月明かりに照らされた地面をぽつぽつと一人歩く。
一歩踏み出すたびに、右手に持った水の入ったボトルがちゃぷちゃぷと音を鳴らす。その足取りで、叢雲は警備府の宴会場の裏にあったベンチへと静かに腰を下ろした。
離れた場所からは、未だ賑やかな喧噪の音。
適度に満たされたお腹の中の消化促進と気晴らしついでに、叢雲は一人外の空気を吸いに出ていた。
「……ふう」
肺の中のくぐもった空気を、入れ替えるように一度大きく息を吐く。少しばかり火照った頬を、夜風が冷ましてくれるみたいで心地よい。そのまま両足をベンチから投げ出して、全身の力を抜いて完全に脱力する。
「なに……? 別に逃げてきたわけじゃないんだけど」
肩にちょこんと乗って煎餅を頬張りながら、こちらを眺める妖精のお腹をちょこんとつつく。
そう、叢雲は決してあの喧騒が嫌で逃げてきたわけではない。
ただ、今日は少しばかりいろいろありすぎた。いや、いろいろというには語弊がある。というのにも、顔合わせ、演習、夕食と、今日あったどの場面を切り取っても“彼"の存在が常に叢雲の気を張らせていた。
他の警備府への遠征も、演習も幾度となく経験してきた事ではある。
ただそこに一人“彼"という存在をぽつんと入れるだけで、ここまで心が揺り動かされるとは。自分のことながら、にわかには信じられない精神状態が続いている。
――阿形誠二。叢雲が知る限り、艦娘と平気で会話ができる唯一の男。
彼の事は嫌いではない。むしろ、人間性という意味では好感が持てる人物だと理解できる。
――だが、男だ。
これが同性であったならば、まだ人を見た目で判断しない稀有な人物として受け入れられたかもしれない。
――だが、男だ。
流石にこれは都合が良すぎて、全く理解が出来ない。
叢雲としても異性に興味が無いわけではない。だがこの容姿が他人にどう思われるかなんて、長年の経験からもはや考えるまでも無い、と半ば達観したような、諦めの境地へと至っていた。
生まれながらに超えられない容姿に対するカースト制度。艦娘になるような人間なら、否応なしに囚われる無慈悲で雁字搦めな現実。
それをいとも容易く根底から根こそぎ覆してきそうな阿形の存在は、あまりにも刺激が強すぎる。
――俺は夕立達艦娘の容姿に好感を抱いているからな。
思い出されるは、先日の遠征先での彼の言葉。
まだ、騙されていると言われた方が納得もできる。だが、夕立を含めた他の艦娘の態度と、九条警備府で一か月近く、彼女たちと良好な関係を築いている事実がそれを否定する。
「あ~~っ」
同時に初対面で不必要に彼に引っ付いたりした事を思い出し、叢雲は羞恥で髪をわしゃわしゃと掻き毟った。
あの時は品定めの意味合いも強く、そこまで関係性を深める事にはならないだろうと変な楽観視をしていた事もあって、不覚にも油断していた。
彼の精神性は艦娘にとってあまりにも眩しすぎる。
普通の年若い男性が他愛も無い話で当然のようにその笑顔を向けてくれることが、普通であって、普通でない事に彼は気が付いていないのだろうか。
おかげでずーっと動悸は凄いし、頬は勝手に赤くなるし、彼と居ると本当に落ち着く暇がない。しまいには長年忘れていた、海に出た後の自身の身だしなみまで気にしてしまったのだから相当に重症である。
だからこそ、こうして適度に彼から離れて、ヒートアップした熱を冷ますという行為が必要になる――
「お、叢雲、こんなところにいたのか」
「…………」
「え、なにその顔……怖い」
噂をすれば影が差す。
今日一番の動悸の早鐘を誤魔化すように、叢雲はそれはそれは大きな溜め息を吐きだすのだった。
「いやはや参ったよ。加賀達の飲むペースが上がったと思ったら、九条提督達まで混ざってきちゃってさ」
一言断りを入れて、叢雲の隣のスペースに腰かけた阿形は若干げんなりした表情でそんな事を口にした。
どうやら彼の場合、本当の意味で乱痴気会場から逃げてきたらしい。
「さっきまでも、結構飲んでたと思うけれど」
「いや、やんわりと止めたんだ。けど、あの蟒蛇たちを相手に、俺の力はあまりにも無力だった」
「……そう」
夜空を見上げて、遠い目を見せる彼。
