決戦が、始まった。
馬陽の地で、秦と趙の大軍が、地響きとともにぶつかる。
数も勢いも互角。いや、じわじわと押し込まれていた。趙の攻めは、重い。一波ごとに、味方の前線が削られていく。
趙の兵は、よく鍛えられていた。蛇甘で当たった魏の兵とは、練度がまるで違う。一人ひとりが、ためらいなく前へ出る。秦の兵が押し返されては、また押し返される。怒号と悲鳴と、鉄のぶつかる音。地面はすぐに、血と泥でぬかるんだ。
俺の隊は戦場の右寄り、王騎本隊の側面を守る位置にいた。派手な手柄の挙がる場所じゃない。だがここを抜かれれば、本隊の横っ腹に刃が刺さる。地味だが、大事な持ち場だ。
だが王騎将軍の采配は、それを上回った。
退いたと見せて誘い、包んだと見せて空ける。
まるで盤面そのものを手のひらで転がすような、用兵だった。遠目に見ているだけで、鳥肌が立つ。これが六大将軍。これが、生ける伝説の戦だ。
兵の一人ひとりが、まるで将軍の指の先みたいに動く。何万という人間が、一つの意思で動いているように見える。原作で何度も読んだ「王騎の用兵」が、今、目の前で展開されている。鳥肌が、止まらない。
ふと将軍の声が戦場に響いた。
「ココ。趙荘どの、ちと前に出すぎですゾ」
その一言の意味が、すぐにわかった。退いた味方の穴へ、趙荘の隊が誘い込まれていく。将軍は敵が来る場所を先に知っている。いや――そう動くように、仕向けている。
恐ろしい人だ。あんな飄々とした顔で、何万もの命を将棋盤のように動かしている。
俺がこの先、ほんの少しでも将と呼ばれる日が来るなら、いつかはあの域を目指すことになるのか。考えるだけで、気が遠くなる。
俺は俺で、預かった一隊を、必死に動かしていた。
「離れるな! かたまれ! 堅守だ!」
硬い盾になって、押し寄せる趙兵を受け止める。
罵詈雑言で士気を削り、火矢で隊列を焼き、気合は千成瓢箪で回す。地味で、しつこい。いつもの戦い方だ。
派手な武功はない。手柄首も挙げちゃいない。だが俺の隊は今日も一人も欠けずに、戦場の真ん中で踏ん張っていた。
「親分! こっち、抜かれそうだ!」
「岩斗、右へ! 禾、どこが薄い!」
「ひ、左後ろ! 趙の旗が、回り込んできます!」
禾の声が、よく通る。
俺はすかさず左後ろへ罵詈雑言を浴びせ、火矢で出鼻をくじいた。崩れかけた一角を、堅守で固め直す。
……守るだけなら、誰にも負けない。一人も、死なせやしない。
ひときわ大きな波が、来た。
趙の一隊が、雄叫びを上げて、俺の備へ突っ込んでくる。先頭の兵の槍が、堅守の壁ごと、こじ開けようとする。
「踏ん張れ! 一歩も退くな!」
俺は自ら前へ出て、その槍を、背負った鉄の大弓の胴で受け止めた。重い。だが田有の膂力だ。押し返せないことはない。鉄壁を重ねて、力ずくで弾き返す。
空いた隙へ、岩斗が躍り込む。先頭の兵を、一刀で打ち倒した。崩れかけた壁が、また固まる。
罵詈雑言。火矢。千成瓢箪で気合を回す。守って、削って、また守る。じりじりとした、根比べだ。
やがて趙の一隊はこちらの壁を崩せず、舌打ちして引いていった。隊は一人も欠けていない。
◇
戦況が、大きく動いた。
王騎将軍の罠が、見事にはまったのだ。
趙の総大将・趙荘が、本隊から切り離され、孤立させられていく。じわじわと、逃げ場を失っていく。
遠目に見ていても、ぞっとするような手並みだった。
王騎将軍はわざと味方の一角を退かせ、趙荘の進む先に、誘いの道を作っていた。趙荘はそれと気づかず、勝ちを求めて前へ出る。出たところで、左右から包まれる。気づいたときには、もう袋の中だ。
将棋の駒みたいに、敵の大将が盤の上を踊らされている。これが、用兵というものか。俺がゲームの画面でやっていた「采配」なんて、子供の砂遊びだったと思い知らされる。やがて――王騎将軍みずからの矛が、趙荘を捉えた。趙軍の旗頭が、馬上から崩れ落ちる。
「総大将が、討たれたぞーッ!!」
秦軍が、わっと沸いた。勝ちの目が、はっきりと見えた。
地鳴りのような喊声。突き上げられる、無数の拳。重く押し込まれていた戦況が、一気に秦へと傾いていく。
そしてその喧噪の只中で。
遠く、別の戦区から、ひときわ大きなどよめきが上がった。
「あの若い隊長……万極を、討ち取ったぞ!?」
「信、とか言ったか……とんでもねえガキだ!」
信だ。
趙の猛将・万極を、あの黒髪のガキが、討ち取った。
(……ほら見ろ。札は、嘘をつかない)
昨日見た、あいつの主人公札。振り切れた伸びしろ。底の見えない天井。
それがもう、目に見える戦果になって、現れている。万極といえば、名のある将だ。それを、ぽっと出の若い隊長が討つ。化け物が、芽を出し始めた瞬間だった。
……まったく。末恐ろしいガキだ。あんなのと張り合おうなんて、漂も大変だな。胸の内で、つい笑ってしまった。
ほんの一瞬、信のいる戦区が見えた。
黒い影が、敵の中で暴れている。たった一人、別次元の動きだ。剣を振るうたびに敵が吹き飛ぶ。あれが、札の言う「底の見えない天井」か。
