溺れないようにつけていたゴーグルと鼻栓を外し、表面張力でわずかに張り付く液滴を吸い取ったタオルを廊下の先に向かって投げる。タオルは投げた瞬間の速度を失うことなくふわふわと飛んで行き、開いたままだった洗濯機のドラムに吸い込まれる。少しの満足感を胸に、壁にマジックテープで固定していた分厚いタブレットを剥がして状況の確認を行う。採集したガスはステーションのタンクに移送完了。保存状況に異常なし。ステーション内部の酸素レベル、電気状況にも異常はない。核電池と太陽電池パドルは正常に動作している。温度は見るまでもないが、体感も表示も問題ない。全項目を指で撫でて、ため息。いつも通りという状況は安心の材料だが、あまりに変わり映えしない生活は退屈そのものだ。
エネルギープラント用中型ステーション。乗務員、1名。広大な木星周回軌道に浮かぶ有人ステーションの一つで私は生活している。数だけ見れば相当な人数が軌道上を生活基盤としているが、ご近所さんというにはあまりに隔絶されている。それにそれほど交流があるわけでもない。そう、あまりに広すぎるのだ。
公的機関のステーションから個人事業のものまで、さまざまな人間と機械がいる。フロンティアといえば耳障りはいいだろうが、厳しい場所だ、ここは。忘れてはいけない、本質的に宇宙は人間に優しくない。命を削って仕事に粉骨砕身。特に小惑星鉱業はその面が強い。一攫千金だなんだと言って夢を語っていた人間が時を経るごとに減っていくのを目の当たりにしなければ、それを心から理解するのは難しいかもしれない。仕事を辞めただとか、そんな単純な話ではない。宇宙世紀の蟹工船とは言い得て妙だと感心したものだ。
ケースから取り出した洗浄済みのサンダルをベルトで足に固定した。靴裏のマグネットが壁の鉄製パネルに体を繋ぎ止めてくれる。壁を蹴って飛び、手すりをつかんで移動する。マグネットはそこまで強くない。水の中を泳ぐ魚のように移動するには少しコツがいるが、自分はマスター済みだ。
本社からの惑星間メールを読みながらスペースラジオで仕事に関係するニュースを聞く。ふむ、ほう、カリストの果樹園の初出荷か。これはますます明明後日が楽しみだな。最近フリーズドライのものしか食べていない。地球産のものと比べるのはアレだが、火星産より安かったら購入を検討しよう。
プロテインバーを口に咥えながらステーションの廊下を飛ぶ。こぼれたバーのかすが壁のスリットに吸い込まれていった。強制対流空気清浄機のおかげで衣服と歯磨きやシャワーなどのケア、そして何よりも食事にあまり制限がないのは長期滞在において僥倖だった。調味料は自由に使えるし、歯磨きの後に液体を飲み込むという苦行もしなくていい。色々完璧に済ませようとするなら、それこそ重力のある衛星コロニーとかに定住する必要がある。金なんかいくらあっても足りない。だからこそ、少しでも我慢を減らせることにひとしおの幸福を感じる。無重力環境にいる以上、筋力維持のための運動からは誰も逃れられないが、食事に塩胡椒が使えるかどうかはかなり重要な問題なんだ。今日の夜は調理器の献立が久しぶりに肉で、相当に楽しみにしている。合成肉かどうかはこの際どうでもいい。塩胡椒の効いた肉料理なんてカリストで食べようとしたら数ヶ月分の給料ぐらい無に帰すだろう。少々グレードは落ちるが……久々の贅沢だ。
目的地の作業室。プロテインバーの箱をポケットに押し込み、タブレットをソケットに差し込んでコンソールの電源を入れる。ふわふわ動くと鬱陶しいので体は椅子に固定。最近新調したクッションはいい具合。燃料補給のスケジュールは依然変わりなく。他に連絡も入っていない。おととい定期輸送用の無人貨物船に補給を行ったばかりだから、三ヶ月ほど定期便は来ない。あとは不定期の鉱業船がいくつか。一週間後と三週間後にそれぞれ米国船籍とロシア船籍の船の予約。あとは特になし。ああいや、明明後日は自分自身に予定があるな。
直前で連絡を入れてきていきなり補給をしないといけないということが結構な頻度で起こるので、一日の大部分をこうやって特にすることもなく椅子の上でぼうっと過ごしている。予約なしの補給依頼は補給可能な圏内全域に出されて請け負うかはそれぞれのステーション次第。パイロットは名乗りを挙げたステーションから顧客が質量単価やガスの比などを検討して補給を受ける場所を選ぶ。さりとて私は名乗りにそこまで積極的ではない。治安が完璧でない故あまり平和的でない人間もいる、トラブルは避けたい。定期契約だけでノルマは達成しているのだから会社からは何も言われないだろう。
ここにくる宇宙船種は結構幅広い。珍しいお客だとアメリカ宇宙軍のミサイル駆逐艦───あまりの巨大さに驚いた───とかが来たこともあった。よってさまざまな職種の人間と関わることになるが、ここらのステーションで会う人間はだいたい共通して愛想がない。こっちが何か話しかけても「ああ」だの「うん」だの、会話にならない。ひどい時は無視される。定型文とはいえ無人船ですら礼をするというのに。こっちまで陰鬱な気分になる。よほど人工知能の方が人間らしい。人工知能が人間に近づいたのか、人間が人間らしくないから人工知能がそう見えるのか。
