風紀の狂犬   作:モノクロさん

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前回の更新から遅くなってしまい、申し訳ありません。
今回は1Pに全てをまとめてみました。総文字数は約27000文字です。
普段が大体3000くらいなので、9P分に相当します。ボリュームが中々なので、是非見て頂けると幸いです。

誤字報告ありがとうございます。
訂正させて頂きました。


if 成れ果てた者達

 昔々、治安の悪いゲヘナ自治区に、1人の少女が住んでいました。

 

 その子は、他の子と同じ……というわけではなく、ほんの少しの特異体質が原因で、周りから疎外されていました。

 

「気持ち悪い……近付かないでよ」

 

「こっちに来んな、化物が」

 

「ち、違うよ……私は、化物なんかじゃ……」

 

 幼き年齢で、精神が未発達な少女は、かつての友人達からの罵詈雑言に耐え切れず、いつしか自分が本当の化物だと思い込むようになりました。

 

 そして、化物は化物らしく、されど人の社会に馴染もうと、皆を観察する事で理解しようとしました。

 

 1年……2年と、月日を重ねる毎に、少女は観察と理解を繰り返し、少しずつですが、人という生物を学んでいきました。

 

 しかしそれは、人を理解するという当初の目的から逸れていき、別の視点へと変化してしまったのです。

 

 人が、どのように生き、何を望み、何を恐れるのか。

 

 『人』とはなんなのか。

 

 少女には、まだその答えは出ませんでしたが……それを解く為に、幾度も観察を繰り返しました。

 

 その結果、少女は1つの結論へと至りました。この世界は化物が生きていくには、とても生き辛い世界なのだと。

 

 『人』を理解すべく行ってきた観察も、ある時を境に停滞し始め、その内、『人』そのものに興味や関心が薄れていき、行き着いた果てが、化物として人に討たれて終わりにする事でした。

 

 その結論に至った少女は、人生最後のパートナーを探すべく、街中を彷徨いました。

 

 そして、ついに見つけたのです。

 

 空崎 ヒナ。

 

 ゲヘナ学園に所属する風紀委員会のメンバーの1人。

 

 彼女に魅入られた少女は、空崎 ヒナを最後のパートナーと定め、行動に移しました。

 

 それが、少女と……不死川 小鳥と空崎 ヒナの出会い。

 

 その後、空崎 ヒナに敗北した小鳥は、彼女の計らいで風紀委員会に所属する事となり、その人生が大きく変わる事となったのです。

 

 自分は『化物』ではなく『人』なのだと理解し、それが彼女の救いとなったのです。

 

 不死川 小鳥は、その時の思いを忘れる事はないでしょう。

 

 空崎 ヒナに救われた、あの日の事を……彼女と同じような存在になりたい。それはきっと、今の彼女の心からの願い。

 

 不死川 小鳥は、空崎 ヒナに憧れ、彼女のような『人』になりたいと願うようになったのです。

 

 それは、とても微笑ましい事でした。

 

 それは、とても困難な道で、思い通りになる事はない険しい道でした。

 

 それでも、彼女はその道を突き進む事を決めました。

 

 それが、彼女の願いだからです。

 

 今日も彼女は、その思いを胸に、そうあれかしと、空崎 ヒナの背中を追い続けるのでした。

 

 めでたしめでたし……。

 

 

 

 

 と、物語がそう上手く行く事はない。

 

 全てが上手くいく世界など存在しない。この結果に導かれるまでに、多くの失敗が存在した。

 

 そもそもの根っこに至る世界。

 

 本来ならば、小鳥はヒナと対峙する事なく終わっていたのだ。

 

 羽沼 マコトの勧誘に惹かれ、風紀委員会ではなく万魔殿のメンバーに加わり、彼女の指示に従い続け、そして過ちを犯した未来が本来の結末であった。

 

 それが、他者の介入により未来が変化し、万魔殿から風紀委員会へと所属する組織が変わった。

 

 では、それで全てが解決かと問われればそうではない。

 

 万魔殿から風紀委員会へと変化した世界線が新たな主軸となり、そこから多くの分岐点が生まれた。

 

 中には、風紀委員会に所属する前に、空崎 ヒナとの出会い方が変わる事で別の分岐点が生まれ、ゲヘナを混乱に貶める罪人としての世界線も生まれた。

 

 結果論として言えば、1つの過ちを犯した世界線を回避したとしても、また多くの分岐点が生まれ、そしてその世界線で、また別の過ちを犯す事も十分にありえるという事だ。

 

 その事を、『時』を司る神秘の持ち主である辰巳 レンは、幼いながらも学んだ。

 

 己の未来から齎された情報によって、たった1発の銃弾が招いた世界の崩壊を目の当たりにし、その恐ろしさを実感した。

 

 だからこそ、レンは無闇に、過去には触れる事は多々あれ、未来を見通し、それを反映させる事を極端に忌避するようになったのだ。

 

 

 

 

 歴史が変わる事は、滅多な事では起こらない。

 

 例えば、コンビニに寄った時、ジュースを買うとしよう。

 

 その時、炭酸を買うか、それともお茶を買うかで迷った時、2つの分岐した世界線が形成される。

 

 だが、これは些細な事だ。

 

 どちらか片方を選んだ所で、世界が滅亡するみたいな極端な変化は訪れない。

 

 良くて、飲んだ後の気分のもちようくらいなものだ。

 

 この場合、一度分岐した世界は元の1つの世界線に収束し、再び進み出す事になる。

 

 歴史の修正力とはかなり強力なもので、滅多な事で未来そのものが変化する事はない。

 

 しかし、それが修復不可能なレベルの改変だった場合。

 

 本来ならば、マコトのスカウトで万魔殿のメンバーとして加入する筈だった小鳥が、風紀委員会に所属するようになったとしたら。

 

 そしてその2つが、対立し合う関係ならば尚の事、未来として構築された筈の記録が、大きく変動してしまう事になる。

 

 特に、万魔殿に所属した時の小鳥は、風紀委員会を弱体化させる事を主としていた為、その要因が消えた事は、歴史の修正力を以ってしても、完全に消し去る事が不可能であった。

 

 しかし、完全に消し去る事が不可能と言う事は、言い換えれば、僅かながらも本来の歴史通りの結末が存在するという事である。

 

 小鳥が風紀委員会を弱体化させる為の目的は、空崎 ヒナと2人きりで戦う場を設ける為の手段。

 

 その結果として、ヒナはエデン条約の最中に、凶弾によって倒れた。

 

 部分的に残された結果により、ヒナは様々な要因でこの世を去る世界線が成り立ってしまったと言えるだろう。

 

 今、この世界線のヒナは、神秘による侵食によって身体が蝕まれ、神秘そのものに身体を乗っ取られる可能性が示唆されている。

 

 小鳥が顕現させたフェネクスを屠った時。

 

 アリウスの自治区で、バルバラを屠った時。

 

 いずれも、彼女の力のみで成し得た事ではなく、ヒナの内に眠る神秘が、彼女に力を貸し与えたに過ぎない。

 

 そして、その結果こそが、ヒナの肉体を、神秘が侵食する要因となったのは、なんとも皮肉な話である。

 

 それだけではない。

 

 ヒナを取り巻く様々な要因が、結果として破滅の道となるのがこの世界線の結末だ。

 

 その根底を覆すとなれば、それ相応の代価が必要となるだろう。

 

 それが何かは未だ分からない。

 

 しかしレンは、小鳥を救いたかった。小鳥の歩んだ道は、破滅以外の道がない事は分かっている。

 

 それを覆すには、未来を変えるだけの『何か』が必要なのだ。

 

 それは一体何なのか?

 

 レンはその答えに至る為に、過去の世界線へと精神を飛ばし、事の成り行きを見届け続ける。

 

 どれもこれも酷い結末ばかりだ。

 

 エデン条約での分岐点は特に酷い。

 

 ならば、もう少し前の、ヒナと小鳥が出会ってからの分岐点はどうか?

 

 ……救いがない。何もかも救いがない。

 

 救いが、ない……。

 

 たった一言。その一言を告げる勇気がなかったが為に起きた救いのない分岐点。

 

 こんな結末、これ程までに救いのない結末があるなんて、これが歴史の修正力と言うのなら、地獄以外のなにものでもない。

 

「レンちゃん」

 

 そんな時だ。

 

 意識の外から小鳥の声が聞こえた。

 

「……っ!!」

 

 その声に、過去に飛んでいたレンの精神が現代へと引き戻される。

 

 そして、目を開けた先には小鳥がいた。

「……あ……おぉ〜」

 

「大丈夫ですか? 何やら魘されていたようですが」

 

 心配そうな表情で、小鳥がレンを見つめていた。どうやら、過去の結末が悲惨の一言につきていた為、魘される形で現実に影響を与えてしまったようだ。

 

「お〜大丈夫だぜぇ。ただなぁ、次はどの世界線に飛ぶか吟味してたらよぉ〜頭が痛くなってきてなぁ〜」

 

 小鳥に嘘は通じない。それが分かっているからこその、誤魔化し方だ。

 

 嘘は言っていない。しかし、それが全て正しいわけではない。

 

 虚実を織り交ぜる事で、事実を隠匿する。

 

 小鳥と共にする上で学んだ、1つの知恵であった。

 

 勿論、これで小鳥が納得する筈もない。しかし、話は此処までと言わんばかりに切り上げるレンに、小鳥は渋々納得する他なかった。

 

