そこは、普段過ごす日本とは違った景観の街。街の中心の広場に繋がる大通りからそれた、一般的には路地裏と呼ばれる小道に、突如おぞましい哄笑が響いた。
「むふ……むはは……むわははは……!」
道の真ん中に、男が一人。路地を挟む建物の壁面に体を向け立っている。
大柄な男だ。背二メートル近くに及ぶ背丈に、服の上からでも判るほど筋肉質な体躯。その異端な銀灰色の頭髪は、男が日系人ではないことを物語っていた。
男の口が震える。そしてなにかの言葉を紡ぐように細々と動き始めた。男は瞬時に右の手のひらで口元を抑えるが、ニヤリと端の吊り上がった口からは絶えず歓喜の声が漏れる。もはや、自分の意思では抗いようもない──そう判断した男は、右手を降ろした。
途端、男から青いオーラが湧き上がった。炎のようにメラメラと燃え盛る奔流に包まれながら、目の前の男は────“バージル”は、告げた。
「
…………嗚呼──満足です。
直後、ドサリと音を立て、巨大な硝子窓に映る男は地面へと座り込んだ。
「いやはや、気持ち良すぎだろ。この充実感……たまんないねぇ」
ふわふわとした感覚に浸りながら、俺はにへらと表情を崩す。すると、硝子の中の男もまた、にんまりと満足げな顔を浮かべた。
そう、なんとこのバージル────俺なのである。
素晴らしいだろう、この再現度。上半身と下半身のバランス、筋肉の付いた強面の顔面、そしてなによりも原作と同様にガバリとかきあげた銀髪のオールバック……どこからどう見ても鬼いちゃんだ。
アバターの制作に何時間も費やした甲斐があったというものだ。
『ふふん。なんてったって、全身の細部という細部までこだわり抜いたからね。おかげでもう三時過ぎさ』
こだわったのは見た目だけではない。雨が降ると髪型が崩れる機能に加え、なんとアバターの声までバージルに似せてある。まったく、声帯の調節にどれだけ苦戦したやら……。
だが、その時間に見合う成果はこの通り目の前にある。俺は憧れのバージルへと成ったのだ。その事実だけで全てが報われた気持ちになる。
俺は天へと右手を掲げた。
「────むっ」
すんと、昂った心が落ち着きを取り戻す。原因は窓に映る自分の格好にあった。
ニコニコ笑みを浮かべたバージルがガッツポーズをかましているのだ。びっくりした、驚くほど似合っていない。元々のキャラクター性を知っている身からしては、違和感が仕事をしすぎているように思える。
『おっといかんいかん……あんまり素の俺を表に出さないようにしなきゃな。独り言の癖も直そう』
俺は直ぐ様掲げた腕を降ろし、立ち上がる。
そうだ。俺はこのソードアート・オンラインをロールプレイの舞台にすると決意したのだ。男ならば、一度決めたことはやり通さねばなるまい。
胸を張って、背筋もなるべく伸ばす。あの高圧的な印象の補助になるはずだ。顔は無表情に、そして眉間に軽く力を入れれば──仏頂面の完成。これだけでもバージル度がぐぐんと上昇した。
────でも、まだだ。肝心のアレが無い。
俺はポチポチとメニューをいじる。既にそれらしきものは購入済みだ。バージルを語る上では、これは必須級のアイテムだ。それを理解していたから、俺はログイン後に血眼で街中を駆け回り……そして見つけた。
決定のコマンドに指が触れる。すると、刹那の間、全身をまばゆい輝きが包む。光が晴れるとそこには、青のコートを身に纏う、憧れの男の姿があった。
ヒラリと身を翻すと、コートの裾がかすかに靡く──感無量だ。俺は満足感で一杯だった。
『……今日以降、俺はずっとこのままだ。他人の姿と名前を借りるんだ、何が何でもなりきるって誠意を見せないと』
新たな決意を胸に、俺は路地を後にした。
*
ガヤガヤと、大衆の喧騒が際限なく聞こえる。おびただしい量の人影がそこかしこで蠢いていた。
俺がいるのは、はじまりの街の転移門広場。そして時刻は夕刻……つまりそう、SAOのビッグイベントの内の一つ、
既に、黄昏色だった空は見る影もない。一分の隙間なくクリムゾンレッドの《System Announcement》のカーソルに阻まれている。
「……ッ!!あ、あれは……!?」
強制転移で集められたであろうプレイヤーの一人が、真紅に染まった空の一点を指差す。つられて俺も見上げてみれば、ズラリと並んだ六角形のカーソルの接続面からドロドロと血液のような赤黒い液体が流れ出ているのが見えた。その液状の物体は徐々に巨大なローブを纏った人の姿を型取り、宙に浮遊する。
顔の存在しない酷く不気味なソレは、両の手を広げ、告げた。
「プレイヤーの諸君。私の世界へようこそ」
……さて、もう話を聞く必要はないな。
サッと踵を返し、広場の出口の方へ向かう。俺はこの後の展開を知っているし、わざわざ見物するほど碌なものじゃない。なんたって、何千人分の恐怖の感情が、それに対して狭すぎるこの空間に充満するのだ。とてもじゃないが、あんなものは見てられない。