ポーチから取り出したパックから水を飲みながら、ガスの精製ラインの稼働状況を事細かに報告するコンソールを遠い目で眺める。ほとんどの作業が自動化されていて、私がすることなんてそうない。せいぜいメンテナンスや部品の交換ぐらいで、メインは客との窓口だ。コンピュータを使って私が仕事をしているというより、私を使ってコンピュータが任務を遂行していると言った方がしっくりくる。無人船のような会話インターフェースをここのコンピュータも持っているらしいが、あまり使ってみたいとは思えない。何を言われるかと少し恐怖を覚える。
大きなモニターの右上でアナログ表示の時計が規則正しく時間を刻んでいる。光子時計の刻む時は数百億年で一秒もずれないほど正確だ。昼と夜の周期が地球とは全く違うここでの生活を保障してくれる数少ない指標。時折相対論的な時間のずれの補正が行われる。絶えず木星を周回し、その重力圏にとどまるこのステーションは地球との時間の流れが少し違う。地球の日本は今頃昼下がりと言ったところか。超高層ビル群が雲を突き破って聳え立つ東京を思い出す。人と情報のひしめくあの狭苦しさはあまり好きではなかったが、懐かしむ心はある。キーボードを叩いて手元のタブレットに観測基地が発信している地球のライブ映像を出してみた。ノイズが酷くて青と白の球体ということぐらいしかわからないが、記憶がそれを補ってくれる。ああ、なんだか感傷的になってきた。戻りたいものだが、契約は契約。スペースエンジニアを志して勉強していた学生時代の私にこんな光景が想像できただろうか。
頭を振って苦しくなりそうな思考を中断する。なに、人生諦めたわけでもなんでもない。期間が終わったら帰れるんだから。今を考えて生きようじゃないか。
ダウンロードしておいた電子書籍のファイルを開く。仕事がないから、猛烈に暇だ。自分が読みたいというわけでもなく、セールになっていたデータをまとめて買って暇な時に開いている。正直何が書いてあるのかわからないことも多いが、何もしていないと自分を見失いそうになる。舷窓から覗く闇に吸い込まれるような、自他の境界を失って溶け出すような、不思議と確信を持てる予感だ。
*
数時間。時計の表示は進んだ時間を示している。無重力状態で体はほとんど凝ることはないが、癖で伸びをした。飲料水のパックを掴んだ手はしかし手応えがない。すでに空になってしまっていた。どこにやったかと辺りを見回し、頭上のパネルにマグネットでポーチが張り付いているのを見つけた。固定ベルトを外して浮き上がりつつ、ポーチから予備のパックを取り出す。ふわふわと回転する体を壁に貼り付ければ、視界を広くとった装甲ガラスがちょうど目の前にきた。映像とは違って実存を感じられる立体感と距離感。ステーション軌道は小惑星が少ない場所だから装甲シャッターは必要ない。だから、景色はいい。静かで広い、黒。ちょうど視界の中央に巨大なガス惑星が星空を押しのけて浮かぶ。視直径が4あるかないか、地球から見る満月よりはるかに大きい。
夜の面から昼の面へ、ゆっくりと移動してくる巨大な存在が見えた。大赤斑だ。
地球数個分という途方もない大きさの高気圧の嵐。深層大気から表層大気まで巨大な渦が貫いている。距離を取ったここからでも感じられるそのスケールとエネルギー。近づこうものならちっぽけな人間なんて宇宙船ごと紙細工のようにバラバラになってしまうだろう。
ふと同業者に冒険的な奴がいて、そこに行くんだと豪語していたのを思い出す。カリストの軌道ステーションでたまたま隣のドッキングポートになったというだけの縁だったが、なかなかうるさいやつでよく通信を入れてきていた。しかし、ある日パタリとそれが止んだ。ステーションの担当者が変わっていることに気づいたのはそれからそう長くない。ステーション付きの宇宙船も変わっていた。彼はどこに行ってしまったのか、あの大渦に居場所を見つけたのだろうか。
もう彼の声を思い出すことができない。どこかで聞いた人間が最初に忘れる人の記憶は『声』というのはどうやら本当らしい。人間の記憶というものは案外脆いもので、こうやって一人でずっといると言葉の発し方すら忘れてしまって唖然とすることがたまにある。私の存在を覚えている人間が果たしていくらいるか。
ただ、寂しさを覚え、何も答えてくれることはない宇宙を眺める。
唐突にアラームが鳴った。何も考えずに停止していた頭が再び動き出す。スクリーンに新規の仕事がきたことを知らせる通知。壁を蹴って操作席に戻る。大型タッチパネルに新たに表示されているのは補給依頼。いつものだな。日時は、今日か。 時間は……数時間後? 随分とぎりぎりな補給依頼だなあ。緊急……というわけでもなさそうだ。慣れていない新人だろうか。
軌道データは小惑星帯を通って木星で減速スイングバイを行いカリスト外縁軌道に乗る、か。かなり高等な操縦技術だな。優秀なコンピュータかパイロットでないと操縦できまい。見たところ無人船でもないようだ。しかし……「いつもと違う」にはあまり触れたくない。そういったものはトラブルの元になるのが自然の摂理。軌道的に私のステーションが一番都合がいいのだろうが、他を当たってもらおう。すまない。
心の中で謝罪しつつ、タブを閉じようとした時、通知先の文字列が目に入る。並んでいる文字コードはこのステーションの識別コードだ。限定という文字も一緒に。 もう一度依頼に目を通す。募集が全体になっていない。私のステーションを意図的に指名している。一体どういうことだ。当該宇宙船の登録情報を確認。船籍は日本。日本か。所属コードは、民間……?