「まぁ、気長に待つ程の余裕はねぇけどよぉ〜変な所に飛んで事件に巻き込まれんのも嫌だろぉ〜もうすこし待っててなぁ〜」

 

 そう言って、少し寝ると部屋に戻る。部屋はプライベートな空間。許可無く入ってくる事はない。

 

 無論、小鳥も例外ではなかった。

 

 ベットにダイブするように寝転がり、レンは再び意識を過去に飛ばす。

 

 先程の結末。何故、あの様な終わりを迎えたのか、それを改めて確認する為に、レンは神秘を行使した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小鳥が風紀委員会に所属するようになってからはや数週間。ヒナの背中を追いかけながらの日々は、小鳥にとって充実した毎日だった。

 

 沢山の事を学んだ。沢山の失敗を繰り返し、そしてその都度、何を間違えていたのか、次からはどうするべきなのか、それを模索した。

 

 失敗は、何も悪い事ばかりではない。失敗したからこそ、次に活かせる事もある。その事を教えてくれたのは、他ならぬヒナだった。

 

 初めてだった。真っ直ぐに目を見て、自分を見てくれる人は。

 

 嬉しかった。誰かに頼られ、そして頼る事の喜びを教えてくれたヒナ。

 

 小鳥は、自分を変えてくれたヒナに憧れを抱き、次第に依存に近い感情を抱くまでに至った。

 

 そんな時だ。

 

 ふと、脳裏に、不安が過ったのは。

 

 何故、此処まで気に掛けてくれるのかと。

 

 一度芽生えた不安は徐々に大きくなっていく。そして、その不安は疑念に変わり、小鳥は勇気を振り絞り、その事を問い掛けるか否かと、そんな葛藤を繰り返した。

 

 ベットの上。鏡と向かい合いながら、自問自答する。

 

 きっと大丈夫。ヒナ委員長なら、きっと大丈夫。

 

 不安を掻き消すように、何度も、何度も言い聞かせる。

 

 しかし、不安が消える事はなかった。

 次第にその気持ちは恐怖へと変わり、それはやがて己の内に眠る神秘へと影響を及ぼした。

 

ーやめておけ。それを問う事は、即ちこれまで築き上げた関係を壊す事になるー

 

 誰の声だろう?

 

 誰かが語り掛けてくる。

 

ーそれは、お前が1番理解している事だろう?ー

 

 違う。私はただ、ヒナ委員長に……。

 

ーならば何故、不安に思う?ー

 

ー信じているなら、そもそも不安になる筈がなかろうてー

 

 分かっている。ヒナ委員長は、本当に自分に良くしてくれるし、きっとこの不安も、私が勝手に妄想した負の感情だって……。

 

ーならば何を恐れる必要がある?ー

 

「……それは」

 

 その時だ。鏡に映る自身の背後に、何かが揺らいで見えた。

 

ー本当は理解しているのだろう?ー

 

ー自分が人間ではなく化物なのだとー

 

ーヒナもまた、自分の事を化物だと、そう認識しているに違いないとー

 

「違う……っ!!」

 

ー本当にそうか?ー

 

ーでは問うと良い。そして、現実を知ると良いー

 

「……っ!!」

 

ー楽しみにしているぞ。真実を知った時のお前の表情を。絶望に歪んだ結末を……ー

 

 『ガシャン!!』という音と共に、鏡が割れて粉々となる。

 

 小鳥の手にはガラスの破片が突き刺さり、ポタポタと血が流れるが、その傷も直ぐに塞がり、突き刺さったガラスの破片も、手からポロポロと落ちていった。

 

 息が荒い。心臓が激しく波打つのを感じた。額からは大粒の汗が零れ落ちる。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 小鳥の脳裏に、最悪な未来が浮かび上がる。

 

 ヒナ委員長に拒絶される。それだけは嫌だ。

 

 あの人に拒絶されたくない。それだけは嫌だ。

 

 あの人に……嫌われたくないっ!!

 

 

 

 

 大丈夫。絶対……きっと……多分……大丈夫な筈だ。

 

 翌日、ヒナのいる執務室へと向かう。その足取りは重く、まるで鉛のように重かったが、それでも前に進む事をやめなかった。

 

 扉の前に立ち、軽くノックする。

 

 中からヒナ委員長の声。中に入るよう促され、恐る恐る、扉を開ける。

 

「ヒナ委員長」

 

「何、小鳥?」

 

 書類整理に追われるヒナ委員長の前に立つ。

 

 言うんだ。言って、そして……そして……?

 

ー本当は理解しているのだろう?ー

 

ー自分が人間ではなく化物なのだとー

 

ーヒナもまた、自分の事を化物だと、そう認識しているに違いないとー

 

 昨晩の悪夢がフラッシュバックする。

 

「あ……あの、私……」

 

ーでは問うと良い。そして、現実を知ると良いー

 

ー楽しみにしているぞ。真実を知った時のお前の表情を。絶望に歪んだ結末を……ー

 

「小鳥?」

 

 ヒナが、不思議そうに小首を傾げる。その動作1つにすら、恐怖を感じるのは何故だろう?

 

 怖い……怖い……怖い……怖い……。

 

 他の全てに嫌われても構わない。でも、ヒナ委員長だけには嫌われたくない!!

 

「……あ、あの。つ、次の巡回ですが、ひ、1人でやってみたいと思って……」

 

 ……言えなかった。

 

 拒絶される事を恐れて、聞く事が出来なかった。

 

「……そう。そうね。小鳥も、少しずつ慣れてきたと思うから、先ずは此処の地区の巡回をお願いしようかしら」

 

 ヒナもまた、小鳥の様子に違和感を感じているのだろう。それでも、小鳥の口からその事を語らないのであれば、無理に聞き出す事はしない。

 

「あ……あの」

 

「なに?」

 

「が、頑張りますので。その……ヒナ委員長も無理をしないで下さい」

 

「……分かったわ。ありがとう」

 

 小鳥の目がヒナの瞳を捉える。きっと、疲れているように見えたのだろう。

 

 私の事より、自分の事を気に掛けた方が良いのに。そう思いながらも、それを指摘して小鳥が素直に認める事は無い。

 

 だから敢えて口にはしなかった。

 

「あまり根を詰めないようにね」

 

 そう言って微笑んで見送る以外に、ヒナに出来る事はなかった。

 

 

 

 

 その日の夜。ヒナは1人、執務室の椅子に腰掛けながら物思いに耽る。

 

 小鳥の様子は明らかにおかしかった。何かを隠しているのは間違いないが、それが一体なんなのか。何を恐れているのか。

 

 そもそも、あんな表情をする小鳥を初めて見た。不安にかられ、何かに怯えているような、そんな顔を……。

 

 今にも泣き出しそうな顔を、マスクで覆い隠し、そのまま退室した小鳥が、何を言おうとしていたのか。

 

 少し様子を見た方が良いのかもしれない。漸く、此処に馴染んできたのだ。

 

 此処から、少しずつ外の世界に視野を広げて、交友を広げて、沢山の事を知り、そしていつか、小鳥が1人で生きていけるようになったら……。

 

「……」

 

 ヒナは、そんな未来を想像し、思わず笑みを零した。

 

 もしかすると、環境の変化に戸惑っているのかもしれない。

 

 それが不安になって、でも、その戸惑いが何か分からず、聞きにきたのかもしれない。

 

 心配する必要はない。小鳥が頑張って此処に馴染もうとしている事は皆知っている事だし、その努力を誰よりも理解しているつもりだ。

 

 だから、焦らなくても良い。ゆっくり慣れていけば良い。そう結論付けると、ヒナは椅子に深く腰掛け、肩の力を抜くように伸びをした。

 

 仕事も一段落ついた。帰宅しよう。

 

 明日は、時間があったら小鳥の様子を見てみるか。

 

 そんな事を考えながら、ヒナは執務室の電気を消し、退室するのだった。

 

 

 

 

 怖い……怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……

 

 ヒナ委員長に嫌われたくない。見捨てられたくない。拒絶されたくない。

 

 頭から布団を被りながら、ベットの中で恐怖に震える。

 

 あの時、鏡の前で自問自答した時に聞こえて、想像してしまった最悪の結末。

 

 ヒナ委員長に拒絶される。それは、小鳥にとって絶望を意味していた。

 

 怖いよ……助けてっ!!

 

 布団を被りながら、何かに縋り付きたくて、手探りで何かを探すが、その手は空を切った。

 

「……っ!!」

 

 そうだ。此処には私しかいないんだ。ヒナ委員長も、アコ先輩も、イオリちゃんもいない。私は1人なんだ……っ!!

 

 恐怖に震える小鳥の脳裏に、あの悪夢のような声が響き渡る。

 

ーでは問うと良い。そして、現実を知ると良いー

 

ー自分が人間ではなく化物なのだとー

 

 違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うっ!!

 

 ヒナ委員長はそんな事言わない!!

 

 あの人は私を認めてくれたんだ!!

 

 私の事を思ってくれたんだっ!!

 

 だから、だから……っ!!

