武神と、将軍が激突した。
それは人の戦いではなかった。
龐煖の一撃は大地をえぐり、王騎将軍の矛は空を断つ。一合ごとに、見ているこちらの肺がぎゅっと縮む。常人なら巻き添えの余波だけで死ぬ。
二人の周りだけ、別の生き物が暴れているようだ。土が舞い、空気が割れる。衝撃が地面を伝い、遠くにいる俺の足の裏まで響いてくる。これが、人間同士の戦いだというのか。
俺はこの場面を、原作で何度も読んだ。だが活字や絵では、これっぽっちも伝わっていなかった。この、空気を裂く音。内臓を揺らす衝撃。じわりと噴き出す、脂汗。武神と、生ける伝説。どちらも人の形をした、災害だ。
その災害の余波の中へ、これから俺は飛び込む。正気じゃない。だがやる。
俺は隊を、戦場の端でかたまらせ、ただ機を待っていた。
割り込めない。今はまだ。あの領域に踏み込めば、一瞬で挽き肉だ。
歯を食いしばって、ただ見る。目を逸らさない。あの一瞬を、見逃すわけにはいかないからだ。
「親分……あれ、本当に、人なのか……?」
禾が震える声でつぶやく。
「ああ。人だ。……だが、化け物みたいに強い人だ。だからよく見てろ。俺が『行く』と言ったら、全力で続け」
「は、はいっ」
死闘は、長くは続かなかった。
武神の、規格外の一撃が、ついに将軍を捉える。
「――ぐっ」
王騎将軍が大きくよろめいた。
鎧が裂け、血が噴く。深手だ。致命の一歩手前。
原作通り。ここから将軍は退きながら――止めの矢を受ける。あの、生ける伝説が、地に伏す瞬間が来る。
いや――違う。原作の王騎はただやられたわけじゃなかった。深手を負ってなお、龐煖に痛烈な一矛を返し、武神に「次」を意識させている。この世界でも、それは同じだった。
よろめきながらも、王騎将軍の矛が一閃する。龐煖が、わずかに身を引いた。さすが、六大将軍。ただでは倒れない。
だがそれでも深手は深手だ。あのままなら、退却の矢で終わる。だから俺が要る。
(来る)
趙軍の奥。弓兵がずらりと構えるのが見えた。
深手の将軍へ雨のように矢を浴びせ、確実に仕留める。それが、原作で王騎将軍の命を奪った、最後の一手だ。
なら――俺が、ずらす。
ここだ。この一瞬のために、俺はここまで来た。
「全隊、将軍の前へェェェ! 走れェェェッ!!」
隊を率いて、駆けた。短い足じゃない。怪力の脚で、地を蹴る。
よろめく王騎将軍と、弓兵の間へ。滑り込むように、割って入る。
間に合え。間に合え。間に合え――!
「堅守ッ!!」
気合をありったけ込める。俺と、ついてきた隊で人の盾を作る。
次の瞬間、矢の雨が降ってきた。
ばらばらばらッ――と、無数の鏃が盾に突き立つ。
堅守で硬くした体に、それでも数本が刺さる。肩。腿。脇腹。熱い。痛い。だが――止まらない。止まってたまるか。
隊の連中も、必死に盾を支えていた。岩斗が前で吼え、禾が歯を食いしばって踏ん張る。誰も、逃げなかった。誰も、崩れなかった。
矢が雨あられと降りそそぐ。盾代わりの体に、腕に、肩に、次々と突き立つ。痛い。熱い。だがここで一歩でも退けば、隊ごと射すくめられて終わりだ。
「もう少しだ! 耐えろ! こいつは、すぐ終わる!」
岩斗が盾を構えたまま吼え返す。禾が半泣きで、それでも踏みとどまる。剣術馬鹿どもが背中を寄せ合って、矢を凌ぐ。誰一人、欠けさせない。その一念だけで、俺は立っていた。
(よくやった……! あとは、俺の仕事だ!)
「将軍! 失礼するッ!」
俺は王騎将軍の巨体を、怪力で強引に抱え上げた。
米俵じゃない。鎧をつけた六大将軍だ。常人なら、びくともしない重さ。だが俺の腕力は、田有の――いや、もう俺の体だ。馬鹿げた力で、将軍を引きずり、矢の射程の外へ。
将軍は重かった。当たり前だ。鎧ごと、六大将軍を担いでいるのだ。一歩、また一歩。矢の届かない場所まで、ただひたすら運ぶ。背に何本も矢が刺さったまま、それでも止まらなかった。止まったら、終わる。
大工仕事で鍛えた背中と脚が、こんなところで役に立つとはな。重い荷を担ぐのは、昔から得意だ。
「……ほう?」
将軍が、血に濡れた口で、かすかに笑った気がした。
なんだ、この、得体の知れん大男は――とでも、言いたげに。
こんなときでも、その目には、まだ余裕の色がある。さすが、と言うべきか。化け物じみているのは、武神だけじゃない。
◇
だが武神は獲物を逃がさない。
ぬっ、と。
目の前に龐煖が立ちはだかった。深手の獲物に、止めを刺しに来たのだ。
その目が王騎将軍を、そして邪魔をする俺を捉える。間近で見る武神の目は、底なしの闇だった。感情が、ない。ただ強さだけを求める、虚ろな獣の目。
「……雑魚が」
異様な得物が、振り上げられる。
まずい。あれを食らえば、堅守ごと、俺は両断される。
時間が、引き延ばされたように感じた。逃げられない。避けられない。なら――耐えるしか、ない。
(鉄壁――ッ!!)
