ココ。
わたくしは死ぬはずでした。
馬陽の地。武神・龐煖。
あの男の一撃を受けた瞬間、わたくしは確かに死を覚悟したのですゾ。かつて想い人の摎を奪ったのと、同じ武神の手で。同じ場所へ、逝く。それも悪くない、と思っていたのですが。
逝けませんでした。妙な大男のおかげで。
顔じゅう傷だらけの、馬鹿げた巨躯。名を、田有と言いました。ただの大工あがり、と。
ココ。笑わせてくれます。
ただの大工が、矢の雨へ飛び込み、わたくしの巨体を米俵のように抱えて運び、あろうことか、武神の一撃をその身ひとつで受け止めて、生き延びた? そんな大工が、いるものですか。
わたくしは長く生きてまいりました。
六大将軍と呼ばれ、数えきれぬ戦場を渡り、数えきれぬ強者と、刃を交えてきた。人を見る目には、いささか自信があるのですゾ。
その目で見て、はっきりと言えます。あの大工は、ただ者ではない。
◇
あの男は何かを「知って」いる目をしていました。
まるで、これから起こることをすべて見てきたかのような。だからこそ迷いなく、最悪の一点へ飛び込めた。あれは勘ではありません。確信の動きでした。
矢が降る場所を、知っていた。わたくしが倒れる刹那を、知っていた。武神がとどめに来ることすら、知っていた。そのうえで、すべてに先回りして、動いていた。
あんな芸当が、まぐれでできるものですか。
戦場には、ときおり、こういう「異物」が紛れ込むことがあります。
理屈の通らぬ強さ。説明のつかぬ動き。盤の外から、駒を眺めているような目。
……まあ、よいでしょう。詮索は、無粋というもの。
世の中には、わからぬまま転がしておくほうが面白いことも、あるのですゾ。あの大工が何者であれ、わたくしを生かしたのは、紛れもない事実。ならば、それで十分。
ただ一つだけ、興味があります。
あの男はなぜ、見ず知らずのわたくしのために、命を投げ出したのか。
恩を売るためでも、立身のためでもない。あの飛び込み方には、惜しい者を死なせたくないという、ただそれだけの純粋な必死さがありました。
不思議な男ですゾ。いつか、その理由を、聞いてみたいものです。
守ることに、あれほど必死になれる将を、わたくしはあまり知りません。
多くの将は、勝つために兵を使う。駒として、数として。それは間違いではありません。戦とは、そういうものですゾ。
ですが、あの大工は逆でした。兵を生かすために、勝ちを拾う。一人も死なせぬために、知恵を絞る。順番が、まるで逆なのです。
ああいう将の下では、兵はよく死にません。そしてよく死なぬ兵は、いつか、とてつもない力になる。あの男はそれをわかってやっているのか。あるいは、ただの性分か。……どちらにせよ、面白い。
◇
わたくしの体は、もう、戦場には戻れません。
馬に乗ることも、あの矛を振るうことも、二度と叶わぬでしょう。骨は砕け、臓腑は痛み、立ち上がるだけで、脂汗がにじむ有様。六大将軍・王騎の勇姿は、馬陽の地で、終わったのです。
……正直に申せば。悔しくない、と言えば、嘘になりますゾ。
まだ、戦い足りぬ。まだ、見ていたい。あの戦場の、命のやり取りの、痺れるような一瞬を。それが、もう二度と、できぬのです。これがこたえぬ、と言えば、強がりというもの。
副官の騰が、毎日のように顔を出します。
無口な男でしてねェ。何も言わず茶を置いて、ただ控えている。見舞いの言葉一つ、口にしません。
……ですが、わかるのですゾ。あれはきっと、わたくしの空けた穴を、自分が埋めると、決めている。何も言わぬのが、あの男の覚悟。よい部下を、持ちました。ココ。
今日も、騰が来ました。
「将軍。お加減は」
「最悪ですゾ。ですが、退屈はしておりません。面白い玩具を、二つも見つけましてねェ」
「……玩具」
「黒髪の小僧と、面妖な大工。ココ。いずれ、お前にも会わせましょう」
騰は何も言わず、ただ一礼して、茶を置いていきました。相変わらず、無口な男です。ですが、その背には、確かな決意が見える。
わたくしが倒れても、王騎軍は騰が継ぐ。その安心が、わたくしをずいぶんと軽くしてくれました。
わたくしには、夢がありますゾ。いえ、わたくし一人の夢では、ありません。
かつて昭王の下で轡を並べた、六大将軍たち。あの時代の、共通の夢です。
――この乱世を、一つにすること。
数百年も続く、戦乱の世。人が虫のように死に、明日をも知れぬ、この時代。それを、たった一つの大きな国の下に束ね、終わらせる。途方もない夢ですゾ。ですが、あのころのわたくしたちは、本気で、それを見ていた。
その夢を継ぐ者が、出るのか。あの大王・嬴政の下に。生きていれば、それすら見届けられるやもしれません。死んでいては、何も見られなかった。やはり生とは、よいものですゾ。
ふと昔のことを思い出します。
まだ、わたくしが若かったころ。六大将軍が揃って戦場を駆けた、あの時代。誰もが、規格外の化け物でした。秦が最も輝いていた、あの頃です。
