アプリ中では京王杯SCはシニア級で出走可能となりますが、本作ではストーリーの展開上クラシック級で走らせることとしました。
なにせ友人二人と走れる唯一のレースなので、ちょっとカオスな、お祭りっぽい雰囲気が出せたらなと…。
ゲストキャラのバクシンオーはSRサポカのイベントを参考にしてます。
これで予定していたゲスト三名も出し終えましたが、それぞれもう一回出番がある予定です。
なお、着順掲示板の画像はまめ氏作成の着順掲示板シミュレーターを使用させていただきました。
(https://mamema.ldblog.jp/TurfVisionSim/turfvisionsim.html)
人物紹介はこちら↓
https://syosetu.org/novel/342309/1.html
白き乙女の献身
問題の桜花賞が終わってからというもの、河削はどこか落ち着かずにいる。普段より一時間ほど早く起床する日々が続き、日中は半醒半睡といった様子でとにかく欠伸が絶え間なく。
自身のトレーナー室で湯を沸かし、濃い目にコーヒーを淹れる。これでようやく、頭の中の靄が多少はマシな状態になり始める。
「ふ〜……」
あの事件以来、メイケイエールへの風当たりはというと思っていたより大分穏やかなものだった。当然ながら批判的な記事を載せたメディアもあるが、同情的な論調を示したメディアも少なからず存在した。
『この
インタビューの時に必死になってフォローを入れたのもあるが、最たる要因としては、恐らく――。
「……役者だねぇ、案外」
淹れたてのコーヒーを啜りながら、ウマ娘専門誌でのマシロの記事をしげしげと眺めた。
『桜花賞覇者、危険なウマ娘を一喝!』
『桜の女王、同期へ傲慢な引退勧告!』
周囲に聞こえるよう痛烈に批判をしたからか、彼女に対する賛同や反対意見も多く取り上げられていた。割合としてはおおよそ半々といったところ。
取材陣の格好の的になりかけたメイケイエールを、さながら避雷針の如く守ったのだ。当然ながらマシロ本人は黙して語らないが、その真意はいずれメイケイエールも知ることとなるだろう。
「売り言葉に買い言葉だし、私もまだまだな〜。あーあ……」
思わず食って掛かるような振る舞いをした自らを恥じる。あの時こそ、専属トレーナーとして取材の順番等を事前に差配しておくべきだった。
口内が苦々しくなるのを感じ、雑誌のページを閉じた。今考えるべきはそれではなく。
「――レースプラン、どうすっかなあ」
河削は椅子に腰を降ろし、大きく天井を仰いだ。
桜花賞があの結末となった以上、このままティアラ路線の継続は困難。他者へ危害を及ぼす恐れをまずは払拭しなければならない。
それと同時に結果を出すことも必定。お行儀よく走れるようになったとしても、それで勝てなければ意味がない。二つの問題を同時にクリアしなければならず、頭痛で顔をしかめる他なかった。
「迷ってる時間なんてないってのに……この無能」
マイル路線継続、あるいは距離の延長か短縮。どの路線も一長一短があり、それが余計に悩ませるのだった。
バクシンより挨拶をこめて
学生寮から校舎への登校途中、メイケイエールは俯きながら常に浮かない顔をしていた。
最下位で終わった桜花賞。それもあるが、制御不能となった自身のせいで危うく大事故を起こしかけたこと、そしてマシロからの絶交宣言。特にマシロは会話どころか目すら合わせなくなり、余計にメイケイエールの心が重くなる。
(トレーナーさんにも迷惑かけ通しですし……)
「――――っ!」
一旦ティアラ路線は白紙に戻し、レースプランを練り直す旨は河削から伝えられた。トレーニングの合間でのプラン再編は難儀しているようで、それもまた強い罪悪感を覚えた。
(ミロワやリコにも心配をかけさせてしまって……二人もトレーニングやレースの準備で忙しいというのに)
「――ますっ!」
桜花賞の直後から、二人からは遊びに行って気晴らしをしようとことある毎に持ちかけられている。むしろ彼女達の方がレースで結果を残さなければならないのに、顧みずに慰めてくれようとしているのだ。
(……どうすればいいんでしょうか……どうすれば……)
各方面に負担をかけさせるばかりで、自分自身は何もできていない。自責の念に駆られ、両脚に足枷がついたかのように重く、鈍く。
(……むしろいっそのこと、本当に――いえ、でもそれは)
思い切ってしまえば楽になるのではないかと頭をよぎり、すぐさま掻き消す。そのようなこと、まかり間違っても実行してはならない。
「――ございますっ!」
「え」
横から繰り返し声をかけられているのに気が付き、顔をそちらの方に向けた。
「おはようございますっ!」
「おおお゜ぱ よ゜う゜こ゜さ゜い゜ま゜す゜!」
唐突な挨拶に、喫驚のあまりメイケイエールの尻尾が魔女の箒かと見紛うほどに膨れ上がった。反射的に挨拶を返すも、声は裏返り頭のてっぺんから飛び出す始末。
「はい! おはようございます! 今日も素晴らしいバクシン日和ですね!」
件の相手は満足そうに、溌剌としながら頷く。
深みのある茶色をした鹿毛。きっちりと右に片寄せしたアシンメトリーの前髪の間から、ハリツヤの良い額が露わとなっている。
「え、ええ……いいお天気ですね、サクラバクシンオー先輩」
――サクラバクシンオー。雲一つない快晴が似合う、ひたすら元気溢れるウマ娘。背の高さはメイケイエールより少し低いくらい、均整の取れた無駄のないプロポーションをしている。
しかしその実、彼女は学園――いや歴代通じて一、二を争うほどのスプリントのレジェンドである。スピードは唯一無二、全力を出した彼女に追いつける者は片手の指で事足りよう。
「違います! 先輩ではありません!」
「え!?」
「私のことは委員長とお呼びください!
