知られざる四年前、烏合結成前日に飛鳥井萌花へ訪れた悲劇。
月輪没落
いけないことだと分かっていた。その人が犯罪者で、どんなに素敵な笑顔をしても頬には血を張り付けていると分かっていた。
分かっていても躊躇はなかった。
わたしは彼が大好きだった。
始まりは数年前。わたしが中学生だった頃の夜。
都内の夜はいつでも明るくて、門限も設けられてなかったから、わたしは随分と油断していた。夜遊びというには未だ早い時間だったと思うけど、夜は夜。幼児なんかは眠りについて然るべき時間。
そんな中友達と別れて一人、なんの力もない少女が一人歩いていた。
当時から友達は、というか大切な人はかなり少なかった。両親を勘定に入れても、大切なものの数は増えない。慢性的な退屈が思春期で誇張されて、色んな意味でつまらない子供。
虚飾した人間関係の中にいるより、一人でいる方が楽しかった。それでも独りを選ばなかったのは、わたし自体は結構人好きだと知っていたから。人間は好きでも、上手く付き合えない……というかつまらない。わたしを満たしてくれる特定の誰かがずっと見つかっていない。子供らしく斜に構えた考えだと思う。でも、どんなに若く青くても本物だった。その日は本物だと証明出来てしまう夜だった。
静かだ。
不審に思って辺りを見渡すけど、景色の不自然さは変わらない。
街灯や街の光が照らしている中で人だけが見当たらない。よく通る道だから分かるけど、この時間からこんなにも人がいないのは異常だった。
「……?」
その時は冬だったから、防寒着を手袋越しに握って不安を誤魔化してた。
情けない話だけど、ただでさえ冬は落ち着かなくて苦手だったから、目に見える異常と肌で感じる不安が当時のわたしには過激なくらいに染みていた。
気のせいだと唱えるように息を吐いて、目線を宙に漂う白色に結び付けて、トボトボ歩いていく。
次に瞬きした時、わたしは地面に倒れて身動きが取れなくなった。
大きな手がわたしの口を塞いで、背中に重たくのし掛かったその人は、何か慌てて呟くと、わたしの身体を仰向けに直す。
後ろから音もなく押し倒されたわたしの内心は、実のところ恐怖より驚きの方が上回っていたように思う。それくらい退屈に辟易していたって事にするのは、少し都合が良すぎるかもしれないけど。
身体の痛みも程々に、されるがまま見上げるわたしの目に、その人はどうにも間抜けに映った。
「――あれっ、誰だお前?」
「……
馬鹿正直に答えたわたしと、馬鹿正直に焦る男の人。周りに誰もいないから、滑稽ではなくて、ひたすら間抜けた二人。
ニットキャップを被った大きく黒い目の人。幾つか年上の若い男性という感じだ、声も若くて、大学の中心人物が似合う子気味良い高さをしている。
中学生に乗っかった推定成人男性はのそりと立ち上がって、片手を頭に乗せながら考え込む。その間にわたしは寝そべった姿勢から座った体勢に変えた。
あーだのえーだのウダウダと悩んでいる様子が可笑しくて、つい笑いを零した。
「なにがしたかったの。もう」
「や、うーん。オーヴァードだと思ったんだけど、まさかピンク頭で人違いするとは思わねえって……」
「おーばーど」
とやらには心当たりがなかったが、もう一つには頷く気持ちだ。確かにわたしはピンク髪。生きている中で二人見るかも怪しい髪色だろう。
とはいえ、もしわたしが彼の探している
「うん? 知らねえのか。ワーディングが効いてないならてっきり……まさか適格者か、都合ワリー」
知らない単語がポンポンと出てきて、閉口を立ち上がる事で誤魔化す。
どれから聞こうか。ここで既に逃げる選択肢がない事、わたしは気付きもしていない。
言葉を用意している間、鼻先に冷たいものを感じて肩が跳ねた。
そんなわたしに驚いて男の人も少し遅れて肩が跳ねる。
