九条警備府の正門を抜けると、潮の匂いを孕んだ風が頬を撫でた。
空はよく晴れている。
雲一つない青空。遠くに広がる海面は陽光を受けてきらきらと輝き、岸壁に繋がれた小舟の影が、波の揺らぎに合わせてゆっくりと伸び縮みしていた。
「……さて、と」
俺は肩に掛けた鞄の位置を直しながら振り返った。視線の先には、先ほどまで世話になっていた九条警備府の建物がある。
赤茶色を基調とした警備府は、海風に晒されながらも頑強に整えられていた。敷地内を行き交う妖精たちの姿も、遠目にはいつもと変わらない。
違うのは一つ。
今日、俺と加賀は此処――九条警備府を離れる。
「忘れ物は無いか?」
それまで少し離れた場所で様子を見守っていた九条提督が、静かに口を開いた。それに対して、隣に立つ加賀が首肯で頷きを返す。
前日の内にひと通り挨拶は済ませた筈だが、こうして門前まで来てくれるところに九条提督の人柄を感じる。案外律儀だよな、この人も。
「赤城達はどうしてます?」
「自室で待機命令を出している。君たちを帰らせないとごねられても困るからな」
九条提督がやれやれと言った様子で首の裏に手を当てる。
少し寂しい気もするが、彼女たちとも昨日のうちに言葉は交わしているので、予定に変更はない。
「九条提督。今日まで、本当にお世話になりました」
感謝の意を込めて、改めて深く頭を下げる。
この警備府で過ごした時間は、決して長いものではなかった。それでも、得たものは多い。
艦娘たちとの交流、自分の能力についての新たな発見、そして、この世界で生きていくうえで必要な知恵や知識の習得。何より、自分の力が周囲にどのような影響を与えるのかを、落ち着いて考える機会を得られたことは大きかった。
それもこれも、九条提督が俺の実地演習を受け入れてくれたお陰である。
「礼などいらん……が、どうしてもと言うなら、時間が出来た時にでも一杯奢ってもらおうか。なに、高い酒でなくても構わんよ。私の舌は庶民の味方だからな」
「……それは一杯で済むのかしら?」
「ははっ、勿論、準備しときますよ」
それこそ、一杯程度では返しきれない恩がある。必要とあらば、樽であろうと準備するさ。
「阿形」
風が吹いた。
岸壁に打ち寄せる波の音が、会話の隙間を埋めていく。
「答えは、見つかりそうか?」
その言葉の意図――艦娘の理解の先にある俺なりの答え。
しかし俺は、すぐには答えられなかった。
自分の能力のこと。この世界の歪んだ常識のこと。
そして、その中で生きている艦娘たちのこと。
考えなければならないことは、あまりにも多い。
それでも。
「まだ、分かりません……でも、考え続けたいと思います」
「ああ。それでいい」
俺の言葉に九条提督は満足そうに頷いた。言外に、考え続ける事を止めるなと言われた気がして身が引き締まる。
それから、と彼女は少しだけ声のトーンを下げた。
「ただし、一つだけ忠告だ」
「はい」
「君の力を必要とする人間が、必ずしも君のことを大切にしてくれるとは限らない。君の善意を利用しようとする者も、いずれ現れるかもしれない事は心に留めておけ」
それは以前にもどこかで聞いた忠告だった。
だが改めて聞くと、その言葉の重さは以前よりも増して感じられた。
「……肝に銘じておきます」
返ってくるのは苦笑交じりの困り顔。
「君は誰かを助けたいと思ったとき、つい自分のことを後回しにしてしまう性質のようだからな」
「……そんなつもりはないんですけどね」
「自覚がないのが、なお悪いです」
それまで静かに俺の横に立っていた、加賀が横から口を挟んでくる。
自覚……自覚ってなんなんだろうなあ。
「加賀、阿形のことを頼むぞ」
「承知してます」
「彼は、自分が思っている以上に無防備なところがある。物事を善意に解釈しすぎるというか……」
「同感です」
か、加賀さん?
