馬陽から、季節がいくつか過ぎた。
世界は、確かにずれ始めていた。
原作で、王騎将軍はあの戦いで死ぬ。その死をきっかけに信は飛躍し、秦の歴史は動いていく――はずだった。
だが王騎将軍は生きている。
たったそれ一つで、俺の知る「物語」は、もうあてにならなくなりつつあった。
(地図を、半分失くしたな)
原作知識という、最大の武器。
漂を救い、王騎将軍を救い――そのたびに俺はその地図を自分の手で塗りつぶしてきた。この先の展開を知っている、という強みは、もう、半分以上が消えている。
怖くないと言えば、嘘になる。だが不思議と、後悔はなかった。
知らない道を行く。それはゲームで何度も味わった、一番わくわくする瞬間でもあるのだから。それに――地図を失った代わりに、俺は生きた王騎将軍と、まだ死んでいない仲間たちを、手に入れたのだ。割の悪い取引じゃない。
◇
俺自身も、少し変わった。
馬陽で王騎将軍を担ぎ出した「謎の大工」は、軍の一部で、ちょっとした噂になっていた。
武神の一撃を受けて生きていた化け物、と。その評判のおかげ、というべきか。俺はより大きな隊を、任されるようになっていた。
剣術馬鹿どもも、蛇甘平原からの古株も、砦攻めで拾った連中も、みんな俺の下で、すっかり一端の兵だ。岩斗は相変わらず強さを求めて暴れたがるし、禾はもう、腰を抜かさずに、しっかり前を見て報せを上げる。あの臆病だった若者が、だ。
数が増えれば、守るのも大変になる。だがやることは変わらない。一人でも多く、生かして帰す。それだけだ。
そしてようやく――あの一枚を、手に入れた。
夜営の合間。俺は槍を膝に置き、静かに目を閉じた。瞑想だ。
第1話で、持ち込みの枠が足りずに諦めた、あの札。だがあれは元々――こうして槍を手に瞑想すれば、自力で習得できる札だった。だから大事な枠を割かなかった。
もっとも、手順さえ踏めばすぐ取れる、という札でもなかった。
蛇甘の後も、砦攻めの後も、同じように槍を抱いて目を閉じた。だが、札は応えなかった。ただ形をなぞるだけでは駄目なのだと、馬陽で骨を砕かれて、嫌というほど思い知った。守るだけでは、守れない時がある。一人で抱えられる命には、限りがあるのだと。
だから今度は――攻めるためではなく、守るために、この一振りを求めた。
じっと、槍と呼吸を合わせる。雑念を払い、気を、練る。やがて頭の奥で、かちりと、音が鳴った。
──《青嵐》──────────
・秘技札/気合8消費で、周囲の敵全員を攻撃(武器:槍)
────────────────────
(……来た)
重い。気合八は、戦いの序盤じゃ、まず撃てない。
だが囲まれたとき、一振りで薙ぎ払える全体攻撃。大軍の中で揉まれる俺には、喉から手が出るほど欲しかった一枚だ。守ってばかりの俺の手札に、ようやく、まともな「攻め」が一枚、加わった。
弓のほうも、伸びていた。漂を探して森にこもった日から、蛇甘でも、砦攻めでも、俺はこの鉄の大弓を引き続けてきた。その積み重ねが、ようやく一つの形になったらしい。火矢の上をいく『強弓』――気合は食うが、放てば並の倍の威力で、鎧ごと撃ち抜く一射だ。
仕込みは、整いつつある。次に武神とぶつかるとき――いや、考えるのはよそう。あれと、また向き合う日が来るなんて、想像するだけで、肋の古傷が疼く。
◇
その青嵐を、さっそく試す機会もあった。
とある小さな戦で、俺の隊が、敵の一隊にぐるりと囲まれたのだ。以前なら、堅守で耐えてしのぐしかなかった場面。だが今は違う。
「全員、俺の内側へ! 来るぞ!」
気合を限界まで溜める。八。槍に、渦巻くような風が宿った。