間に合うか。間に合え。
持てる札を全部、防御に振る。元から頑丈な田有の体に鉄壁を重ねがけする。それでも――武神の、一撃だ。
――どぉんッ!!
衝撃が、世界を白く塗りつぶした。
受けきれなかった。吹き飛ばされ、地面を何度も転がる。肋骨が、めきりと嫌な音を立てた。口の中が、血の味でいっぱいになる。
息ができない。空が、ぐるぐる回る。指の一本すら、思うように動かない。
……生きてる。鉄壁と、田有の体。それでも骨が何本か、いった。普通なら、即死だった。一撃で、これだ。まともにやり合えば、勝てるわけがない。改めて、思い知る。
(くそ……やっぱり、化け物が)
霞む視界の中で、龐煖がもう一度こちらへ踏み出すのが見えた。
今度こそ終わりだ――そう、思った。
体が動かない。声も出ない。ああ、ここまでか。せめて、将軍だけでも――。
そう諦めかけた、その時。
「将軍を、お救いするゾ!!」
秦の援軍が雪崩れ込んできた。
王騎将軍の副官――騰だ。手練れの兵を束ね、龐煖と俺たちの間に、分厚い壁を作る。
無数の槍が、武神に向けられる。一人では届かなくても、束になれば、足を止められる。
武神はちっ、と舌打ちするように足を止めた。
深手の将軍。湧いてくる、秦の援軍。そして――虫けらのくせに、一撃を耐えた、わけのわからない大男。
戦況は、もう、龐煖一人で覆せるものでは、なくなっていた。
「……次は、貴様も喰らう」
俺を一瞥して、龐煖はそう言い残した。
そしてゆっくりと、趙軍の奥へと退いていく。その背中には、一片の焦りもない。ただ興が削がれた、とでも言いたげだった。
……勘弁してくれ。次なんて、二度とごめんだ。心の底から、そう思った。
◇
気づけば、騰の兵が王騎将軍を担ぎ上げていた。
将軍は生きていた。
深手だ。鎧は血まみれで、もう、馬には乗れまい。あの戦場を駆ける勇姿は、二度と見られないかもしれない。
それでも――息を、している。心の臓が、動いている。確かに、生きている。
「おい、そこの大男」
担架の上から、王騎将軍がかすれた声で俺を呼んだ。
俺は折れた肋を押さえながら、なんとか身を起こした。
「貴殿、名は」
「……田有。ただの、大工あがりです」
「大工、ねェ……ココ。面妖な大工も、いたものですゾ」
血の気の失せた顔で、それでも将軍は楽しげに笑った。
そして何かを見透かすような目で、俺をじっと見て――やがて、ゆっくりと、意識を手放した。
その目が最後に何を見ていたのか、俺にはわからない。だがなぜか、見抜かれているような気がした。お前はただの大工ではないな、と。
いつかこの人に、本当のことを話す日が来るだろうか。あなたを救ったのは、未来を知る、ただのゲーム好きですと。
……言えるわけがない。今はただ、生きていてくれてよかった。それだけだ。
◇
俺はその場に、へたり込んだ。
折れた肋が、悲鳴をあげる。全身、矢傷だらけ。我ながら、ひどい有様だ。指先まで、力が入らない。
隊の連中が慌てて駆け寄ってくる。禾が半泣きで、岩斗が舌打ちしながら、俺を抱え起こす。
「親分! しっかりしろ! 死ぬなよ!」
「……死なねえよ。これしき、で」
強がりだ。本当は、死ぬほど痛い。だが――生きてる。隊も、全員、生きてる。それだけで、十分だった。
見渡せば、戦場は秦の勝ちで収まりつつあった。趙荘は討たれ、武神は退いた。原作と同じ、馬陽での勝利だ。
だが決定的に違うことが一つだけある。生ける伝説が、生きて、ここにいる。
誰も、その意味に気づいていない。王騎将軍が助かったことを、みなが「幸運」だと思っている。一人の名もなき大工が、原作の運命をこじ開けたなんて、知る者はいない。
それでいい。それが、いい。
ふと隊の若い連中が放心したように俺を見ているのに気づいた。
「親分……武神の一撃、受けて、生きてるのかよ……」
「……たまたまだ。鉄壁と、この丈夫な体のおかげだ。二度目は、ごめんだがな」
軽口を叩いてみせる。だが内心は、震えていた。あれが武神。あの一撃をもう一度受けて立てる自信は正直、ない。
それでも――次は、もっと強くなって立ってやる。あの化け物の前に、もう一度。そう思える自分が、われながら少しおかしかった。
遠ざかっていく担架の上で、王騎将軍は生きている。
原作で、ここで死ぬはずだった、生ける伝説が。
(……二人目だ)
漂に続いて、また一人。
本来なら、この戦で散るはずだった命を、俺は繋いだ。
武神には、勝てなかった。完膚なきまでに、叩きのめされた。骨は折れ、体は矢で穴だらけ。勝負には、まるでなっていない。
それでも――結末は、ほんの少しだけ、ずれた。確かに、ずらした。
血と泥にまみれて、俺は痛む体で、ひとり笑った。
(……上等だ)
二度目の、原作崩壊。
誰にも、その意味は、わからないまま。
だがいつか、この一手が――救ったこの命が、とんでもない形で、この国の運命に、効いてくる。
そんな予感だけが、折れた肋の奥で、熱くくすぶっていた。
俺は痛む体で、ただ青い空を見上げていた。生きている。守れた。それだけで、上等だ。