咸陽は、都会だった。
ただ田舎者まる出しの俺は――しかもこの汚い身なりだ――門の中には入れてもらえそうもない。食料の補充も期待できない。
だが都会も一歩外れれば、自然の宝庫だ。
元来、田舎育ちの知識がある。そのへんの野草は食えるし、獣を狩ればタンパク質も摂れる。水は川。塩は岩塩の塊を買ってきた。水筒がわりの瓢箪も用意済みだ。サバイバルの準備は万端である。
咸陽近くの森に、野宿を決めた。
地面に胡座をかいて、持ってきた得物を眺める。
この時代の知識が曖昧で、最初は驚いたんだが――日本ならおそらく弥生あたり、つまり青銅の時代だ。なのに中華では、鉄製の武器が普通に売っていた。
これは助かった。田有の握力なら、柄が木だろうが鉄だろうが平気で握りつぶしかねない。鉄の得物を見つけたときは、心底ほっとした。
持ち込んだのは、秘技札を考えて、剣と槍。
そして狩りのために買った弓。これも鉄製で、武器屋いわく「引ける奴の方が稀」という、馬鹿みたいに硬い、鉄の大弓だ。俺以外には、ただの金属の棒だろう。
「朱凶は……たしか、素早いんだよな。なら取り回しの効く剣か? いや、槍の突きも速いし……悩むな」
悩んでも始まらない。
ひとまず武器は放っておいて、俺は弓に目をつけた。
(剣と槍は「武芸」のLvに乗る。だったら、弓の「弓術」Lvも上げておきたい)
弓術が上がれば、合戦で使える弓の札が手に入る。先を考えれば、今のうちに育てておくべきだ。
幸い、的になる木には事欠かない。事件が起きるのは夜。日中は、暇なのだ。
そうして一ヶ月、俺は森でひたすら弓を引いた。
(お、弓術のLvが、ひとつ上がったか)
もっとも、合戦で使える弓の札を覚えるには、まだ少し足りないらしい。火矢だの強弓だのと物騒な札が手に入るのは、どうやらもう少し先のようだ。
今はただ、この馬鹿でかい鉄の弓で、力任せに射るしかない。それでも田有の膂力で引けば、並の弓の倍は飛ぶ。今はそれで、事足りる。
そして――本当にやることがなくなった。
暇を持て余した俺はなぜか「茶道」を上げ始めた。将来「勧誘」に役立つから、という建前で。
茶菓子は泥の塊。茶碗もないので、ベッタベタの泥の椀。
いい大人が、しかも傷だらけの巨躯が、森の中で一人、泥をこねて茶をたてている。
……今になって思う。あの光景、相当やばかった。誰にも見られていなくて、本当によかった。
だがこうして無為に見える一ヶ月のあいだも、頭の片隅ではずっと、その夜のことを考えていた。
漂が逃げる経路。朱凶が現れる間合い。俺が割って入る一瞬。何度も、頭の中で繰り返す。前世でゲームの攻略を組み立てたときと、同じ要領だ。違うのは――やり直しが、効かないということ。
しくじれば、漂が死ぬ。それだけだ。
◇
夜の咸陽が、ぼんやりと明るい。
その異変に、俺はぱっと表情を引き締めた。
――ついに起きたか。
ここから先は、一分一秒が、漂の生死を分ける。
咸陽の裏門へ回り、息を潜めて様子をうかがう。
ほどなく、たくさんの騎兵に囲まれた、一台の馬車が姿を現した。馬は速い。だが馬車を守る隊形のせいで、そこまでの速度は出ていない。
普通の人間が走る速度より、ずっと速いが――俺は巨躯では考えられない速さで、しかも疲れ知らずで走れる。
(少し遅れても、見失わずについていける)
「忍び足」も効いている。意識して気配を消せば、誰も俺に気づかない。
……いや。こんな巨体が全力で走ってるんだから、一人くらい異変に気づけよ、とは思ったが。
数刻。
ある丘に差しかかったところで、待ち伏せの兵が湧いて出た。
束達の丘だ。原作通り、王騎将軍の軍。
森の中の、見やすい位置へ移動する。
遠目に王騎将軍と昌文君の一騎打ちが見えた。そして――昌文君が敗れ、崖下へ落ちていく。
それを見て、一つの小さな影が、馬車から飛び出した。
「あきらめるな!! 隊列を組み直せ!! 密集して、突破をはかるぞ!!」
その声は、不思議なほどよく通った。
距離のある、森の中の俺にまで、まっすぐ届くほどに。
(……よく響く声は、将軍向け、だったか)
原作なら、漂の「大将軍への夢」は、この戦いで閉ざされる。
だが。
(漂。お前がこの戦いを生き延びたら――なれるかもしれないんだぞ。将軍に)
俺はなんとしても漂を生き残らせたい、と思いを強くした。
会話をしたこともない、遠くから眺めているだけの間柄だ。なのに、すっかりあのガキの肩を持っている自分がいる。我ながら、現代なら通報案件である。
奮闘する漂と兵たち。だが丘の上に、敵の新手が現れた。
漂は兵を逃がすためか、たった一騎で敵へ突っ込んでいく。
(逃げる方向は、たぶん――丘の向こうだ)
俺は森を縫って、先回りする。
そして――見失った。
夜は、暗い。この時代の人間として夜目は効く方なんだが、それでも。
(漂!! どこだ、漂!!)
めちゃくちゃに動揺していた。
なにせ、救うと決めたあのガキが殺されるかもしれないのだ。気づけば俺は、半泣きになっていた。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。闇雲に走り回れば、足音で漂の居場所すらかき消しかねない。一度立ち止まり、息を殺し、耳を澄ます。
静かな夜の森は、音をよく運ぶ。
鉄が――おそらく剣が――打ち合う音が、聞こえた。
(あっちだ!! 漂か!?)
