入学してからしばらく――部活もやらず付き合いの悪いわたしには友達もあんまりいなかった、理解者になるような同級生なんか一切。
でも、その日からは少しだけ、あの人以外にも信じられるのだと思えたような気がした。
「
「……うん」
彼は
野蛮な物言い、行事も勉強も兎角適当。でもわたしも真面目じゃないから、彼のそういうところはあまり気にならない。
気にも留めないから、いつもならすぐに会話を終わらせて去っていただろうに。
「桑野君はなんですぐ帰るの」
「俺? 俺は――あー、バイト、的な?」
「そんなところも適当なんだね」
わたしはくすりと笑う。いつぶりだろうか、あの人の前でもないのに気の抜けた笑みを浮かべたのは。
「ところもってなんだ。俺はいっつも真面目だぞ」
「そういうとこが不真面目なんだよー。……じゃあね」
「おー」
わたしにとって重要な人物ではない。でも、つまらない表の世界でつまらない感情を分け合えるのだと知った時は、思いの外心が軽くなった。
――――――――――
平日の昼前、駅や商店街から離れた街中の人通りは乏しく、その二人は些か目立ち気味だった。
一人は綿のように柔らかな白髪を携えた水色の瞳の女性、
「ふぅ……」
彼女は息を漏らして任務の内容を反芻していた。表情一つ変えずに行なうものだから、日鷹を知らない者には不機嫌そうに溜め息をついただけのようにも見える。
現状彼女を最もよく知る人物は隣にいる。カラスのようにしなやかな黒髪の、赤い瞳をした女性、
無機質な表情と凝り固まった言葉使いが常の日鷹は、彼女の持つ種々雑多な才能も相まって、凡人を隔絶する冷血な仕事人というイメージを与えやすい。事実、その冷静さを用いて時に非情な判断をくだすこともある。そこを合理的と言い換えてもなんら差し支えはない。
だが、自分の才能に陶酔した傲慢な人物ではないことを、鹿倉は良く知っている。
万能の天才と言えど、万全はいつだって遠くにある。こういった多くのバックアップを受けない小規模の任務こそ、責任感に肩身が狭まるのも日鷹の人間性だ。
「
「はい。情報通り、彼は依頼を受けフリーのオーヴァードと交戦。帰還している最中なのも確認しています」
想定通りの答えを聞いて小気味よく頷く鹿倉。
気遣いも露骨であれば、逆に相手へプレッシャーを与えてしまう結果を招くが、こと日鷹に対してそれを心配するのは杞憂と言わざるを得ない。武術勉学を修め推察に優れた才人も、人の機微に疎いという致命的な弱点がある。自分が気を遣われていると気付くのは、余程たわいない時間にそこそこの確率で、だ。
緊張がほぐれていくのを傍目見て、鹿倉も上着を伸ばして直す。
二人はどちらもフォーマルなスーツで、下には白シャツを着用している。鹿倉は上着のボタンを外しているが、そうした些細な違いしか見て取れない程似ている格好だ。
オフィスなら見栄えがあるスマートさも今はやや浮いている。さもなくば商談や営業と言った活動を連想する仕事人な装いだが、ビジネスガールに擬態するような意図は二人にとってなく、私服の延長線に他ならない。
私服の延長線と言いつつ、やはり遊びというわけでもなかった。
「民間人はあたしの《ワーディング》で省くとして、省けないような誰かさんが居たらどうしましょうかね」
「方針は変わらないでしょう。保護を最優先、もし敵対するなら対象と同じく制圧します」
静かに言い放つ日鷹と、小刻みに頷く鹿倉。
彼女らは現在、FHイリーガルと
その人物は出葉甲斐。喫茶『鳥の巣』の店主にして、FHからの依頼で動く暗殺者。
依頼を受けるセルに傾向があるのか、殺害対象は既に裏社会と関わりのある人物、またはそういった人物の血縁である場合が多い。総じて後ろ暗い背景を持つ人物が殺害対象であり、その点はUGNとしても利用出来る側面がある。あるのだが、奪われる命を餞別する程、任務に当たる二人は
