信はめきめきと頭角を現していた。
王騎将軍という、生ける伝説の後見を得たのも大きい。
原作では、王騎の「死」が信を飛躍させた。だがこの世界では、王騎の「生」が信を育てている。死による継承ではなく、生きた師の薫陶。同じ若武者でも、たどる道は、もう原作とは違う。
稽古のたびに、信は将としての視野を広げていった。一対一で敵を斬る力に、兵を率いて勝つ知恵が、少しずつ加わっていく。それでもあいつが化け物じみた将になっていくのは、変わらないらしい。札が告げた、あの振り切れた伸びしろ。あれは本物だった。
先日も、王騎将軍の屋敷で、信が将軍に食い下がっていた。
「将軍! オレ、わかってきたぞ! 兵を生かして勝つ、ってやつ!」
「ほう。では問います。一万の兵で、二万の敵に勝つには?」
「正面からぶつかって……いや、違う。地形だ! 狭いとこに誘い込む!」
「ココ。少しは頭を使えるように、なりましたねェ」
将軍が楽しげに笑い、信が得意げに胸を張る。あの、ただ突っ込むだけだった猪が、戦の絵を描けるようになってきている。恐ろしい速さの成長だ。
そしてもう一人。
「漂が、また武功を立てたらしいぞ」
兵の一人が、噂を運んできた。
漂。王宮で、大王の側近として、ときに影武者として、ときに将の器を見せて、めきめきと立場を上げているという。
噂は、こうだ。先日の宮中で、大王に迫った刺客の刃を、漂が割って入って防いだ。影武者として培った胆力で、顔色一つ変えずに。大王はそれを見て、漂を、ただの影武者ではなく、別の形で国を支える者として扱い始めたらしい。
漂はただ大王に似ているだけの影武者じゃなくなっていた。文官の理屈にも、武官の気性にも通じ、両者の間を取り持つ。大王の意を汲んで、人を動かす。武で前に出る信とは、まるで違う種類の力だ。
……あの誠実で面倒見のいい漂らしいな、と思う。城戸村で、喧嘩っ早い信をいつもなだめていた、あの兄貴肌。それが王宮という途方もない場所で、ちゃんと活きている。
(……そうか。漂も、ちゃんと前に進んでるんだな)
原作では、馬陽どころか、ずっと手前で死ぬはずだった少年。
その漂が生きて、王宮で将の器へ近づきつつある。信は信で、戦場で。二人とも、奴隷の身分から這い上がり、あの日に誓った「二人で大将軍」の夢へ、別々の場所から、近づいている。
そしてこの合従軍の戦でも、二人はそれぞれの場所で戦うことになるはずだ。信は戦場で、漂は王宮と大王のそばで。
……奇妙な気分だった。原作では、ここに王騎はいない。漂も、とうに死んでいる。それが二人とも生きて、この最大の戦に臨もうとしている。俺がずらした運命が、こんな大舞台でどう転ぶのか。怖くもあり、見てみたくもあった。
俺が最初に繋いだ、一本の命が、こんなにも遠くまで、波紋を広げている。
胸の奥が、じんと熱くなった。
……まあ、当人たちは、俺のことなんか、ただの「怪しいオッサン」としか思っちゃいないだろうが。それでいい。影の功労者ってのは、そういうものだ。
だが今度ばかりは、その「影の働き」の真価が問われる気がした。
漂を生かした。王騎を生かした。信を見守った。一つひとつは、ただの人助けのつもりだった。だがそのすべてが、この合従軍という、国を賭けた一戦に収束しようとしている。
もし、救ったあの命たちが、本当に秦を救うのなら。俺のやってきた地味な積み重ねは、歴史そのものを書き換えたことになる。……柄じゃない。だが悪くない。
俺自身も、立身を続けていた。
いくつもの戦を、地味に、しぶとく、生き抜いてきた。死人を出さない隊長、として、それなりに名も売れた。預かる兵の数も、ずいぶんと増えた。大工あがりの寄せ集めは、もう、独立して任せられる一隊になりつつある。
ある戦のあとには、名のある将から、直々に声をかけられた。
「お前の隊は損耗が異常に少ないな。どういう兵の使い方をしている?」
「……ただ、死なせないようにしているだけです」
「ふん。その『ただ』が、できん将ばかりだ。覚えておこう、大工どの」
名のある将に、名を覚えられた。それだけで、俺の立ち位置が少し変わった気がした。
◇
だが平穏は、長くは続かない。
その報せは、中華全土を震わせた。
「六国が……手を結んだ」
秦をのぞく、六つの国。いや――実際に兵を出したのは、五つだ。
長年いがみ合ってきた国々が、「秦を滅ぼす」という目的のためだけに、手を取り合ったのだ。
合従軍。史上、類を見ない規模の、大連合軍。
楚、趙、魏、韓、燕。数百年、互いに領土を奪い合い、裏切り合ってきた国々が、秦への恐怖と憎しみ、ただ一点で束になった。斉だけは、最後まで動かなかったが。
楚は、肥沃な大地から湧くように兵を出す。趙は、馬陽で痛めつけられた恨みを刃に込める。魏も韓も燕も、それぞれの思惑を抱えながら、「秦を潰す」という一点では足並みを揃えていた。
そんなことが、本当に起きるのか。原作で読んでいてさえ、信じがたかった光景だ。それが現実になろうとしている。
