後、圧縮された怒気がテーブルもろともすべてを吹き飛ばしてしまうのではと慄いたから。いや割と本気で。
「……提督、何故取り決めを破ったんです?」
「ん? すまん、聞いてなかった」
赤城の地鳴りのしそうな底冷えた問いに対し、九条提督がノータイムで正気を疑う言葉を返した。もはや心ある人間の選んだ言葉とは思えない。なのに当の本人は全く気にした様子も無く、片手を上げてすまんすまんと能天気に軽すぎる謝罪を述べている。間違いない、この人は地雷原を草履で歩けるタイプの人だ。
そんなイカれた上官を一頻り絶対零度の視線で見つめた後、赤城はまるで地球の裏側まで届くかの如く、それはもう深い深い溜め息をお吐きになられた。この奇人を長年支える部下としての艱難辛苦が詰まった盛大な苦労を感じて、俺は内心で深く彼女に同情した。もちろん代われと言われても絶対拒否するが。
そんな赤城の弛緩した様子に、加賀と龍驤の肩の力も同じくゆっくりと抜けていくのを感じる。どうやらこの二人も赤城の怒気にあてられていたらしい。
「貴方は本当に……阿形さんが訴えていたら、今頃普通に捕まってますよ?」
「まったくもってその通りだな。いやはや彼が寛容な人物で助かったよ」
わざとらしい九条提督の物言いに呆れた様子の赤城が、くるりとこちらに視線を移してくる。
「阿形さん、うちの提督が本当にすいません」
「ああ、いや」
「女性が男性の入浴中に押し入るなど、極刑でもおかしくない事だというのに」
え、そんなに?
しかしよくよく考えてみると、俺は別に何も損をしていないのにこうも九条提督にだけ罪を被せ続けるのもそれはそれで良心が痛むというもの。確かに多少なりとも強引ではあったが、結果としては美人と入浴を共にできたという男の夢を叶えてもらえたのだ。それを一方的に謝罪されるというのもおかしな話。
何よりこんな事で彼女たちと九条提督の間に不和が生まれて欲しく無い。ここは多少恥を掻いてでも、男気を見せる場面と捉えるべきではないだろうか。
「いやいや、そんなに深刻にならなくても大丈夫だって。九条提督だって友好を深めるためにわざわざ来てくれたわけだしな」
「うむ、彼の言うとおりだ。見ての通り彼と私は昨日の一件を通してより強固な信頼関係の構築を――」
「貴方は少し黙っていてください」
「――うむ」
「なんで提督は普段優秀で頼もしいのに、たまにこうも残念になるんやろな」
「人間とは得てしてそんなものよ、龍驤」
赤城の一撃に撃沈した九条提督が悲しげな瞳で静かにもそもそとサラダを咀嚼している。何故フォローしようとしてるのにこうも無駄に首を突っ込んでくるんだ。
「阿形さんも無理に庇う必要性はありませんので」
「いや無理に庇ってる意識は無いというか、とにかく驚きはしたけど決して不快だったわけではないという事は伝えておきたい」
「女性が入浴中に入ってきて……不快ではない?」
まるで理解できない、といった表情の赤城に加えて、他の二人からも謎の湿り気を帯びた視線が届けられる。なんとも奇妙な空気だ。いまいち俺の意図が伝わっていないように感じる。
「いや、だって俺も男だからな?」
「それは見れば分かりますが」
やはり伝わっていない。……いや、ここは恥を覚悟で真意を伝える場面だ。彼女たちはその出会いの少なさからか、どうにも男というものを高潔な存在として見ている節がある。しかし実際の男はそんな良いものでも立派なものでもなく、普通に女性に対して下心やスケベ心のある一人の人間だという事をここらで理解してもらう必要がある。
いや……あるよな? いくら女嫌いの男が多いからって人類の三大欲求の一つを失うなんてことは流石に有り得ない筈だ。
なによりただでさえ誤解を生みやすい常識のズレがあるんだ、後からイメージが壊れたなどとなって、彼女たちの俺に対する好感度が地面にめり込む事態だけは絶対に避けなければいけない。ならばいっそここで多少下げてでも、本当の俺を理解してもらって今後の挽回に期待する方が間違いなく合理的だ。
とはいえ恥ずかしいものは恥ずかしい。女神よ、今だけで良いから俺に勇気を!