「それでいて、妙なところでは頑固だ。自分が納得できないことにはなかなか首を縦に振らない」
「ええ。存じています」
「……あの、本人が目の前にいるんですが」
俺の抗議をよそに、二人はごく自然に話を続けてくる。
「加えてエロい事に関してはオープンに見えて、少しばかりむっつりの気があるぞ。妖精による彼のPCの検索履歴ハックによれば、押しまくればイケない事もなさそうだ」
「それは初耳です。続けてどうぞ」
「本人が目の前にいるっつってんでしょうがァアアアッ!?」
何が続けてどうぞだ!? そして俺のプライバシーを平気で陳列する饅頭共は地獄へ落ちろ!
「なに、そう憤するな。奥手な君に送る小粋な提督ジョークだよ」
「既に致命傷だが?」
俺の抗議の言葉は笑って誤魔化された。
この人、やはり食えない性格をしている。などと俺が呆れていると、加賀が静かに一礼した。
「ご安心を。阿形さんの身の安全については、私と藤原警備府一同が責任を持って守ります」
「ああ、先生と君たちがいてくれるなら私も心強い。だが、彼は男で特異な能力持ち、用心するに越した事はない。窮屈に感じる事もあると思うが、理解してくれ」
俺にどこまでの価値があるのか、正直分からない。それでも彼女たちが俺の事を想ってくれているのだけは理解できた。
「……ありがとうございます」
結局、俺はそれだけを口にした。
九条提督は、そんな俺を見て穏やかに笑って見送ってくれた。
九条提督と最後の挨拶を交わし、俺と加賀は荷物片手に歩き出した。
背後から届く妖精の『またね』という呟きに片手を上げて応じながら正門を後にしようとした、そのときだ。
――がさり。
右手の植え込みが、妙な具合に揺れた。
風が吹いたわけではない。庭木の葉は静かに垂れ下がったままで、足元に落ちた木漏れ日にもほとんど動きはなかった。
それなのに、茂みの一角だけが、何かを隠しきれずに身じろぎしている。
「……何だ?」
足を止めて目を向けると、茂みの隙間から綺麗な黒髪がそろりと覗いて見えた。
「……お待ちしてました。阿形さん。加賀さん」
「……赤城?」
「はい。お見送りを」
「……いや、何で植え込みに隠れてるんだよ」
俺が呆れていると、赤城の背後で再び枝葉が揺れた。
「ちょっ、夕立! 動いたらあかんって!」
「もう見つかってるっぽい!」
聞き覚えのある声に、なんとなく想像できた予感が確信へと変わる。
続いて夕立がひょこりと顔を出し、最後に龍驤が慌てたように姿を現した。
「……お前ら、わざわざ見送りに来てくれたのか」
俺が尋ねると、夕立は待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
「そうっぽい! セイジさんたちが帰っちゃうから、最後にちゃんとお礼を言いたかったっぽい!」
「そっか……」
その言葉に、俺は思わず三人の顔を見渡した。
九条提督から部屋で待機するように言われていたはずなのに、それでもこうして見送りに来てくれたのだ。しかも、わざわざ人目につかないところに隠れて、俺たちが出発する瞬間を待っていてくれたらしい。
後で怒られるかもなどという心配よりもなによりも、そこまでしてくれたことが素直に嬉しくて、何故か鼻の奥がツーンとする。
「……ありがとうな、三人とも」
だからだろうか。自然と、そんな言葉が口をついて出た。
口にしてみればずいぶんと簡単な言葉。だが、その短い一言の中に伝えたいことは思いのほか多かった。
九条警備府に滞在している間、彼女たちには何度も世話になった。何気ない会話に笑わせてもらったこともあれば、こちらが気づかないうちに気遣われていたこともある。
そんな日々も、今日でひとまず終わりだ。
明日からはまたいつもの暮らしに戻る。そこでもまた変わりゆく日常が待っているのだろうが、そこに彼女たちの姿はない。
