ここ最近、やけに見かける男がいる。
顔じゅうに傷のある、岩みたいに大きな男だ。
面識はない。どこの誰かも知らない。
なのに俺と信の訓練が終わって村へ戻る道すがら、いつも森のほうから、こちらをじっと見ているのだ。隠れているつもりらしいが、あの巨体では隠れきれるはずもない。
信は最初から気づいていた。
「あの野郎、何見てやがる。俺がぶっ飛ばしてやる」
そう言って向かおうとするのを、俺は何度も止めた。
俺たちは、奴隷の身だ。何かあったとき、立場が弱いのはいつだってこちらのほう。それに里典に隠している木剣は、今は森の中で、手元にない。
最初は、里典の差し金かと疑った。
だが人を雇うには、金がかかる。奴隷二人を見張るためだけに、あのけちな里典が、わざわざ人を雇うとは思えない。それにあの男はただ見ているだけで、こちらに手を出してくる気配もなかった。
だから俺は信にも言い聞かせて、放っておくことにした。気味は悪いが、害はない。そう思うことにしたのだ。
◇
そんな日々が続いた、ある日のこと。
仕合の最中の俺たちの前に、別の男が一人、馬を駐めて立っていた。例の「怪しい男」ではない。
「何見てんだよ、オッサン……あ?」
「バカ、バカ、バカ」
信は相変わらず喧嘩っ早い。頼むから、自分の立場を少しは考えてくれ。
「よく見ろ。あの身なり、あの馬。かなり位の高い士族だ」
「関係ねー」
「あるんだよ! ぶっ殺されるぞ」
俺が必死になだめていると、その男が、ふっと口を開いた。
「なんじゃお前ら、喧嘩していた割に、ずいぶん仲がいいな」
これは喧嘩ではなく仕合だ――そう説明するうちに、俺たちはつい、これまでの勝敗まで語ってしまった。男はひどく驚いた様子で、それから、俺たちの正気を疑うような目をした。
だから俺たちは、胸を張って言い放ったのだ。
「「俺たちは、天下最強の大将軍になるのだ!!!」」
俺たちの、夢を。
すると――解せないことに、男に、笑われた。
「笑いやがっ……ぶっ殺す」
いきり立つ信を、俺はまた必死で抑えた。頼むから、お偉い士族様に喧嘩を売るな。俺たちは、奴隷なんだぞ。
◇
その翌日。里典の家に帰ると、なぜかあの「夢を笑ったオッサン」が、里典と並んで座っていた。
「いやあ、お疲れ様、漂君。そんな籠はいいから、ささ、こちらへ」
里典の態度が、やけに気持ち悪い。俺の背負っていた籠を信に押しつけ、俺の手まで取って母屋へ引き入れる。むろん、あのオッサンも一緒だ。
話は、身請けのことだった。
「漂よ。明日より、お前は王宮で働くのだ」
(王宮……この、俺が……?)