ローブの男は自身を《茅場晶彦》と名乗った。そして、今後一切の自発的ログアウトは不可能になったこと、このSAOがゲーム内での死=現実世界の死を意味するデスゲームと化したことを頭の奥底にまで届くような不快な声質で、淡々と、無感情に述べる。
「ゲームを開始するにあたって、ささやかな贈り物がある。既にそれは諸君らのストレージに存在しているはすだ」
茅場晶彦の言葉の後、広場のあちこちでまばゆい光が上がった。奴が贈り物と呼称する手鏡で、アバターの容姿が現実世界の自分たちのソレに変化したのだ。
無論、それは俺にとって既知の事実だ。せっかく丹精込めて制作したバージルと瓜二つのアバターを消し飛ばすそんなものを使おうとも思わないし、オブジェクト化もしない。多分そのうちゴミ箱にポイするだろう。
それに現実世界の俺の顔は童顔である。あの顔でバージルのロールプレイをこなすのは些か――恥ずかしい。想像するだけで居た堪れない気持ちになってくる。
心内で悶々とする俺をよそに、茅場晶彦は説明を終えた。
「以上で《ソードアート・オンライン》正式サービスチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の――健闘を祈る」
その無責任な言葉を最後に赤いローブの姿が崩れ、元の液体状となり、やがて姿をくらました。
奴の言葉の通り、チュートリアルはこれで終わり。これ以上何もないのだ。ここにいるプレイヤー達も、やがてそれに気づくだろう。その後は……ご察しの通りだ。
とっくに覚悟を決めている身として、ここにいるのは野暮というものだ。先に退場させてもらおう。
今の今まで謎のバリアで通せんぼを喰らっていた俺は、空が元の夕焼け空に戻ったのと同時に、その障壁も綺麗さっぱり消えたのを確認して、はじまりの街の大通りに足を踏み入れた。
暫く歩いた後、転移門広場の方角から―――
うわあぁああああああッ!!!!!
―――天をも震わせるような大絶叫が起こった。
*
第一層、はじまりの街の最南端。そこは浮遊城アインクラッドを構成する層の外周円に面していた。
出入り口から縦に十五メートル、横に百メートルの広さをもつテラス。そこにはほんの気持ち程度の緑だったり、いくつかのベンチが設置してある。
テラスの足場部分だけが空中に突き出ていて、傍から見ればほぼほぼ断崖絶壁のようなものだ。下を覗けば、遥か下方で風に流される分厚い雲の群れが見える。高所恐怖症の人は震え上がって気絶するに違いない。
でもそんな高さだからこそ、良いこともある。
『ああ……良い景色だ……』
そう、この絶景だ。空の一点に煌煌と輝く太陽が、この世界の全てを自分色に照らしている。アインクラッドが雲よりも高く位置していることも相まって、彼の威光を遮るものは何一つない。このままジッと見続けていたら、いつかあの橙色の円に吸い込まれるのではないか――そんな気がしてくる。
なぜだか、心が浄化された気分だった。
プレイヤー達の悲痛な声――あれを聞いた時に、俺の中のどこかに生まれた黒いモノ。それが一欠片も残らずに消えたような……俺のただの錯覚だろうか。
カツン、と腰に吊るしていた曲刀を地面に突き立てる。これが貴様の墓標だ……とでも言わんばかりに柄頭に手を添え、沈みゆく夕日を静かに眺める。
『俺は……強くならないといけない。力――そう、力が必要だ。このSAOにいる強者たちを下し、やがてゲームをクリアに導けるような絶対的な力が……!』
それこそ、弟に勝つために力を追い求め続けたバージルのように。どんな手段を用いても、どんなに非情でも……死にものぐるいで。
俺はバージルになると決めたのだから。
『……なら、尚更こんなものは要らないな』
ストレージから、例の手鏡を実体化させる。簡素な作りだ。こんなものがプレイヤー達の絶望を加速させたとはとても思えない。
――さあ、この鏡に映り込むであろう自分とはサヨナラだ。俺はその手鏡を、一息に上空へと放り投げた。
「
そして瞬時に抜いた得物で、重力に従って落下する手鏡を横一文字に斬り捨てた。
力任せに振るった刃が鏡面に食い込み、一切の抵抗もなく両断した瞬間――俺の中の何かが、決定的なものになったような……気がした。
見事に二つに分断された手鏡はあっけなく地面に転がり、ポリゴンの硝子を散らす。それを見届けながら、俺は振り抜いた曲刀をそっと鞘に収めた。
――そして不躾ながら、夕日をバックに納刀するバージルイケメン!と思案するのだ。
確かにガワはバージルでも中身は俺だし、それも本物の刀に触れたことのない一般人であるから、剣技にどこか拙い部分があるのは認めよう。だがそれでも!ガワはバージルなのだ。果てしない時間をかけ、隅から隅までこだわりを込めそしてこだわり抜いた3SEの頃のバージル。自分に見惚れちゃうのも仕方ないだろぉ……?