そう思うと、別れというものは案外静かに胸へ染み込んでくるものらしかった。
いや……寂しいな、ほんとに。
「わざわざ見送りに来てくれて嬉しいよ。九条警備府にいる間はみんなにいろいろ世話になったしな。最後にこうして顔を見られてよかった」
俺がそう告げると、赤城は少しばかり目を細め柔らかな笑みを浮かべた。
「欲です」
「……欲?」
「九条提督の指示に反してまで、最後に貴方の顔が見たいと欲が出てしまいました。これは凄い事ですよ」
「そう、なのか?」
「はい、私史上最大の我儘です」
いまいち意図は読めないが、赤城の表情は満ち足りているように見える。
彼女なりに、俺たちと日々を過ごした事で何かしら良い変化があったのだとしたらそれはとても嬉しい話だ。
「……私もいるのだけれど」
「勿論加賀さんの顔も見たかったですよ」
拗ねる加賀に対して赤城が、いつもの落ち着いた声音で慰めを図る。
その笑みには普段と変わらぬ柔らかさがあった。だが、目元に浮かぶわずかな名残惜しさまでは隠しきれていない。
「阿形さんたちがこちらにいる間、私も本当に有意義な時間を過ごさせてもらいました。お話しする機会も多くありましたし……そうですね。いつもの日常が、とても賑やかになったように思います」
「俺も楽しかったよ。赤城にはいろいろ助けてもらったしな」
「私はそれほど大したことはしてませんが」
「いや、十分助けになった。ありがとう」
赤城は控えめに首を振ったが、それ以上自分の働きを否定しようとはしなかった。代わりに、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……また、こちらにも来て下さいね」
それは社交辞令というよりも、次に会える日をそっと願うような言い方だった。
「もちろん。こっちに来る機会があったら、また顔を出すよ」
「約束ですよ?」
「ああ、約束だ」
そう答えると、赤城の表情がふっと明るくなった。やはり美人は笑顔でなくちゃ
その横で、夕立が待ちきれないとばかりに一歩前へ出る。
「夕立とも、夕立ともまた遊んで欲しいっぽい!」
「勿論だとも」
「ほんとっぽい? 今度はもっといっぱいお話しするっぽい! それから、一緒にご飯も食べるっぽいし、お散歩もするっぽい! あ、あとお買い物も――」
夕立の勢いは止まらない。指を折りながら次に会ったときの予定を並べ立てる姿は、まるで別れの寂しさを追い払うために、未来の約束を一つでも多く積み上げようとしているかのようで――。
そこまで話して、ふいに夕立の両目からぼろぼろと大粒の涙が零れだす。
「あれ、あれれ?」
「……夕立」
その涙を拭うように、赤城がそっと夕立の目尻にハンカチを当てる。
俺はその様子を眺めながら、できる限り明るい声音で二ッと笑ってみせた。できるならば、彼女の悲しみや不安を少しでも取り除いてあげられるようにと内心で祈って。
「いいじゃん。せっかくなら、全部やろうぜ」
「ぜん、ぶ?」
「そうだ。お話もご飯も、買い物も、その他も全部。夕立がやりたい事、全部――ほら、約束だ」
そう言って、お互いの小指を絡ませる。
「これからだよ。俺たちは、これから楽しい事を沢山できるんだ。次は、時雨たちも誘って、な?」
「……うんっ!」
夕立の顔が、ぱっと花開く。
その無邪気な喜びを見ていると、別れの場面だということを一瞬忘れてしまいそうになった。だが、だからこそありがたかった。寂しい気持ちを無理に押し殺すのではなく、次に会う日の話をして笑い合える。それだけで別れ際の空気はずいぶんと温かなものになる。
「……ええなあ、夕立は」
ぽつりとこぼしたのは龍驤だった。
「ん? 何か言ったか?」
「な、何でもあらへんよ」
龍驤は慌てて首を振った。しかし、すぐに取り繕うのを諦めたように困った笑みを浮かべる。
「……いや、何でもないこともないんやけどな」