よく見れば、シャツやズボンの至る所に引っ張られたような跡が残っており、まるで戦に負けた敗残兵のような雰囲気を纏う阿形に、叢雲はどうにも掛ける言葉を見つけられない。
酔った勢いで男性に不埒を働くなど、世が世なら極刑モノである。
「身内が迷惑を掛けてしまったようで、ごめんなさい」
「ああ、いやいや。別にそれはいいんだ、本当に。ただ、あの勢いに飲まれて俺まで潰れるわけにはいかないからさ。休憩がてら、申し訳ないんだけどちょっと席を外させてもらってるってだけだよ」
確かに、今この場で阿形が酔い潰れていたら一体どうなっていた事か。
叢雲は一人苦悶する。男女比1対10で飲み会という、普通の男性が聞いたらその場で気絶しそうな圧倒的修羅場で、あろう事か道理を弁えているのが男性側だというのだから救えない。
「他人への気遣いは美徳だけど、何事も行き過ぎは良くないわ。特に男性である貴方にとっては、付け込まれる隙にもなる」
「それは……肝に銘じておくよ。でも、やっぱり嬉しいんだ」
阿形の言葉の意図が分からず、きょとんとした顔になる叢雲。
「艦娘の皆って、やっぱりどこか遠慮がちなんだよ。本当はもっと自分を出して良いのに、どうしても環境がそれを許さない部分ってのがあるだろ?」
自我を出すには少なからず自信がいる。
罵倒され、蔑まれてきた人生の背景にはどうしても劣等感という負の感情が付き纏う。それを抱えたまま、自己の存在を主張するというのは、それこそ並大抵にできる事ではない。
「本当の自分を晒すのって、勇気が要る事だと思うわ」
「そうだな。それに自分自身の価値を認めるには時間が掛かる事も理解してる」
それこそ、ひび割れた心のパズルをひとつひとつ拾い上げていくような、途方もない時間が。
「でも、今日は少しだけど、皆の素の姿が見えた」
穏やかで、優しい声音。
そんな風に話す彼の姿は本当に嬉しそうで、
「俺が男だから、気を使って貰えるのは有り難い事だよ。それに酒の席って事も分かってる……それでも俺は、こうして気兼ねなくバカ騒ぎできるくらいには、素の自分を見せてくれたってのが、何より嬉しいんだ」
阿形の言葉に呼応するように、彼を囲む周囲の妖精の光がひときわ強い輝きを見せる。
それはまるで夜空に輝く一等星の様に、彼を優しく包んでいるかのようだった。
「……変な人」
「まあ、自覚はあるよ」
「誉め言葉よ」
「叢雲の言葉はたまに難しいな」
この人の隣は心地よい。
そんな、どこかふわふわとした心持ちのまま、暫し二人で星の瞬く夜空を眺め続ける。
「一つ、聞いて良いか」
「なにかしら」
「叢雲って、なんで艦娘になったんだ?」
彼の問いかけに、叢雲はうーんと人差し指を顎の下に添えて首を捻る。
「あまり面白い話でもないわよ?」
「言いたくないなら、無理に聞かないよ」
別に面白い話でもない、かと言って誰にも話せない類のものでもない。
組んでいた足を一度組み替えて、叢雲は遠い記憶を探るようにぽつぽつと話し始めた。
「幼いころ……それこそ預けられた孤児院から仲の良かった友達が一人いたの」
叢雲は孤児であった。
とはいえこの世界では珍しい話では無く、国からの補助金目的に子供だけ生んで、すぐに孤児院に我が子を預ける親というのは一定数存在する。そして例にも漏れず、叢雲はそんな孤児院に預けられた一人であった。
「小さいころって、容姿がどうとかってほとんど気にしないじゃない? それより近くにいる子と仲良くするみたいな、私とその子もそんな感じですぐに仲良くなったの」
「所謂幼馴染ってやつか」
「そうね、そう言ってもおかしくないくらい、その子とはずっと一緒だった」
何処へ行くのも、なにをするのもその子とは一緒だった。
二人で泥だらけになって遊び、雨の日には一つの傘に無理やり入り、転んで泣けば相手の手を握った。
朝も昼も夜も、一緒に居ない時間など無かったかのように。
「幼心に、大きくなってもこんな関係が続いていくんだろうなあ、なんて思ったものよ」
「…………」
「なに、その顔」
分かりやすい程に苦渋に変化した阿形の表情を見て、叢雲はくすくすと笑う。
聞いていた以上に、この人は隠し事が苦手なタイプらしい。
「まあ、察しの通り、そんな関係に変化が現れだしたのが小学校三年生くらいの時かしら」
この頃になると、クラスの輪にも少しずつ人気者というものが生まれ始めていた。