何かが落ちていたような感触で、鼻を触ってみると冷たく濡れている。見上げれば、夜空が分厚く曇っていた。そこから、降るにしては随分と緩慢な速度で地面に迫ってきている。それも沢山。
「雪だ……ふふ、はははっ!」
まさか、知らない人に押し倒された直後に雪が降るなんて思わなくて、変なツボに入ったわたしを変なひとを見る目でその人は眺めるの。
その光景がこれまたシュールで、一分くらいはクツクツ笑ったかな。それから大きく息を吐いて、白く拡散した息が消えるのを待ってから男の人の顔を見た。
「おにーさん、人探ししてたの?」
「あー、んー。まぁそうなんだけど、まぁお嬢ちゃんには関係ないし、パパママが心配する前に帰んな。この事は誰にも言うなよ?」
親を出されると若干困る。あの人達は、わたしがこっそり消えてもあんまり気にしないだろうから。これは若年あるあるの思考でもなくて、事実そうだった。
それに、中学生はお嬢さんという小馬鹿にした揶揄を使う年でもない。当時のわたしはそこに眉を上げて、攻勢に出た。
「関係あるよ。教えてくれなかったら警察に訴えるから」
「うわ最悪……知ってどうすんの?」
そこはあんまり考えてなかった。顎に指を当てて、軽く首を傾げて見せる。
「手伝おっか?」
目に見えて表情が変わってく。面倒事にでくわしたと今更気付いたようで。
今度は向こうが何を伝えようか困っているようだった。わたしとしては諦める気がなかった。退屈が雲散霧消する危ない出会いに、胸は洋画みたくタップダンスを打ち鳴らす。
なるべく腹黒さとかを滲ませないようにと思って、年相応の無垢な笑顔を作りながらその人の手を取る。彼の右手をわたしの両手で包んだ。わたしは手袋してるのに、彼の肌の冷たさは尋常じゃない。
なんだか愛おしさすら感じるのは、やっぱりすっとんきょうな出会いと素朴な顔立ちのせいだ。
「おにーさんってカフェやってるでしょ。そこで話そ?」
「覚えてたかーっ」
諦め混じりの声。左手で両目を包むように覆う、それから観念したように声を出して、小さく彼は頷いた。
状況が落ち着いてその人を眺めた時、わたしは数日前を思い出していた。休日、家を避けるように出て、逃げ込んだ先は一つのカフェ。店員は一人しかいなかった、ニットキャップはしていなかったけれど、人懐っこい声と大きめの黒い瞳は思い出すのに時間もかからなかった。これが数か月前とかなら分からないけど、きっとこの事態は偶然じゃないから。
その店はここからそう遠くも無い。わたし達は歩き出す。
「手、離せよ」
「えーっ、だめ?」
段々人の声が戻ってきて、いつの間にか傘を差した誰かが視界に入るようになる。結局手は振りほどかれない、人前で手を突っぱねる方が目立つからだろうけど、それでもわたしは楽しかった。
雪は激しくない。カーペットにも満たない雪道に二人分の足跡を付けていく。振り返ったら、わたしよりも大きな跡が隣に続いていて不思議な気持ちになった。
この時間を黙って歩くのは浪漫があるシチュエーションだけど、今のわたし達ではただ持て余すだけだった。だからってわけじゃないけど、気になっていたこと、済ませるべき話をしておく。
「そういえばおにーさん、名前はなんていうの?」
「ガンガン来るなぁ……」
「いいじゃん」
さして深く考えたわけじゃない言葉だけど、彼の人柄を掴む一歩にしては悪くない選択肢だったと思う。
苦い顔はしてたけど、本当に拒絶したがってるような嫌悪感は感じない。それも妄想だったら始末に負えないけど、なんとなく大丈夫だと言える確信があった。
「
「甲斐くんかぁ」
「彼女ヅラすんな」
飛び込むようなツッコミ。これはわたしでも断言出来るけど、どうやら彼も悪しからく思ってるらしい。
歯を見せて笑う彼、それから大きな肩に積もった雪を見る。