「えぇと、委員長……先輩」
「はい何でしょうか!」
正に誰もが平伏するような実績の持ち主ではあるが、本人は大体いつもこの調子。非常に真っ直ぐな性格故、彼女を慕うクラスメートや後輩は数多い。
そのような偉大な人物に突如挨拶されたメイケイエール。目を白黒させるばかりで、何を話せばいいのか言葉が出てこない。
しかしやがて、サクラバクシンオーが桃色のタスキを肩にかけていることに気がついた。そのタスキには『あいさつ運動中』と赤い文字で。
「……あいさつ、運動……?」
「はい! 新入生の皆さんに学園に馴れてもらうため、毎朝交代で学級委員がアイサツをすることとなりまして! 今日から今週いっぱいなのですが、今朝は私の当番なのです!」
自分がいる反対側に目を向けると、確かに同じタスキをかけたウマ娘が朝から声を張っている。
「も、申し訳ありません! 先輩に何度も声をかけていただいたのに、全然気が付かなくて……!」
確かに考えごとはしていたが、それであっても挨拶されたら普通は気がつく。二重三重にも失礼を重ねてしまったと、ひたすらにメイケイエールは頭を下げた。
「謝るにはおよびませんよ、メイケイエールさん!」
「えっ、どうして私の――」
そういえば、まだ自ら名乗っていない。下級生の一人に過ぎないと思っていたのに、不意に名前を呼ばれて目を丸くしながら顔を上げた。
そして、その肩にサクラバクシンオーの手が乗せられる。
「私とアイサツをしましょう! さあご一緒に!」
「……え゙」
気づかずにそのまま、素知らぬ顔で通り過ぎていればよかったかもしれない。ふと、そのような考えが頭に浮かんだメイケイエールだった。
抵抗する間も拒否する間もなく。メイケイエールはサクラバクシンオーとお揃いのタスキを肩にかけ、正門の前に立ち呆けていた。
「さあ、一日のバクシンはアイサツから! 張り切っていきましょう!」
輝く笑顔のサクラバクシンオーとは対照的に、頭の中には星々瞬く大宇宙がただただ広がっていた。とかく混迷極まる状況、メイケイエールの頭脳は情報処理の限界を迎えている。
視線は遥か遠く。澄み渡る蒼穹に名も知らない鳥が舞い踊る。それはとても愉しげに、この世の春を謳歌するかの如く――。
「おはようございます!」
愉しげに――。
「おはようございます!!」
愉しげ――。
「おはようございます!!!」
愉――。
「おはようございまぁぁぁぁす!!!!」
メイケイエールの魂は、サクラバクシンオーの手で鷲掴みにされ現世へ舞い戻る。これが間違いなくリアルなのである。
「どうなさいましたかメイケイエールさん! 声が出ていませんよ!」
心の準備などまるでできていない。
「お、おはようございます……」
目の前を通り過ぎていく生徒達に声をかけようにも、口から出る声は非常にか細く。耳に届く前に虚空にかき消えてしまう。
「まだまだ! バクシン
このような時、中途半端だと余計に恥ずかしくなることは承知している。人前でのライブパフォーマンスと同一だ。やるからには全力でやり抜く。
バクシン力が一体何なのかはさておき。
「お……おはようございます……!」
腹筋に力を込め、できる限りの声を出す。
「まだまだ! まだ声が小さいですよ!」
「……おはようございます!」
「まだいけますよ!」
「おはようございます!」
「もっともっと!」
「おはようございますっ!」
「バクシーン!」
「ばくしー……えぇっ?」
「おはようございまぁぁす!」
「お、おはようございまぁすっ!!」
校門の一角で早朝から暑苦しい挨拶が飛び交う。爽やかな活動と言うよりも、さながら応援団の熱血指導。ほんの十五分程度の間だけだったが、終わる頃にはじっとりと汗ばむほどに上気していた。
「お疲れ様でした! 初めてとは思えないほどの見事なアイサツでした!」
常に腹筋に力を入れていたからか、身体には軽い疲労感。しかしそれが逆に心地良く、うじうじと悩んでいた湿っぽい気分がからりと晴れ渡っていた。
「こちらこそ、急に参加させていただきまして……ありがとうございました」
「いえ、私は何も! 全てはアイサツの力ですとも!」
確かに、何も考えずにただ声を張るだけでこれほどまでに気分が良くなるとは。強引にタスキを掛けられた時はどうなることかとは思ったが。