「――青嵐ッ!!」
ぶうん、と槍が唸り、俺を中心に、薙ぎの嵐が広がる。囲んでいた敵が、まとめて吹き飛んだ。
「す、すげえ! 親分、そんな技まで……!」
禾が、目を丸くしている。
守るだけだった俺の戦い方に、囲みを一掃する一手が加わった。地味な男も、少しは頼れる隊長に、なってきたらしい。
◇
ある日、俺は思わぬ場所へ呼び出された。
王騎将軍の、屋敷である。
戦場には、もう戻れない体。それでも将軍は奥の間で、悠然と構えていた。生ける伝説、という言葉が、これほど似合う男もいない。
「ココ。来ましたねェ、面妖な大工どの」
「……お加減は、いかがですか」
「最悪ですよ。馬にも乗れぬ。ですが――生きております」
将軍はにやりと笑った。
その目がじっと、俺を覗き込む。何かを見透かすような目だ。背筋が、ひやりとする。
「貴殿は、何かを知っていますねェ。これから起こることを、まるで読んでいるかのような、あの動き。……いえ、詮索はしませんとも。無粋ですからねェ」
「……買いかぶりです。俺はただの大工で」
「ココココ。よいでしょう。それで、通しなさい」
将軍は深くは追及しなかった。
俺がただ者でないことを、たぶん見抜いている。そのうえで、あえて聞かない。その距離感が、なんとも、ありがたかった。
代わりに、将軍はこう言った。
「私は戦場を退きました。ですが、暇を持て余すのは、性に合いません。なので――将を、育てることにしたのですよ。次の時代の、大将軍をねェ」
「次の時代の」
「ええ。あの黒髪の小僧。信、とか言いましたか。……それと、貴殿のような、得体の知れぬ者も、ね」
そう言って、王騎将軍は心底楽しそうに笑った。
……まいったな。
原作で死ぬはずだった大将軍が、生き残ったあげく、信を、そして俺までを、その「遊び」に巻き込もうとしている。
こんな展開、原作のどこにも、書いていない。
(……でも)
悪い、気はしなかった。
生ける伝説の薫陶を、信と一緒に受けられる。そんな未来、原作の田有は、決して手にできなかったはずだ。
◇
それから、王騎将軍の屋敷には、信もよく出入りするようになった。
俺も何度か、その稽古に立ち会った。
信は相変わらずだ。一対一の打ち合いなら、めきめき強くなる。だが将軍が紙の上に並べた、駒を使った「戦の問い」には、まるで歯が立たない。
「で、貴殿はこの軍を、どう動かしますかねェ?」
「……正面から、ぶち抜く!」
「ココ。それで、貴殿の兵は、何人死にますか?」
信が、詰まった。
個の武で、敵を斬る。それだけなら、信は天下一の器だ。だが将は、背中に何千もの命を預かる。一人で突っ込んで勝てる戦と、兵を生かして勝つ戦は、違う。王騎将軍はそれを根気よく、信に叩き込んでいた。
「オレは……みんなを、死なせたくねえ。でも勝ちたい」
「ええ。その二つを両立させるのが、将ですよ」
信は悔しそうに、何度も食らいついた。わからないと頭を抱えて、それでも諦めない。少しずつ、あいつの目に、一兵卒のものではない、もっと遠くを見る色が、混じり始めていた。
稽古の帰り、信が、めずらしく俺に絡んできた。
「おい、オッサン。お前、将軍に布陣で褒められてたな。……ちょっと、むかつく」
「はは。お前は頭を使うのが苦手だもんな」
「うるせえ! オレだって、いつかわかるようになる!」
むきになる信が、なんだかおかしくて、俺は笑った。
「ああ。お前なら、なる。……たぶん、俺なんかより、ずっと上手にな」
札が告げた、底の見えない伸びしろ。それを思えば、世辞でも何でもない。本心だ。