もし俺がここで、一度目の人生でついぞ再現できなかった背面納刀を披露してみたらどうだ。そこら中から黄色い歓声が飛ぶに決まってる。ボタン一つで国を吹き飛ばせる爆弾に匹敵する破壊力をこのアバターは保有しているのだ。
……とまあ場違いな厄介オタクのような思考にふけっていた俺は、この場所に自分以外の気配があることに気づくのに遅れてしまった。どの辺りかを具体的に言うならば、手鏡をぶっ壊して以降の数秒のロスタイム。
心の中で冷や汗をダラダラと垂れ流しながら振り返るも、時既に遅し。
「に、に、逃げろぉおおおッ!!!」
観葉植物の鉢の裏に隠れていた複数のプレイヤーと思わしき人影は、はじまりの街と南のテラスを繋ぐ通路へと一目散に走り去って行った。逃げたのは当然、俺の様子を覗き見していたことが発覚したのだと気付いたからだ。そうに決まってる。
『……大丈夫かな。俺の人生……いや、ゲーム生』
始まったばかりなのに、もうドン底まで転がり落ちた気分だった。頭痛が痛いようなシーンを他人に盗み見られるなんて……俺もう高校生なのに。顔が真っ赤になっていないか気が気じゃない。
いや、もし赤くても、これは夕日に照らされてるから赤く見えているだけだ。俺は悪くない。お天道様が悪い。そうだ、そもそも覗き見してた奴らがいけないんだ。全く……失礼だぞ!人のことを盗み見るなってお母さんから教わらなかったのかってんだ!それに────
その後、日が落ちて辺りが真っ暗になるまで現実逃避を続けた。
*
『嘘だっ、嘘だっ、嘘だッ……!』
日が傾き薄暗い街道を男は駆けていた。普通だったら息が切れて当たり前のような速度で、はちきれんばかりの焦燥感を抱えながら。
『そんなっ、ことが……あるはずがないっ!』
精神的にも、肉体的にも、彼はその場に伏せてもおかしくないほど疲弊している。だが……彼は走るのを止めない。ある一つの激情が常に男の身を苛んでいるからだ。
それは―――恐怖の感情。
彼も、茅場晶彦を名乗る男の演説を聞いたプレイヤーの一人だった。ゲーム内で死ねば現実でも死ぬデスゲーム……あまりにも非現実的で荒唐無稽な話だ。
だが実際、メニュー画面のログアウトボタンは消えていた。それに加え、既に死亡者が出たという現実のメディアが放送していたニュースが、疑惑を確固たるものに変えている。
だがそれでも、信じられない。信じたくない。
『む、娘が……家族が待ってるんだッ!それに仕事だって……こんな、こんな馬鹿げたものに邪魔される訳には――』
ドス黒い狂気が、男を蝕む。もはや半狂乱になりながら――走る、走る、走る。
男が向かっているのは、第一層はじまりの街の最南端――ここで唯一、アインクラッドの外に通じる場所だった。そう、外……オブジェクトも何も存在しない空中。彼は身を投げて、自殺しようとしているのだ。
『一度死んだら……家のベッドで目が覚めて……いつもの生活に、戻れるんだ……』
死んだらログアウトできる……そう信じ込んでいるのは男一人だけではない。彼の前にも、同じく半ば狂ったように走る人影がいくつかあった。
彼らも皆、突きつけられた現実に納得がいかないのだ。だから、命を賭した逃避に走っている。
やがて、五十メートル弱ほどのトンネルに入った。ここを抜ければ、その先は展望テラス……SAO原作にて、何百人もの自殺者を生み出した魔の地だ。
―――出口の光が見える。男の心は、まるで人生に光明が射したかのように軽やかに踊っていた。それが地獄への入口だとはつゆ知らず、彼は最後の十メートルを走り切った。
直後に射し込んだ、まばゆい夕焼けの光に男の体が包まれる……直前、前方を駆けていたプレイヤーが突然立ち止まった。ほんの二、三メートルで全力疾走の速度を殺しきれるはずもなく、男は勢いよくその背中に衝突する。
「ぐわあぁっ!?」
衝撃のあまり後方に倒れ込んだ男は、呆然と立ち尽くす数人のプレイヤーに向けて叫ぶ。
「あ、あんたらなんで止まってるんだ!お、俺は……ここから出ないと……!いけ……な……」
