アリウス自治区——法的根拠はないが、アリウス生はみなそう自称している——では、少し前から雨が降っていた。アリウスの学生といえど、カタコンベに常時いるわけではなく、休息、つまり、教練と教練の間の時間は地上のバラックで生活している者が多かった。
多少地位が高いとはいえ、スクワッドもその例に漏れない。サオリとミサキは配給の食料と弾薬を受け取って、拠点にしているバラックに戻るところだった。食料も弾薬もケースに入っているとはいえ、雨に濡れるのは避けたかったサオリは、今日ばかりはミサキを連れてきたことを内心で自賛した。支給品のレインコートをかぶって、2人でそれぞれ荷物を抱えて歩いていると、ミサキが口を開いた。
「……リーダー。それで、聖園ミカはどうなの? あいつは信用できるの?」
いつも通り、ミサキはぶっきらぼうだ。聖園ミカと聞いて、サオリの脳裡に少し前に対立した際の違和感が過った。あのとてつもなく強大な存在感はなんだったのだろうか。
「さあな。……少なくとも、連絡はつくようになったし、シャーレの先生やトリニティ内部の情報を流してきてはいる。信用はこれからだろうな」
サオリはそれをミサキに伝えるか迷って、伝えなかった。ほんの一瞬のことだったが、ミサキには気取られたらしい。
「マダムはともかく。私たちにも、言えないこと?」
マダムには、結局ごく簡単な報告しかしていない。ミカが対立したかに見えたのは誤解で、これからもこちらの思惑に従うようだ……とか、その程度だ。マダムも、少なくとも今はアツコにご執心なせいか、ミカに対する興味はそれほど高くないようだった。
サオリは目を閉じ、立ち止まった。一歩遅れて、ミサキも立ち止まって振り返った。
雨がレインコートを叩く音がやけに大きく聞こえる。
先に根負けしたのはミサキだった。サオリは普段、果断さをもってリーダーシップを発揮しており、これほど思い悩むのは珍しかった。
「……まあ、リーダーの判断に従うよ。だけど、気になることがあるなら知らせてよね」
ミサキは元に戻って歩き始めた。サオリはしばらく立ち止まっていたが、ようやく口を開いた。雨音に負けて消えてしまいそうな小さな声だったが、ミサキには十分だった。
「……聖園ミカは、」
ミサキが振り返ると、サオリと目が合った。
「聖園ミカは、恐ろしく強い」
「? だから
「いや……私たちよりも、遥かに強い。私たちが束になっても敵わない」
深刻な表情で、弱気な本音を吐露するサオリを初めて見たミサキは困惑して、二の句を継げずにいた。
「あの時、聖園ミカと対面して……、私は初めて、自分が赤子のようだと思った。あの女が本気になれば、おそらくスクワッドは……、アリウスはひとたまりもない」
「全然、そんな感じはしなかったけど……」
ミサキが思い出すのはミカが苦笑いしながら、そして少しだけ不満を見せながら、手荷物の焼き菓子を地面に置いてのろのろと下がる様子だった。その後カタコンベに向かう際はヒヨリと共に先導していたので様子を見てはいない。
あるいはその前……ミカが初めてアリウスに接触を図ってきた時の様子からも、サオリが警戒、いや、恐怖するほどの圧力は感じていなかった。
「聖園ミカが、初めてこちらに接触してきた時のことを覚えているか? 呑気で、間抜けで……いかにも馬鹿な箱入りお姫様という雰囲気だった」
奇しくも、サオリとミサキは同じ時のことを思い返していた。トリニティとして、アリウスと和解したい、そう言って単身でアリウス自治区に乗り込んできたミカのことを。
「あの時私は、こいつとは一対一で互角くらいだろう、と思った。つまり、スクワッド全員で当たれば問題なく対処可能だろうとな。その後アズサが抜けたが、それでも十分勝てる相手だった」
いつしかサオリは俯いていた。視線の先はぬかるんだ地面だ。アリウス自治区内のほとんどの箇所は舗装されていないか、ひび割れてかつての舗装の痕跡が残るばかりである。建物の瓦礫のそばでは、名も知れぬ草が雨を受けてしおれている。
「聖園ミカが、力を効果的に見せたり隠したりするのが得意なタイプだとは到底思えない。ここ一月ほどの間で急速に力を増したと考えるべきだ」
サオリは、スクワッドのメンバー全員を教練した教官でもある。威圧やある種の力の誇示などによって相手を制圧する方法もあることを知っている。本能に近い部分で「勝てない」と思わせるのは、とても効果的な制圧手段である。サオリの知らぬことだが、ミカはエーテルに感応したことでエーテル操作という形でこの威圧を習得していた。
「そんなこと、あるの?」
「さあな。何か吹っ切れて、考え方が変わったのかもしれん。あの女が警戒していたのはこちらの裏切りだった」
「裏切りって……まだ聖園ミカはトリニティとアリウスの融和を考えてるんでしょ?」
「そうだ。だから我々は、
話がここに来れば、ミサキもなぜサオリが話したがらなかったのかを理解した。