信はきょとんとして、それから、ふんと鼻を鳴らして行ってしまった。照れ隠しだろう。わかりやすいやつだ。
◇
そして――驚いたことに、王騎将軍は俺にも、同じ問いを投げてきた。
「で、面妖な大工どの。貴殿なら、この軍を、どう?」
紙の上の盤面を、見る。
俺は信のように、正面からぶち抜く器用さはない。だが守って、削って、しぶとく粘る戦いなら、嫌というほどやってきた。
俺は自分の隊でいつもやるように、駒を組んだ。退かず、崩れず、相手の消耗を待つ布陣。
「ふむ。地味ですよ。ですが――兵が、よく死なぬ布陣ですねェ」
「……それだけが、取り柄なんで」
「いいえ。それは立派な才ですよ。守れる将は、攻められる将より、ずっと得難い。覚えておきなさい」
不覚にも、胸が熱くなった。
生ける伝説に、俺の戦い方を、認められた。前世で、誰にも褒められなかった、地味で陰気な立ち回りを。
……ああ、この人を、救ってよかった。心から、そう思った。
俺は隊長から、その先へ。将と呼ばれる場所へ、一歩ずつ、近づいている。それは原作の田有が、決して上れなかった階段だ。
◇
漂は漂で、王宮で政のそばに立ち、別の研鑽を積んでいるという。
武の信と、政に近い漂。同じ夢へ、違う道から向かっている。
二人の差は、もう、ただの勝ち負けじゃない。それぞれの「将の形」に、なりつつあった。信は戦場で兵を率いる将に。漂は王の傍で、国を支える将の器へ。城戸村の納屋で、同じ夢を見た二人が、別々の高みへ、駆け上がっていく。
そういえば――馬陽の戦のあと、王騎将軍は信の隊に名を与えたと聞いた。飛信隊、と。原作と同じ名だ。死した王騎ではなく、生きた王騎の手で授けられた。違っていたのは、それだけだった。
大王・嬴政も、ただの王ではないらしい。漂が言うには、いずれこの中華を一つに統べる――そんな途方もない志を、本気で抱いている人だという。王騎将軍の若き日の夢と、どこか重なる。
その夢の渦に、信も、漂も、そして俺まで、巻き込まれていくのかもしれない。
……まったく。
俺がずらした、たった一本の命の結末が、また新しい物語を、転がし始めている。漂が生き、王騎が生き、信が育つ。原作のどこにも書かれていない、「もしもの中華」が、目の前で広がっていく。
その渦の真ん中で、俺はわれながら、わくわくしていた。
この先に、何が待っているのか。もう、原作という地図は、あてにならない。
だが――それでいい。
俺は俺の足で、この知らない道を、馬鹿な仲間たちと一緒に、歩いていく。
もっともすべてが未知というわけじゃない。
この知らない道の先にも、原作で知る、避けようのない大嵐が一つ、待ち構えている。秦という国そのものを呑み込む、未曾有の大戦だ。
合従軍。六国が手を結び、秦へ襲いかかる、あの最大の危機。
それが来ることだけは、嫌というほど知っている。問題は――王騎が生き、漂が生きたこの世界で、それが原作通りに進むのか、どうか。
わからない。だがそのときこそ。救ってきた命のすべてが、意味を持つ気がしていた。
俺は夜空を見上げた。漂を救い、王騎を救い、信を見守り、隊を育てた。一つひとつは、ささやかな積み重ねだ。
だがその積み重ねが、来たるべき大戦でどんな意味を持つのか。それを確かめるときが、刻一刻と近づいている。
俺はこぶしを握った。原作という地図を失っても、進む道は、もう決まっている。守りたいものが、繋ぎたい命が、ここにある。
救った命は、果たして、国を救う力になるのか。
その答え合わせが、もう、始まろうとしていた。
俺は深く息を吸い、来たるべき大戦の影に、静かに身構えた。