いつもの思慮深い彼女らしく、言葉を選んでいるのだろう。指先が落ち着かなげに服の裾をつまみ、視線が俺と加賀の間を行き来する。
「やっぱり、帰ってしまうんやなって思って。頭では分かっとったんやけど……こうして実際に見送るとなると、寂しいもんやね」
言い終えるころには龍驤の声は幾分か小さくなっていた。
無理に笑ってみせるでもなく、かといって寂しさを押しつけるでもない。彼女なりにこちらを困らせないようにしながら、それでも胸の内にある気持ちを伝えてくれたのだろう。
俺は少しだけ考えてから、彼女へ向き直った。
「ありがとな、龍驤。そう思ってもらえるの、嬉しいよ」
「……ほんまに?」
「ああ。俺も、龍驤たちと過ごせてよかった。次に会った時は、また二人でぼーっと空でも眺めながらゆっくり話そうな」
いつかの日、演習場で龍驤が話してくれた事を俺は忘れていない。
その思いは彼女にも届いていたようで、龍驤は目を瞬かせた。
それから張り詰めていたものがほどけたように、口元を緩める。
「……そっか。うん、せやな」
ほんの少し、彼女の頬に赤みが差した。
「ほな、次に会うときまでに話したいこと、いっぱい考えとくわ」
「ああ。俺も楽しみにしてる」
「……あんまり期待せんといてな。いざとなったら、何を話したかったか忘れてまうかもしれへんし」
「それはそれで、二人でゆっくりできていいかもな」
「なっ……もう、そういうとこやで」
龍驤が照れ隠しのように声を上げ、夕立が隣で楽しそうに笑う。赤城も口元に手を添え、穏やかな笑みを浮かべていた。
ほんのひととき、別れの寂しさは笑い声の向こうへ遠のいた。
だが、いつまでもこうしてはいられない。
俺たちが帰らなければならないように、彼女たちにも戻るべき場所がある。
「……さて。そろそろ行くか、加賀」
「ええ」
隣で静かに見守っていた加賀が頷く。
そして彼女は三人へ視線を向けた。
「見送りに来てくれたこと、感謝するわ。阿形さんも喜んでいるし、私も嬉しく思う」
「加賀さん……」
「ただし、次からはちゃんと九条提督と話し合いなさい。見送るためとはいえ、植え込みに隠れて待つ必要はないでしょう」
「うっ……それは、まあ……確かに」
龍驤が言葉に詰まり、夕立は『でも、ちゃんと見送れたっぽい!』と胸を張る。赤城だけは何も言わずに微笑んでいた。
加賀は小さく息をついたものの、その声に厳しさの類はない。
「……気持ちは、十分に伝わったわ。ありがとう」
その言葉に三人の表情が和らいだ。
俺も改めて彼女たちへ向き直る。
「それじゃあ、またな。みんな、元気で」
「はい。阿形さんも、どうかお気をつけて」
「また来てね! 約束っぽい!」
「道中、気ぃつけてな。阿形さんも、加賀も」
三者三様の声が朝の空気に重なった。
俺は手を上げて応え、加賀と並んで歩き出す。
藤原警備府まではまだ距離がある。帰れば、またいつもの日常が待っているだろう。やるべき仕事も考えるべきことも、きっと山ほどある。
俺の力のことも、この世界の歪みのことも何ひとつ解決したわけではない。
それでも今だけは。
背中に届く声を素直に受け取っておこうと思った。
正門を離れても三人の声はしばらく聞こえていた。
やがて距離が開き、言葉の輪郭がほどけていく。
最後には何を言っているのかも分からなくなった。
それでも声だけは確かに残っていた。
朝の光に溶けていく、誰かが誰かを見送る声。
それは不思議なほど温かく、いつまでも耳の奥に残り続けていた。
一旦ここまでで、区切りとなります。
次話以降はプロット自体はある程度組み上がっているのですが、如何せんまとめる力が無く、座礁しかけております。艦これだけに、なんちて。
続きは、気長にお待ちいただけると幸いです。
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