見方を変えれば堪忍袋が耐えかねたと言ってもいい。とにかく、目を瞑るわけにもいかなくなった。
『鳥の巣』は住宅の群れに突如現れる形で建っている。日鷹が「ここです」と足を止めた時、一瞬どういう脈絡なのか鹿倉が困惑するくらい、溶け込むように建物があった。
アクセスが不十分で目立ちにくい立地は、UGNの作戦拠点と置き換えて考えてみてもなかなかの好立地と言えた。
調べの通り既に開店している。
スーツ二人、アンパン片手に張り込みと洒落込むのも悪くはないと鹿倉の提案。
しかし、店内の状況が分からないことにはどの程度力を使えたものか分からない。知らべた情報によると、店主……出葉以外にもう一人従業員がいることからも、実際に入店して様子を伺うべきだという日鷹の意見に着地した。
基本的に作戦立案は日鷹の役だが、作戦メンバーの全員が納得するよう発言を重ねるのを彼女は重要視している。自分の独断は少し、他人から反感を買いやすいようなのだと……彼女には実体験があった。
そうして二人が一致していたのは、場合によってはこの日を様子見で済ませ、次に備えようという方針だ。緊急性の高い案件ではないのなら、誰一人犠牲者を出さないよう地固めをするのだと。
逆に、蛇で済まない藪を突いた場合でも撤退。UGNのバックアップ――或いは拠点に居る強力なアタッカーの協力を要請する腹積もりで二人はドアを開けた。
――――――――――
入学してからしばらく――部活もやらず付き合いも悪い俺には友人もそんなにいなかった。一般的な同級生とは到底分かり合える気もしない。
けど、あの日からは少しだけ、興味を持っていい奴もいると気付いた。
「次体育だろ、サボろうぜ」
奴は飛鳥井
適当な言動。どんなことも消極的。けど俺も似たようなものだし、むしろ共通点として親しみやすさに変換される。
いつの間にか、たまに昼飯を一緒に食べる仲くらいまでにはなった。
「わたし授業は真面目に受けるから。巻き込まないでー」
「俺も大真面目だよ。ほら、俺が本気出したら……全てを終わらしちまうからな」
「きつ~」
「んだとこら」
俺の人生において重要な役回りじゃないのかもしれない。でも、つまらない表の世界でつまらない感情を分かち合える相手は、結構救いだった。
――――――――――
気安いドアベルの音はレトロチックな響きで、ステレオな喫茶店を彷彿とさせる。
店内は広くも狭くもない。部活の打ち上げでこの場を使えば、半ば貸し切りの状態は避けられなさそうだ。
店の外からでも見えていた窓沿いのボックス席が幾つか、奥に進めばそうでないものもある。カウンター席はキッチンの正面で、六席分椅子が並んでいた。
店員は一人、パステル風味の桃色髪を揺らした小柄な女性だ。小柄というか、女性というか、年齢相応の背丈と風貌をしていると説明するのが最も店員に即した言葉選びだろう。
「……いらっしゃいませ~」
鹿倉が進み、日鷹が追う形でカウンター席に腰を掛けた。無論隣接している。
二人は大きな反応を見せない。現状では日鷹の想定を全く外れていないからだ。
店員は前情報通り、数駅隣の市立高校に通う女子高生で喫茶『鳥の巣』の店員、飛鳥井萌花とまるきり一致。
彼女はずんだ色の大きな瞳を一瞬不審げに細めた後、今日初めての客である二人を歓迎した。そのような対応も想定の内に入っている。
出された水に手を付ける鹿倉、罠を仕込まれている可能性は一切考えていない。
肘先をテーブルの縁において両手を組むと、白髪の女性はチラりと鹿倉を見やる。日鷹はこういった場面では率先して話さないように心がけている。人見知り――というものないではないが、彼女はどうにも、本当を言っても嘘を言っても信じられない傾向にあった。どう舵を切っても不信なら、いっそ口を閉ざしている方が清々しい。
不自然な間を作らず、人懐っこい声が黒髪の女性から発せられる。
「ここのオススメってなんですかぁ?」
「今ならモーニングセットですねー」