溢れ出る感情のままに叫んだ男だったが、図らずも末尾に近づく度にその声は萎んでいった。原因は、男の行く手を阻む障害を挟んだ反対側にあった。
男が追い求めていた場所だったテラスの――その中心。ここにいる者とはまた違う雰囲気を纏った身長が二メートル近くある大男が一人、彼らに背を向けて立っていた。
『プ、プレイヤー……なのか?』
ゆっくりと沈む夕日を前に、静かに佇んでいる。少し冷たい秋風に吹かれて揺れる、裾がボロボロの青色の外套はどこか不気味だ。まるでこの世のものではないような印象を受ける。
気がつけば、彼らは複数人で固まって脇にある植木の裏に隠れていた。出入り口からは後ろ姿しか見えなかったが、この角度ならば側面を――そして横顔を覗き見ることが可能だ。
自分達がついさっきまで身投げを試みるほどの精神状態だったにもかかわらず、彼らは大男の顔を見るためだけに協力姿勢を取っていた。会話を止めたり、防具が擦れないように注意して適度な距離を空けたり――ともかく決して気取られないように、一斉にその横顔へと視線を向けた。
瞬間――彼らは色々な意味で縮み上がった。
“顔を見る”というお互いの目的の一致で協力関係を築いていたプレイヤー達であったが、この瞬間だけは心の底から同じ感情を抱いたであろう。そう……。
『『『こッ、怖ええええええええ〜〜〜ッ!!!』』』
先程までのものとは方向の違った、“大男の顔が悪魔かと見間違うほど怖い”という新たな恐怖の感情を。
一人のプレイヤーが腰を抜かし、ペタリと床に這いつくばった。仮想世界に腰を抜かす抜かさないの概念が存在するのかは不明だが、少なくとも恐ろしくて動けなくなったのは事実だ。
最後尾を走っていた男が、そのプレイヤーに手を伸ばす。男も新たな恐怖の強すぎるインパクトの影響で、自分が身投げを試みていたことなど頭から抜け落ちていた。だが、何とか残った人間としての自覚に従って、腰を抜かした彼を救助しようとした。
だがそこに、無情な追撃の拍車がかかる。悪魔のような形相をもつ大男が―――剣を抜いたのだ。
『『『ヒエエエエエッ!??』』』
シャランという甲高い音と共に右手側に振り抜いた剣の切っ先は、間違いなく自分達に向いている。恐怖でグワングワンと揺れる視界に映る大男は、眉にハッキリと皺を寄せていた。確実に、自分を――黙って覗き見をしていた自分達を凝視しているのだろう。
その悪魔ですら泣いて逃げ出すような強面はこう語っていた。本物の死を送ってやろうか――と。
大男の口が僅かに開く。そこから更なる追い打ちが飛んだ。
「
もはや彼らは失神寸前だった。
使い古した雑巾のほうがマシだと思えるほどボロボロな彼らに、完膚なきまでにトドメを刺す魔の手が迫っている。
あの悪魔が――振り返ろうとしているのだ。
『だ、ダメだ。横顔だけでも小便をチビりそうになるのに、真正面からなんて……視線だけで殺される……!それに……』
男は直感で察していた。見られるだけで済むはずがあるか。今にも奴は……あの剣で自分の首を刎ねに来るに違いない。これ以上こんな物騒なところに……いてたまるか。
男がするべきことはもう決まっていた。逃亡だ。現に、腰を抜かしていたはずのプレイヤーは既に全速で後退している。
男の喉元で、洗濯中のドラムに翻弄される洗濯物の如く、グルグルと螺旋を描いていた恐怖の感情が、爆発した。
「に、に、逃げろぉおおおッ!!!」
アイツは悪魔だ、死神だ――と心の中で罵倒を重ねながら、男は通ってきた道を物凄い剣幕で引き返して行った。
罵倒を心内で留めたのは、もし口にしていたら瞬時に自分の首が飛ぶと判断したからであった。
*
その日以降、はじまりの街全体に“展望テラスの青い死神”の噂が出回った。
身を投げようとそこを訪れた者は、悪魔も寄り付かない無情な死神によって頭と胴体を泣き別れにされ、死よりも残酷で恐ろしい苦痛を与えられる……という、身も蓋もない話。
しかし、実際に遭遇した数人のプレイヤーたちの鬼気迫る表情から、噂は瞬く間に信憑性を増した。そして僅か一週間ほどで、展望テラスから自死を試みる愚かなプレイヤーは、一人も現れなくなったそうだ。