 

「違う……私は……私は人間だ。人間なんだ……化物なんかじゃ……」

 

 譫言のように繰り返すが、頭の中に響く声はそれを許してはくれない。

 

ーならば何故、不安に思う。その感情こそが、お前が化物である真実の証明であると何故分からない?ー

 

「違う……っ!!」

 

ーならば、ヒナ委員長の目を見て問えば良いではないか。それで全てが分かるのだからー

 

「っ……っぅぅ……」

 

ー受け入れてもらえないのが怖いか? 拒絶される事が怖いか?ー

 

「……違う」

 

ーならば問え。そして絶望するが良い。自分が人間ではない事をー

 

「……違う……っ!!」

 

ー自分が正真正銘の化物である事を自覚すると良いー

 

「違う……私は人間だ……人間なんだ」

 

 そう自分に言い聞かせながら、小鳥は恐怖に震える身体を抱き締める。

 

 その日、小鳥は一睡もできなかった。

 

 翌朝。朝日が差し込み、その光に小鳥は目を細める。

 

 重たい身体を何とか起こし、ベットから起きあがろうとして……身体に違和感を感じた。

 

 腕に何かついている。そっと袖を捲り、それを確認する。

 

「っ!!」

 

 小鳥の視界に映ったもの。それは鳥の羽だった。腕から羽が生えている。それは、まるで小鳥が人間ではない事を証明するような、そんな羽だった。

 

「いやぁっ!!」

 

 恐怖にかられ、羽を鷲掴みにすると、それを引き千切る。

 

「ぐぅぅぅぅぅぅっ!!」

 

 ブチブチと肉の引き裂かれる音と共に、小鳥の口からは苦悶の声が漏れる。

 

 それでも、小鳥は毟り続けた。全てを引き千切るまで……そして、最後にはベットの上に、大量の羽が散らばっていた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 ベットの上に横たわると、小鳥は窓の外を見つめる。そして、そのまま暫くの間動く事が出来なかった。

 

 

 

 

 

 それから数時間後、小鳥は執務室の前に立っていた。

 

 『コンコン』と扉をノックし、そして入室する。

 

「あ……あの、私です。その……今日は巡回に行けなくてごめんなさい……」

 

 その日は朝から巡回の予定だった。しかし、腕に生えた羽の件で、無理矢理引き抜いたせいで腕は傷だらけで、とても巡回に出られるような状態ではなかった。

 

 此処に来るまでに傷は癒えたものの、それでも小鳥の心には大きな傷が出来ていた。

 

 ヒナ委員長に拒絶されるかもしれない。そう考えただけで、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

 

 それでも、職務を放棄した事実は変わらない。せめて謝罪をと、小鳥はヒナ委員長の元を訪れたのだ。

 

 本当は会いたくない。普段なら直ぐにでも会いたい筈の存在が、今は最も避けたい存在へと変わっていた。

 

 しかし、そんな小鳥の心情など知る由もないヒナは、いつもと変わらない様子で出迎えた。

 

 その事に、少しだけ安堵する。そして同時に、罪悪感に苛まれる。

 

 ヒナ委員長は優しい。だから、そんな人に隠し事なんてしちゃいけないんだ。

そう自分に言い聞かせながら、小鳥は意を決して口を開く。

 

 しかし……

 

ーでは問うと良い。そして現実を知ると良いー

 

ー自分が人間ではなく化物なのだとー

 

 頭の中に響く声。その声が、小鳥の決意を鈍らせる。

 

 どうしよう……怖いっ!!

 

 怖くて言えないよ……っ!!

 

 思わず腕をギュッと握り締め、そして朝に感じた違和感が蘇る。

 

 彼女になんて言う?

 

 何を説明すれば良い?

 

 身体に起きた変化。化物である事を証明した証拠。

 

 それをどうやって説明する?

 

 開きかけた口が閉じる。

 

「小鳥? 顔色悪いわよ。大丈夫?」

 

 ヒナの心配そうな声。その声を耳にして、小鳥は現実に引き戻された。

 

 どうしよう……どうすれば良い?

 

 頭の中でグルグルと思考が巡り、混乱に陥る。

 

 そんな時だ。ヒナが小鳥の肩に手を置いた瞬間、ヒナの手を振り払うように飛び退いた。

 

 その行動に驚いたのだろう。ヒナは目を丸くしていた。しかし、それ以上に驚いたのは小鳥自身だ。

 

「あ、あの……ちがっ……これは……ちが……」

 

ー何を躊躇う必要がある? ヒナ委員長に問えば良いではないかー

 

 そんな声が頭に響く。しかし、それを無視するように、小鳥は言葉を紡いだ。

 

「あの……えと……その……」

 

 上手く言葉が出ない。それでも必死に紡ごうとした言葉は、ヒナによって遮られた。

 

「小鳥。今日は休みなさい」

 

 ヒナの諭すような声。しかし、その言葉に対して首を横に振る事しかできなかった。

 

「だ、大丈夫です。私は平気ですから」

 

「駄目よ。今の小鳥は普通じゃない。そんな状態じゃ、仕事にも支障が出るわ」

 

 ヒナの言う事は尤もだ。しかし、だからと言って素直に従うわけにはいかない。

 

「ほ、本当に、本当に大丈夫ですから……」

 

「大丈夫じゃない」

 

 ヒナが語気を強める。その迫力に気圧されながらも、それでも小鳥は必死に言葉を紡いだ。

 

「お願いですっ!! もう少しだけ待って下さい……もう少しだけ……もう少ししたら、きっと元通りになりますから……」

 

 必死の懇願。しかし、ヒナの表情は厳しいままだった。今の小鳥は明らかに様子がおかしい。それは誰の目に見ても分かるくらいに。

 

 今の彼女に無理をさせるわけにはいかない。だからこそ、語気を強めに、ヒナは小鳥を休ませるべく、言葉を発した。

 

「駄目よ。今日はもう休みなさい。これは命令よ」

 

 その言葉に、小鳥はビクッと身体を震わせる。

 

「わ、私……私は……」

 

 小鳥は泣き出しそうな表情を浮かべていた。その様子にヒナも困惑するが、それでも心を鬼にして言い放つ。

 

「無理をするのは許さないわよ」

 

 ヒナの言葉に、小鳥は俯きながら小さく『分かりました……』とだけ呟き、執務室を後にした。

 

 その背中、ヒナは一瞬手を伸ばそうとしたが、思いとどまり、そしてゆっくりと下ろした。

 

 

 

 

 

 その日の夜。自室のベットの上で、小鳥は膝を抱えて蹲っていた。

 

 頭の中に響く声は未だに消えていない。それどころか、徐々に大きくなっているようにも思えた。

 

 怖いよ……誰か助けて。

 

 心の中でそう叫ぶが、誰も助けには来てくれない。

 

「うぅ……」

 

 嗚咽混じりの声が漏れる。小鳥は1人、泣き続けた。

 

 それから数日が経過したある日の事、小鳥は自身の両腕から生えた羽を、一心不乱に毟っていた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 出血が酷い。それでも小鳥は手を止めない。羽が全て抜け落ちた。しかし、小鳥はそれでも尚、今度は皮膚を剥がし続ける。

 

「痛い……痛いよぉ……」

 

 それでも手を止める事は無かった。やがて皮膚が剥がれ落ち、その下の肉が現れる。

 

「あ、あは……あははははっ!!」

 

 狂ったように笑う小鳥。その瞳からは涙が流れ落ちるが、それを気にする様子は無い。

 

「あはははっ!! あはははっ!!」

 

 狂ったように笑う。それは、まるで壊れた玩具のような笑い声だった。

 

「あ……あぁ……」

 

 突如、小鳥の表情が一変する。恐怖に染まった表情で何かを見つめると、そのままガタガタと震え始めた。

 

「う、嘘……なんで……」

 

 小鳥の視線の先。そこには鏡があった。その鏡に映る自分の姿を見た瞬間、恐怖が全身を駆け巡る。

 

 羽が生えたのは腕だけではなかった。

 

 それは、羽というより、羽毛に分類されるのだが、その羽は腕からだけでなく、足や顔の一部にも生えていたのだ。

 

「い、いや……こんなの……」

 

 小鳥は鏡に映る自分の姿を直視する事が出来ず、思わず目を逸らす。その姿を見た小鳥は、全身の力が抜け落ちたように、その場に崩れ落ちた。

 

「もうやだ……こんな身体……」

 

 そう言って涙を流す。しかし、そんな小鳥に追い打ちをかけるように、頭の中で声が響く。

 

ーこれで証明されたな。お前が何なのかー

 

ー化物だとー

 

「違う……私は……」

 

ー何が違う?ー

 

ー鏡を見ろー

 

ーそれが全てだー

 

ー目を背けるなー

 

ーお前は人間ではないー

 

「違うっ!!」

 

 叫ぶ。しかし、その声は誰にも届かない。ただ虚しく響き渡るだけだった。

 

 

 

 

 小鳥から連絡が途絶えて数日。ヒナは小鳥の家を訪れた。

 

 あの日、小鳥と別れた後、ヒナは出張でゲヘナを離れていた。その出張も今日で終わり、明日からは通常通りの生活に戻る事となる。

 

 だから今日中に小鳥の様子を確認しておこうと考えたのだ。

 

 彼女の自宅に到着し、玄関の扉を叩くが反応が無い。もう一度叩くがやはり反応は無かった為、ドアノブを軽く捻った。

 

「鍵、掛かってない?」

 

 不審に思いつつも扉を開け中へ入る。すると、そこには血塗れの床や壁が広がっていた。そして、その先には……

 

「小鳥っ!!」

 

 布団に包まった何かが床に倒れていた。慌てて駆け寄り、布団を捲る。そこには、異形の姿をした何かが横たわっていた。

 

「あ……あぁ……」

 

 ヒナの口から、声にならない声が漏れる。そこには変わり果てた小鳥の姿があった。

 

 手足が羽毛に覆われており、顔の一部にも羽毛が生えていた。その姿はまるで鳥のようで、しかし明らかに人ではない異形の存在に、ヒナは言葉を失う。

 