裏切りを警戒する、突然力を増してアリウス全体を相手取れそうな聖園ミカ。
そして、トリニティの転覆を狙うアリウス。
どう転んでも、アリウスは……。
ミサキは呟くように唱えた。
「"Vanitas vanitatum et omnia vanitas."」
それを聞いて、サオリが顔を上げる。ミサキには少し笑ったようにも見えた。
「……そうだったな、ミサキ」
「——聖園ミカは、信用しない。しないが、それをまだ気取られるわけにはいかない。どうせ戦いは避けられない。裏切りを明かすのは決定的な瞬間で、だ」
サオリはもはや迷ってはいない。瞳には決意の光が宿っている。小さく呼吸をしてから、歩き始めた。ミサキも一歩遅れて並んだ。
「アツコたちには伝える?」
「いや、まだ伏せておこう。然るべき時が来たら私から話す」
「了解、リーダー」
それきり会話はなくなった。
雨は強くなってきており、2人は雨霧の先へ消えた。
☆☆☆
補習授業部は2度目の追試を受けたらしい。結果は芳しくないようだ。いや、ナギサからすればむしろ芳しい結果かもしれない、とミカは思った。
ミカは再び補習授業部を……というより、先生の元を訪れていた。モモトークで先生からの要請を受けたからだったが、アリウスへの報告もあるし、ちょうど良かった。
先生が指定した時間は夕暮れで、あたりは真っ赤に染まっていた。補習授業部が合宿を行っている旧校舎のあたりは寂れていて、遠くの喧騒が少し聞こえる、静かな場所だった。
ミカが旧校舎の入り口に着くと、すでに先生が待っていた。先生は手に持ったタブレット端末をなにやら操作しており、仕事中のようだった。
「やっ、先生。お待たせしちゃった?」
"ううん、ミカ。きてくれてありがとう"
先生はミカの挨拶で顔をあげて、にこやかに挨拶を返した。サコッシュ、というよりはメッセンジャーバッグに近い鞄を肩からかけていて、そこにタブレットをしまった。その際、鞄の中がチラリと見え、何かの紙を挟んだバインダーや、クリアファイルなどが入っているようだった。
「それはお仕事の? 先生はやっぱり、忙しいんだね」
"ははは。まあ、忙しいけどね。楽しくやってるよ"
ミカが何を言うか迷っていると、先生が旧校舎の中へ手を向けた。
"立ち話もなんだし、中で話さない? ……ちょっと散らかってるけど"
「いいの? みんなの勉強の邪魔にならない?」
"2回目の追試の結果があんまり良くなかったからね。実はそのことで、少し"
「ふーん? ……じゃあちょっと、お邪魔しようかな」
"ありがとう。それじゃあ、案内するね"
先生の先導で建物に入ると、いくつもの解体されたトラップが目についた。先生が通る場所だけ一時的に解除されているように見える。夜、みんなが寝静まったら再び機能させているのかもしれない。
(白洲アズサ……。校舎を要塞みたいにして、何のつもりなんだか)
こんなことをできる補習授業部のメンバーは、白洲アズサしかいない。あるいは浦和ハナコも可能かも知れないが……彼女はもっと自己破滅的で、むしろ外敵は受け入れるタイプに思えたし、こういったトラップは解除の方が得意そうだ。
先生が一時的に職員室としている部屋は、2階にあった。旧校舎はあまり大規模ではないため、エレベーターもなく、階段も1つしかない。トラップのことも考えると、制圧するのは少し手がかかりそうだ。先生の無事を考えると建物ごとというわけにもいかないので車両や砲などの重火器や爆発物は使えない。
そうなると人員を集めて力押しするか包囲して物資の消耗を待つか……。資金も時間もかかりそうだ。
(ナギちゃんは第三勢力になってもらう、みたいなこと言ってたけど、相手することになったら結構めんどくさそう)
先生に見られない位置でミカは顔をしかめた。
階段の踊り場から上階を見ると、ガスマスクをつけた1人の生徒が立っていた。階下から登ってくる先生への誤射を避けるためか、銃口を上に向けたレディポジションで銃を持っている。ガスマスク越しに目が合ったような気がした。
"やあ、アズサ。出迎えてくれたの? ありがとう"
先生は何でもなさそうに挨拶をした。アズサはガスマスクの下で短く何か言ったようだったが、こもってよく分からなかった。しかし先生には分かったらしく少し笑ってから返した。
"うん、またあとでね"
先生の返答に満足したアズサは廊下を歩いて去っていった。2階にはそれほどトラップはないようだ。普段、補習授業部の4人が生活しているのが2階なのかもしれない。
「先生、アズサちゃんはなんて?」
"本日の課題が終了ってさ。またあとで追加の課題を渡すつもりだけど、ヒフミが優秀だから、もしかしたら必要ないかも"
ははは、と先生は笑う。笑ってばかりの先生は、ミカには少し不気味に映った。何も考えていないようで、その実色々考えていそうで、しかしそれを生徒たちに話すことはほとんどないのだろう。