わたしは店に入るまで、雪を落とさないよう歩いた。
一緒に雪を払いのけて、お店の裏手から中に入る。普通の玄関に通されて下がりかけたテンションだけど、扉一枚隔てた向こうは見覚えのあるカフェの空間だった。少し経ったら明かりも点いて、カウンター席に案内される。
普段見る事のない閉店後の店内を興味深く見渡す。窓とかは遮蔽されていて、明かりが付いていても寂しげな雰囲気。
時計を一瞥して、それから時間のことは考えるのをやめておく。門限がないと言っても、限度とやらは不可視ながら存在する。……わざわざ意識して、それを踏み越えるのもなんだか癪だった。
「コーヒー淹れてよ、コーヒー」
「長居する気か」
「いいじゃん。泊めてよ」
「どこまで遠慮無しだお前」
「いけるとこまでどこまでもっ。あとお前はやめて」
面倒な女を見る目。わたしも初めて他人にこんなダル絡みをしたと思う。
ままあって、出されたのはただのお水。夏なら良かったけど、暖房の効いていない店内じゃ冷や水は進んで口に含みたくはない。一口飲んで、甲斐くんから話を聞き出すことに決めた。
オーヴァードでワーディングがイリーガルにターゲット。うんぬんかんぬん、かくかくしかじか。
「だから手伝うとか、おま……飛鳥井の出番はねえよ。分かったらさっさと帰ってあったかくして寝な」
「えーっ、あるあるなんかあるよ。探してる人わたしも探すし。あっそうだ、ここで雇ってよ」
「あのなぁ、話聞いてたか。死ぬかもしれないし、なんなら俺は人殺しだぞ」
声のトーンが下がって、刃物を突き付けるような音になった。
横文字ばかりの説明だったし、お世辞にも上手い説明とは言えなかったけど。それでも彼は大事なところは分かりやすく強調してくれた。出葉甲斐は超能力を使うバケモノで、同じ超能力を使うだれかしらを殺す仕事をしているのだと。
今まで見せてきた喜怒哀楽。いや喜びはまだ見てないけど――逆に言えばこの短時間でもう三つ見た。感情豊かな人の、よく動く口元にも、きっと血が被った。
さっき繋いだ手は血で汚れていた。
一緒に残した足跡にも。
「……でも」
「でもじゃない。まだガキだろ、道間違えんな」
でもなんだよ。
最悪じゃないことすら最悪になるような人生で、貴方は垂らされた蜘蛛の糸。この細い指で貴方に縋ることくらいは、罪にもならないはず。
違う、罪でも良い。
罪でも良いから、とにかくわたしは隣に居たい。
人を殺すのに人を間違える、間抜けなバケモノ。
手を放さずにいた気まぐれを今も信じて見たい。
「お願い。帰ってあったかくして道に戻っても、わたしにとっては最低な日々なの」
「大人になりゃそうでもねえよ」
「間違えた道にいる大人がそんなこと言えるの?」
向かいに座る彼は露骨に嫌そう。分かるよ、出会ったばっかの子供に言われたくなんかないよね。
今だけは許して。そう念じながら噛み付く事をやめない。
「道は道でしょ。なら、わたしはそっちを歩きたい」
「死ぬぞ」
「死んだら後悔しないもん」
「……っ、なんも出来ねえガキ迎えてやるほど余裕ねぇのこっちは」
でまかせのようにすら感じる。じゃなきゃ、こんなに皺を寄せて絞り出すように言わない。
「だって甲斐くん、なんで振りほどかなかったの。こうなるって、実は思ってたんじゃないの」
テーブルに肘をついた彼は、そのまま頭を支える。うなだれるようにして考え込んだ姿ですら魅力的に見えてしまう。
時計の針だけが、この場が静止していないことを証明する唯一だった。その音さえなければ、ずっとこのままでいたいと思うだろうな。
それから三年近く経って、今では栄えある高校生。今日もわたしはカフェ『鳥の巣』に足を運ぶ。
学校から直接来るのは目立つからって、ちゃんと家に戻るのを強制される。二階に居住スペースが余ってるんだからくれてもいいのに、と思う。誕生日になったらいっそねだってみようか。