擦りつく野良猫のような屈託のない間延びと、食傷しそうな甘ったるい間延び。双方の語尾にもここまでニュアンスが変わるものなのだと、日鷹は内心で関心を抱く。
ちゃっかり自分の分も頼む鹿倉に小さく息を吐くが、恐らく耳に入ってないだろう。
手慣れた様子でキッチンの道具を操る少女を見るに、店員が工作の一環である可能性は低いように思えた。実際にここの店員として働いているのは間違いないのだろうが、それで潔白が証明されるわけでもない。二人にしてみれば白よりのグレーという所感だが、ここからどう傾くかは未知数だ。
一方で飛鳥井萌花。彼女も一方的に試される立場ではない。
たまたま主が不在の昼前にやってきたスーツの二人。少し早い昼休憩だとして……この辺りにこうしたスーツの職員が働いているような職場は思い当たらない。この地にやってきたのは何か目的があると考えられる、その目的を絞ることは叶わないが、警戒するに越したことはない。スーツ姿の二人はまるで警察官のようで、後ろめたさがある萌花にとって恐怖の対象ですらある。
「小さいのに一人で! すごいねーっ」
ほら来た。萌花は内心で呟く。
表情を見せないように背を向けて――というのこそ建前で、実際料理中はカウンターに顔向けできない時間がある。今がその時間だという幸運に感謝しながら、萌花は細々とした綱を渡る覚悟を決めた。
「流石に一人で経営はできないですよぉ、わたし未だ学生なので。ここの店主とは元々知り合いだったんです」
店主との繋がりは調べたらすぐに浮き出てくる。ここを偽るリスクは目先のリターンより遥かに大きい。
そして、会話をあからさまな詮索にしてしまわぬよう相槌で済ませる鹿倉。日鷹への相談事も、何が相手の耳に入るか分からない。これは思った以上に簡単じゃなさそうだと、彼女は意識の緒を強く絞めた。
《シークレットトーク》を使った会話なら非オーヴァードに傍受されることなく日鷹と会話ができるが、テレパシーではなくあくまで会話、萌花がオーヴァードなら一発アウト。目の前で密談をする相手を信じる要素はあまりに乏しい。やむなくアイコンタクトで互いの調子を図っていく。
「あー、それは知ってるよ。あたしその店主さんと知り合いだもん」
「……」
「へえっ、そうなんですかぁ」
随分思い切った設定にするものだと思う。相方の豪胆なやり方に眉を上げる日鷹だが、これで援護を出来なくなった。事の運びは相棒に任せ、自分はひたすら飛鳥井萌花を解釈していこうと彼女は心を決める。
「そうそう。出葉さんでしょ? ……仕事仲間なんですよー」
萌花の素性が伏せられているとして――二人には情報の核心がある。出葉甲斐がFHイリーガルという前提を軸に話を進めていけば、萌花の持つ情報と矛盾を起こさずに出葉周辺の情報を詰めるだろうと判断した。
何が起ころうと軽率と咎めるのは惜しい。萌花を出来る限りで擁護するための探りであり、この場で情報を集めないのはそれこそ怠慢である。
この場合、萌花が持つ危険への嗅覚が鋭かっただけだ。
「仕事仲間……残念ながら、今日一日は留守にしてますよー」
「あらー、そりゃ残念――」
顔色変えない日鷹も内心で妙に思う。確かに出葉が任務を終えたという情報はあった。
情報が間違っていたのか、それともブラフか。どっちにせよ派手に動くことは出来ない、今の二人に行動する余地はなかった。
一方萌花も、穏やかな心中とは言えない。
「……」
料理をしている最中、彼女はテーブルの下で密かに端末を操作している。簡単な操作で済ませつつ、即座に出葉へ危険信号を送っていた。思い過ごしだろうと、ひとまずこの場を何事もなく凌ぐのが第一だと萌花は考えている。
長期的にみればほんのささやかな抵抗だが、萌花は何より状況の崩壊を恐れる。いつか破綻する出葉との関係も、出来る限り長引かせようとあがき続けるのが彼女の行動指針だ。