「それに、何やら思い悩んでいるようでしたので!」
屈託のないサクラバクシンオーの笑顔が心の隙間にスッと染み入る。
「普段ならそういう時は走るのが一番! なのですが。今日は私が当番なので、それならば一緒にと思いまして!」
傍目で見ても分かる程に落ち込んでいたらしい。
「そういえば、どうして先輩は私の名前を……?」
「最近、特に頑張っておられると噂を耳にしまして! メイケイエールさんもバクシンの素質があるのではないかと、密かに注目していたのです!」
まさか、誰もが名を知るような実力者に目をかけてもらえるとは思ってもみなかった。なればこそ桜花賞の結果は残念の一言に尽きる。
しかし考えたところで全くの無駄なのだと、サクラバクシンオーに誘われてメイケイエールは気がついた。前に進むためには前を向かなければならない。後ろ向きに悔やむ時間はとうに過ぎ去ったのだ。
「あの、先輩。もしご迷惑でなければ、私も活動に加えていただけないでしょうか……?」
ずっと何かを考えて悶々とするより、無心で何かに打ち込む方がよっぽど有益だ。もしかすると桜花賞での罪滅ぼしという風に受け取られてしまうかもしれないが、そうなったらそうなったで。
「おおっ! 迷惑なんてとんでもない! 早速、学級委員の皆さんにも聞いてみましょう!」
すぐさま、サクラバクシンオーが自身のスマホを取り出す。グループチャットにてメイケイエール参加の可否について確認し始めた。
「――皆さん大歓迎だそうです!」
一分もかからず、サクラバクシンオーは親指と人差指を輪にしてOKサインを作った。こうして、メイケイエールは晴れて挨拶活動の一員に加わることとなった。
そして、そこから少し離れた所で様子を窺っていたミロワダーレとリコンスタ。二人も、安堵した様子で胸を撫で下ろすのであった。
ひょんなことから参加することとなった挨拶活動。メイケイエールはたっての希望で、日毎に交代のところを毎朝立つことにした。
「おはようございますっ!」
最初こそ面食らってしまったものの、一度経験してしまえばどうということはない。笑顔を絶やさず、言葉はハキハキと。
挨拶を受ける側の生徒達も当初はよそよそしく挨拶を返すばかりだったが、二日、三日と続けてゆくと。
「センパイ、おはようございます!」
「おっはよ~。エールちゃん今日も早起きだねぇ」
次第に中等部の後輩やクラスメートから、挨拶の輪が徐々に広がっていった。サクラバクシンオーも本来当番ではない日でも顔を覗かせるなどして、非常に心強い味方となった。
そうこうして最終日ともなると。
「おはようございます! 昨日のタイム測定いかがでしたか?」
「先輩おはようございます! それが思ってたほどタイム伸びなくて……また頑張ります」
「その調子です! 今は上手くいかなくとも、次回への反省にすればきっと良いタイムが出ますよ」
積極的に返してくれた数人とは、挨拶がてら簡単な雑談を交わせる間柄に。また、メイケイエールとサクラバクシンオーの勢いに感化され、挨拶に立っていた他の学級委員も率先して声がけするようになる好循環となっていた。
あれよあれよという間に当番最後の日。初めの鬱屈した感情はどこへやら、随分と清々しい気分でその日の挨拶を終えた。
「メイケイエールさん、一週間お疲れ様でした! どうでしょう、気分は晴れましたでしょうか!?」
「ありがとうございました! おかげさまでスッキリしました」
ただ、期間中マシロはついぞ見かけなかったのが心残りではあったが。せめて一言、二言でも言葉をかけられればとほのかな期待をしていたものの、そう思い通りにはいかないらしい。
「それは何よりです! 何かお困りでしたらこのバクシンオー、胸でも脚でもいくらでもお貸ししますので! 委員長ですから!」
思えば、彼女は誰もが認めるスプリンター。そのような偉大な人と、一度でいいから一緒に走ってみたいという気持ちが顔を出す。しかし、今はまだその時ではないかもしれない。
迷ってばかりの身。この人の様に真っ直ぐな心を持てるようになれたら、いずれは――。
笑顔の裏側に、はやる気持ちをメイケイエールはそっと隠すのだった。
その日の午後、メイケイエールは河削にトレーナー室へ呼び出された。