「まあ、なんというかアレだ。俺も一人の人間であると同時にその辺にいる平凡な男なわけであって」
「……男性はその辺にはおいそれといませんが」
ええい、もうまだるっこしい! なるようになーれ!
「俺も一人の男なんだから美人の女と一緒の風呂なんて興奮してラッキーと思う事こそあれ、不快だなんて微塵も感じる暇ないって話だよ!」
「はえ、あ、え?」
ぐおお、猛烈に顔が熱い。自らの恥ずべき部分を曝け出すと言うのはこれほどまでに体力と精神力を必要とするものなのか。見れば三人はぽかんとした表情で暫く俺を見た後、慌てたようにお互いを手招きして緊急会議を開き始めた。九条提督は何故かテーブルに突っ伏して肩を震わせている。まあ、彼女にとっては今の俺はさぞ滑稽に見えている事だろう。笑いたければ笑え、ちくしょう。
だがしかしこれで多少なりとも彼女たちの俺を見る目も、実際あるべき状況へと戻るだろう。
阿形の衝撃的な発言を前におなじみの緊急会議を始める三人娘。
「か、彼はいったい何を言っているのか理解できた人はいますか?」
「言葉の意味だけを捉えるのならば。彼は九条提督との入浴に性的興奮を感じていたという事になる……のかしら?」
「混乱しすぎて疑問符ついてもーてるがな。いや、でもこういうのもなんやけど……九条提督の容姿ってうちらとあんま、差、ないやんな?」
互いが互いを見つめる視線に、嫌でも期待感が滲み出るのが理解できてしまう。
阿形にとっては自身への理解を決定づける決死の暴露でも、彼女たちにとっては決して手に届く筈のない学園のマドンナが突然頬を赤らめながら『一緒にお風呂なんてびっくりしたけど、ちょっと興奮しちゃったわ。実は私、あなた達のような容姿がタイプなの』と言ってきたようなものだ。
だが今までのようにお世辞で片付けられない熱い何かが彼の言葉にはのっていた。現在彼女たちの心には程度はあれど、もしかしたらという期待と、無駄な希望は持つなという冷めた理性が両天秤に掛けられている。とはいえまだまだ傾きは平行にはならないが、それでも最初は全く下がりすらしなかった期待の天秤が多少なりとも揺れを見せるようになっただけでも驚くべき進歩である。
証拠に最初はその天秤すら心に無かった赤城ですら、揺れる心に動揺を隠しきれないでいる。
阿形が知ればこんだけ言ってまだその段階なの? と頭を抱えそうだが、彼女たちにとっては人類が初めて月面に踏み出した歩幅と同じくらい大きな前進の一歩なのだ。
「もしかして阿形さんって特殊性癖の持ち主なのかしら?」
「いえ、単純に九条提督の顔と身体が奇跡的に阿形さんの好みと一致したと言う可能性は捨てきれません」
「気付いてへんやろけど、加賀も赤城も普通に二人に超失礼な事言ってんで? けど……うちらにもワンチャンス、いやツーチャンスぐらいあるって本気で思ってもええんやろか」
阿形からすれば年中空いてるコンビニの自動ドア感覚でも、龍驤たちからすればアリの巣穴から出口を見つけ出すぐらいの非常に狭いチャンスへの道。
それでも肝心なのはそれがゴールへと繋がっているかどうかだ。今までは入口に入ろうともしていなかった足を前に踏み出させるだけの効果は間違いなく阿形の言葉にはあった。
「……彼にも性欲ってあったのね」
「ちょ、加賀さん鼻血! 何を想像してるんですか!?」
「何ってそれはもう彼とのめくるめく夜のナニを――」
「戯言はええから早く鼻血を止めえ!」
警備府の朝食風景としてはいささか騒がしいやりとりの時間が、陽気な喧噪にのって過ぎていく。
結局阿形の目論見通りにはならなかったとはいえ、艦娘の少女たちの彼を見る目は確かに変化を見せたのだから、決して失敗だったというほどの事ではない。
ただ彼の受けた心へのダメージと釣り合うかと言われたら、首を傾げざるを得ないが。まあその辺りも含めて彼の今後の努力に期待したいものである。