――白い世界だった。
上も下も、前も後ろも分からない。どこまでも続く純白の空間には影一つ落ちていない。足元に床があるのかさえ曖昧なのに不思議と立っている感覚だけは確かにあった。
音も、風も、匂いもない。
まるで世界そのものが息を潜めているかのような静寂に、しかし見覚えがあった。
「……まあ、そういうことだよな」
俺は今、夢の中にいる。根拠は無いが妙な既視感がそれを確信させてくれる。
そして視線の先には一人の女性が立っていた。白い衣装を纏った、穏やかな面持ちの女性。以前と変わらぬ姿でこちらを見つめている。
俺は軽く手を上げて、応える。
「久しぶり……女神様」
かつて俺をこの世界へ送り出した張本人。
彼女は何も答えず、ただ柔らかくこちらへ微笑んでいる。何かを語るわけでもなく、こちらに歩み寄るわけでもない。ただ、穏やかな眼差しをたずさえて。
「今日は何も喋らないんだな」
彼女の様子に頬を掻きつつ苦笑を浮かべる。
まあ、殊更返事を期待していたわけでもない。しばらく彼女の顔を眺めていたが、やがて俺は静かに口を開いた。
「良い機会だし、ちょっと報告したい事があってさ」
別に、聞いてもらわなければ困るような話ではない。
それでもこうして再会したのだから、伝えておきたいことがあった。夢なら夢で良い。これから呟くのは只の独り言と受け取ってもらっても構わない。
俺は彼女を見据え、ゆっくりと言葉を続けた。
「最初はやっぱり色々と大変だったよ。知らない世界に突然放り込まれて……常識も価値観も違う場面に面食らうばかり。まあ、何をするにも手探りなのは未だに同じだけどさ」
当初のことを思い返す。
見知らぬ土地、見知らぬ人々。そして自分の知っている世界とは似ているようで決定的に異なる日常。
あの頃は……というかその辺りは今も目下のところ勉強中だ。
「けど、今はそれなりに楽しくやってる」
ふと、自然に笑みが零れた。
「藤原警備府にもすっかり馴染んだし、藤原提督たちにも随分と世話になってる。時雨や加賀、鳳翔たちとも最初に比べれば随分と打ち解けれたと思うよ」
脳裏に浮かぶのは何気ない日常の断片。
食堂に漂う朝食の匂い。廊下ですれ違った際に交わす短い挨拶。訓練の合間に聞こえてくる他愛のない会話。何も特別な出来事ではない。
だが、そうした些細な光景の一つひとつが今では自分の日常を形作っている。
「九条提督や柳森提督とも知り合えたし、そこの艦娘たちにも顔見知りが増えた。……人付き合いが一気にこんなに増えるとは思わなかったけどな」
少々苦笑いが漏れる。
時には面倒な相談を持ち掛けられたり、予想もしなかった騒動に巻き込まれたりもする。それでも誰かと過ごす時間を煩わしいと思ったことは、不思議なくらい感じなくなっていた。
「もちろん楽しいことばかりじゃない。今の俺には分からないことも多いし、どうにもならない問題だってある。自分の力がどこまで通用するのかも、まだはっきりしていない」
視線を落とす。
この世界には目を背けたくなるような歪みも存在する。
彼女たちが抱える傷も、過去も、そして自分に与えられた力の意味も。知れば知るほど、簡単には割り切れないものが増えていく。
それでも足を止めるつもりは更々ない。
「でもさ……今の暮らしは、悪くないんだ」
顔を上げる。
女神様は変わらずこちらを見つめている。その微笑みには肯定も否定もない。
ただ、俺の言葉を静かに受け止めているようだった。
「むしろ結構気に入ってる。朝起きれば誰かがいて、食堂に行けば賑やかな声が聞こえてくる。時には問題も起きるけど、それも含めて今の生活なんだと思ってる」
自分の口から出た言葉に少しだけ照れくささを覚えた。
以前の俺ならこんなことをわざわざ誰かに伝えようとは思わなかったかもしれない。
「だから、まあ……心配はいらないよ」
女神様を見つめ、穏やかに笑う。
「ここに連れてきたことをあんたが後悔してるかどうかは知らないけど、少なくとも俺は後悔してないよ。こっちに来て、色んな人と出会えて、色んな経験ができた。それは間違いなく俺にとって大切なものになってる」
言い終えてから少しばかり気恥ずかしくなった。
まるで誰かに胸の内を打ち明けているようで、どうにも落ち着かない。
だが、伝えたいことは伝えられた。
女神様は何も語らない。
ただ、そこに在るように微笑んでいる。
その沈黙を不思議と寂しいとは思わなかった。
「……それじゃあ、またな」
彼女に向かって軽く手を振る。
すると、視界の端から白い景色がゆっくりと滲み始めた。夢の終わりが近いらしい。
女神様の姿も少しずつ輪郭を失っていく。最後まで彼女は何も言わなかった。
ただ、その穏やかな微笑みだけがいつまでも印象に残っていた。
目を覚ました時、窓の外はすっかり明るくなっていた。
薄いカーテン越しに差し込む朝日が寝室の壁を淡く染めている。
「……ん」
寝返りを打ちかけてふと動きを止めた。
先ほどまで見ていた夢のことを思い出したからだ。
「女神様、か……」
懐かしい顔だった。
時間にすればわずか数か月前の事なのに何処か遠い昔のように感じられるのは、それだけこちらで過ごす時間が濃いものだという証か。
しばらく天井を眺めていたが、やがて小さく息を吐いて布団を跳ね除けた。同時に頭の上で寝ていた妖精がずり落ちてくる。
「お前も起きろよ。お仲間はとっくに活動中みたいだぞ」
「ねむし」
廊下の向こうから朝の支度をする物音が聞こえてくる。
今日も変わらない一日が始まろうとしていた。
「さて……俺も行動を起こさないとな」
ベッドから降り窓辺へと歩み寄る。
朝の光は眩しく、遠くから聞こえる潮風の音が心地よかった。夢の中で伝えた言葉をもう一度胸の中で反芻する。
――今の暮らしは、悪くない。
それは誰かに言わされた言葉でも、無理に自分へ言い聞かせた言葉でもない。
紛れもなく今の自分が抱いている本心からの言葉。
俺は小さく意気込むように一つ頷いて、朝の支度を始るために部屋の外へと向かって行った。