夏合宿も近づいてきているが、おおよそ話としては今後のレースプランについてだろう。彼女自身、このままティアラ路線を継続するのは難しいだろうと実感している。であれば距離を変えるか、それともダートに転向するか。
扉に手をかけながら、頭の中で様々な考えが頭をよぎる。
「――トレーナーさん、メイケイエールです」
トレーナー室には椅子に腰掛けている河削とミロワダーレとリコンスタの二人が。河削はともかくとして、友人二人が居るのは全くの予想外。思わず踏み入れた足がピタリと止まってしまった。
「は〜い、いらっしゃ〜い」
「……失礼します。あの、どうして二人が?」
「ちょっとヤボ用でさ」
「……ちょっとね〜……」
二人は互いに顔を見合わせ、意味深な表情を見せる。目的があってここにいるのだろうが、それが何なのかはピンとこなかった。
「さて、早速だけど。次のレースが決まったよ。何だと思う?」
メイケイエールは返答に窮した。今後のレースプランについて話をするものとばかり思っていたので、その先についてはまるで考えになかった。
桜花賞の雪辱戦ならば五月の頭にGⅠレース、NHKマイルカップが存在する。ただし、これまでの経緯を考えるとその線は薄いだろう。
「……すみません、見当がつかないです。五月開催のレースといっても数が多くて……」
「それもそっか――京王杯スプリングカップだよ。芝の東京千四百。桜花賞より距離が短くて走りやすくなるし、何より……」
ミロワダーレが得意げに鼻を鳴らし、自らの旨をトンと叩く。
「三度目の正直ってやつだな!」
「……二度あることは、の方にならなくて良かったね……」
「――まあな」
東京レース場は数少ない左回りのコース。この二人がここにいる理由について、メイケイエールははたと思い当たった。
「じゃあ、もしかして……」
二人は頷き、歯を見せてにっこり微笑んだ。
「そういうこと! オレ達も出るぜ!」
「……お待たせしました……」
三人でレースを走るという約束。メイケイエールは二人に駆け寄り、肩を抱き寄せ合う。
「もう、遅いじゃないですか! 待ちくたびれましたよ!」
「エールが早ぇんだって!」
「……わたし達置いてけぼりぃ……」
軽口を叩きあえるのは親愛の証。これほどまでに嬉しい知らせはなかった。一人で進むことにどことなく寂しさを感じていたが、それがようやく報われる。
「とにかくね、エールちゃんが元気に走れるってことをアピールしないとね。今後のこともあるし」
その通り。気になるのは更にその先の話。この話しぶり、最終的な展望も決まっているに違いない。少なくとも、河削は行き当たりばったりで物事を決めるトレーナーではない。
「一応、今考えてるのは京王杯の後、夏合宿を挟んでセントウルステークスへ。そんでスプリンターズステークスのスプリント路線に行こうかなって。短距離戦はスピード勝負だけど、エールちゃんのトップスピードなら十分通用するはずだから」
短距離戦もなかなかに熾烈極まる戦場だ。電撃の短距離戦という言葉の通り、とにかく求められるのは一瞬の判断とスピード。その性質上、展開さえ噛み合えば誰でもチャンスがあるのは確かだが、だからといって平坦な道ではないのもまた事実。
「スプリンターズですか……いえ、分かりました」
とはいえ、様々に考えてくれた上でのこの選択だろう。そうなれば自分自身はただ走るのみ。
「そういうことで、私の話は以上! ミロワちゃんとリコちゃんに感謝しなよぉ」
「どういうことでしょう?」
「少し前に二人がさ、京王杯にエールを出走させてくれって直談判に来てね。理由を聞いたら、エールちゃんが桜花賞で落ち込んでるから、どうにかして励ましたいって。約束を果たしたいんだって譲らなくて」
メイケイエールは改めて二人に目を向ける。すると、反論するのでもなく、慌てて否定するのでもなく、気恥ずかしそうにはにかんでいた。
「――先輩に先を越されたかもしれないけどさ、やっぱりこのタイミングしかないよなって。リコも同じ意見」
「……むしろ、わたしが前提というか……ごめんね」
「いいえ! そんなこと……二人共、本当にありがとう!」
自分のために気を使ってくれた親友に、メイケイエールは改めて感謝の言葉を伝える。そんな微笑ましい様子に目を細める河削の顔には、薄っすらと隈が浮かんでいた。
過ぎゆく春はスリリングに