これが最後の餞別だと、そんな思いで料理を二人に差し出す――。
軽快なドアベルが、重たい空気を掻き分け響く。
三人が思わず目線をやった先に立っていたのは、ニットキャップをトレードマークにした男性。本来現れないはずの男店主。
「甲斐君……!?」
「あーら? お話と違うようですねえ」
半ば睨みつけるように日鷹が見つめる。男の纏う空気が異常だ。無自覚ながらもウロボロスシンドローム……レネゲイドを喰らう者が直感する。
彼のレネゲイドウィルスが暴力的に活性化していると。
「なにやら様子が……」
店主が手ぶらで店頭からやってくる――従業員用の裏口がある『鳥の巣』では今まで見られない行動。日鷹とはまた違った理由から、萌花も危機を察知する。つつがない足取りでキッチンから出る萌花は、そのまま足早に出葉へ駆け寄る。
それを制止する為伸ばされかけていた日鷹の手が、ピタりと止まる。幾度となく言葉が届かない過去を持つ彼女――もう人災は懲り懲りだった。無念にもここに来てフラッシュバックする、誰にも届かない声。
過去に絡め取られた日鷹の腕が――千切れ飛ぶ。
「――ッ!」
「離れな萌花ちゃん!」
叫んで右腕を振りかぶるのは鹿倉穂波。カウンターと入口では本来、腕を伸ばしてもまるで届かない距離が開いているが、その程度の弊害では彼女の能力を妨げる要因にはならない。
イレギュラーブリード――《獣魔の巣》が出葉を容赦なく狩り取る。
「ちょっ……!」
その算段で繰り出した、猛々しく成長する鹿倉の右腕が接触直前で出葉の側面へ逸れる。
入口脇の壁が大きな音を立てて破壊される。出葉甲斐が攻撃を逸らす能力を持っていたのではない、鹿倉が、自分の意思で攻撃を放棄したのだ。
観念した獣腕の女が続けざまに《ワーディング》を展開。一般人を妨げる結界、特に彼女のワーディングは一般人を近付けない精神干渉に傾倒している。
そのうえで、出葉の前に立つ少女は健在。
飛鳥井萌花が明確に、オーヴァードとしてFHイリーガルへの協力を示した瞬間だった。
「大丈夫……? 甲斐君」
「――」
口を開かない男に一抹の不安は覚えるが、しかし萌花にとって優先順位が高いのはスーツの女二人。戦闘力のない自分の能力でどれだけ撃退の手助けが出来るかだ。
生き物の腕を節操なく繋ぎ止めたような右腕をした黒髪のスーツは、鞭を手元に戻すようにして地面に腕を這いずらせる。一方片腕が千切れた白髪のスーツだが、既に再生を果たしており戦意ある瞳で出葉と萌花を見つめている。
今でも敵として見ていないのが、眼差しからありありと感じてしまうが――少女は気付かないフリをする。むしろ、それは無言の拒絶として発しているようなものだった。
「逃げよ、甲斐君」
「――――」
男が萌花を見下ろす。生気のない、絶望すら通り越した虚無の目がそこにあった。
萌花ですら、恐ろしくないと言えば嘘になる。なにもかも攫い尽くしそうな虚数に見つめられて、思わず顔が引きつる。
そこには心配も含まれた。いよいよ様子がおかしい想い人への。
「血――」
「え?」
その単語を聞いてようやく、萌花は自分の頬に触った。チクりと痛み、仄かに熱を感じる。
鹿倉が壁を破壊した時、カマイタチが頬を切ったのだろうと思う。言われて気付くほど軽微な掠り傷で、わざわざ敵の前で気にするようなものではないのだが、と少女は思った。
――理性を喪失した男にとって、かつての楔が血を流しているというのは、暴力衝動の言い訳として十全過ぎた。
出葉が手刀を振りかぶる。それを振り下ろすのなら萌花にだって当たるだろう攻撃準備だ、もし仲間ならそうはしないと大抵の人物が思う。
だがUGN二人は違う。
既に――その男に分別はないと確信していた。
「頼んだよ、美咲」
「こちらこそ、彼はお任せします」
「――――ッ!」
大きく空間を切り裂いた手の側面には光が宿っている。日鷹の腕を貫き両断した煌々とした陽光が。
それが萌花の頭上で動き始めた時、日鷹が即座に突撃する。
