醜く開いた穴を潜り、瓦礫を掻き分け床に下りると、そこはリュウラセンの塔の一階部分。
劣化した翡翠色のタイルが敷き詰められた空間だが、足場が崩落した箇所に漏れ出た湖の水が溜まり、ところどころが水没してしまっている。
また倒れた石柱も多く、形を保っているのは塔の中心を支える支柱くらい。余程長い間放置されてきたのか、壁に点々と位置する燭台には真っ黒い煤がこびり付いたままだ。
(……なるほど。この有様では、観光客も寄り付かんな)
一部足場が崩れ落ちた脆い階段を登りながら、海馬は一人得心した。
塔内の荒廃ぶりは目を瞠るものがあるが、立ち入るにはいささか危険すぎる。何か大層な目的でもない限りは探索するメリットもないだろう。
「目的か……」
石段を登り切り、淡々と次のフロアに向かう途中、ふと海馬は周囲を見回し独り言つ。
薄暗い塔内のそこかしこに、二年前に起きた事件とやらの痕跡が色濃く残っている。
ポケモンのワザで抉られた壁の傷。床に散乱した梯子やタラップの残骸たち。先ほど通った、壁にこじ開けられた大穴もそうだが、プラズマ団はこの地で散々暴れ回ったらしい。
全ては海馬の知る由もない過去の出来事であるが、遺された爪痕を見ていると、どうにも海馬の胸中には屈辱めいた感情がふつふつと込み上がってくるのだった。
ㅤそもそも、この世界における『青眼の白龍』──もといレシラムは、真実を追い求める人間を見定める気高きポケモンだと再三聞かされてきた。
(それが、何故プラズマ団などというふざけたゴロツキどもの長を選んだのか……)
ㅤ古ぼけた階段を淡々と駆け上る傍ら、海馬はずっと、その疑問と向き合い続けている。
ㅤ勇み足で乗り込んだリュウラセンの塔だが、最初の方で過去のプラズマ団の痕跡が見つかった以外、目ぼしい手掛かりは未だに見つかっていない。
ㅤ一階、二階は崩れた瓦礫が溜まっているだけで、他には大して見所もなかった。せめて壁画のひとつでもあれば探索も捗るのだが、そういった遺物の類も見当たらない。オマケに野生のポケモンに遭遇することもなく、自分の足音だけが静かに
ㅤだが、しかし。
ㅤ石段を登る彼の心は、そんなつまらぬ景色とは裏腹に、ざわめくような熱を蓄えていた。
鋭い眼で天井の、その先の景色までもを睨み据え、ひたすら上へと突き進む。周囲の似たような景色を眺めても退屈なだけで、何より重要なものはここにない。
階層が上がる度に確信を増す己の直感を信じて、海馬は道中、決して足を止めなかった。
そうしているうちに、とうとう階段が途絶した。
崩れかけの手すりを頼りに、ぐいと身を乗り出すと、突風が前髪をぶわりと持ち上げる。
諸所に開いた天井の穴からは、濃雲が強風に煽られるのが見て取れた。
(なるほど、ここが最上階らしいな)
バサバサと唸るコートはそのままに、海馬は最後の段を上り切る。
塔頂は、一見するとちょっとした広間のようになっていた。
半円に近い形のフロアには小さめの石柱が、まるで来訪者を出迎えるように列をなして並んでいる。その奥ではⅤ字に欠けた壁の穴が、天井と同じく灰色の空を覗かせている。
柱の間を抜けて壁穴の付近まで近寄ると、真下に広がる美しい湖が一望できた。高い塔を登り切った者だけが拝める眺望で、まさに絶景と呼ぶに相応しい。
「………」
だが、海馬が求めるのはこんな風景などではなかった。
遠望も早々に切り上げ、彼は周囲に目を走らせた。物々しく立ち並んだ柱たち、劣化し傷ついた壁や床、元が何かもわからない瓦礫の数々まで――
しかし、そこまで念入りに探してなお、目ぼしいものは見つからない。
自分の勘では間違いなく、この場所にレシラムの手掛かりが眠っているはずなのに。
強固な意志と真実を胸に、己の
レシラムは――
(いや、そんなことがあり得るはずはない……)
ふと過った愚かな考えを、海馬はすぐさま否定した。
(オレがこの場所を訪れたのは必然だ。伝説を従えるに相応しい、真の
脳裏に焼き付くレシラムの姿を思い返すと、ますます感覚が研ぎ澄まされてゆく。