散りゆく桜に別れを告げて、そうして迎える新緑の風。中央トレセン学園のお膝元であり、国内随一の規模を誇る東京レース場。レース開催週もあってか、この週末も場内は一際の賑わいを見せていた。
推しウマ娘のレースはもちろんのこと、博物館やアスレチック施設を備え、一人客から家族連れまで幅広い層がレース場を訪れているのだ。
『東京レース場、GII京王杯スプリングカップ。出走者のパドックを開始いたします』
パドックの最後列の端、定位置に河削はいつもの様に腰掛ける。土曜日の為GⅠレースの開催はプログラムにないが、好天に恵まれソレに匹敵する人の入り。過剰な期待を寄せられることもなく、メイケイエールが健在だというアピールをするには持って来いの場だ。
しかし、別の意味で本日の主役はメイケイエールではなかった。
『二枠二番、リコンスタ。四番人気です』
何人かの後、次はリコンスタの名前が呼ばれた。観客の目は自然と舞台上手に向けられる。
『……二枠二番、リコンスタ。四番人気です』
再度呼ばれるも、リコンスタが姿を現す気配が一切ない。にわかにざわめき立つ観客席。何か異常事態でも起きたのかと、河削も動向に注目した。
そして満を持してリコンスタの登場。その姿に、観客の一人が声を上げた。
「えっ……あの娘寝てるぞ!?」
――彼女はうつらうつらとしながら、レース場職員に手を引かれていた。
観客席を包む笑いとどよめき。心なしか笑いの方が多いかもしれない。緊張のあまり動作や表情が硬くなるというのは珍しくはないが、パドックの場で寝ているというのは。
それなりにトレーナー歴のある河削ですら前代未聞だった。
『ユニークさで見ればどのウマ娘にも引けを取りませんが……デビュー以来苦戦が続いています』
「……お? おォ……」
アナウンスを受け、半分しか開かない目でリコンスタが顔を上げる。それから観客席を左から右に、心ここにあらずといった顔でゆっくり見渡した。
「……すャぁ……」
『彼女の場合、かなりの個性派ですから――えっともしかして寝てますか? いや寝てますね……』
再びリコンスタは眠りに落ちる。パドックだということもお構いなしに。観客席に笑いの渦が巻き起こった。
「絶好調だなリコンスタ! 今日は良いとこ行けるんじゃないか!?」
驚く観客もいたが、大半はにこやかな笑顔を浮かべる。実のところ、リコンスタは目覚ましい成績を残しているとはいえないが、ファンの熱量はトップクラスの娘なんらと劣らない。
小柄であどけなさが残る顔立ちとは裏腹に、出るトコは出て引っ込むトコは引っ込むという、非常にグラマラスな彼女。黒いリボンとカチューシャを髪飾りに、左のサイドテールにした灰色の芦毛は陽光の元で銀糸の如く輝く。
派手な外見でミステリアスな中身。とにかくファン受けする要素が詰まっているのがリコンスタだった。
『三枠三番、ミロワダーレ。六番人気です』
前髪の正面半分程が白い、大きく太い流星を持つミロワダーレ。パドックで自らの名を呼ばれ、右の拳で左の掌を派手に叩く。
「見てろよ! 今度こそ一位取ってやるぜ!」
『強力な末脚が持ち味の彼女ですが、ここ数戦はどうにも歯車が噛み合いませんね。ガッチリ合いさえすれば、誰にも負けない実力を発揮できるのですが……』
リコンスタ同様、ミロワダーレもなかなか結果を残せないでいた。誰をも打ち負かす強力な末脚を持っているというのに、一位を取り切れずに中途半端な順位で終わるばかり。
河削の見立てでは、彼女の強靭な足腰から繰り出される猛烈なスピードはメイケイエールと同じかそれ以上。ベストコンディションならば打ち負かされることも十分にあり得る。
「お願いミロワちゃん! 今度こそ勝ってぇ〜!」
「おうよ! 絶対にやってやらァ!」
だからこそ、今の立ち位置に甘んじていることが非常に惜しい娘の一人でもある。重賞の一つや二つ、むしろGⅠでも勝ちを争える逸材だというのに、
『八枠十二番、メイケイエール。本日一番人気です』
『前走の桜花賞は残念な結果でした。今回は距離を短くしてのリベンジ戦でしょうか。出走者随一の実力が発揮できるか、彼女の立て直しに注目したいですね』
まだまだメイケイエールは見放されていない。彼女が客席へ向かって頭を下げると、暖かい拍手と共に応援の声が飛ぶ。
「エールちゃん頑張れ! 今度は勝てるよ!」