《雲散霧消》
走りながら、一度掌を合わせて軽快な音を響かせる。
拍手の音に呼び覚まされた出葉周辺の影は空中へ素早く昇り、高波のように顕在化した闇が手刀に宿った光を攫った。
それから男が次のアクションへ移るより先に、日鷹は再び萌花へ腕を伸ばした。今度は強固な意志をもって、彼女を保護する為に。
「……っ! 放して!」
「すみません。貴女をこの場から保護します!」
横を駆け抜けようとする日鷹に許しを与えず、今度は手の形を筒のようにして、槍のように象られた光を握り込む。そして寸分の躊躇いなく――日鷹へ突き刺した。
声を一切漏らさず、振り返りもしない。萌花は腕を引いていたので、貫かれても彼女が被害を被ることはない。その偶然に感謝して、日鷹は力いっぱい男を蹴り飛ばす。
街の外に出れば被害は計り知れない。萌花を追ってきてしまうかもしれない。それらを危惧して、彼女は相棒に撃退を任せた。
致命打には到底及ばない蹴りだが、バトンタッチには充分。人の身に住まう獣の群れが、一斉に涎を垂らす。
「女の子たぶらかしてジャーム化って……あんた救えないね」
「――」
獣でありながらケダモノではない、この場たった一つの理性が、最大の侮蔑を持ってして睨みつける。
その多大な感情を一滴も通さない骸めいた男の感情は、その身に余る殺意を解き放つ――
――――――――――
携帯には『今日は来なくていい』と、彼からのメッセージ。でも家にすぐ帰るのは嫌だった。
わたしの家はずっとゆるやかに死んでいる。薄汚れた空気で、彩度の低い日常がループしている。時折どす黒くなることもあれば、虚飾めいた色彩で無理矢理に笑顔を招こうとする、おぞましさすら覚える家。
だから、教室で一人待っているのも、都合がよかっただけ。
隣の席に置いてある荷物を、待ちぼうけにさせないであげてるのも、間がよかっただけ。
「……」
家に帰りたくない。でも、メッセージがなかったら今日あの人の店に行ったかどうか、分からない。
窓を覗いてみると辛気臭いわたしの表情が反射した。目元から少し外にズレた辺りが、赤く熱を帯びている。触れば痛みが走るけど、今は、この痛みに弱音を吐きたくはなかった。
――――――――――
万が一見られてしまえば誤解を生み、その隙があれば萌花は手元から離れる。彼女を今手放すのは状況を作った者として責任の放棄と同義だった。
故に道を路地に限定して、彼女の身体を抱えて走る。
「離してっ!」
「聞いてください。彼は不可逆的に理性を失っています」
腕の中で少女が暴れるが、エージェントとして鍛えあげた彼女が高校一年生の女子に押し負ける道理はない。路地に点在する鋭利な障害物へ萌花をぶつけないよう気を配りながら、状況の説明をする。
ジャームである出葉に味方したのが、ただの無知だと誤解したまま。
「貴方にも危害を加える殺戮者が今の出葉甲斐。彼と共に居たら、いずれUGNが貴方を協力者として判断し、敵対してしまいます。いえ、そもそも彼と――」
「そんなのどうだっていい!」
強く拒絶する萌花の目には涙が浮かんでいる。そこに並々ならない意志を感じ取り、日鷹は困惑を隠しきれない。
どんなに大切な人でも、豹変して自分のことを殺しにかかるのは辛いだろう。そもそも、変貌してしまった大切な人を直視するのが苦しいだろう。だというのに未だ彼への想いを無謀にも諦めずにいる彼女のことが、日鷹には理解が出来ない。
自分の言葉が信用できないのだとすら思う。
「っ? ですから、貴女の命が危険なんです」
「彼と一緒にいれればそれでいいの。あの人が死ぬなら死んでもいい! 殺したいなら、殺されたっていい! だから、だから離して!」
ジャームに想いは通用しない。そもそも彼らの間からジャームという言葉は一度も出てこなかったのかもしれない。故にレネゲイドの真実を知らない出葉はジャームへ堕してしまったのだろうか、そう日鷹は考える。