足が速い子。勉強ができる子。そして、顔立ちが整っている子。叢雲はその中でも目立つ存在だった――当然ながら、悪い意味で。
「明確な拒絶は無かったわ。でも、周囲の中で一人だけ浮いている、そんな感じだったわ」
それでもまだ、友達であるその子との関係は切れてはいなかった。
叢雲も別に友達が沢山欲しいというタイプでは無かったし、別にそれでも良かった。
同時期に妖精が見え始めた事で、自身に艦娘としての素養がある事が見つかっていた。
「その頃はまだ、艦娘になろうなんて思ってなかったし、なれるとも思ってなかった」
素養があったとして、必ずしも艦娘になれるわけではない。
そうでなくても、長年過ごし続けた地元での生活から離れるのはとても怖かった。
「そして五年生の冬、一つの事件が起きたの。体育の後のクラスメイトの上履き入れにね、生ごみが沢山詰められていた――そう、いじめよ」
狙われたのは叢雲と同じくクラスカースト底辺の一人で、大人しめで性格が暗めの女子だった。
――うわ、何それ。
――誰がやったのよ。
周囲は早々に騒ぎ立てた。
口では驚いているように言いながら、彼女らの目は明らかに叢雲を見ていた。理由は単純、体育の授業の前に教室のゴミ出しに行ったのが、日直である叢雲だったから。
言い分としては非常に理に乏しい、それでも容姿で劣る叢雲を陥れるきっかけとしては十分なものだった。
もちろん叢雲はやっていない。そもそも大量の生ごみなど教室のゴミ箱に入る事はない
だがやっていない事を証明するには、叢雲も周囲の人間もあまりにも幼過ぎた。
叢雲は何も言えなかった。
怒ればいいのだろうか。誰がやったのかと問い詰めればいいのだろうか。頭ではいろいろな方法が浮かんでいた。だが体は動かなかった。
「先生すらも、その時は嫌悪の目で私を見てた」
周囲の視線が自分に集まっている。誰も助けてくれない。誰もこれはひどいことだと言ってくれない。それどころか面白いものを見つけたかのように笑っている。
唖然として立ち尽くす叢雲の視界に一瞬、幼馴染の少女の顔が映った。
……――――。
擦れる声で名を呼んだ。
彼女は見ていた。確かにこちらを見ていた。彼女なら助けてくれるかもしれないと一瞬、そう思った。幼いころからずっと一緒だったのだから。自分が困っていればきっと声をかけてくれる。
だが、彼女は行ってしまった。叢雲の知らない友達と一緒に。まるで自分など見なかったかのように。
叢雲の頭の中で、何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。
同時に、妙に冷めた思考の隅で一つの答えが心の底に沈んで落ちた。
――ああ、此処にはもう私の居場所はない。
「そこからの記憶は結構あやふやで、気付けば艦娘、叢雲の加護を受けていたわ」
艦娘になって孤児院を離れる時も、ついぞ彼女が姿を見せる事は無かった。
艦娘になったことに後悔はない。
ただ一つ、心残りがあるとすれば――
「……私は、いったいどうすれば良かったのかしら」
何をしたからと言って、結果が変わる事は無いのかもしれない。
だが、あの一瞬、幼馴染のあの子が見せた苦悶の表情。あの時、彼女の心にはもしかしたら、僅かな葛藤があったのかもしれない。
それも今となっては確かめようのない事でしかないが。
「……なんで貴方がそんなに落ち込むのよ」
「いや、気軽に聞いた俺が悪かった」
「気にしないでいいわよ。何年も前の事だし、とっくの昔に割り切ってるわ」
そうでなければ、こんな話はしない。
そんな叢雲の手を、阿形が両の手でぎゅっと握る。
「何よ、急に」
「いや、叢雲の事を見ている人間が此処にちゃんといるぞって伝えるために、な」
「なにそれ」
クソ真面目な顔で、両手に力を込めていくる彼の真剣な様子を見て、叢雲は年相応な笑顔でからころと笑う。
たぶん、これから先も心を閉じたくなるような経験を幾度となくするのかもしれない。
それでも、叢雲は思う。
――頑張って生きてれば、こういう日だって来てくれる。
未来は決して、暗闇ばかりではないのだ。
夜空を瞬く星々を眺めながら、叢雲はその手に伝わる温かさをそっと心の隅へと大切に仕舞い込んだ。