「小鳥……」

 

 震える手で小鳥の頬に触れる。すると、それに反応するように、小鳥がゆっくりと目を開けた。

 

「あ……あぁ……」

 

 虚ろな瞳でヒナを見つめる。その目は恐怖と絶望に染まっていた。

 

 そんな小鳥を見ていられず、ヒナは強く抱き締める。

 

「小鳥……なんで……なんで、こんな……」

 

 小鳥の身体は震えていた。恐怖に怯えている事は明白だった。

 

 そして、小鳥の様子がおかしかった理由が、ようやく分かった。

 

 恐らく小鳥は、自分が人間ではなくなった事に恐怖を抱き、そして、それを隠す為に無理をしていたのだろう。しかし、その結果がこれだ。

 

 相談する事で拒絶される事を恐れ、何も言えないまま症状が進行し、そして今に至る。

 

「大丈夫……大丈夫だから……」

 

 ヒナは小鳥を安心させるように優しく語り掛ける。すると、小鳥はヒナの胸に顔を埋めて泣き出した。

 

 その背を優しく撫でるが、それでも嗚咽混じりの泣き声が止まる事は無い。

 

 周囲には無理矢理毟った羽毛や羽が、血と一緒に散乱し、小鳥がどれだけ苦しんでいたかを物語っている。

 

「ごめん……ごめんね……」

 

 ヒナは、ただ謝る事しかできなかった。しかしこれは、ヒナであったとしても、対処する事は不可能なのは誰の目に見ても明らかだった。

 

 ただ、変化に気付けなかった。その事実が、ヒナの心を深く抉る。

 

 何度も謝る。しかし、その言葉は小鳥に届いていないようで、彼女はただ泣き続けた。

 

 その後、ヒナによって病院に運ばれた小鳥は、そのまま入院する事となった。

 

 しかし、治療は難航した。そもそも、原因不明の症状なのだ。治療法など分かる筈もない。

 

 何処の病院も匙を投げた。それでも、ヒナだけが諦めずに様々な自治区へと渡り歩き、治療法を探った。

 

 そして……。

 

 小鳥は今、救急医学部が所有する隔離施設で治療を受けている。

 

 小鳥の症状は日に日に悪化し、腕や足は羽と羽毛に覆われ、顔の一部にも羽毛が生えている。その姿はまるで鳥のようだとヒナは思った。

 

 身体つきも変化し、人だった頃の姿とはかけ離れたものになってしまった。

 そんな小鳥を、ヒナは毎日見舞った。そして、少しでも彼女の心を癒そうと、毎日励まし続けた。

 

「小鳥、遅くなってごめんね。身体の調子はどう?」

 

 そう言って優しく頭を撫でる。すると、小鳥は少しだけ安心したように笑みを浮かべた。そんな小鳥を見て、ヒナも思わず笑みが溢れる。

 

「うん、顔色も良くなったみたいね」

 

 本当は、身体の骨が変形し、立つ事も出来ない状態だ。体毛が殆ど羽毛や羽に変わり、人としての痕跡を残しているのが、僅かな部分しかない。

 

 それでも、小鳥はヒナの励ましによって、少しだけ笑顔を取り戻した。

 

「あ、あの……その……」

 

「ん、どうしたの?」

 

「えっと……えと……その……」

 

 何かを言いたそうにしている小鳥。その様子に首を傾げながら言葉を待つ。

 

「その……あ、あの……私……頑張って治しますから……」

 

 そう言って微笑む小鳥を見て、ヒナは胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

 

 彼女はまだ諦めていないんだ。自分が人間でなくなる事を恐れながらも、それでも必死に生きようとしている。

 

「うん、頑張ろうね」

 

 ヒナはそう言って微笑むと、小鳥は嬉しそうに微笑んだ。そして、そのまま小鳥の手を握ると優しく包み込むように握り返す。

 

 その手はとても弱々しくて、今にも折れてしまいそうで、それでも必死に生きようとする彼女の姿に、ヒナは決意を固める。

 

「大丈夫。私が側に居るからね」

 

 小鳥の手を握りながら優しく語り掛ける。すると、小鳥は嬉しそうな表情を浮かべた後、そのまま眠りについてしまった。

 

 そんな小鳥を見つめながら、ヒナは誓う。絶対に彼女を救ってみせると。

 

 例え、どんな手段を使ってでも……。

 

 ヒナは決意を固めると、そのまま小鳥の手を取り施設を後にした。

 

 

 

 

 それから数日が経った頃、小鳥の身体に、再び変化が現れた。

 

「う……あ……」

 

 小鳥は苦しそうに呻きながら、ベッドの上で悶えている。その顔は人ではなくなり、一目見て、心無い者からすれば化物に相違無い姿へと成れ果ててしまったのだ。

 

「小鳥!! しっかりして!!」

 

 慌てて駆け寄り、手を握ろうとするも、小鳥の手は翼へと変化しており、ヒナの手を振り払った。

 

「あぁ……うあっ……」

 

 小鳥はベッドの上で暴れ回る。その姿は、まるで何かから逃げているように見えた。

 

「小鳥!! 落ち着いて!!」

 

 必死に呼びかけるが、その声は届かないようで、小鳥の動きが止まる事は無かった。

 

「うぁ……ああぁ……」

 

 小鳥の口から嗚咽が漏れる。その姿は、まるで泣いているように見えた。

 

 声すらも発せられない。人としての形も、何もかもを失った小鳥は、ただベッドの上で暴れ続ける事しか出来なかった。

 

 そんな小鳥を、ヒナは優しく抱き締めた。

 

「大丈夫よ……私が側に居るからね……」

 

 そう語り掛けるも、小鳥には聞こえていないようで、相変わらず暴れ続けている。

 

 それでも、ヒナは必死に小鳥を抱き締め続けた。

 

 少しして、救急医学部の部長である氷室 セナが遅れて到着し、鎮静剤を投与し、漸く落ち着きを取り戻した。

 

「ありがとう。セナ」

 

 ヒナは、小鳥を抱き締めながら謝罪する。セナはそんな彼女を見て首を横に振った。

 

「いえ……私の方こそすみませんでした。もっと早く気付いていれば……」

 

 セナは悔しそうな表情を浮かべていた。しかし、それも無理のない事だろう。彼女の責任ではないとはいえ、遅れて到着した事に負い目を感じているのだ。

 

「いえ……セナは最善を尽くしてくれたわ」

 

 ヒナは、セナに対して優しく言葉を掛けると、彼女は少しだけ安心したような表情を浮かべた後、小鳥の側に歩み寄った。

 

「今は薬で眠ってますが、いつ目を覚ますか分かりません。それに、薬が切れたらまた暴れ出すでしょう」

 

 セナはそう言うと、ヒナに視線を向ける。その視線を受けて、ヒナはゆっくりと頷いた。

 

「……分かってるわ」

 

 小鳥の症状は日に日に進行している。治療の手立てもなく、薬も効かない。状況は絶望的だ。

 

 何より、此処まで症状が進行した小鳥をどうやって戻せば良いというのだ?

 

 治療法も分からないまま、ただ時間だけが過ぎてゆく。

 

 それが歯痒くもあり、悔しくもあった。しかし、それでも諦める訳にはいかない。

 

「必ず何とかするわ。だから、少し時間を頂戴」

 

 ヒナは小鳥の頭を撫でながらセナにそう告げた。そんな彼女の姿を見て、セナは何も言う事が出来ず、ただ静かに頷く事しかできなかった。

 

 

 

 

 

 それから更に数日後。

 

 医学・薬学・心霊学……様々な方法で治療を試みられたが、結果は全て失敗に終わった。

 

 小鳥の症状は悪化の一途を辿り、そして遂に、その身体は、完全に異形の存在へと成り果ててしまった。

 

 鳥の姿をしてはいるが、身体は歪に変形し、羽が生えているというだけで、鳥とは程遠い存在。

 

 最早、人でもなければ、鳥でもない。声もまるで獣のように、言葉として発しているのではなく、ただ鳴き声を上げているだけのもの。

 

 かつて人だった生き物は、最早人では無くなっていた。そんな状態の小鳥を見て、ヒナは何も言えなかった。ただ黙って立ち尽くし、そして静かに涙を流す事しかできなかったのだ。

 

 そんな彼女の隣に、セナが歩み寄る。彼女はそっとヒナの肩を抱いた後、優しく言葉を掛けた。

 

「ヒナ委員長、もう良いんです」

 

 その言葉に、ヒナは首を横に振る。しかし、それでもセナの言葉は止まらなかった。

 

「もう無理なんですよ……小鳥さんは……だから……」

 

 セナの言葉を聞きながらもなお、ヒナは何も言えなかった。そして、そのまま暫くの間沈黙が続いた後、ヒナは絞り出すように呟いた。

 

「お願い……もう少しだけ……後、少しで良いから……」

 

 しかし、その願いが届く事は無く、その後も治療が続けられたが結果は同じだった。

 

 そんな日々が続く中、仕事と看病の板挟みに、ヒナの精神も限界に近付いていた。

 

 足取りが重い。最後に寝たのは何時だ?