河削は心底胸を撫で下ろした。観客からソッポを向かれてしまっていたらという恐れはあったが、今のところは取り越し苦労だったようだ。
トレーニングでも状態は良好。何より、変に緊張感に囚われていないのは友人二人の存在が大きいのだろう。
『彼女はレース用ウェアの下に加圧インナーを着込んでいるとの情報です。前の様な失敗をしない様に、陣営も対策しているようです』
「――そう、今度こそ大丈夫。あなたならきっと勝てるから」
観客へ向けて笑顔で手を振るメイケイエールへ河削はこっそりと呟く。彼女ならばできる筈だと。この逆境を乗り切ってくれるはずだと信じて疑わなかった。
全員のパドックが終わり、本バ場へ向かう連絡通路。メイケイエールとミロワダーレ、リコンスタの三人が並んで進む。
「なぁエール、加圧インナー着たままレース出るってマジかよ」
メイケイエールのウエアの袖から、下に着込んだままの加圧インナーがちらりと覗く。ミロワダーレがそれを指差しながら不思議そうに尋ねてきた。
「ええ。元々は着ける予定ではなかったのですけど。トレーナーさんがパドック直前で、着るかどうかはあなたに任せるって言うものですから……」
「……そりゃ大変だね……規定は大丈夫……?」
「パドック時に申請して、そこからレース終了まで変えたりしなければ良いそうなので大丈夫です。リコ、ありがとう」
急な場面で割と重要な判断をさせるのかと面食らったが、自分自身のことでもありメイケイエールは首を縦に振った。トレーニング時と変わらない圧迫感で、本番でも同様に動ければ良いのだが。
「にしても、本当にこんな日が来るなんてさ。三人で同じレースに出るんだぜ?」
各々のシューズに打ち付けられた蹄鉄が、カツンカツンと硬い路面で鳴り響く。
「……思い返せば今は昔……三年前はこうなるとはぜんっぜん……」
「酷かったですね、私達お互いに」
三人は出会った当初の頃に思いを馳せる。
――とてもではないが、お互いの第一印象は良いとは言えなかった。むしろ最悪の部類に近い。
「……わたしはひねくれ、ミロワはやさぐれ、そしてエールはぶちぎれ……」
「まー、よく仲直りできたもんだよな」
「あの頃は私も少し荒れてましたから……今となってはそんなことなくなりましたし。ねっ」
はにかみながらのメイケイエールの問いかけに二人は返事をすることもなく、神妙な顔をしながら遠くを見つめていた。
「――よし、重賞だしさ。頑張ろうぜ」
「えっと、どうしてノーリアクションなんですか」
「……目指せ重賞タイトルゲット……おー……」
「ミロワ? リコ? 私落ち着きましたよね? ね?」
どことなく虚ろな目をしたまま、ミロワダーレとリコンスタは徹底してメイケイエールをひたすらにスルーするのであった。
通路を抜けて本バ場に入場し、めいめいがウォーミングアップを始める。ただ一人、リコンスタは観客席に一番近い外ラチ沿いに、顔を観客に向けながら軽めに走っていた。
「リコンスタ! 今日こそ頑張れっ!」
「リコちゃん! いつも通りしっかりね!」
「……は〜い。どうも、どうも……」
声援に会釈をしながらひたすら外側目いっぱいを。これもリコンスタのルーティンの一貫で、本バ場に入ると必ずこれを行う。
本人にその意図があるかは不明だが、ファンにとってはサービス旺盛なウマ娘ということで、勝利数と比べてもファン数はかなり多い方だ。
「相変わらず気合い入ってんのか入ってねえのか分かんねえなリコのやつ……っくしゅ!」
メイケイエールとミロワダーレはそれを見ながら、ターフの上でストレッチを行い念入りに脚をほぐしていた。
「ああ見えて、中身はかなり真剣ですから……風邪ですか、ミロワ?」
「うーん、多分違う……っくし! 最近ターフに出るとっくし! クシャミと鼻水が止まんなくてさ。あー……花粉症だとしてもレース前じゃ薬も飲めねえし……っくちゅん!」
ミロワダーレの鼻はこすり過ぎてすっかり赤くなってしまっていた。見るからに辛そうなのだが、レース前は一切の薬剤の使用が禁止されている。
ドーピング防止の観点から致し方ないことではあるが、それでもクシャミと鼻水で苦しむミロワダーレは見るに堪えなかった。
「原因が分からないと辛いですね」
「まぁな。まだレースは出れるけどさ……っくしゅ! 何かどんどん酷くなってくんだよなぁ…っちゅん!」
