ゆらゆらと、火が風に揺れる。
その明かりに照らされた俺の顔は、たぶんひどく険しかった。傷だらけの巨漢が真剣な顔で黙り込んでいるんだから、他人が見れば、それなりに怖い絵面だっただろう。
考えているのは、漂のことだ。
(このまま何もしなければ、漂は死ぬ)
原作の流れを、俺は知っている。
漂はある事件で命を落とす。まだこの時点では生きているのに。道ばたで一度見ただけの、あの少年が。
助けるべきか。否か。
簡単な問いに見えて、これがそうでもない。
(俺に助けるだけの力が「今」あるかはわからない。それに……)
仮に助けたとして、原作の流れは変わる。
そうなれば、俺の最大の武器――「この先の展開を知っている」という原作知識が、片っ端から無意味になっていく。地図を捨てて、知らない夜道を歩くようなものだ。
……それでも。
「まだ子供だろ」
火に向かって、ぽつりと言った。
この時代、この台詞は甘すぎる。人の命が、びっくりするほど安い世界だ。
だがしょうがない。元の田有は男気の塊だし、何より中身の俺は現代日本でぬくぬく育った、平和ボケの大人だ。子供を守るのが大人だろ。そういう、安っぽくて、譲れない理屈が、腹の底に居座っている。
もっとも――口で言うだけ、思うだけなら、誰でもできる。
力のない正義は、結局は自己保身に負ける。何もしない言い訳に化ける。
だが俺には、恵まれた体躯と、ゲームの「札」がある。
思えば、前世の俺は、その「札」のためだけに生きていたようなものだ。
『太閤立○伝』。死ぬ間際まで、それこそ寝食を削ってやり込んだ。何周もして、エンディングを潰して、持ち込み札をかき集めて。会社の机より、あの画面の前にいる時間のほうがずっと長かった。我ながら、ろくでもない人生だ。
だがその、ろくでもない時間が、今になって牙を剥く。札の効果も、入手条件も、数値の上限も、ぜんぶ頭に入っている。ゲームでさんざん遊んだ知識が、この世界では命を左右する力になる。
(……皮肉なもんだ)
ゲームに溶かした人生が、誰かの命を繋ぐ役に立つ。
ならせめて、繋いでやろうじゃないか。
(やれない、ことはないはずだ)
顔から、迷いが消えた。
やると決めたら、あとはどうやるか、だ。
「まずは……能力の確認が、急務だな」
◇
翌日から、俺は精力的に動いた。
まず走り込み――は、しない。
「忍術奥義皆伝」のおかげで、移動では体力が減らないからだ。いくら走っても、トレーニングにすらならない。チートの地味な弊害である。
仕方ないので、ひたすら筋力でいじめる方向に切り替えた。岩を担ぎ、丸太を振り、井戸の水を汲み続ける。傍から見れば、ただの働き者の大工だ。
次に、肝心の札技だ。
実際に使えるのかを試すには、戦うのが手っ取り早い。幸い、この時代は徴兵だらけで、腕の立つ連中はそこら中にいた。俺は腕に覚えのある男に頼み込み、片っ端から仕合をした。
すると――いざ拳や得物を交えた瞬間、不思議と「わかる」のだ。
どの札技が、今使えるのか。感覚で、すとんと腑に落ちる。
──《鉄壁》──────────
・秘技札(個人戦)
・気合2消費で、自分の防御力を少し上昇
────────────────────
「お、効いてる効いてる」
相手の一撃をわざと食らってみる。
鉄壁を張った体は、明らかに頑丈になっていた。元から岩みたいな田有の体に、さらに「気合」で上乗せがかかる感覚。同時に「気合」――札技を使うためのコストの残量も、感覚でわかるようになった。
ゲームでいうMPだの、SPだのと同じやつだ。戦っている間に、じわじわ回復していく。
強襲、抜け突き、鉄壁。
刀剣、槍、防御。手持ちの秘技を、片っ端から体に馴染ませていく。
……ただ、一つ誤算があった。
俺は疲れない。
◇
「田有、ごめん。今日はもう、無理だ……」
訓練に付き合ってくれた相手が、一人、また一人と脱落していく。
当然だ。こっちは無限の体力を持つ化け物である。延々と、いつまでも、相手が音を上げるまで仕合を続けてしまう。悪気はない。ないんだが、付き合わされる方はたまったものじゃない。
別格だ、人外だ、と恐れられ、訓練相手はみるみる減っていった。
ところが。
最後まで残った連中が何人かいた。
原作には、影も形も出てこない男たちだ。
ひとことで言えば、生粋の剣士。もっと正直に言えば、「剣術馬鹿」。
不沈艦みたいな俺の防御を崩せないのが、こいつらにはたまらなく楽しいらしい。攻撃が一切通じないのに、目をきらきらさせて、何度でも打ち込んでくる。完全に変人だ。
「おいおい、また弾かれたぜ! なんだその体! どうなってんだ!」
「楽しくなってきやがった……もう一本!」
しかも厄介なことに、こいつらの技を、俺の体はスポンジみたいに吸収していく。仕合うほどに、向こうの攻撃は当たらなくなる。
普通なら心が折れる。だが剣術馬鹿どもは、それすら「自分も強くなってる証だ」と喜ぶのだ。
途中から、俺はだんだん申し訳なくなってきた。