もっと早く接触出来ていれば二人の運命を変えられただろうか。今日の目的をもっと丁寧に推敲していれば、少女は悲劇に溺れることはなかったのだろうか。
不甲斐なさが足を取り、悔悟が腕を緩ませる。
異形を身に宿した少女はその隙を見逃さず、力を暴発させた。
「なっ……」
「! ……っ」
エグザイルシンドロームの身体変形を用いて抱擁を逃れることは、言うなればザルを流れる清水のように妥当な絵面だった。力を使いこなせていないという日鷹の判断は正確だったが、少女にはここぞという場面に適性があったということだ。
来た道を引き返す少女を、ワンテンポ遅れて追い駆ける。
「待ちなさい!」
どんなに人と共感出来ていなくても、仁義を抱いて人を助ける日鷹の振舞いに嘘偽りはない。
助けるという意味に齟齬があっても、そこに罪も悪意も介在してはいない。
――――――――――
腫れた頬をさすりながら、ずかずかと廊下を進んでいく。
確かにアイツはお高く留まっているように見えるし、事実人を見下しているような一面もある。でもそれがなんだ、マセた高一がちょっと調子に乗ってる程度だろ。
……どんなやり取りがあっても、年上の男に殴られて良い奴じゃない。
「人殴ったんなら殴り返されても文句言うなよ」
年上のガキに、クソ教師。はらわたが煮えくり返る勢いだが、教室に荷物を取りにいかにゃならない。
閑散とした夕暮れの校舎で好きに悪態をついてせいぜい紛らわす。
「あぁ……クソ、クソが!」
「うるさいなぁ」
蹴り開けた教室、背もたれに傾けた身体で振り返るのは。
「飛鳥井? なんで残ってんだよ」
「別に。……たまたま用事なかったから」
「ふぅん?」
まぁ、叱られる理由としては上々か。なんて、随分チョロいような気はする。
……見ていられなかった。先輩に嫌がらせを受けてもどうでもいいと思えてしまう冷めきった目がとてつもなく嫌だった。そんな顔を見続けてしまうと、自分も希望を見失いそうだと思えた。
だから、腫れぼったい間抜けな面を見せ合って笑える間は、良いことが起きてくれると根拠もなく信じられた。
信じてみる気にさせてくれた。
――――――――――
大きく増長した腕ではなく、こじんまりとした規模の獣腕を振り回して、辛くも抵抗する鹿倉穂波。
対するは力の制御を外した――元々掛けていたか定かではないが、無制限に力を使い尽くす出葉甲斐。
鋭利な質量を持つ光を操りながらも、自身は隠形の術を巧みに行使して死角から強襲する。暗殺者然とした能力に歯止めの効かないレネゲイドの出力が相乗して、狭い店内では無類の強さを誇っていた。
そうしているうちにも、光の矢が鹿倉の喉笛を精確に抉り裂く。
「チィ、これで何度目だーっ?」
オーヴァードは不死の超人ではない。死に続ければ必ず終着点がある。
彼女の終着点が既に傍らにあることを、彼女自身自覚し始めていた。
外に出て建物度外視の戦法を取れば、幾分は上手く事が運ぶようにも思う。だが、外で俊敏なエンジェルハィロゥを相手にするのは逃がすリスクを大きく伴う。それに、自分の右腕を街中で振り回せばどんな被害が出るか分からない。無差別な破壊をよしとするのはジャームとなんら変わらないだろう。
「伊達に今まで尻尾出してなかったってわけ……」
入口付近で往生し、男の隠密をどうにか掻い潜って爪牙を振るう。
ここで右腕に大きな手応えがあった。出葉の腕が乱回転して地面に落ちる。
それと引き換えに、鹿倉はまた一つ命を落としたが。
終着点――或いは臨界点とも言い換えられるそれは、既に程近い。
だが彼女は想起する。自らの首に巻き付いた、日常と理性を兼ね備えた鎖を。回帰すべき者の声を。
致命的な確信を得られるまでは、キュマイラが持つ基本技能の獣腕でどうにか耐え忍ぶことを選ぶ。力をセーブする度住まう力が増長を促したとしても、力に欲をかくことは絶対にしない。鹿倉が己に課した鉄則だ。