あまりに突然で、頭が真っ白になった。何かを言い返した気もするが、気づけば夜で、俺はいつもの納屋に横たわっていた。
奴隷から、抜け出せる。
それは俺たちの夢――天下最強の大将軍への、最低限の条件だった。この国では、奴隷の身分のままでは、合戦にも出られない。武勲も立てられない。まずは、そこから抜け出さなければ、何も始まらないのだ。
だが。
(信を、残して……)
俺はあの男――昌文君というらしい――に、必死で信を売り込んだ。俺と同じだけの力がある、同じだけ役に立つ、と。
しかし断られた。
俺と信。二人で、大将軍になるはずだったのに。
もし立場が逆なら、俺はきっと「行け」と言う。そうわかっていても、足が動かなかった。
そんな俺の迷いを、けろりと吹き飛ばしたのは、当の信だった。
「なんだよ、辛気くせえ面しやがって。さっさと行ってこいよ」
「信……」
「俺は俺で、自分の力で一歩ずつ上がってく。だからお前は、先に行け。……すぐ追いつくからよ」
信はニカッと笑った。
つられて、俺も笑った。
最後にもう一度だけ仕合をして、俺は奴隷の身分から、解き放たれた。
(信。俺は先に行く。……お前も、必ず追ってこいよ)
◇
咸陽は、生まれて初めて見る、途方もない都だった。
城戸村とは比べ物にならないほど大きく、町並みは美しく、行き交う人はみな、こざっぱりとした服を着ている。王宮勤めだからと、俺自身も、無理やり身ぎれいにさせられた。服も、体も。
昌文君様の屋敷で、礼儀作法を仕込まれる、忙しい毎日。
そんなある日、俺は「大王様」に拝謁することになった。
「面をあげよ」
お言葉に従い、顔を上げて――俺は息を呑んだ。
大王様の顔が、水面に映る俺の顔に、そっくりだったのだ。
はじめは、その身分と、瓜二つの顔に、すっかり萎縮してしまった。
だが大王様との会話は、不思議と話しやすかった。気づけば俺は自分の身の上も、夢も、信のことまで、つい喋ってしまっていた。
「信のほうが、強いと申すか」
「はい」
「奇なことを。お前はさっき、二人は互角だと言ったぞ」
「二人で仕合えば、まったくの互角です。ですが、俺が勝てない相手でも、信なら勝ってしまう。そういう男なんです」
「ふっ。面倒くさそうな奴だな、それは」
「そうなんですよ! いやあ、本当に強いんです、信は!」
弟自慢のつもりは、なかった。
なかったが――大王様に信のことを語れたのが、俺はなんだか、無性に嬉しかったのだ。
(うちの信は本当にすごいんだから)
そうして日々は過ぎ、やがて――玉座を狙う「王弟」の勢力が、動き出した。
◇
その日、俺は昌文君様に言われるまま、大王様の衣をまとった。
もしものときの、影武者。それが、奴隷あがりの俺が王宮に置かれた、本当の理由だった。
正直、怖かった。
だがこれは俺が選んだ道だ。生き延びさえすれば、将軍への近道になる。そう、腹をくくった。
味方の合図を待ち、俺は昌文君様に連れられて、裏門から馬車で脱け出した。敵を引きつけるため、本物の大王様とは、わざと別の道を行く。
無事に咸陽を抜けた――と思ったのも、束の間だった。
束達の丘で、待ち伏せに遭ったのだ。
敵は多い。昌文君様は、敵将――後に王騎将軍と知る、あの大男――との一騎打ちに敗れ、崖下へと消えた。味方の兵の顔に、絶望が走る。
このままでは、無駄に兵が死ぬ。大王様の味方が、減ってしまう。
そう思った俺は馬車を飛び降り、声を張り上げていた。兵をまとめ、隊形を組み直させる。必死だった。だが俺の声で味方が動くことに、どこか、痺れるような高揚もあった。
これなら、勝てる――そう思った、まさにその矢先。丘の向こうに、敵の新手が現れた。挟み撃ちだ。
(このままでは、全滅する……!)