 

 いや、今はそんな事を言っている場合ではない。

 

 まだ、何か方法がある筈だ。そう自分に言い聞かせて、ヒナは再び小鳥の元へと向かう。

 

「ごめんね……遅くなっちゃった」

 

 そう言って小鳥の頭を撫でる。すると、小鳥は小さく鳴き声を上げた。

 

 その姿を見ると、思わず涙が溢れそうになるが、ぐっと堪える。

 

 そこから、面会時間ギリギリまで、ヒナは小鳥に語り続けた。

 

 小鳥が、少しでも安らかに眠れるように……。

 

 そして、面会時間が終わり、ヒナは施設を後にした。

 

 家に帰ったら、残った書類の整理をして、その後は……確か、アビドスの自治区にも、小規模な病院があった筈。そこの先生と相談して……それから……。

 

 頭の中で今後の予定を立てながら、ヒナは帰路に着いた。

 

 しかし、その途中で、ヒナの足が止まる。そしてそのまま、その場に蹲った。

 

 分かっている。もう手遅れなのだと。

 

 このまま無理をさせて、苦しむのは小鳥なのだと。

 

 それでも、諦める事が出来なかった。

 

 誰でも良い。小鳥が元に戻るなら、悪魔とだって取引しよう。

 

 藁をも掴む思いで、ヒナは立ち上がると、再び歩き出した。

 

 小鳥が元に戻るのなら、私は……。

 

「こんばんは。空崎 ヒナさん。突然お声かけしてすみません。少しお時間よろしいでしょうか?」

 

 その声に、ヒナは足を止めて振り返ると、見知らぬ男性が1人立っていた。

 

「……誰? 私に何の用かしら?」

 

 警戒しつつ、ヒナは男の目を見る。しかし、男は動じる様子も無く、穏やかな表情で微笑んだまま言葉を続けた。

 

「貴女と話がしたいだけですよ。そう、不死川 小鳥さんの件について」

 

 その言葉に、ヒナは目を見開き、更に警戒を強めた。

 

「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ」

 

 そう言って微笑むも、ヒナは警戒を解く気はないらしい。そんな様子を見て男は肩をすくめた。

 

「まぁ、突然このような事を言われて、警戒しない方がおかしいですね。ですが、この機会は今後訪れる事は無いとご理解下さい」

 

 そう言うと、男はゆっくりとヒナの元へと歩み寄って来る。それに合わせてヒナも後ずさったが、すぐに壁にぶつかってしまった。

 

 そんな様子を気にした様子も無く、男は言葉を続ける。

 

「小鳥さんがこのまま症状が悪化し続ければどうなると思いますか?」

 

 その問いかけに、ヒナは何も答えられなかった。しかし、男はそれを気にした様子も無く続ける。

 

「沈黙する必要はありません。大方、貴女の想像通りです。ですが、その理由を、それに対する解答を、私は有しています。何が原因で、何故そのような結果となってしまったのか……」

 

 男はそう言って小さく笑った。そしてそのまま言葉を続けた。

 

「聞きたいですか? それとも聞きたくないですか?」

 

 男はそう問いかけると、ヒナの答えを待つように口を閉じる。その表情には笑みが浮かんでおり、まるで挑発しているかのようだった。

 

 ヒナは拳を強く握り締めるが、それでも冷静さを保ちながら口を開いた。

 

「聞かせて頂戴……そこに小鳥を治す可能性があるなら、どんな手を使ってでも掴み取るわ」

 

 その言葉に、男は満足げな笑みを浮かべると、静かに語り始めた。

 

「分かりました。では、立ち話もなんですから、場所を変えてお話するとしましょう。ついてきて下さい」

 

 そう言って歩き出す男に、ヒナは何も言わずに黙ってついていく事にした。

 

 小鳥を救う為なら、悪魔にでも魂を売る覚悟がヒナにはあったのだ。

 

 だから、例え罠だとしても構う事は無い。小鳥を救えればそれで良いのだ。

 

 そんな決意を胸に、ヒナは男と共に歩き出した。

 

 

 

 

 

 男に案内されたのは、街外れにある廃墟となったビル群の一角だった。

 

 中に入ると、地下へと通じる非常口のランプが点灯しており、男はそのまま階段を降りて行く。

 

 ヒナもそれに続くと、その先には薄暗い通路が続いていた。

 

 暫く進むと、突き当たりに大きな扉が現れる。男はその前で立ち止まると、ゆっくりと扉を開け中に入っていった。

 

 ヒナもそれに続くように中に入ると、そこは、外観とは掛け離れた内装が広がっており、まるで研究所のような場所だった。

 

「ここは……?」

 

 ヒナが周囲を見渡しながら尋ねると、男は微笑みながら答える。

 

「私の研究所です。といっても、此処を利用していた方々から買い取っただけで、殆ど使い道がなかった場所ですがね」

 

 そう言って苦笑すると、男は部屋の奥にある椅子を引き、そしてヒナに視線を向ける。

 

「どうぞお座り下さい。今飲み物を用意致しますので」

 

 そう言って、奥の部屋へと歩いて行った。ヒナは警戒しつつ椅子に座ると、男はすぐに戻って来て、テーブルの上に紅茶の入ったカップを置いた。

 

「毒等は入っていませんので安心して下さい」

 

 そう言って微笑む男に、ヒナはカップを手に取る事なく口を開いた。

 

「教えて。小鳥の身に何が起きているの?」

 

 ヒナの言葉に、男は小さく肩を竦めながら答える。

 

「おやおや、随分と余裕のない様子。よほど、不死川 小鳥さんの事が心配なのでしょう」

 

 そう言って笑う男に、ヒナは苛立ちを覚えながらも平静を装いつつ言葉を続ける。

 

「いいから早く答えて。小鳥には時間が……」

 

「黒服です」

 

「……急に何を?」

 

「私個人を示す名前みたいなものです。私なりに気に入ってまして、この名で通しています。空崎 ヒナさん。私は貴女の名を知っていますが貴女は私の名を知らない。これから大事な話をする間柄です、貴女にも知っておいて貰いたい」

 

 そう言って微笑む男に、ヒナは何も答えなかった。しかし、それでも男は気にする様子も無く続ける。

 

「さて、これで互いに名を知る事が出来ました。では、本題に入るとしましょう」

 

 黒服はヒナの向かい側の椅子に座ると、小鳥におきている症状について説明を始めた。

 

「まず初めに、不死川 小鳥さんが患っている症状は、病気ではありません」

 

 その言葉を皮切りに、黒服は小鳥の症状について語り始めた。

 

 小鳥の身体を蝕んでいるのは病気ではなく、彼女が持つ神秘が関わっている事。

 

 神秘とは生徒が持つ特異体質や特異能力、果ては生徒達の内に秘めたる存在を指し示す言葉であり、その種類は多岐に渡る。

 

 小鳥の身体に起きている異変は、彼女が持つ神秘が原因である事。

 

 傷の再生能力が高い特異体質。

 

 それが小鳥の体質だった。

 

 幼い頃は、この体質のせいで周りから気味悪がられ、孤立するきっかけとなったそれが、今度は別の形で小鳥を苦しめている。

 

 本来、傷ついた組織は、元通りになるわけではない。本来の状態とはやや異なる形で再生し、傷が塞がるのだが、小鳥の場合、これまで多くの傷を修復してきたせいで、その速度が異常に早くなっている。

 

 その結果、異常な速度で再生する組織が突然変異を起こして人としての肉体の再生ではなく、別の生き物の肉体として再生し、それによって身体が蝕まれている状態となっているのだそうだ。

 

 もっと深掘りすれば、小鳥の内に眠る神秘。キヴォトスの外では、とある悪魔の特性を色濃く反映したそれが肉体に影響を及ぼしているとの事。

 

 『死』と『再生』……これら2つの特性を司る悪魔、その姿は鳥と酷似しているらしく、小鳥の肉体がその状態に近付いている事と深い関わりがあると、黒服は結論付けた。

 

「私は今の不死川 小鳥さんの症状を、外の世界で言う所の神、悪魔、その他諸々の逸話をモチーフとした存在の姿に変異する意味合いを込めて、『神秘顕現』もしくは『神秘変異』と呼称しています」

 

「顕現……変異……」

 

 ヒナは黒服の説明を反芻するように呟いた。

 

「はい。そして、その状態が進行すればする程、小鳥さんは人ならざる者へと変貌していきます。本来であれば、このような事例は珍しい……というより、確認したのは初めてなのですが、何かしらのきっかけがあったのかもしれませんね。何か心当たりはありませんか?」

 

 その言葉に、ヒナの顔色が変わる。

 

 憶測も含めれば、それこそ考えられる可能性はいくつもある。しかし、それらが原因とは限らない。いや、それが原因だとは思いたくないといった方が正しいのかもしれない。

 

 誰だって、自分の行いが原因で問題が生じたなどと思いたくはない。

 

 あの時、話を聞いていれば。

 

 あの時、様子がおかしかった事をもっと気にかけていれば。

 

 と、様々な憶測が巡り巡って、後悔の念が押し寄せてくる。

 

「小鳥は……助かるの?」

 

 ヒナは、絞り出すような声で黒服に問いかける。

 

 心当たりに対して、黒服が言及しようとしない辺り、憶測の範囲内での出来事は、あくまでも仮定の話に過ぎないと切り捨てている事が理由なのだろう。

 

「今の症状の進行を止める……という意味でしたら可能でしょう」

 

 進行を止める。これまで多くの医療関係者に匙を投げられてきた小鳥を、助ける事が出来る可能性を見出す事が出来たのだと、ヒナは藁にも縋る思いで黒服の言葉に耳を傾けた。

 

「そもそもの原因は、彼女の神秘に異常が見られている事が原因です。であれば、神秘が身体に与える影響を抑える事が出来れば、今の症状の進行を止める事が出来るというわけです」

 

 ただしと、黒服は付け加える様に、言葉を続けた。

 