幸いにも、彼女はそうして日常を掴み取っている。
限界を超え、鹿倉の身体が突き動かされる。
「ここで応えらんなきゃ、相棒とも師匠とも名乗れねえんですよ」
矜持と使命、加えて日常。護るものの多さに思わず嘆息し、顔が綻ぶ。
今は帰る場所がある。
これが終われば、自分は可愛い弟子の誕生日を祝いにいって、それから勝ち取った居場所で暖かな日常を過ごす。戯言ではなく事実待ち受ける未来を掴むため、またも右腕に力を込めた――
――――――――――
あの時怒ってくれた彼は、とても眩しかった。
――――――――――
着実に『鳥の巣』へ距離を縮める飛鳥井萌花。ここに来てバロールシンドロームの力すら自分の物にし、本来拮抗する隙すらない文武両道との距離を保つ。帰巣本能と揶揄してしまうには、あまりに悲壮な逃走劇だ。
ノイマンシンドロームも卓越しなければ、或いは思考の猶予がなければ超常に後手を取ってしまう。日鷹の持つもう一つの力は、彼女らが生きる時代では未だ未発見の代物。研究は進んですらいない。
それでもレネゲイドコントロールの範疇で攻撃姿勢を取れたが――未だ、萌花は護る対象である。
「今あなたが行っても、彼の力にはなれません!」
真実が萌花の胸を貫く。されど、その程度の痛みで足が縺れることはない。
この道を進む――進み切る覚悟は既に済ませている。
今はただ、がむしゃらに実行するだけ。
「うるさい! ――私達は、正しさなんて要らないの!」
純朴さが日鷹の胸を揺るがす。
されど、その感情に譲ってしまえる程、彼女の済ませた決意は浅くない。
悪の道と知って尚縋る少女の姿は間違いばかりだった。それでも、混沌とした帰るべき場所に押し込むことは間違っていないのか。
少女の肩に乗せるには、道を誤った責任は重く、多すぎる。
飛鳥井萌花は元より悪に正しさを見出したことは一度としてない。素朴な光に目を惹かれ、今も団欒を信じてやまない無害な少女である。
否。悪に正しさを見出さずとも、悪を間違いだと言えなかった点に彼女の罪はある。
だからこそ出葉甲斐はその罰を受け、萌花もまた、愚かな若さのツケを払っている最中だ。
そのことは分かっている。自分達は間違っていたこと、善を背いた罪を理解している。
そんなこと、あの雪の日からずっと分かっている。
分かっていて、覚悟も済ませていた。だから今だけは、彼へ手を伸ばさなければ――彼女の全てが無意義にして無意味なものへ堕ちてしまう。
「悪のツケを払う時が来たなら、彼一人には背負わせない……っ!」
彼女の誤りはただ一つ。初めの道を間違えたことだけ。その道を進むにおいて――誤りはない。
対称的に、日鷹の魂は清廉すぎる。未だ手を汚したことはなく、正義の正しさを信じていられる程に潔白。
突き進む純白の決意をもってして、少女との距離はあと僅か。
覚悟が決意に劣ったのではない。積み重ねた月日の問題である。
であれば、ほんの僅かな距離を埋めることが叶わなかったのは――日鷹を凌駕する月日の、汚れ切った魂が介入したからだろう。
「っ!?」
「なっ――」
萌花の前方に立ったその老人は、一瞬にして自分と萌花の位置を入れ替える。思わず振り返る少女だが――これ幸いと駆け出した。その距離を埋める術は、日鷹にない。
その日鷹に立ちふさがるのは、紅の瞳を険しく細めた獅子倉。今回の任務にも、出葉達にも一切関係がない人物。
「いかせてやれ」
「ですが……!」
唯一関係があるのは、帰る場所が同じという――素朴な結び付きだけ。それも、幾年重ねた仲でもなく、つい数ヶ月出会った関係。
それだけだが、関与する資格に足る。
帰る場所という共通点は、この件に関与した全ての人物が言い知れぬ程かけがえのない宝だった。
「お前さんの言った通りだ。お嬢ちゃんはなんにもならん。駒ですらなかろうよ」
今追っても意味がない――日鷹は、老年の覇者に耳を貸す。