その仲間も、今ではほとんどが、鬼籍に入りました。摎も。わたくしだけが、こうして生き残っている。……いえ、生き恥ではありませんねェ。生き延びたからこそ、託せる。そう思える今が、わたくしにはありがたいのですゾ。
摎。
わたくしの、かつての教え子にして、想い人。武神に奪われた、あの娘。
君のところへ、わたくしも逝くのだと、馬陽で、半ば覚悟しておりました。
ですが――どうやら、まだのようです。
ふと思うのですゾ。
武神・龐煖。あの男は摎を奪い、わたくしを倒した。秦にとっても、わたくし個人にとっても、宿敵というほかありません。
もし、あの大工の言う通り、いずれまた、あの武神が中華に牙を剥くのなら。わたくしは見たいのです。あの男が討たれるところを。誰かの手で、確かに地に伏すところを。摎のためにも。秦のためにも。
わたくし自身の手では、もう叶わぬ。ならば、託すしかありますまい。あの黒髪の小僧か。あるいは、あの面妖な大工か。さて、どちらでしょうねェ。
◇
死ねば、わたくしの矛も、見てきたものも、すべて墓へ持っていくところでした。
ですが、生きているなら、話は別。手渡せるのですゾ。次の世代へ。
馬陽で、面白い若造を見つけました。
信、とか言いましたか。万極を討ち取った、あの黒髪の小僧。まだ荒削りも甚だしい。猪のように前へ出るばかりで、将としての視野は、まるでなっておりません。
ですが――あの目。あの伸びしろ。
ひょっとすると、中華の空を割るほどの将に、化けるやもしれません。わたくしはああいう「底の知れぬ若さ」を、いくつも見送ってきました。摎も、そうでした。だからこそ、わかるのですゾ。あれは本物になる。
背に何千もの命を負うとは、どういうことか。
勝つために、何を捨て、何を守るのか。一人で斬る強さと、皆を生かす強さは、どう違うのか。
それを教えてやるのが、老い先短いわたくしの、ちょうどよい余生というものでしょう。
それともう一つ。
大王・嬴政の傍に、奇妙な若者がいると聞きます。大王と瓜二つの顔をした者が。
一時は大王の影を務めたとも噂される、漂とか。武で立つのではなく、王の隣で、知と胆で国を支える、将の器を見せているとか。
ほう、と思いましたゾ。あの黒髪の小僧と、同じ村の出だとか。武の信に、知の漂。同じ夢を、違う形で追う二人。
面白い時代に、なってまいりました。これを見られぬまま逝くのは、いかにも惜しい。
そしてあの大工。
戦の派手さは、まるでないのに、なぜかここぞで、戦況を「ずらす」男。あれもまた、放っておくには惜しい。信とは、まるで違う種類の将才。守ることに、徹した男。
……どちらも、わたくしの退屈な余生を、ずいぶんと、賑やかにしてくれそうですゾ。
◇
ココ。
戦場を退いたわたくしに、新しい遊びが、できたようです。
将を、育てる。次の時代の、大将軍を。
わたくしの矛は、もう振るえぬ。ですが、わたくしの見てきたものは、まだ渡せる。あの若い芽たちに。それは存外、戦場で敵将を討つのと、同じくらい――いえ、それ以上に、痺れる仕事かもしれません。
わたくしが教えられるのは、剣の振り方ではありません。そんなものは、あの小僧のほうが、よほど上手でしょう。
教えるのは、「将の見る景色」ですゾ。一人の前ではなく、戦場の全体を。今日の勝ちではなく、十年先の天下を。背の何千、何万という命の重さを。
それを知った若者が、どこまで化けるか。考えるだけで、楽しくなってまいります。老いぼれの最後の道楽としては、上等すぎるくらいですゾ。
摎。
わたくしは君のところへは、まだ行けぬようです。
もう少し、この騒がしい中華を、見届けてから、参りますゾ。あの黒髪の小僧が、どこまで化けるか。あの面妖な大工が、何を「ずらす」のか。それを見届けるまでは、まだ、逝けません。
拾った命です。
名も知れぬ大工が、繋いでくれた、二度目の生。
無駄には、いたしません。一滴残らず、この中華の、次の時代のために、使い切ってご覧に入れましょう。
いつか、あの大工に、面と向かって礼を言いたいものですゾ。
ですが、あの男はきっと、はぐらかすでしょうねェ。『運がよかっただけだ』とでも言って。
ならば、礼の代わりに、こうしましょう。あの男が守りたいものを、わたくしも守ってやる。あの男が繋ぎたい命を、わたくしも繋いでやる。それが、生かされた者の、せめてもの返礼というものです。
ココ。なに、簡単なことですゾ。もとより、それがわたくしの、最後の仕事なのですから。
ココココ。
……さて。まずは、あの小僧を、鍛え直すとしますかねェ。
なに、焦ることはありません。時はたっぷり、もらったのですから。拾った、二度目の生で。
あの大工が繋いでくれた、この余分な時間を。一日とて、無駄にはしませんゾ。
この老体に残された最後の戦は、若い芽を育てること。それもまた、一興というものですゾ。ココ。わたくしの矛は、まだ折れてはおりませんゾ。形を変えて、振るうだけのこと。