巨躯を揺らして、走る。
止まらず、そのまま、二人の戦いの間に割って入った。
俺の槍の柄に、振り下ろされた剣が、がきりと止まる。
(間に合った――!!)
背中側の相手に、声をかける。
「大丈夫か」
ちらりと見やる。
原作で致命傷になったはずの、腹の傷。それがない。無事な漂がそこにいた。
向かいには、赤黒い服の男。
(朱凶、だな)
間に合ったのだ。
ここで俺が漂を守りきれば――漂は死なない。
「「誰だ?」」
漂と朱凶、両方から声がかかった。
俺は漂の方へ、こう言い放った。
「雑魚は引き受ける」
……渋く決めた。
言いたかったんだ、この台詞。原作の名台詞の、一部の引用である。続く「敵の総大将は――」は、さすがに今その場面じゃないので、省略しておいた。
うん。完璧だ。
雑魚呼ばわりされた朱凶は、あからさまにいら立った様子で、標的を俺に変えた。
無言で、その剣をこちらへ。
漂と朱凶の戦いは、田有と朱凶の戦いに、すり替わった。
◇
俺の槍の突きは、朱凶に軽々と躱される。
速い。さすが二百年の歴史を持つ暗殺一族、と言うべきか。
目で追うのがやっとの速度で、左右に揺れ、間合いを食ってくる。一手でも気を抜けば、喉を掻かれる。それがはっきりとわかる、嫌な殺気だ。
だが――朱凶の剣の方は。
「軽い」
戦闘開始と同時に俺は「鉄壁」を発動していた。
──《鉄壁》──────────
・秘技札/気合2消費で、自分の防御力を少し上昇
────────────────────
元から頑丈な田有の体に、鉄壁が乗る。朱凶の斬撃は、かすり傷一つ残せない。
何度斬りつけても通らないと悟ったか、朱凶の顔に、初めて焦りの色がにじんだ。暗殺者は、長引く戦いを嫌う。仕留めきれない獲物ほど、こいつらには厄介なものはない。
しかし俺の攻撃も、当たらない。あの素早さだ。
だが――伊達に、あの剣術馬鹿どもと延々やり合ってきたわけじゃない。
武芸Lvに伴う体の捌き、そして森という地形。木々を背に、退路を一つずつ潰していく。じりじりと追い込んで、気づけば朱凶は、背を木に預ける形になっていた。
逃げ道を、塞いだ。
戦闘開始時の気合は、2。
開幕で鉄壁に2を使い、残りはゼロ。だが気合は、戦っている間に回復する。3まで戻ったところで「剛力」。さらに4まで戻して――槍の秘技を、放つ。
──《剛力》──《抜け突き》──────
・剛力:気合2/自分の攻撃力を上昇(武器不問)
・抜け突き:気合4/敵一人を攻撃(槍)
────────────────────
田有の馬鹿げた腕力に、剛力が乗り、抜け突きが乗る。
全部のせの、渾身の一撃。
それは強烈なんてものじゃなかった。
朱凶の体は、上下に断たれた。きれいに、とは到底言えない。原形を保てず、ぐしゃりと、ミンチに近い有り様で。それがこの一撃の威力を、何より雄弁に物語っていた。
……人を、殺した。
現代の感覚が、一瞬だけ、ぐらりと揺れる。だが不思議と、吐き気はこなかった。これをやらなければ、漂が死んでいた。それだけのことだ。この時代で生きるとは、たぶん、こういうことなんだろう。
「この、俺が……」
朱凶は、何かをつぶやいて。
そして動かなくなった。
◇
無事、漂を助けることに成功した俺は満を持して、振り返る。
あのガキに、最高に格好いいところを見せつけてやろう、と。
――そこに、漂はいなかった。
「……あれ?」
いない。どこにも。
まあ、「雑魚は引き受ける」なんて、いかにも「あとは任せて先に行け」みたいな台詞を、自分で言ったわけで。漂は漂で、大王様と合流しなきゃならない身だ。
仕方ない。仕方ない、んだが。
夜の森に、傷だらけの巨漢が一人。
その顔は、たぶん捨てられた子犬みたいに、しょんぼりしていた。
「……かっこよく決まったのに、なあ」
誰も見ていない森で、俺はぽつりとこぼした。
まあ、いい。漂は生きている。
あの腹に、致命の傷はなかった。確かにこの手で、運命を一つ、ねじ曲げたのだ。
原作崩壊の、記念すべき第一手だ。地味に、誰にも気づかれないまま。
それで、じゅうぶんだ。
……じゅうぶん、なんだけどな。
夜空を見上げて、俺は大きく息を吐いた。
あいつは、礼の一つも言わずに行っちまった。だがそれでいい。礼を言われるために救ったわけじゃない。あいつがこの先、信と肩を並べて、馬鹿みたいにでかい夢を追いかける――その背中を、いつか遠くから見られたら。
きっとそれが、何よりの礼になる。
それに――こいつは、ほんの始まりにすぎない。漂を救ったことで、原作の歯車は、もう確実にずれ始めた。この先、何が起きるのか。俺の知る未来は、どこまで当てになるのか。正直、わからない。だが不思議と、怖くはなかった。むしろ、少しだけ、わくわくしている自分がいる。
「……さて、と」
泥だらけの体を、のっそりと起こす。
俺の、長い長い天下取りは。
こうして、誰にも知られない一勝から、静かに始まったのだった。