Jupiter ガスの巨人
宇宙。どこまでも続く空虚。無限に近しい距離を隔てた星々。手を伸ばしても、それに届くことはない。
装甲シャッターを開いたポリカーボネイト鉛積層ガラスの向こうに視界いっぱいの輝きが見える。どれも宝石のように綺麗だ。アークトゥルスの柔らかい橙。ベガの透き通るような碧色。でも、その輝きに暖かさを感じることはできない。断熱された船内から外の温度を感じることはできないけれど、十数センチ先には冷ややかな虚無が横たわっている。あるところではたった数ミリのアルミ板が加圧された船内と真空の宇宙を隔てる壁だ。それだけ、しかしそれがこの命を維持している。あまりに広大すぎる暗闇の中に僅かなセーフゾーンが浮かぶ。何度も何度も同じように繰り返してきた作業であっても数センチの壁の向こうに確実な死を予感させる世界が広がっているというのは慣れないものだ。
いや、慣れてはいけないのかもしれない。鈍感になってはいけない。『
ぬるい窓に手を当てて冷ややかな宝石箱を眺めていると、コックピットの計器がブザーを鳴らした。窓に触れる手に力を入れて体を押しやり、ふわりと自分のシートの方に体を飛ばす。外した状態のままふわふわと宙を舞っているベルトの金具を掴んで作業服に固定し、ペダルの金具に作業履を噛み合わせる。耐Gスーツとハーネスをシートのバックルに留め、体を揺らして固定を確認する。幾度となく繰り返してきたチェックリストを今回も終了させ、信頼の我が日本製G-SHOCKの時計を眺めて計器の時刻を確かめる。この強磁場宙域でも寸分も狂わない極限環境用のスペシャルエディション。先輩にもらった時は別に好みのデザインでもなくそこまで気にするものでもなかったが、今ではいつも手放せない相棒だ。
さっきまで覗いていた窓から光が差し込んだ。それに呼応して窓の外で放熱板が展開量を増やす。アンモニアポンプの作動音が少し大きくなった。他の方角で輝く星々とは比べ物にならない明るさで自己主張する太陽。光が触れる場所に伸ばした手にほんの僅かな熱を感じる。いや、この距離ではもしかしたら錯覚ではないか。そこまで考えてため息のような笑いを漏らした。数えるのも馬鹿らしいほどした思考を飽きずに何度も繰り返してしまう。私はこの瞬間が好きなんだろう。たとえその温かみが錯覚であったとしても、心はいつもあれに引っ張られている。万有引力ってやつだろうか、きっとそうだろう。
円形に繰り抜かれたように星々が見えない暗がりに明るい三日月形の光が現れる。月の満ち欠けのようなものが高速で起きているとでも言えば良いか。公転と自転のことまで考えたら厳密には違うのだが、この宇宙船が動いているからそう見えている。星々のような点光源でない光は目立って見える。
壁のスイッチを跳ね上げ、さっきまで覗いていた窓を保護する。分厚いチタン合金製のシャッターがドアを閉じるように降りて窓を保護した。この速度で石っころにでも当たったりしたらいくら強化ガラスといえど耐えられない。もっとも、強化と名がつくだけあって埃のように小さいものなら耐えはするだろうが……修理となると面倒なことになる。
シャッターが閉じ切ると外の光は当たり前ながら入らなくなり、何も見えなくなる。数コンマ秒をおいて閉じたシャッターの裏側に外側の光景が投射された。速度、自転相対速度、現在の軌道がそこに重なって表示される。頭上から引っ張り下ろしたヘッドマウントディスプレイに軌道遷移スケジュールを映す。操縦桿を握り込むと同時に人工知能の完全自律操作が半自動のパイロット補助に切り替わった。操舵スタンバイ。
『CAUTION Orbit Transition Point, SLOW DOWN, SLOW DOWN』
けたたましいサイレンと共に米国製の航法コンピュータが女声の人工音声を用いて大音量でがなりたてる。言われなくてもわかってる。指示に従って減速する前に操縦桿にゴテゴテとついたつまみの一つを少し回して船の向きを微調整する。RCSスラスタを噴射、ヒドラジン燃料がわずかに減少。モーメンタムホイールで最終調整。姿勢調整系に問題はなさそう。さあ、やるぞ。エンジンシステム、チェック。RCS・モーメンタムホイール、チェック。ジャイロコンパス、チェック。計器を信用する限りオールグリーン。うんざりするほど多いスイッチを一つ一つ動かしてマニュアルセーフティを外す。作業の間にも人工音声のカウントダウンが0に迫っている。