「その方法は、非常に困難であると言わざるを得ないでしょう」

 

 その言葉に、ヒナは息を飲む。しかし、それでも諦めずに問いかけた。

 

「……教えて。どうすれば良いの?」

 

 その問いに黒服は微笑むだけで答えようとはしない。しかし、ヒナはそれでも食い下がった。

 

「お願い……小鳥を助ける為ならなんだってするわ」

 

 そう言って頭を下げるヒナを見て、黒服は懐から1枚の紙を取り出すと、それをテーブルの上に置いた。

 

「……では、この件で私と貴女で取り引きをしましょう」

 

「取り引き?」

 

「えぇ、私は契約に重きを置いています。今回の件は不死川 小鳥さんの問題です。その問題を貴女が支払うというのも研究という意味合いでは大変興味深いですが、貴女のそれは、流石の私達でも荷が勝ちすぎるというもの」

 

 故に、今回の件は、コミュニケーションが困難な小鳥の代わりに、彼女の身体に関して処置を施す許可をヒナが出す事で、正式な形で小鳥の身体の処置を行う事が出来るようにしたいようだ。

 

「此方も慈善活動家ではありませんからね。当然、対価を要求するのは当然の事。今回の場合、不死川 小鳥さんの身体を提供する事……そうそう、この場合の提供とは、彼女の身体に異変を生じさせている神秘の研究という意味ですのであしからず」

 

 それらの許可を、黒服が出した書面にサインする事で契約が成立し、契約に従い、黒服は小鳥の症状を抑える為の処置を行う事が出来る。

 

「取り引き内容は以上です。サインを頂けるのであれば、手続きを済ませて正式に契約成立となります」

 

 そう言って微笑む黒服に、ヒナは迷う事なくペンを走らせていく。その姿を見た黒服は小さく笑みを浮かべると、契約書を手に取り立ち上がった。

 

「では、早速準備に取り掛かりましょう。私は此処で待っていますので、小鳥さんを此処に連れてきて下さい。あぁ、そうだ。出来れば、この事は内密にお願いしたい。内容が内容ですからね」

 

 そう言って微笑むと、黒服は部屋を出て行った。ヒナはそれを見届けると立ち上がり、小鳥がいる救急医学部の隔離施設へと向かった。

 

 これで小鳥が元に戻れる。

 

 漸く、この苦しみから解放する事が出来る。

 

 普段の彼女ならば、警戒して、疑って、そして契約など結ばなかっただろう。

 

 しかし、今のヒナは冷静さを欠いていた。小鳥が助かるという希望に縋りつきたい一心で、黒服との取り引きに応じてしまった。

 

 その結果がどうなるのかも考えずに……。

 

 

 

 

 深夜、隔離施設に忍び込んだヒナは、静かに小鳥のいる部屋まで向かう。

 

 幸いにも、施設の職員は皆寝静まっているようで、誰にも気付かれる事無く目的の場所まで辿り着く事が出来た。

 

「小鳥……」

 

 ヒナは静かに扉を開けると、そのまま部屋の中へと入る。小鳥はヒナが来た事に気付いていないのか、ベッドの上で静かに寝息を立てていた。

 

 その姿を見て、ヒナは安心したように笑みを浮かべる。

 

「小鳥……もう大丈夫よ。貴女の身体を治す人が見つかったの。今からその人の所に案内するわね」

 

 そう言って小鳥の身体に触れると、小鳥の目が薄く開き、ヒナの方を見た。

 

 そして、声を発する代わりに、鳥のような鳴き声で彼女に答えた。

 

 小鳥の身体に負担がかからないように抱きかかえ、施設を後にする。

 

 夜風が頬を撫で、熱った身体を冷ましてくれる。

 

 その心地良さに目を細めながら、ヒナは小鳥を抱きかかえたまま歩き続ける。

 

「大丈夫? 寒くない?」

 

 ヒナが尋ねると、小鳥は小さく鳴いた。ヒナはそれを肯定だと受け取ると、そのまま歩を進める。

 

「小鳥、貴女が元に戻ったら、一緒に色んな所に行こう。海でも山でも……小鳥の好きな場所に連れて行ってあげる」

 

 そう言って微笑むヒナに対して、小鳥はただ小さく鳴くだけだった。

 

「うん、そうね。それ以外にも、風紀委員会としての仕事も、小鳥に沢山お願いする事になるかもしれないわ。そこで沢山の事を学んで、そして……そうそう、まだ先の話になるんだけど、ゲヘナとトリニティとの間で……」

 

 言葉が次々と溢れてくる。

 

 これまで、何度も絶望に打ちひしがれながらも、諦めずにキヴォトス中を駆け回った努力が報われた。

 

 小鳥が助かる。

 

 その喜びが、ヒナの口を饒舌にさせたのだ。

 

「エデン条約が結ばれればトリニティとの関係も、昔と比べて良好になるわ。そしたら、2人で出掛けるのも良いわね。小鳥は甘い物が好きだから、きっと気に入ってくれると思うの。だから、早く良くなってね。私も頑張るから……貴女と一緒に」

 

 そう言って微笑むヒナに対して、小鳥は小さく鳴く。その鳴き声が肯定なのか否定なのかは分からなかったが、それでも良かった。

 

 これで全てが元通りになる。

 

 その為ならば、どんな努力だって惜しまないつもりでいたからだ。

 

 小鳥を抱える手に力を込める。すると、腕の中の小鳥がヒナの身体に擦り寄って来た。

 

 その仕草に、ヒナは笑みを浮かべると、そのまま歩き続けた。

 

「うん、あそこは、珍しいデザートが沢山あるみたい。小鳥、甘いの好きだったから楽しみね。私も、凄く楽しみにしているわ」

 

 小鳥は甘いものが好きだった。

 

 ゲヘナにも珍しいデザートは沢山あるが、トリニティのデザートはそれとは違う。もっと独創的で、それでいて繊細な味わいのものが多いと生徒達の話を小耳に挟んだ事がある。

 

 小鳥が、そのデザートを美味しそうに食べている姿を想像するだけで笑みが溢れる。

 

「だから……早く良くなってね」

 

 食事も、流行り物も、興味や関心が無かったヒナが、小鳥を助けたい一心で駆け回り、その都度、様々な情報を得る過程の中で知識として得たものだ。

 

 ヒナは、小鳥が喜ぶ顔を想像しながら歩き続ける。

 

 ずっと後ろをついて来た小鳥が、まるで我が子のように、もしくは妹のように、ヒナにとって大切な存在となっていた。

 

 だからこそ、小鳥が元に戻る為ならば、何でもするつもりだった。それが例え犯罪行為に繋がる事だったとしても。

 

 暫くして目的の場所に到着した。

 

 廃墟となったビル群の一角。黒服が待つビルの中に入り、地下に通じる非常口へと進む。

 

「小鳥……着いたわ」

 

 階段を降りて、大きな扉を開くと、準備を整え終えた黒服が待っていた。

 

「お待ちしておりました。それでは早速、処置に移りましょう」

 

 そう言って微笑みながら処置室へと案内される。

 

 部屋の中央には大きな手術台が置かれ、周囲には医療器具が並んでいた。

 

「では、小鳥さんを此方に」

 

 黒服の指示に従い、ヒナは小鳥の身体を優しく手術台の上に乗せる。

 

 すると、黒服を視界に捉えた小鳥は、先程まで大人しかったのが嘘のように暴れ出した。

 

「小鳥……落ち着いて……」

 

 ヒナは小鳥の身体を押さえようとするも、小鳥は激しく抵抗する。その様子を見て、黒服は小さくため息を吐くとヒナに聞こえない声でボソリと呟いた。

 

「やはり、まだ完全には変異していないようですね」

 

「え?」

 

 ヒナが聞き返すよりも早く、黒服は小鳥の身体に注射器を突き刺した。

 

 中の液体が小鳥の体内へと注入され、小鳥は苦しそうな表情を浮かべると、ヒナに目を向け、小さな鳴き声を上げた。

 

 そして、その鳴き声を最後に、小鳥は大人しくなり、そのまま眠ってしまった。

 

「これで暫くは動けません。今のうちに処置を進めましょう。空崎 ヒナさん。これから大掛かりな処置を始めますので、部屋の外で待機していて下さい」

 

 そう言って、黒服はヒナに部屋から退室するよう促した。

 

「貴女も相当疲れているでしょう? 仮眠室もあります。そこで休まれても構いませんよ」

 

「でも……」

 

 ヒナが食い下がろうとすると、黒服は小さく笑みを浮かべた。

 

「心配せずとも、小鳥さんは私が責任を持ってお預かりします。ですから、今はゆっくり休んで下さい」

 

 その言葉には有無を言わせぬ圧力があり、ヒナは従うしかなかった。

 

「分かったわ……」

 

 そう言って部屋から立ち去ろうとすると、背後から黒服の声が投げかけられた。

 

「あぁ……そうだ。最後に一つだけお伝えしておきましょう」

 

 その言葉に振り返ると、黒服の笑みが更に深くなったような気がした。

 

「小鳥さんは、貴女に依存しています。それは恐らく、彼女が人ならざるモノへと変貌していく過程の中で、貴女に救いを求めた結果なのでしょう」

 

 黒服の言葉を聞き終えた直後、ヒナは部屋から甘い香りが漂っている事に気付いた。

 

 この香りはなんなのか。それを問う前に、ヒナの意識が遠のき始めた。

 

「どうやら、効いてきたみたいですね。これから行う処置の最中に、貴女に暴れられれば支障がでます。それでは、空崎 ヒナさん。契約通り、不死川 小鳥さんの処置を始めたいと思います」