やめようとしても、やめさせてくれない。目をキラッキラさせて、本当に楽しそうに向かってくる。やめられるか、こんなの。
そんな、頭のおかしい連中との果てしない仕合が、よかったんだろう。
ある日、頭の奥で、かちりと音が鳴った。
──《連続斬り》──────────
・秘技札/気合3消費で敵一人を攻撃(武器:刀剣)
──《剛力》────────────
・秘技札/気合2消費で、自分の攻撃力を少し上昇(武器:不問)
────────────────────
(「武芸」がLv2に上がった……新しい札を、二枚覚えた)
はっきり目に見える成長は、最高の励みになる。
ゲーマーの本能が、満たされていく。レベルが上がるのは、いつだって気持ちがいい。
……それにしても、こいつら。名も知らぬ剣術馬鹿どもだが、妙に馬が合う。いつかこの連中と、肩を並べて戦う日が来るのかもな――そんな益体もないことを、ふと思った。
◇
訓練の合間。俺はもう一つ、別の「特訓」もしていた。
信と漂の、見守りである。
毎日、こっそり様子をうかがう。気配を消して、隠れて、二人を遠目に。
……改めて文字にすると、どう見ても、子供を狙うストーカーだ。我ながら危ない。だが救うと決めた以上、二人の動きは把握しておきたい。
あの二人は、いつも本気だった。
木の棒を打ち合い、転がり、罵り合い、また立ち上がる。日が暮れるまで、飽きもせず。「二人で天下の大将軍だ」と、ぼろをまとったガキが、本気の目で言うのだ。
その光景を、俺は柄にもなく、まぶしく見ていた。……片方は、もうすぐ死ぬんだぞ。そう思うと、胸の奥が、ぎゅっと痛む。
前世の俺には、あんなふうに本気でぶつかれる相手も、本気で追いかける夢もなかった。あったのは、画面の中の天下だけだ。
だからかもしれない。あの二人が、やけに眩しく見えるのは。せめてあの夢を、片方だけでも閉ざさせたくない。そう思うのは、たぶん、ただのお節介なんかじゃなく――かなえられなかった俺自身の、未練みたいなものだ。
気配を殺す意識を続けたおかげか、これにも成果が出た。
──《忍び足》──────────
・その他札(パッシブ)
・隠密工作が、見つかりにくくなる
────────────────────
(「忍術」がLv1に上がって、札を獲得……巨体が一個、消えるわけでもないだろうに)
ともあれ田有は強くなった。
着実に、ゲームの数値が、この体で意味を持っていく。
◇
ふたたび、火の前。
あとは、どこで、どう漂を救うかだ。
原作の記憶を、慎重にたぐる。
漂は昌文君に身請けされて、王宮へ行く。そのおよそ一ヶ月後に、事件は起きる。
大王の影武者として咸陽を脱出する漂。だが王騎将軍の待ち伏せに遭い、昌文君は一騎打ちに敗れて崖下へ。漂は残った兵をまとめて奮戦するが――最後は、朱凶という刺客にやられ、逃げ込んだ里典の家で、深手がもとで死ぬ。
「つまり――その朱凶の相手を俺がやればいい」
王騎将軍と昌文君の戦いに割って入るのは、身分的にも実力的にも無理がある。
だが漂が一人になった、あとなら。
(いける。いけるはずだ。問題は……どこで起きるか、だな)
戦いが起こるのは「束達の丘」。
……だがそこまでの細かい地理は、俺の記憶にはない。漫画の一場面を覚えているのと、その場所へ歩いていけるのは、まったくの別物だ。
ただ事が起きるのは、王都「咸陽」から「黒卑村」までの間のはず。範囲は広いが、咸陽の裏門あたりを張って、脱出する漂たちについていけば、たどり着ける。
(咸陽の城で火の手が上がって、裏門から……だったよな。なら、裏門さえ見張ってれば――いける!)
安易と言われれば、そうかもしれない。
仮に間に合ったとして、俺は朱凶に勝てるのか、という問題も残っている。
いや。
勝てそうだ、とは思う。田有の体躯と、磨いてきた札技があれば。
「待ってろ、漂」
火を消して、横になる。
明日からは、もっと忙しくなる。
田有による、原作崩壊の序章が――静かに、動き出そうとしていた。
◇
「一ヶ月ばかり、村を空ける」
仲間たちにそう告げるのは、正直気が重かった。
最近は訓練にかまけて、大工の仕事はだいぶ疎かにしていたからだ。どう切り出したものか、と悩んでいたのに。
「いいって、気にすんなよ」
「田有のことだ、大事な用なんだろ?」
「給金、上げてくれりゃそれでいいからよ」
あっさり、快く送り出された。
……なんていい奴らなんだ。木材を頭に落とした件は、まだ根に持ってるけどな。
大工というのは、つくづく悪くない生業だと思う。
力仕事で飯が食えて、仲間は気のいい連中で、手を動かせば形が残る。前世のすり減るだけの暮らしより、よっぽど性に合っている。……とはいえ、今ここで頼りになるのは、鋸や鉋じゃない。札と、この腕っぷしのほうだ。門を直し、梁を組む技が、いつか戦場で役に立つ日が来るのかどうか――そんなことは、考えたこともなかった。今はただ、漂を救う。その一点だけを、見据えていた。
食料を買い込み、俺は王都・咸陽へと発った。