原作の信は王騎の死をきっかけに化けた。だがこの世界の信は王騎が生きたまま、すでに芽吹き始めている。たどる道は、もう原作と違う。それでも化け物になるのは、変わらないらしい。
……生かす価値しか、ない。やっぱり、そうだ。
勝った――と、誰もが思った。
趙荘は死に、猛将は討たれ、戦は秦に傾いた。あとは、押し切るだけ。
だが。俺だけは、笑えなかった。
なぜなら――ここからが、本番だからだ。
◇
戦場の空気が、変わった。
ぞくり、と背が粟立った。
味方も敵も、その存在に気づいて動きを止める。
何万という兵が、一斉に静まり返る。その異様さが、よけいに恐ろしい。
趙軍の奥から、ゆっくりと、一人の男が歩み出てきた。
ぼろをまとった、巨躯の剣士。
手には、人の背丈ほどもある、異様な得物。その全身から、まともな人間とは思えない、圧が滲み出ている。歩くだけで、周りの兵が、波が引くように後ずさる。
その圧を、遠くにいる俺でさえ、はっきりと感じた。
肌がざわつく。本能が、逃げろと叫んでいる。あんなものと同じ戦場にいてはいけない。生き物としての根本の警鐘が、頭の中で鳴り響く。
……これが、武神か。
原作の、ただの絵だったときでさえ、こいつのページは恐ろしかった。だが本物は、桁が違う。漫画では伝わらない、命の危険そのものが、空気を伝って、ここまで届いてくる。
「我が名は龐煖。武をもって、天に至る者なり」
地の底から響くような、低い声。
――武神。
原作で、何人もの将を血祭りにあげた、中華最強の武人の一人。それが今、確かにそこにいた。漫画の絵が、立体になって、空気を震わせている。
その目が、まっすぐに王騎将軍を捉える。
強者を求める、獣の目だ。ほかのものは、何も見えていない。ただ最強の獲物だけを見ている。
「待っていたぞ……六大将軍」
来る。
原作通りの、最悪の流れが。王騎将軍と武神の、一騎打ちが。
(させてたまるか――いや)
拳を握りしめ、すぐに思い直す。
一騎打ちそのものは、止められない。止めてはいけない。あの二人の戦いに割って入れば、俺は瞬きの間に死ぬ。武神と将軍の領域は、俺なんかの届く場所じゃない。
原作でも、止めに入った兵は、ことごとく薙ぎ払われた。あれは人間が手を出していい次元の戦いじゃないのだ。
俺が手を出せるのは、その「あと」。
深手を負った王騎将軍に、止めの矢が降る、あの一瞬だけだ。そこにすべてを賭ける。将軍と武神が、間合いを詰めていく。あと、いくらもない。
あの二人がぶつかれば、戦場の時間が一気に加速する。一騎打ちは、長くは続かないはずだ。原作でも、あっという間だった。
つまり俺に与えられた猶予は、ほんのわずか。将軍が深手を負ってから、止めの矢が降るまでのまばたきほどの間。そこに、間に合わなければならない。
遅すぎても、早すぎても駄目だ。早ければ一騎打ちの邪魔と斬られ、遅ければ将軍が死ぬ。針の穴を通すような、一手だ。
「全隊、前へ! 将軍のほうへ、近づくぞ!」
「た、隊長!? あんな化け物のいるほうへ!?」
「いいから来い! 命令だ!」
わけのわからない命令に、隊の連中が顔を引きつらせる。
武神のいる方へ、自分から近づく。正気の沙汰じゃない。
それでもついてきてくれた。岩斗が舌打ちまじりに笑い、禾が真っ青な顔で槍を握りしめ、剣術馬鹿どもが続く。馬鹿でしぶとくて、頼もしい連中だ。
「親分」
岩斗が、めずらしく真顔で、隣に並んだ。
「あれを、相手にするのか」
「いや。相手はしない。やり合ったら、全員死ぬ。……ある人を担いで逃げる。それだけだ。お前らは、俺の周りに壁を作れ。矢を防げ。それさえできれば、勝ちだ」
「ふうん。……まあ、親分の無茶には慣れてる」
岩斗が、にっと笑った。怖くないわけが、ないだろうに。
禾は青い顔のまま、それでも、こくりと頷いた。震える手で、しっかりと槍を握って。
……ああ、いい隊だ。本当に、いい隊を持った。だからこそ、一人も死なせない。武神が相手でも、だ。
(……すまん。だがお前らの力が要る)
武神と将軍が、対峙する。
張り詰めた空気の中、俺は隊を率いて、じりじりと運命の地点へ近づいていく。一歩ごとに、心臓が、嫌な音を立てる。足がすくむ。あの圧を、肌が、覚えてしまいそうになる。
それでも止まらない。止まれない。
味方の兵をかき分け、押しのけ、前へ。みんな、武神から遠ざかろうとしている。その流れに、たった一隊だけ逆らって進む。気が狂ったように見えるだろう。事実、気の狂った話だ。
だがこれをやるために俺はここまで来た。漂を救い、隊を育て、砦を落とし、この戦場に立った。全部、この一手のためだったような気さえする。
(頼む――間に合ってくれ)
武神の影が、よろめく将軍にゆっくりと重なっていく。あの一撃が王騎を捉えれば、すべてが終わる。
俺は奥歯を噛み、地を蹴るその一瞬を、待った。
二度目の「一手」を打つ、その時が。
刻一刻と、迫っていた。