 

 黒服の言葉を最後に、ヒナは意識を失った。

 

 床に倒れたヒナを見下ろし、黒服は指をパチンと鳴らす。

 

 すると、部屋の外で待機していた仲間がヒナを抱き抱え、待合室へと運んで行った。

 

 これで誰の邪魔も入らない。

 

「さて、それでは見せて頂きましょう。72柱が1柱、『死』と『再生』を司るフェネクスの神秘とやらを」

 

 直後、耳を劈くような叫びが部屋中に響き渡り、そして、その鳴き声は徐々に弱まっていき、やがて静寂が訪れた。

 

 

 

 

 夢を見た。

 

 身体が元に戻り、元気な姿で前を走る小鳥の姿。

 

 眩しすぎる笑みを浮かべ、自分を呼ぶ小鳥の声。

 

 その全てが愛おしく感じる。

 

「ヒナ委員長!!」

 

 笑顔のまま手を差し伸べる小鳥に、ヒナも笑みを浮かべて手を伸ばす。

 

 しかし、どれだけ手を伸ばしても届かない。

 

 次第にその姿は遠くなり、やがて見えなくなった。

 

 目が覚めると、ヒナは待合室のソファーで横になっていた。

 

「えっと……私……は……」

 

 どうしてこんなところにいるのかと思い出そうとしていると、不意に目の前に気配を感じた。

 

 顔を上げると、そこには黒服が立っていた。

 

「おはようございます、空崎 ヒナさん」

 

「あ……えっと……」

 

 まだ頭がボーッとしていて上手く喋れないヒナを見て、黒服は小さく笑みを浮かべる。

 

「どうやら、相当疲れていたようですね。今は朝の8時です。そして此処は、私の研究所。不死川 小鳥さんの症状を抑える為に、貴女は小鳥さんを連れて此処に来ました」

 

 黒服の言葉にヒナは、朧げな記憶を思い出す。そして、小鳥の事を思いだし、慌てて立ち上がった。

 

「そうだ……小鳥は!!」

 

 慌てるヒナとは対照的に落ち着いた様子の黒服は、ゆっくりとした足取りで部屋の扉へと手を差し伸べた。

 

「全て終わりました。見に行かれると良いでしょう」

 

 黒服の言葉に、処置が成功したのだと確信したヒナは、ソファーから起き上がると、黒服の脇を抜け、部屋の外へと飛び出した。

 

 普段の彼女からは想像できない、喜びに顔を綻ばせた表情を横目に、黒服は彼女とは反対方向の扉を開き、施設を後にした。

 

「契約通り、不死川 小鳥さんから神秘による症状の進行を止めました。後僅かな時間、ゆっくりと過ごされて下さい」

 

 そう言って、小鳥から大量のサンプルを手に入れた黒服は、そのまま闇に溶けるように姿を消した。

 

 テーブルには契約書が残されており、黒服はそこに書かれた内容の通りに、小鳥の症状を抑えたのだった。

 

 

 

 

 処置室の扉の前に立ち、ヒナは深呼吸をする。扉の先には、全てが元通りになった小鳥がいる筈。

 

 期待に胸を膨らませ、ヒナは扉をゆっくりと開いた。

 

 そして、そこには……。

 

「……………………ぇ?」

 

 赤黒く変色したベットの上に無造作に転がる、小鳥だった何かがあった。

 

 四肢は欠損し、羽や羽毛を全て毟り取られ、皮膚すらも殆ど残っていない。まるで芋虫のように無様に転がるソレは、小鳥だったとは思えない姿に変わり果てていた。

 

 ヒナの顔が見る見る内に青ざめていき、足取りが覚束なくなっていく。

 

 膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだヒナは、目の前の現実を受け入れる事が出来なかった。

 

「なん……で……?」

 

 小鳥をこんな姿にした黒服に対して怒りをぶつけるよりも先に、ヒナの口から漏れ出たのは疑問の声。

 

 何故? 何故? 何故?

 

 その言葉だけが、ヒナの頭の中を駆け巡る。

 

 小鳥は元の姿に戻る筈なのに……。

 

 それなのに何故こんな事に。

 

 何故小鳥はこんな姿になったのか。

ヒナの疑問に答えるように、背後から声がした。

 

「空崎 ヒナさん。貴女は何か勘違いをされていたようです」

 

 その声に振り返ると、机の上に置かれた通信機が目に止まる。

 

「私はこう言いました。『小鳥さんの症状を抑える』と……」

 

 そう、黒服は一言も、小鳥を元の姿に戻すとは言っていなかったのだ。

 

「私は契約の通りに小鳥さんの症状を抑える事に成功しました。彼女の身体から神秘を取り除き、大元を絶ったのですから」

 

 そして、契約の通りに小鳥の身体から神秘を取り除き、症状を抑える事に成功した。この段階で、黒服はヒナとの契約を果たした事になる。

 

 ヒナからすれば、騙されたと思っても仕方がない。しかし、契約の通りに行動した黒服は、決して嘘をついたわけではない。

 

 ヒナが勝手に思い込んでいただけなのだ。黒服は、最初から小鳥の症状を抑える事しか言っていない。元の姿に戻すとは一言も言っていないし、そもそも小鳥の症状を治す方法など提示していないのだ。

 

 つまり、ヒナは騙されたのではない。自分の勝手な思い込みによって契約内容を履き違えた、もしくは勝手に自己解釈してしまったようなものだったのだ。

 

「そこにあるのは、言わば残り滓のようなものです。神秘を失った者は助からない。ですが、別の視点から考えれば、苦しみから解放した事になります」

 

 その意味では、小鳥は救われたと言えるだろう。

 

 通信機越しに聞こえる黒服の声に、ヒナは呆然としながら耳を傾ける。

 

「残り滓……苦しみから解放……」

 

 違う。これは違う。

 

 こんな結末は間違っている。

 

 ヒナの頭の中で、何かが音を立てて崩れていく。

 

 小鳥を助けられると思ったのに……。

 

 絶対に助かると思っていたのに……。

 

 それなのに……どうして?

 

「貴女の行動は確かに小鳥さんの為になったでしょう。しかし、それは同時に彼女の苦しみを長引かせる結果に繋がった」

 

 黒服の言葉が、ヒナの心に突き刺さる。

 

「貴女がした事は、小鳥さんの命を……そして心を弄んだだけに過ぎないのです。その事を理解していますか?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ヒナは目を見開き、小鳥へと向き直った。

 

「わ……たし……は……」

 

 小鳥を助けたかった。

 

 ただその一心で行動した。

 

 その結果がこれだというのか?

 

「私は、貴女の行いを肯定も否定もしません」

 

 通信機から聞こえる黒服の声は、淡々と事実だけをヒナに伝えていく。

 

「貴女の行動は正しかったかもしれない。しかし、それが小鳥さんにとって幸せだったかと問われれば……不明と答えるでしょう」

 

 黒服の言葉は、ヒナの心を容赦なく切り裂いていく。

 

「貴女は小鳥さんを助けたかった。しかし、それは本当に彼女の為になったのでしょうか?」

 

 黒服の言葉は止まらない。ヒナの心を追い詰めるように、言葉を紡いでいく。

 

「それは本当に、小鳥さんが望んだ事だったのでしょうか?」

 

 黒服の言葉は止まらない。ヒナの心を破壊していくように、その心を蹂躙していく。

 

 自分の行いが正しかったのか、今ではそれすらも分からない。しかし、この結末に至るのであれば、これまでの行いは全て……。

 

 絶望の色に染まりゆくヒナに、しかしその自問自答は、室内に響き渡る鳴き声によって打ち消された。

 

「あ……」

 

 それは小鳥の声だった。

 

 ヒナは呆然としながら、改めて小鳥に目を向ける。

 

 小鳥は、動けない筈の身体を無理矢理動かし、ヒナに何かを必死に伝えようとしている。

 

「……小鳥」

 

 ヒナが呼びかけると、小鳥は一際大きな鳴き声を上げた。それはまるで、黒服の言葉を否定する、最後の抵抗のようだった。

 

 その姿を見て、ヒナの目から涙が溢れ出す。

 

「私……私は……」

 

 嗚咽混じりに、ヒナは小鳥に語りかける。

 

「私……貴女を助けたくて……それで……」

 

 ヒナの声に、小鳥は小さく鳴き声を上げて答える。

 

 鳴き声を上げるだけでも苦痛な筈なのに、それでも必死にヒナに応えようとする小鳥を、ヒナは優しく抱きしめた。

 

 それに答えるように、ヒナに擦り寄り、身体を揺らす。

 

 その身体は、神秘を失った身体はボロボロと崩れはじめ、終わりの時が近いのだと認識させられた。

 

 通信機は沈黙し、室内には小鳥の囀りと、ヒナの小さな嗚咽だけが響き渡っていた。

 

「私は……本当に……」

 

 自問する言葉は最後まで続く事はなかった。崩れ落ちる最後の刹那、残された力を全て振り絞った声がヒナの耳に届いたのだ。

 

「ヒ……ァ」

 

 それが小鳥の最後の言葉であった。

崩れていく身体は、まるで灰のように白く変色していき、そして、そのまま形を成さなくなった。

 

 残されたのは、ボロボロになった骨のみ。その姿を見たヒナの瞳から光が消えていく。

 

「ぁ……あ……」

 

 その場に崩れ落ちるヒナの口から、言葉にならない声が漏れ出る。

 