「まぁ――お大事に」
ミロワダーレのクシャミは止まる気配がない。今はまだレースに出られるとしても、これ以上悪化するとまずは治療に専念する必要が出てくるかもしれない。いずれにせよ難儀な状態に変わりはない。
そうこうする内に、ルーティンを終わらせたリコンスタも合流する。
「……ミロワ大変そう……」
「あ〜、スッキリしてレース走りたいっくしゅ!」
「……
万全の調子とまではいかないものの、三人で発走時間の直前まで念入りに準備を整えた。親友だがこの場に限ってはライバル同士。
不思議な緊張感に包まれながらも、今この場に立っていることにメイケイエールは密かな喜びを噛み締めていた。
観客の最大収容数、十九万人を誇る東京レース場。広大な観客席の最前列、出走ウマ娘の関係者エリアに河削は陣取っていた。
このレースは正に試金石。メイケイエールがこれまで通りにレースに出られるかがかかっているのだ。さしもの河削も気が気でなく、コース沿いの柵から身を乗り出さん勢いで大型のパノラマビジョンを見つめている。
「今回の目玉は誰でしょう。十番のセクエンツィアなんか仕上がりも良さそうですし、良いとこ行くんじゃないですか?」
「それも捨て難いけど、メイケイエールも外せないな……能力は確かなんだ、能力は」
「ちゃんと走れますかねぇ?」
「ま、そこだわな」
河削の後ろでレース関係者による出走者のレビューが行われているが、彼女は歯牙にもかけない。誰が何と言おうと、トレーナーとしてメイケイエールを応援するのみ。
そしてファンファーレが高らかに鳴り響いた。
『柔らかな日差しです東京レース場。今日のメインレースは京王杯スプリングカップ、GIIです。メンバー十二名となりました芝の千四百メートル!』
係員の合図に従い、メイケイエールら出走者がゲートに収まってゆく。
作戦はいつも通り。道中は先頭集団に入り、スパートで一気に前に出る。東京レース場はこれまでのレース場よりもホームストレッチが長いので、仕掛けるタイミングは気持ち遅めに。
走るには不利とされる大外枠だが、周囲に気を使う必要がなくなるのはむしろ好都合。
(……とにかく、結果を)
メイケイエールはゲートの中で一つ息を吐く。二人と一緒に走れるのは望外といえど、レースはレース。真剣勝負でなければ失礼だ。
ゲートの中で二、三回軽く跳ねる。コンディションは問題なし。
『やはり一番人気はメイケイエール! さあ桜花賞の雪辱を果たせるでしょうか!』
折角作ってくれたチャンスをみすみす逃す訳にはいかない。足元の芝を爪先で念入りに整える。そして呼吸を落ち着かせ、視線を前に。
『各ウマ娘、態勢整いました!』
「――ぁくちゅん!」
『スタート!』
ゲートが開くのとほぼ同時に、ミロワダーレの盛大なクシャミ。考えうる限り最悪のタイミング。
『――あーっと一人大きく出遅れました! 三番ミロワダーレ! 集団から五バ身ほど遅れてのスタート!』
「マジかチクショウ!」
機を失したミロワダーレ。集団から引き離された最後方からのスタートとなり、観客席からは溜息混じりの落胆の声が漏れ聞こえる。
元々彼女は後方に控えるスタイルを得意としている。出遅れにより致命的な不利はないとはいえ、挽回するのはシンプルに体力のロスだった。
『さあ好スタート好ダッシュは二番のリコンスタ! 集団から飛び出して先頭に立ちます! 外から続くは十番セクエンツィア!』
それとは対照的に、駆けて躍る芦毛の少女にファンは湧き立つ。どこか惚けた見た目とは裏腹に、スタートから鋭い加速で集団を引っ張っていく形となった。
「……
リコンスタはイメージ通りのスタートで不敵に笑みを浮かべる。そして、それをやや後方外側から眺めるのはメイケイエール。
『注目の十二番メイケイエールは現在五番手の位置!』
スタートは悪くない。最も大外の枠のため、多少ふらついても他者に迷惑を及ぼす可能性が大きく減る。懸念材料はないように思われた。
が、しかし――。
『……ちょっと落ち着かないかメイケイエール!?』
加圧インナーがどうにも息苦しく、メイケイエールは時折首を横に振る。インナー着用を決めたのは自分自身とはいえ、トレーニング中では気にならない圧迫感もレース本番ではまた違う感覚となった。
(ああもう! 苦しいし――脱ぎたい!)