俺は新手の目を引きつけるため、単騎で駆け出した。
ちらりと振り返れば、味方は、どうにか逃げられそうだ。なら――あとは、俺自身が生き延びるだけ。敵と刃を交えながら、俺は森の中へと逃げ込んだ。
兵は、どうにか撒いた。
だが追ってきたのは、兵だけではなかった。
赤黒い装束をまとった、暗殺者然とした男。
その刺客は、恐ろしく強かった。そして――。
「嬴政よ、死ね!」
木の根に、足を取られた。避けようのない一撃が、俺へと迫る。
――もう、駄目だ。
そう、覚悟した、その瞬間だった。
俺と刺客のあいだに、大きな影が、ぬっと割り込んできた。
突然のことに、刺客も一瞬ひるむ。その隙に、俺は転がるように距離を取った。
間に立った男が、こちらをちらりと見て、言う。
「大丈夫か」
俺と刺客は、同時に声を上げていた。
「「誰だ?」」
だがよく見れば――俺はこの男を知っていた。
城戸村で、俺と信を、いつも森から見ていた、あの「怪しい男」だ。
(……そうか。この男は、俺が大王様に瓜二つだと気づいて、それを昌文君様に報せるために、ずっと俺を見張っていたのか)
つまりこの男は、昌文君様の配下――。
(なるほど。それなら、全部、繋がる)
もっともそれは俺の勝手な思い込みで、本当のところは、何ひとつ分からなかったのだが。
「雑魚は引き受ける」
男は、そう言い放った。
そして男と刺客の戦いが始まる。その武の冴えは、いかつい風貌からは信じられないほど、洗練されていた。俺を追い詰めたあの刺客の刃を、危なげなく捌いていく。
やはりと思った。この男は、ちゃんと武を修めた、本物の兵士なのだ。
(……見惚れている場合か、俺は)
この男に使命があるように、俺にも果たすべき使命がある。大王様と、合流すること。
少しだけ、躊躇した。だが男の言葉に背を押されて、俺は決めた。この場は、託す。
そうして俺は後ろを振り返らずに、駆け出した。
◇
それからのことは、駆け足で過ぎていった。
俺は城戸村へ戻り、信を説得した。大王様に力を貸してほしい、これは奴隷を抜け出す好機だ、と。信は最初、何を言われているのか分からない顔をしていたが、やがて頷いてくれた。連れ出す際に里典と一悶着あったものの、今や俺の身分のほうが上だ。どうにか、収まった。
その後、黒卑村の外れで、本物の大王様と合流した。
信は自分とそっくりな顔の大王様を見て、ひどく驚いていた。落ち着かせるのに、少し手間取る。その時間が、まずかった。追っ手が、黒卑村まで迫ってきたのだ。
(このままでは――)
絶望しかけた、そのとき。蓑笠をかぶった山の民――河了貂と名乗る案内人が、抜け道へと導いてくれた。おかげで、俺たちは窮地を脱した。
大王様の道案内で、昌文君様たちとの合流地点を目指す。だがそこへも追っ手は現れた。吹き矢と鉈を操る、ムタという刺客。手強かったが――俺と信、二人がかりでなら、負けはしない。ムタを、討ち取った。
その直後だった。
崖下に消え、死んだとばかり思っていた昌文君様が、配下の兵を率いて、合流地点に現れたのは。昌文君様は涙を流し、大王様の前に、深々と膝を折った。
ようやく場が落ち着いて、俺は生き残った兵たちと、互いの無事を喜び合った。
そして――俺をあの刺客から救ってくれた、あの男のことを、昌文君様に尋ねてみた。
だが。昌文君様の配下だと、俺が勝手に思い込んでいた、あの大男の正体は。
――昌文君様にも、まるで心当たりがないという。
(あの男はただ者じゃない。……いったい、何者なんだ?)
◇
悶々としながらも、張り詰めていた糸が切れたように、疲れがどっと押し寄せてきて。
俺は意識を手放した。
目が覚めてから、俺は一つ、心に決めたことがある。
俺は二度死にかけ、二度とも、誰かに生かされた。束達の丘では兵に。森では、あの大男に。本当なら、俺はもう、この世にいなかったはずだ。
ならば、この拾った命を、無駄にするわけにはいかない。
大王様と俺は同じ顔をしている。その偶然のおかげで、俺は奴隷を抜け出し、王宮に立った。
だがその偶然に意味を持たせられるかどうかは、俺次第だ。
信は戦場で駆け上がっていくだろう。剣一本で、まっすぐに。あいつはそういう男だ。
なら、俺は――大王様の傍で、この国を支える将になる。同じ夢へ、別々の道から。それが、生かされた俺にできる、せめてもの返し方のような気がした。
二人で、大将軍に。
その約束は、形を変えても、消えはしない。
いつか、あの大男に、もう一度会えたなら。
今度こそ、礼を言おう。あなたのおかげで、俺はちゃんと前に進んでいます、と。