『ファイフ、フォー、トゥリー、ツー、ワン』
────ゼロ。
体に力を入れ、ペダルを踏み込む。セイフティ解除。メインエンジン、点火。
衝撃が体を襲った。急激な減速に船の構造体が軋みを上げる。強烈なGが私の体をシートに押し付け、肺が潰されて空気が抜けていく。呼吸がしずらい。体全体が圧縮されていくような感覚だ。歯を食いしばってそれに耐える。心拍数と体温の上昇、緊張によって背が汗ばむ。
耳鳴りを貫通して聞こえる脳を揺さぶるような轟音。媒介する物質の存在しない宇宙空間は音を伝えることができない。船体を振動波が伝わって私まで音を届けている。核融合エンジンのデトネーション波が奏でる音楽は控えめに言って最悪だ。作業船だから仕方ないところもあるが、このくそったれな乗り心地を改善する方法はないものか。質実剛健とはよく言ったものだ。
役目を放棄した聴覚に代わって視覚を使う。エンジンの問題で急減速と急加速しかできないからいつだってこうだった。クッションに半ば埋まりながらなんとか顔を動かす。計器のメーターに異常はない。放射線強度はいつも通り。船の遮蔽を信じるほかない。ヘッドマウントディスプレイには噴射に伴って変わりゆく船の軌道。周囲モニターはどうかというと、眼下に映し出されていた三日月型は月で言ったら半月ぐらいのところまできた。小さく薄く見えていただけの孤はどんどんと膨らんでゆき、ぼんやりとした光を放つようになる。宇宙空間の黒に滲みだす光が表すのは大気の存在だ。そこに茶色と白色のボーダー模様が流れる。それが流れ、絡んで、踊る。暴君、守護者、太陽の成り損ない。いろいろ呼び方があるが、自分にとっては仕事場、そして生命線。
太陽系最大の惑星、木星がそこにある。
渦を巻き複雑な模様を形作るガスのダイナミクスが光学拡大せずとも見える。表層が随分と近づいてきた。茶色と白のグラデーションに沿ってわずかな青色、わずかなメタン、水素とヘリウムの雲とアンモニアの氷が混ざり合って荒れ狂っている。今日の職場の様子をじっと観察している間にもどんどんと近づく。
木星はそれ以外の惑星を全て足した質量の二倍より大きな質量を持っている。つまりとてつもなく重力が強い。宇宙空間において減速とは落下である。木星の重力井戸へ落ちていく。強大な潮汐力が小さな船体にも負荷を掛け、船が歪む。不気味な軋みがエンジンの音とは別に確かに聞こえてくる。少しの操作ミスで命取りになる。これほどの接近軌道では自動操縦も頼れない。
ぞわりと鳥肌が立った。ふと、近づく巨星より手前に光芒を捉える。レーダーの近接警告。流星ではない。同業者がいる。光学ズーム。ダークグレーの船体にブルーのストライプペイント。何度か見たことがあるな。前と同じ、相変わらず無茶な軌道だ。とても私たちではあんなGに耐えられない。遠ざかる船から発光信号、モールスだ。ツーツートントンツートントン。GL……『幸運を』か。彼女に同じ信号で返答する。発光信号を送り返している間にも宇宙船はどんどん遠ざかっていき、伝わったかどうかわからないうちにレーダーの光点が放射線ノイズに消えた。恐ろしく早い。
睨みつけていたHUDの数字が0になる。目標軌道に遷移完了。抑えていたペダルを戻す。エンジンの咆哮が鎮まり、苛烈なGが消える。減速終了。ポンプの作動音が遠ざかる中、大きく息を吐く。額を伝う汗を拭おうとしてヘルメットのシールドに腕をぶつけた。今度は大きなため息を吐く。
『CAUTION Too Low Orbit, SPEED UP』
当船は予定軌道上を航行中。航法コンピュータが基準軌道ナビゲーションとのズレを警告している。意図的にやったことだから気にする必要はない、いつものように警告を切る。木星上層大気の調子は刻々と変化するため、近接観測基地のレーダーと磁気計、そのほか観測衛星の配信データを見て降りる高度を毎回判断する。今日は基準軌道より、低い。