「総大将は、楚の春申君。軍を裏で操るのは、趙の李牧だとよ」
李牧。その名に、俺は息を呑んだ。
原作でも、秦を最も苦しめた、稀代の知将。そいつが、六国の力を束ねて、攻めてくる。
狙いは、秦の東の大門――函谷関。あそこを破られれば、王都・咸陽まで、一直線だ。秦という国そのものが、滅ぶかどうかの、原作でも最大級の危機として描かれた戦である。
(……来たか)
俺は自分の手のひらを、ぐっと握った。
漂を救い、王騎将軍を救い、ずらし続けてきた物語。その全部が、この一戦に、集まってくる気がした。
◇
六国の動きは、想像を超えていた。
長年、互いに憎み合ってきた国々だ。それが、束になる。それがどれほど異常で、どれほど秦が追い詰められているか。報せを聞いた咸陽は、しんと静まり返った。
誰もが、口にしないまま、最悪の二文字を、思い浮かべていた。
亡国、と。
函谷関。秦の東を守る、天下の堅関だ。
切り立った崖に挟まれた、細い道。その喉元に築かれた、巨大な城壁。ここを抜かれぬ限り、咸陽は安全。逆に言えば、ここさえ抜かれれば、終わりだ。
その一枚の壁に、中華の半分が襲いかかってくる。守るのは秦の全軍。攻めるのは合従軍。数で言えば、絶望的にこちらが少ない。まさに国の命運を、一点に賭ける戦だった。
市の賑わいは、消えた。兵の顔は、強張った。城下の老人は、「昭王さまの時代でも、こんな大事はなかった」と、震える声でつぶやいた。
合従軍の旗が、一つの目的のために、地平を埋めて押し寄せてくる。想像するだけで、足がすくむような光景だ。
だが――この国には、本来いないはずの者たちが、いる。
戦場には戻れぬ体ながら、後方で采配を練る、生ける伝説・王騎将軍。
王宮で、大王を支え、将の器を見せつつある、漂。
そしてめきめきと育つ、若き隊長・信。
原作では、この大戦を、秦は王騎抜きで、辛うじて凌いだ。多くの血を流して。
だがこの世界には――生きた王騎の知恵が、ある。
(救った命が、今度は国を救うかもしれない)
そんな予感が、確かに胸の中にあった。
馬陽で繋いだ一本の命。漂を生かした、あの夜の一手。それが、巡り巡って、この国そのものを守る盾になる。そんな、できすぎた話が、起きようとしている気がした。
◇
俺の隊にも、出陣の命が下った。
「親分。いよいよ、でかいのが来るんだな」
岩斗が、剣を撫でながら、にやりと笑う。怖がる様子は、まるでない。
「ああ。たぶん、今までで一番でかい。国が、滅ぶかどうかの戦だ」
「ひっ……く、国が……」
禾の顔が青くなる。だがその手はもう槍を握っていた。震えてはいる。それでも逃げ出そうとはしない。あの臆病者が、だ。
「怖いか、禾」
「……怖いです。すげえ、怖いです」
「それでいい。怖いやつほど、よく見える。よく生き残る。お前はお前の目で、隊を守れ」
「……はい!」
いい返事だ。
俺は隊の連中を見渡した。剣術馬鹿の岩斗。臆病者の禾。蛇甘から、馬陽から、ずっとついてきた、馬鹿でしぶとい連中。
こいつらを、全員、生きて帰す。たとえ相手が、六国の大軍だろうと。
出立の前、王騎将軍から、短い文が届いた。
『面妖な大工どの。貴殿の「守り」が、こたびは国を救うやもしれませんよ。存分に、しぶとくおやりなさい。ココ』
……まったく、人をおだてるのがうまい人だ。だがその一文が不思議と、腹の底に力をくれた。生ける伝説が、俺の地味な戦い方に期待をかけてくれている。なら、応えてやろうじゃないか。
秦の全軍が、東へと動き出していた。
街道を埋める、兵の列。武器を運ぶ荷車。砂塵が、空を霞ませる。これほどの数の味方を見るのは、初めてだった。それでも迎え撃つ敵はその何倍もいるという。
兵たちの顔は、一様に硬い。誰もが、これが「ただの戦」ではないとわかっている。負ければ、国が消える。家族も、故郷も、何もかもが。
その重い空気の中を、俺は隊を率いて進んだ。
向かう先は、秦の東の大門・函谷関。
そこで俺たちは、中華の半分を敵に回した、未曾有の防衛戦に、身を投じることになる。
勝てる戦か、と問われれば、わからない。数だけ見れば、絶望的だ。
だが勝たねばならない。ここで負ければ、すべてが終わる。漂も、王騎も、信も、隊のみんなも。守ってきたものが、根こそぎ消える。
ならば、やることは一つ。いつも通りだ。地味に、嫌らしく、しぶとく。一人でも多く生かして、一刻でも長く持ちこたえる。それが、しがない大工あがりにできる、たった一つの戦い方なのだから。
しがない大工あがりの天下取りも、いよいよ、その最大の山場へ。
俺は前を向き、隊とともに、東へ足を踏み入れた。
救った命が、国を救う。その答え合わせとなる戦が、いよいよ幕を開けようとしていた。
俺は奥歯を噛みしめた。負けるわけにはいかない。ここで秦を、終わらせはしない。
馬鹿でしぶとい仲間たちと、これまで救ってきた命のすべてを胸に、俺は東の大門へと向かった。
すべてが、この一戦に集まってくる。その予感だけが、確かにあった。