「ならせめて、区切りをつけさせてやれ。目先が全ての青臭い子供と、出来事が全てのつまんねえ大人、どうしてそれが同じ目線でいられんだ」
言葉は重く圧し掛かる。
正しさに準じてきたのが間違いとは今もって思わない。
だが、自分は一度として同じ目線に立とうとしただろうか。
投げかける言葉、掴んだ腕、全て正しさで操ろうとしていただけなのではないか。
後悔にも似た疑念が、たちまち日鷹の胸に蔓延る。
最早それでは、正しさの支配だ――
「……穂波は」
止まりそうな思考を辛うじて動かす為に、背中を預けた相棒を思う。
少女の保護すらままならないような不甲斐ない自分が、心配している暇はあるのかどうか。
口ではこういっても、鹿倉穂波の実力を誰より知っている。心配なんて無意味だとも思う。
「――小僧に行かせた。だが、なぁ」
心配なんて無意味。その言葉が、日鷹の中でまるきり反転した。
その
日鷹は走る。言い淀んだ獅子倉の言葉を一切待たずに横切って、久しく感じる黒い不安から逃げるように。
「ほらの。入れ込んでる奴が虎穴におるなら、確かめるしかないだろうが」
――――――――――
あの時待ってくれた彼女は、とても眩しかった。
――――――――――
月が砕け――陽が堕ちる。
残されたのは歪なケモノと歪なヒトだけ。
混迷がやがて定まり、慟哭がやがて収まる。
ケモノは冷えた身体から腕を抜き、乱暴に落ちた死体を見下した。
糸の切れた人形は酷く虚しく、手に張り付いた赤黒い血液も、最早何も感じない。
「なにがあったの。なんでここにいるの? 彼を――どうしたの」
声という声を吐き出し尽くして、感情という感情を溢れ尽くして、がらんどうの瞳は、同級生の少女を写す。
擦り切れたボロ布のように、みすぼらしい声が空気に混ざる。
「飛鳥井――――ごめん、な……」
「――っなんで謝るの!?」
息を切らしてきた少女は、かろうじて少年に歩み寄る。
想い人が堕ちて、運命に攫われて、真実を知って。それでも持ちこたえた彼女の感情が――決壊する。
「ふざけないでよ、ふざけないでよ……!
謝るくらいなら関わってこないで
彼を殺すならわたしも殺して
何もかも壊すなら――わたしだって、壊してよ……!」
赤く濁った少年に、応える程の感情はない。
「じゃあ、もう……お前が殺せよ――」
「――ッ!」
目尻に熱いものを覚えながら、少女が掴みかかる。力なく倒された少年は、ひしゃけた木の板に身を切り裂かれた。そんな些細な感覚を拾い上げられる機能は枯れてしまっているが。
少女はその細腕で、少し前まではフライパンを持っていた白い腕で、少年の首に力を込める。
「なんであの人も死んでるの……わたしは何に怒ればいいの、何に謝ればいいの、何を赦したらいいのっ!?」
意識は幾ら遠のいても、オーヴァードは死から感染者を遠ざける。
死を超え続けるよりも、少女の手が根を上げる方が早かった。
沈みに沈んだ意識で少年は声を反芻する。そのどれもが壁へ投げるように無為なものだった。でもただ一つ、自分の起源と同調する感情を、少女から分け与えられた。
深海に眠ることを許さなかったのは少年自身。責に潰されそうになっている今ですら、少女の『怒り』を――彼は守りたかった。
それだけは、正しく生きる為の一歩になり得ると信じたかった。
『あたしの覚醒理由?
「あの、男は――俺、が……殺したんだ」
「――な」
木の板が割られる音が入口で鳴る。ドアベルの機能しない今、やってきた者を知らせる唯一の音だった。
「桑野さん――!」
「あ……ごめん、俺、師匠を……」
青白い顔のまま意識を手放す少年。
手の中で眠りに落ちた彼を見て、途方に暮れる少女。
「――穂波」
赤黒く染まった少年、そして親友の姿。
責任者、日鷹美咲は――二人を連れてこの場を去る。
死者二名で幕を下ろした戦いも、後処理は長く続いていく。
壊れた日常の破片となった生者を率いて続いていく。
後日談があと一話続きます。