RCSスラスタ噴射。旋回、前と後ろを入れ替える。エンジンは後ろにしかついていないからバックで進入するわけだ。航法コンピュータが再び傾きを警告したりしている。やかましいやつだ。君よりこっちの方がライセンス的には上なんだぞ。そうこうしているうちにコックピットが進行方向を向いた。このまま少しずつ木星に近づいていく軌道だ。自転に沿って昼の面を追いかけ、仕事を終えたら近点で加速してそのまま離脱する。予定に問題はない。
作業をしている間にも宇宙船は動き続ける。当然作業が終わっても。人工知能の補助操作が船体を安定させ、やることのない私は下に広がる景色を、いつもと変わらない景色を眺める。徐々に大気表層が近づき、投射映像が薄く茶色がかかる。のっぺりと平らなキャンバスの上に広がる絵画のように見えていたマーブル模様は、複雑な動きを見せる立体的な流体として見えるようになっていた。アンモニアの雲が湧き上がり、沈んでゆく。対流とジェット気流が眼下にうねる。立ち上がって頭上のトグルスイッチをオフ、放熱板を強制収納。出しっぱなしにしておくと大気の抵抗で壊れてしまう。
慣性航法装置が微弱なマイナスGを検知、ガスが船を引っ張り始めている。自動で安定翼が展開。抵抗力を使って少しずつ減速する。ガスの密度が段々と上がり、空力加熱が起こり始める。耐熱シールド温度上昇。可視光映像が赤くなりはじめ、レーダー映像に自動で切り替わった。轟々と大気分子が船体にぶつかる音が聞こえる。大気圏内用ラジエーターのスイッチが自動で入り、稼働レベルが自動調節される。温度はすぐに平衡に達した。状態は安定。軌道から離れて無重量状態が解かれ、自らの体に重力が作用し始めるのを感じる。強い力。押さえつけ、潰すような。
上層大気のガスを弾丸のようにかき分けてを進むこと数分、目標高度に到達。大気抵抗で目標速度まで減速。赤道付近を航行中。大気圏内用のエンジンに切り替えた。再び可視光映像に戻ったモニターを見れば、地球の空を思わせる薄青い空に白や茶のアンモニアの雲がなびく。安定翼が作り出す気流に捕まった雲が白く線を伸ばしていく。まるで飛行機雲だ。
コンソールの一際大きいボタンを強く押し込む。大きな駆動音と少し大きめの振動。RCSスラスタとジャイロが船体の動揺を直ちに吸収する。足元の映像パネルを注視していると、下方に向かって伸びていく吸気ノズル付きのブームが見えてくる。うまく気流の流れに船を乗せつつ、慎重に操作する。ゆっくり、ゆっくり、先端がガスの雲海に近づいて───沈んだ。霞みつつも見えていたノズル先端が見えなくなり、想定外の外力を受けた船体が安定を失って大きく動揺し始める。
「くそ、今日は色が悪いな」
どうやら今日は面倒な日のようだ。跳ねるブームが根元の衝撃吸収ダンパーを軋ませ、船体をふらつかせる。上下に揺れるコックピットの中で努めて冷静に機体を操作する。ノズルの安定翼を展開、制御コンピュータに相対位置を維持するように指示する。続けて船の翼の操作を変更、より積極的に可動翼を動かす。消費電力が増加したが船体の動揺が鎮まった。ノズルから受ける抵抗が強い。硬質なものが当たって砕ける音がブームを伝って船内に響く。濃いアンモニアの氷雲に運悪く当たってしまったらしい。これにぶち当たるとフィルタの目が詰まってダメになるから嫌いなんだ。いや……頭を抱えようとして数日後には交換する予定だったことを思い出した。元々廃棄予定なら問題ないか。よし、開き直ってみれば悩むこともない。アンモニアも別のタンクに入れておけばカリストコロニーで売れる。整備費が嵩むが、これは個人の取り分だ。少しの贅沢をするにもそれ相応の対価が必要になる。
フィルタとアンモニアの天秤に決着をつけたところで、とりあえず船の傾斜をエンジンの推力偏向で正しておく。今のところ問題なさそうだったが、振動で共鳴でも起きようものなら船がバラバラになってしまう。木星大気にスカイダイビングなんて絶対ごめんだ。降り立つ地面があるかどうかすらわからない。少なくとも圧力でペシャンコになるのは明らかだ。もしかしたらダイヤモンドになれるもしれないな。