動じるな。意識を傾けろ。必ず答えはこの頂上に隠されているはずだ。
海馬は深く息を吸うと、瞳孔が開いた青い眼を閉じ、一度昂った精神を落ち着かせようと努めた。
――その時だった。
瞼の裏、暗闇に包まれた視界が突如として、青白い閃光で満ちる。
思わず目を開き光の出所を探る海馬は、異変を感じて左腕を持ち上げ、驚嘆の声を上げた。
「これは……‼⁉」
左腕に装着された
まるで何かを訴えかけるように激しく、力強く。
海馬は咄嗟に、そのカードを引き抜き眼前に翳した。
「『
ドローしたのは他でもない海馬の切り札。『
その、元いた世界では幻とまで評されたレアカードが今、海馬の手の中でひとりでに輝き、自身の存在を主張している。
(いったい何が……⁉)
不可思議な現象を前に、思考を巡らせる暇すら与えられなかった。
カードの中の『
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――‼‼⁉」
閃光に包まれて意識が遠のく。
全身の感覚が消え失せる中、海馬の耳には最後まで、轟々と唸る風の音が鳴り響いていた。
〇●〇●〇
「あ……あぁ……‼」
海馬が意識を取り戻した時、強烈な光は既に消え去っていた。
チカチカと眩む目を必死に凝らして周囲を見渡せば、先ほどと同じ景色が広がっている。リュウラセンの塔の最上階である。
(くっ……! さっきの光は何だ⁉)
どうやら気を失っていたのは一瞬のようだが、一体この身に何が起こったのだろうか。まだはっきりとしない頭で、海馬が背後を振り返った時だ。
「なんだと……⁉」
度肝を抜かれて目を見開く。
塔頂の壁に開いたⅤ字型の穴の前に、白龍が一体、佇んでいた。
火の粉を巻き上げ赤々と燃える松明のような尻尾とともに羽を広げ、青く澄んだ眼でこちらを見下ろす誇り高き姿はまさに、海馬の追い求める伝説のポケモンそのもの。
「これは……‼ まさか
生けるイッシュ地方の伝説――レシラム。
あまりにも予想外な登場に、海馬もしばし言葉を失い呆然と立ち尽くした。
だが、それも一瞬のことだった。レシラムから下ろした視線が、その巨体の御前に立つ、別の人物の影を捉えたのだ。
『どう? 世界を導く英雄の下にその姿を現し、ともに戦うポケモンの美しい姿は!』
レシラムと向かい合っていたその人物は、海馬のいる方向を振り返り、得意げに言った。
声の特徴からしておそらく若年の男だろうが、シルエットは真っ黒に塗りつぶされたようで、正体を判別することができない。
ただ、純真無垢な幼さを感じさせる無邪気な声にはどこか聞き覚えがあった。
『これからボクはレシラムとともにポケモンリーグに向かい、チャンピオンを超える』
何か問いかけようと手を挙げた海馬を丸っきり無視して、その人物は続ける。
心底嬉しそうな口調で意味のわからないことをペラペラと述べた後、彼はおもむろにレシラムの背中へ飛び乗った。それを合図としたのか、レシラムは白い翼を力いっぱい羽ばたかせる。
『ポケモンだけの世界……ようやく実現する』
「待て‼」
慌てて走り出そうとする海馬だったが、レシラムが巻き起こした風圧に煽られ、呆気なく押し返されてしまう。そうしているうちにレシラムと男は上空へと舞い上がり、壁の亀裂をすり抜け、遥か彼方へと飛び去っていった。
「くっ、逃がしたか……‼」
遅れて海馬が壁際に着いた頃にはもう、彼らの影は灰色の雲間に消えていた。
塔の最上階に一人残された海馬は、レシラムと男が消えていった空を睨み、ギリと歯ぎしりする。
目と鼻の先で伝説のポケモンを掠め盗られた。その屈辱が全身を駆け巡り、握り拳を酷く震わせる。
(いや、まだ完全にチャンスを失ったわけではない‼ 今からでも奴らに追いつけるはずだ‼)
それでもなお奮起して、海馬はレシラムを追跡しようと急いだ。
腰のベルトからリザードンが入ったモンスターボールを掴み取り、すぐさま投げようと構える。
だが、その瞬間。またしても不可解な事象が自身の身の回りで起こっていたことに気付いた。