 小鳥は助からなかった。その事を改めて認識し、ヒナは深い絶望の底に叩き落とされた。

 

 もう何も考えられない。考えたくない。ただ一つだけ分かる事は、自分は取り返しのつかない事をしたという事だけだった。

 

 

 

 

 その日から、ヒナは人が変わったように、風紀委員会の仕事に打ち込むようになった。

 

 小鳥の死に責任を感じたヒナは、風紀委員としての仕事を今まで以上にこなすようになったのだ。

 

 そして、その日から……ヒナが笑う事はなくなった。

 

 その姿は、他の風紀委員のメンバーが見ても、痛々しく見える程だった。

 

「ヒナ委員長……」

 

 心配した他のメンバーが声をかけるも、ヒナは何も語ろうとはしない。その瞳は何も映さず、ただ虚なまま虚空を見つめていた。

 

 そんな日々が続く中、ヒナは1人、廃墟のビルが立ち並ぶ区画を訪れていた。

 

 そこはかつて、小鳥と2人で訪れた場所。ヒナはその場所に到着すると、ゆっくりとした足取りで奥へと進んで行く。

 

 そして、ある場所で足を止めると、そのまま地面に膝をつき、手に持つ花束を地面に添えた。

 

 この事に意味はない。

 

 死者に手向ける花を添えた所で、何か変わるわけでもない。

 

 それでも、ヒナは手向けた花に手を合わせて、静かに目を閉じた。

 

「小鳥、もうすぐ、もうすぐエデン条約が結ばれるわ。そうすれば、私の仕事は一段落する。此処に来る機会も、もっと増えると思うわ」

 

 小鳥と最後に交わした遣り取り。エデン条約の締結を以って、ヒナは自身のやるべき事に、一区切りをつける事にした。

 

 その為に、ヒナは今まで以上に仕事に打ち込み、心血を注ぎ続けてきたのだ。

 

 それさえ成れば、風紀委員会の委員長としての役割は終わり、後は後任に引き継ぐだけになる。

 

 そうすれば、ヒナは風紀委員長という枷から解放されるのだ。

 

「だから、もう少しだけ待っていて。小鳥」

 

 そう言って、ヒナは立ち上がると、その場を後にした。その足取りは軽くもなければ重くもない。ただ、前だけを向いて歩く姿があった。

 

 そして、エデン条約式典当日。

 

 条約が結ばれ、ヒナの悲願が達成すると思われた次の瞬間……轟音と共にヒナの視界が暗転した。

 

 

 

 

 

 ……何が起こった?

 

 爆発? 攻撃された?

 

 誰に? 何故?

 

 状況はどうなっている?

 

 エデン条約は? 

 

 小鳥との約束は?

 

 黒煙が立ち込める中、ヒナは周囲を見渡すが、何も分からない。

 

 瓦礫の山と、血の匂いだけがヒナの五感を刺激する。

 

 自身の身体をじっと見つめる。

 

 所々に火傷を負い、全身に痛みが走る。それでもヒナは立ち上がり、空を見上げた。

 

 飛行船が飛んでいる。

 

 万魔殿の羽沼 マコトが乗船していた飛行船だ。

 

 この状況で、何故彼女だけが……。

 

 そうか、これは彼女の仕業か。

 

 しかし、彼女だけの仕業ではないだろう。これだけの規模の爆発を巻き起こすには、他にも協力している者がいる筈だ。

 

 確か、トリニティでは聖園 ミカがアリウスと手を組んで妨害しようとしていた。

 

 ならば、今回の一件は、アリウスとアリウスに協力関係にあるマコトの仕業か……。

 

 犯人は分かった。そして改めて、辺りを見渡した。

 

 そして……。

 

ーまた私は、約束を守れなかったー

 

 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故? 何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故……なぜ、どうして、ドうシテ、ナんで、また……。

 

ーなんで私は、約束すら守れないの?ー

 

 ヒナの精神が『苦痛』『恐怖』『絶望』に染まっていく。

 

 ヒナという存在が『反転』し、彼女というテクスチャーが剥がれ落ちていく。ヒナとヒナに内包された神秘が入れ替わり、ヒナという存在そのものが『反転』した。

 

ーあぁ……私はまた……失ってしまったのね……ー

 

 その身体からは神秘が溢れ出し、周囲の瓦礫が音を立てて崩れていく。

 

ー約束したのに、ちゃんと守ろうと思ったのに、やっぱり無理だったー

 

ーやっぱり、私の願いは叶わないの?ー

 

 ヒナの瞳から光が消え去り、空虚な眼差しが空へと向けられる。その瞳には何も映っておらず、ただ『虚無』だけが存在していた。

 

ーもう、どうでもいいや……ー

 

 ヒナの瞳に光はなく、まるで深淵のように暗く深い闇が広がっていた。

 

 そして、その瞳は捉えた。

 

 アリウスの生徒達を。

 

 エデン条約を破綻させた元凶達を。

 

 

 

 

 マコトが乗船する飛行船を爆破させようとしていた錠前 サオリは、通信機から流れてきた槌永 ヒヨリの悲鳴に近い声を聞いて、思わずその手を止めてしまった。

 

「どうした、ヒヨリ。何があった?」

 

『リーダー!! に、逃げて下さい!! あれは、ばけも/ /の……』

 

 通信機から聞こえるヒヨリの声は、そこで途切れた。

 

 見晴らしの良い場所で飛行船が爆破し、墜落する所を見届けようとしていたサオリは、慌ててヒヨリが担当していた区画へと目を向けると、淡い一条の光が横薙ぎに大地を駆け抜け、その軌跡にあるもの全てを焼き払った。

 

 その光景を目の当たりにしたサオリは、目を見開きながら通信機越しにヒヨリへと呼びかける。

 

「ヒヨリ!! どうした、応答しろ!! 何があった!!」

 

 しかし、通信機からはヒヨリの返事はない。先程の光と何か関連があるのかもしれない。

 

 飛行船の爆破は後回しだ。早く、ヒヨリの安否を確認しなければ。

 

 そう思い、高台から降りようとした刹那、今度は飛行船に向けて淡い光が放たれ、飛行船のガス袋を焼き払った。

 

 その衝撃で飛行船は炎上し、ゴンドラは炎に包まれながらゆっくりと墜落していった。

 

 サオリはその惨状を目の当たりにしながら、その場に立ち尽くしていた。

 

 あれは何だ?

 

 あの光は一体……っ!!

 

 炎に包まれた飛行船を眺めながら、サオリは動く事が出来ずにいた。しかし、次の瞬間。今度はゴンドラに向けて光が放たれ、横一文字に薙ぎ払われた。

 

 その衝撃にゴンドラが耐え切れる筈もなく、船体は再び轟音と共に爆発を繰り返しながら、空中で爆散した。

 

 サオリは信じられないといった様子で呆然としていた。

 

 一体、何が起こっているのか理解が追いつかない。

 

 あの光は? あの威力は?

 

 そもそもアレは何なのだ?

 

 そして、自分はこれからどうすれば良いのか、全く分からないでいた。

 

 そんなサオリの元に通信が入る。相手はミサキだった。

 

『リーダー……逃げて。あれは、私達で手に負えるものじゃない』

 

 ミサキは、通信機越しにサオリに撤退を進言する。

 

「……ミサキ、何が起こっている……状況を説明してくれ」

 

『リーダー……お願い。今は逃げて。姫と一緒に……私はもう、ダメみたい』

 

「ミサキ……ミサキ!!」

 

『足が……腰から下が、目の前に転がっててさ……ははっ……もう、動けないや』

 

「ミサキ!!」

 

『だから……お願いリーダー。私の分まで……生き延びて……』

 

 それだけ言って、通信は途切れた。

 

 ヒヨリに続いてミサキも音信不通となった。他の部隊も同様に、淡い光が放たれると共に通信が途絶え、サオリは1人、取り残されてしまった。

 

「何なんだ……一体……」

 

 そう呟いたその時、再び通信が入る。

 

 今度はアツコからだった。

 

『サっちゃん、聞こえる?』

 

「姫か!! 一体何が起きている!! ミサキも、ヒヨリも通信が……」

 

『ごめんね、サっちゃん。私もダメみたい』

 

「……え?」

 

 アツコの一言に、サオリは言葉を失った。一体何を言っている?

 

 何を言って……。

 

『ごめんね、サっちゃん』

 

「姫……何を……」

 

『約束……守れなくて……ごめんね』

 

 その言葉を最後に、通信は途絶えた。そして次の瞬間。

 

「っ!!」

 

 サオリの背後から、淡い光が放たれる。その光の先に浮かぶ人物を視界に捉えたサオリだったが、それが誰かと認識する間もなく、その光はサオリを呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒナはただひたすら歩き続ける。その瞳には何も映らず、空虚な闇が広がっていた。

 

 彼女が通る道は、全て焼き払われ、瓦礫の山が積み上がる。

 

 その歩みは、まるで幽鬼のようで、生者の気配を全く感じさせない。

 

 約束を果たす事が出来ず、その誓いを自ら裏切ってしまったヒナの心は、もう何も感じていなかった。

 

 絶望も後悔も苦しみも悲しみも何も感じない。ただ、虚無だけが存在していた。

 

 ヒナはただ、歩き続ける。その歩みには目的は無く、意味も無く。まるで亡霊のように、何かに取り憑かれたように彷徨い続ける。

 

 存在しない光を求め、存在しない希望を求め、存在しない救済を求めて、ヒナは目に映る全てを焼き払いながら、ただ彷徨い続けるのであった。




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