ノズルが正常に稼働してガスタンクに水素とヘリウムが液化貯蔵されていることをコンソールのモニタから確認する。少しずつ数字が大きくなるメーターにとりあえず一安心。軌道が安定したら、することといえるようなことは特にない。初期状態さえ作り上げてやれば余程のことがない限り後の操作はコンピュータがやってくれる。こんな危険な仕事どうせなら最初から最後までコンピュータにやって欲しいものだが、それはまだ───数週間前に目撃した木星に急角度で突っ込んで帰ってこなかった無人船のように───厳しいようだ。まあしかし、その時が来たら私もこことはお別れだな。
木星の重力は素人にはきついが、人は慣れるものだ。ベルトを緩めてクッションの上で楽に浮かび、上層大気の壮絶な流れを特に何も考えることなく眺める。スペースラジオを聞こうにも、こうも近くては磁場と放射線の影響が強すぎて電波が入ってこない。スイッチを入れてラジオが捉えるのは木星の発する強烈な電波。聞こえるのは砂嵐と不定期に聞こえる不気味な音。最初の頃はこの巨星の声だなんだと興奮したものだが、ただうるさいだけの怪電波に興味をそう長く持てるはずもない。
見てくれの悪い旧式のコンポにディスクを再生させる。随分前に小惑星鉱業をやってた客からもらったヤツ。もう地球に帰るからとかなんとかで、お得意様だったから受け取ったが、その時の私にはガラクタにしか見えなかったもの。それが今、私の退屈を心地よく埋めてくれる。何百年か前のクラシックらしい。この星と同じ名前の曲だとか。色々得意げに説明された覚えがあるが、全て忘れてしまった。
管弦楽器の調べの後ろから、ガスの流れが風音となって聴こえる。どこまでも続く茶色と白の景色、渦巻くガスの海原。暗くなって見えない下方まで同じ構造が続いている。水平線の上は青い空だ。まるで水上船に乗っているような気分になる。地球の青い海はどんなだったか。
視界の端、雲の切れ目から深いところに巨大な紫電が迸ったのが見えた。音というより衝撃のような雷鳴が遅れて聞こえ、船体が揺れる。地球の雷などとは比べ物にならないエネルギーの奔流。電離ガスがいつもより多いらしい。オーロラが常より大きかったから随分と移動距離が伸びるのを覚悟して赤道直上まで軌道を変更したが、その判断は正しかったらしい。両極で生まれる電離ガスは船体をボロボロにしてしまう。嵐を避けようとするのは船乗りと同じだな。
ガス採取の合間、つかぬ間の休息が終わる。タンクが満杯になったことを知らせるランプが点滅した。吸入ブームが収納され、航法コンピュータが帰還軌道の最終計算を始めている。ここでやるべき仕事はこれで終わり。計器の表示を指して確認しておく。エンジンバルブは正常か、ブームは固定されたか、軌道計算に質量値は補正されているか、光子時計に異常はないか、エトセトラ。これだけは欠かさない。これを欠かす奴はいつかここに命を置いてくる。ちなみに全部メートル準拠だ、ヤードポンド法は滅んでくれ。
幸い今日も異常はなかったようだ。この巨星はガスと命を持って帰らせてくれるらしい。誰が聞いているわけでもないが、ガスの奥の方に向かって礼を言っておく。特に宗教を信じているわけでもないが、私の仕事の神様が木星なのは間違いない。信じるべきは自分と、コンピュータと、木星だ。
覚悟はしていたが、小タンク目一杯に溜まったアンモニアと引き換えにブームのフィルターとガスケットがダメになってしまった。これが最後のものだったはずだから次の採集までに新しいのを購入しに行かないといけない。1、2、3……明明後日なら軌道も近い。コロニーにアンモニアを売りつつ色々交換しに行こう。そろそろリアクションホイールも巻き直し時期だったし、ちょうどいい。
『CAUTION Orbit Transition Point, AUTO PILOT MODE, Please take seat, Please take seat』
帰り道は行きと違って、そこまで慎重になる必要がない。故にオートパイロットが運んでくれる。一気に大出力で加速して外側の軌道まで移動するルート。行きにはなかった積荷によってかさ増しされた質量を動かすためにエンジン出力はなんとフルスロットルだ。行きの比ではない。あれよりひどい最悪な船旅が約束されている。くそったれ。
行きと同じくベルトを引っ張って固定を確認。始まったカウントダウンを耳に、眼下の縞模様に別れを告げる。とりあえずシャワーを浴びたい。アンモニアの匂いがついているような気がする。
0が近づく。来たるGに備え、全身に力を入れた。