ボールを片手に視線を戻した海馬の目には、先ほどまでと全く異なる景色が映し出されていたからだ。
♢♢♢♢♢
「ここは……?」
ありえない出来事に思わず息を呑んだ。
今までずっと塔の最上階にいたはずなのに、いつの間にやら周囲の景色がガラリと入れ替わっているではないか。
現在海馬が立っているのは、打って変わってさっぱりとした広い空間だ。
天井は高く、床はシックなタイル張り。足元には豪華なレッドカーペットが敷かれ、奥の大きな玉座まで続いている。あたかも王宮のような雰囲気だ。
この唐突な変化には海馬も戸惑いの色を隠せず、目をしばたかせながら辺りを見回す他なかった。
『なんとまぁ、情けない結果だ……‼』
突然、どこからともなく声が響いてきた。
海馬がハッとして顔を向けると、玉座の後ろから現れた人物が目に入る。
さっきの人物とは違い、はっきりとしたシルエットを持つ大柄な男だった。目玉のような模様があしらわれた趣味の悪い衣装を纏い、右目はモノクルで隠されている。一目で怪しいと感じる風貌で、右足を引きずりながら、こちらへ向かってゆったりと歩み寄って来る。
『それでもワタクシと同じ名を持つ人間なのか? 不甲斐ない息子め』
その男も案の定、海馬の存在を無視して一方的に喋り始めた。
『もともとワタクシがNに真実を追い求めさせ、伝説のポケモンを現代に蘇らせたのは、
やたら芝居がかった口調が次第に熱を帯びてくる。男の怒りの矛先は、海馬ではない別の誰かへ向けられているらしい。
海馬は、そこで挙げられた人物の名前を知っていた。
(Nだと‼)
一切の正体が謎に包まれたトレーナー・N。
プラズマ団の残党たちから、何かと話を聞く男だ。
ポケモンと会話する力を持ち、伝説のポケモンを従えた組織の『王』。
そして、海馬がレシラムを手に入れる上では避けて通ることができない相手だ。
(……なるほど、さっきの塔の頂上にいたのが奴か。だが、この男は?)
納得しつつも新たな疑問が浮かび、海馬は正面に立つ謎の男に再び目を向ける。
依然Nをこき下ろし続けていた男は、その時。ふうと息をついて、こちらの方に向き直った。
『ですが、まぁいいでしょう」
口の左端がにやりと歪む。右目を覆ったモノクルよりも一段と深く、かつ赤黒く染まった左目に狂気の光を宿して、男は口を開いた。
それと同時に、
(……ッ⁉)
場の空気が一気に凍り付くような、身の毛もよだつほどの冷気が海馬を襲った。
『今のワタクシにはもはやNなど必要ない。レシラムの力など足元にも及ばない。遂に手に入れた
男が語る間も震えは止まらず、それどころか海馬の全身を蝕み、じわじわと自由を奪っていく。
「馬鹿な……‼」
意識が飛びそうになるほどの寒さに、海馬は堪らず膝をついた。
決してプレッシャーなどという生易しいものではない。物理的な冷気が体の芯まで染み込き、骨の髄まで凍り付かせる。
あまりにも突然の出来事に海馬は為す術なく、ただひたすらに跪き続けることしかできない。
依然として男はずっと喋り続けていた。徐々に朦朧とする意識の中で、その声だけが耳に届いてくる。
『もはや誰であろうと! ワタクシを止めることはできない‼ フフフフ……フハハハハハハハハハ………‼‼‼」
目の前で愉悦に満ちた哄笑を上げる男に、海馬はどうにか食い下がろうとしたが、もはやどうにもならなかった。
体温を奪われた体は完全に力を失い、やがて海馬は、押し寄せる暗闇に呑まれて目を閉じた。
〇●〇●〇
「っ……‼」
再び目を覚ました海馬の頬を、大粒の汗が伝う。
両膝をついたまま、慌てて見回したそこは、先ほどと全く同じ空間――リュウラセンの塔の最上階であった。
「何が……何が起こった……?」
夢だったのだろうか? いや、そんなはずはない。海馬はあの凍てつく寒さを鮮明に覚えていた。指先から見る見るうちに血色が失われていく感覚を思い出すと悪寒が走る。