(やっぱり先生は、大人なんだ)
『あまり嫌ってやるなよ、大人はみんな政治家なんだ。特にこいつは、お前たちのせいで色々な思惑がのしかかっているわけだしな』
『それはまあ、そうだけどさ。みんなもっとシンプルに考えて仲良くできたらいいのにね……』
ミカの言葉に、エメトセルクは旧い世界の人々のことを思い出した。エーテルに恵まれ頑健な魂を持つ旧い人々は、永い寿命と思慮深さを持っていて、余裕のなさから来るさもしい争いをしなかった。各々が考えるより善い未来のために一時的に対立することはあっても、同じ分だけ認め合えた。
……だが、滅びた。
『その先に幸福ばかりが続くとは限らないぞ。私たちの世界は内向きの成熟ではあったが、"みんなで仲良く"でやってきたわけだしな』
エメトセルクの世界の結末はミカも聞いている。ミカはエメトセルクの方をチラリと見て、むすっと眉根を寄せたが、答えはしなかった。
"ここだよ。さあ、入って"
先生が入室を促す先は、教室に少し手を加えた部屋のようだった。元々こういう機会を考えていたのか、今回のために用意したのか、パーティションで区切られた応接間がある。しかし、パーティションの数が少ないから奥の作業スペースが見えてしまっている。さらに言えば、寝泊まりもここでしているようで、ベッドが置かれているのも見える。
「失礼しまーす」
普段の執務室が広く、そして整備が行き届いているだけに、ミカは顔には出さずに不満を感じた。すぐに、自分が使うわけでもないからいいか、と思い直した。
応接間のソファにゆっくりと腰掛けると、先生も対面に座った。
"何か飲む? "
「ううん、大丈夫。それより、話って?」
先生には悪いけどトリニティ流でやらせてもらうね……と、内心で独りごちるミカ。
先生には伝わらないだろうが、飲み物をもらうような間柄ではないし親しくなる気もない、雑談を挟むほど時間は取る気はない、というアピールだ。
(どうせどこかから見てるんでしょ、浦和ハナコ)
もちろん、ミカは先生のことが嫌いで仕方ない、というわけではない。このアピールの対象はハナコだ。彼女はトリニティ流のやり方にも詳しい。小さな考え方の違いはあるが、大きくはナギサと同じ立場にあることを理解してもらう必要がある。
"うん、実は昨日、2回目の追試……学力試験があったんだけど、会場がゲヘナだったんだよ。テストどころじゃなくなっちゃったし、こんなやり方は良くないんじゃないかと思ってね。ミカはどう思う? "
それを聞いたミカは強い違和感を覚えた。先生はこんなふうに生徒に愚痴を言うタイプだっただろうか?
(浦和ハナコの入れ知恵で私とナギちゃんを対立させようとしてる? アズサからアリウスについての話は聞いているのかな。うーん、変だけど、分からない……)
ミカはチラリと先生の耳元を見る。まさかイヤホンなどがないだろうとは思ったが、当然そんなものはなかった。事前の相談通りの切り出しなのだろうか。
時間を割く気はない、という態度を最初に取ってしまった以上、あまり長考もできない。ミカはふう、とため息をついて、ソファにもたれかかった。間を作るためだ。
「ナギちゃんそこまでやってるんだ……。うーん、確かに、良いやり方ではないと思うけどさ。ゲヘナなんかみんな行きたがらないし。でも、ナギちゃんの政策に何でもかんでも私が口出しできるわけじゃないんだよね」
"じゃあ、ミカはこの件については中立って感じなのかな? "
先生の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。大人の目だ、とミカは思った。何を考えているのか相手に悟らせない、吸い込まれそうな目。静かに、しかしはっきりと決意に満ちた光をたたえていて、さっきまでの呑気そうなニコニコ顔を忘れてしまいそうだった。
「まあ、そうなるのかな。直接の手出しはあんまりできないけど、何か困ってたら言ってよ。手伝えることなら手伝うしさ」
あまり言質を取らせたくはなかったが、これは自分の立ち回りが良くなかった、とミカは反省していた。浦和ハナコの策略があることは分かっていたはずだった。飲み物をもらって、天気の話でもしたら良かったのだ。先生はともかく、ハナコは多少こちらを警戒しただろう。
(浦和ハナコと白洲アズサが一緒にいると、そこで繋がりができる可能性はあるよね……)
アリウスとの内通について、アズサは打ち明けるだろうか。アズサにとってこの補習授業部が心地よい場所になれば、打ち明けるだろう。そしてそれは、遠くない出来事のような気がした。
"そう言ってもらえると助かるよ、ミカ。また何かあったら連絡するね"
「うん。頑張ってね。……って、先生に言うのは変かな。補習授業部のみんなによろしくね、先生」
そのあと、少しだけ雑談をしてからミカは帰路についた。