「今日休みなんだね、お仕事?」
「明日な。店番頼むわ」
そういうのは前日から言っておくべきだと思うの。
カフェの営業は、彼にとっては隠れ蓑でしかないらしい。きっとわたしが今日も明日も姿を見せないとして。支障は特にないのだろう。
客のいないお店を二人で占領するのも珍しい話じゃない。二人共スタッフなんだから占領という言い方もおかしな話だけど。
ずっと前から彼は暗殺者。なんとかって組織から依頼された時だけ、彼の腕は血を被る。
その仕事にはほんの数回だけ手伝った事がある、それらは全部わたしが力に目覚めてからだった。
甲斐くんは喜ぶ以上に、やっぱり後悔が滲み出てたけど、押しに弱い彼は沢山の言いつけを守れば手伝うことを許してくれた。手伝うといっても、さりげなく標的の行先を誘導するとか、人質になるとかで、わたしの手が汚れたことは一度もない。
そのことは残念とも思わない。わたしは人殺しや暗躍に憧れているんじゃなくて、彼の隣で特別な日常を送れたらそれで良かったから。
「いつ帰ってくるの?」
「明日、多分夕方には戻れると思うわ」
「そっか。がんばってね」
今日で冬は終わり、明日からは三月だ。時の流れを感じる度煩わしい感情になっていたのに、今は晴れ晴れと受け入れられる。
彼は真人間の感情を与えてくれた。
このままずっと過ごしていくのだと思う。わたしは大人になって、そのうち旅行に行くんだ。生きることに息継ぎを済ませてから、それからわたしは、本気で彼に想いを伝える。
多分いつか、崩壊してしまう生き方だ。そのことは分かっている。
分かっているつもりだった。いつかそうなるとだけ理解していて、実のところ『その時』は望めば来ないとでも思っていた。
わたしが大人になるまで待ってくれると、溜め息つくほど無根拠に信じていられた。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫だって、死んでも死なねえよ」
「オーヴァードこわ~」
幸せに耄碌して、そのぎこちない笑顔に気が付かなかった。
気が付かないまま、翌日になる。
わたしは無我夢中で走った。白い髪の女から逃げおおせて、カフェの入口に到達する。《ワーディング》は張られているようだけど、気配が違う。黒い髪の女とは別の《ワーディング》だ。
嫌な予感がする。奴らの増援だろうか。
わたしたちの居場所がバラバラに崩れて、内装は一見してもよく分からない。
やけに静かだ。
瓦礫の重なっていない隙間から店内を覗き見る。
幅の大きな黒いズボンが立っていた。
「甲斐くん……?」
踏み込んだ足場が不自然に、不愉快に柔らかかった。
気の抜けたスニーカーが踏んでいたのは――見覚えのある手。
わたしの頭を撫でた手。
しらない人を殺した手。
わたしの手を握った手。
しらない首を絞めた手。
出葉甲斐の腕が、無遠慮なわたしに踏みつけられて、在る。
断面から肉が顔を出した。
恐る恐る、その男を見上げる。
甲斐君が激しい戦いの中『見るな』勝った直後なのだと『見るな』そう信じたかった。
『見るな』
縋らずにはいられない見ずには――いられない。
その男は茶髪じゃなくて白髪だった。
黒目じゃなくて赤目だった。
隻腕じゃなくて獣腕だった。
生きていた。
男の背後に、男の上半身が落ちている。
黒目が明後日を見ている。
腕が一本もげている。
臓物がなだれてる。
生きてない。
再生しない。
白髪の男は誰かを貫いていた。黒髪の女を、獣の腕で刺し貫いている。
力なく傾げた女の首はいっこうに動かない。
生きているのは、足が汚れたわたしと。慟哭を吠える、血まみれの男だけ。
「どうして――――」
答えは足元に落ちている。
次回『日輪没落』