だが、如何にリアリティがあったとしても。それは決して現実に起きた出来事ではないのだ。Nの影、王座の部屋、モノクルの男、そしてレシラム。辺りを見渡しても、海馬が見たものは何一つ存在していなかった。荒涼たる遺跡の中心で跪く自分が一人いるだけである。
狐につままれたような心地で立ち上ろうとした時、手をついていた傍の床に、一枚のカードが落ちているのを見つけた。
海馬は、拾い上げたそのカードを見て何やら勘付いたか、思わず声を震わせた。
「
既に『
しかし、カードが既に沈黙していようとも、海馬の得た確信は揺らがなかった。
(今のビジョンは、この世界における
仮にそうだとすれば、合点の行く話である。
ハンサムやプラズマ団の残党たちから聞いた情報を基に整理するなら、一つ目の光景はNがレシラムを目覚めさせた瞬間の記憶だろう。間近で見ると余計癪に障るシーンであったが、事実とあれば素直に受け止めるしかなさそうだ。レシラムはNを英雄と認めていたらしい。
そして二つ目の光景は、『王』ことNが傀儡に過ぎなかったという事実を鑑みれば、容易にその答えを導き出せる。
「ゲーチス‼ 奴か、プラズマ団のボスというのは……‼」
ハンサムから名前だけは聞かされていたが、幻とは言え、その顔を拝んだのは今日が初めてだった。
プラズマ団を立ち上げ、Nを表向きのリーダーとして祭り上げ、挙句の果てにはレシラムを復活させ、その力による世界征服を目論んだ影の支配者。
今まではNの方にばかり意識が向いていたが、冷静に考えればこの男も、レシラムの誇りに傷をつけた忌むべき敵である。
一度野望を断たれてなお脱獄したというのだから、奴の執念も相当なものに違いない。今後レシラムをゲットする過程で立ちはだかってくる可能性も十二分にあると考えられるが。
(……いや、待て。何か妙だ)
ふと、海馬の中に小さな疑念が湧いた。
先ほどのビジョンで目にしたゲーチスの、とある発言が妙に引っかかる。
『今のワタクシにはNなど必要ない。レシラムの力など足元にも及ばない。』
『ついに手に入れた
――最終兵器。
(あの時、奴は確かにそう言った)
Nやレシラムを利用して計画を進めていた二年前のゲーチスが、まず口にしなさそうなセリフである。
(……とすれば、オレが見たあの光景は、何も過去の記憶だけではないというのか?)
カードを握る手に力が籠る。
(
先ほど味わった凄まじい冷気を思い出し、海馬の背筋をゾクリと震わせた。
あの身の毛もよだつほどの寒波と、ゲーチスの語る最終兵器、そしてレシラムがどんな関係にあるのか。今の海馬には微塵も想像がつかない。
確信できるのは、このビジョンがただのまやかしなどではない、重要な意味を持っているということのみ。
(まだ見ぬ脅威が、このオレに牙を剥こうとしているわけだな)
ㅤ直に脳へ叩き込まれた数多の情報を飲み込み、海馬はようやく落ち着きを取り戻した。
ㅤカードに描かれた
ㅤその輝きをしかと目に焼き付けた海馬は改めて、自身の閃きを真実として受け入れた。
「フ……面白い」
ㅤ塔頂に吹き込む風は、いつしかひっそりと凪いでいた。
海馬は
リュウラセンの塔を訪れたことで確証を得た、自身とレシラムとの深い因縁。それを噛みしめながら、その場を立ち去ろうとした時。
「止まれ」
踵を返そうとした海馬の首筋に、ひやりと冷たい刃が添えられた。
「動けば、どうなっても知らんぞ」
背後で囁く声から静かな殺気を感じ取り、海馬も速やかに足を止める。
「……何者だ?」
「フフ……流石は我らに仇なす不埒者。この程度では動じないか」
問いかけると、相手は愉快そうに喉を鳴らした。まるで獲物を前に舌なめずりをする蛇のような薄気味悪さ。
苛立った海馬が、首を動かさぬまま目線だけを背後に向けると、腰当たりの位置に敵の腕が伸びている。
その、病的なまでに白く痩せ細った腕から、海馬は敵の正体を悟った。
「貴様か。確か、ライモンシティで見た……」
「いい記憶力をしているな。概ね正解だ」
にぃと、背中越しに口角の上がる気配がする。
海馬の首下で鈍く光る刃には、黒装束を纏った生気のない男の姿が映し出されていた。