確かに腕の横振りは抑えられたように思えるが、今はそれ以上に違和感が勝る。いっそのこと、走りながら脱ぎ捨ててしまおうかとも思うほどに。
そして、パノラマビジョンには丁度そのタイミングで、クローズアップしたメイケイエールが映し出されていた。
――血走った目で首を振る姿がカメラに抜かれ、場内の笑いを誘っていたこと、河削も複雑そうに乾いた笑い声をあげていたことは、当の本人は知る由もなかった。
『大ケヤキを抜けて第四コーナー、前半六百メートルは三十四秒四でいきました! さあ先頭はリコンスタ! リードは二、三バ身といったところ! メイケイエールは……どうやら落ち着きを取り戻したようです中団に控えて先頭から七バ身くらいの位置!』
東京レース場名物、第三コーナーの終わり付近に聳える大ケヤキ。この木の向こうを走り抜け、数多の伝説と悲劇が生まれてきた。
インナーの違和感にも馴れ、メイケイエールはコーナーの先、ゴール前の直線へと目を向ける。
青々と色づく芝がどこまでも。
踏みゆく脚は軽やかに。
昂る鼓動を胸に抱き。
(――いける!)
風を切り、呼吸を一つ。
そして見た。
歓声起こるスタンドの向こう、一人佇むゴール板。
態勢整えたメイケイエール。
――しかして彼女の視界に、リコンスタが横から入り込んでくるのだった。
『第四コーナー回って最後の直線、先頭リコンスタリードは二バ身! 内からセクエンツィアが追っていきます! おぉっと――』
スタンドからわぁっと歓声が上がった。
しかしそれは、メイケイエールに向けられたものではなく。
『やはりリコンスタ! 右へ右へ、外へ外へと
先頭をひた走っていたリコンスタだが、ここに来てコースの外側に向かって斜行し始めた。その姿を、観客は落胆どころか諸手を挙げて歓迎している。
リコンスタを人気たらしめる最大の要素、それがゴール前での斜行だった。普通は無意識により結果的に生じたもの、又は他者への妨害も含めて意図的に行われるのが常。
しかし彼女の場合、生まれつき脚にちょっとした問題があり、まっすぐ走ろうとしても右に寄っていってしまうのだ。
『そして内を突いてセクエンツィアが先頭を奪い取る!』
そのため、リコンスタは左回りのレース場でしか本領を発揮できない。右回りでは道中は限りなく外を走る不利を被り、ゴール前では外から内に切り込まざるをえず他者への進路妨害は免れない。
左回りのレース場は中央では東京、中京、新潟の三箇所のみ。生来のハンディキャップを抱えながらも、
(リコ……!)
それは無二の友であるメイケイエールも同じこと。だからこそ、一着を他の誰かに取られるのは気に入らなかった。
リコンスタが眼前を過ぎ去っていったのを合図に、メイケイエールの心が大きく燃え上がる。
「させません! 絶対に!」
『それを追って来たァメイケイエール! あっという間にメイケイエールが伸びてくる!』
まるでGⅠレースのような盛り上がり。ファンが求めていたメイケイエールが帰ってきたのだ。踊るように芝を駆け、ターフの
『メイケイエール抜け出した! 後続を振り切ってそのままメイケイエールゴールイン!』
メイケイエールが先頭でゴール板を駆け抜けた時、自然と拍手が湧き起こった。まだ終わりではない。まだ走れるのだということをアピールする最高の結果となった。
ただ、共に出たリコンスタとミロワダーレは不利が響き、八着と九着という結果に終わってしまっていた。
『勝ち時計は一分二十秒ニ! メイケイエールの見事な実力勝ちです!』
パノラマビジョンに併設されている着順掲示板。自身の番号の一着表示を上がる息もそこそこに、メイケイエールは見上げていた。
とても静かに、それでいて両の瞳をいっぱいに光り輝かせながら。
「――ぃやっ……たぁ……っ!」
観客席で一人、河削は天を仰いで小さく打ち震えた。これ以上ないほどの最良の結果。贅沢を言うならば、タイムをもう少し早くできればというところだが、この勝利に優る結果はないだろう。
この勝利は文字通り次に繋がる勝利。河削は顔を正面に戻すも、また一つの懸念が生じていた。
スパートで先頭に立ったメイケイエールのウマ耳がピンと立っていた。全力を発揮している場合、ウマ耳は後方へ引き絞って緊張した状態となっている。それが、彼女はというと絞っておらずに耳が立っていたのだ、。
余力を残していたのか、それとも気を抜いたのか…。
(――か〜わいいなぁ、エールちゃん)
河削はぺろりと舌を出す。
まだまだ彼女は完成にあらず。逆を言えば、更に伸びる余地があるということ。そろそろ夏合宿のプランを考える頃合だったが、これで方針が定まった。
「まぁとりあえずウィナーズサークルっと――ちょっとすみませ〜ん! 通りま〜す!」
しかし、まずは目先の勝利を喜ぶべきだろう。愛しのメイケイエールが待つウィナーズサークルへ、ごった返す観客を掻き分けながら河削が向かっていった。
次話はパラダイスステークスと夏合宿直前まで…といく前に、番外編として三人の馴れ初めを挟むつもり。