Blooming☆Yell!!   作:ルブク

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ようやくクラシック編のスプリンターズステークス。シリーズ当初はベネベネ(ヨカヨカ)をここまで絡ませる予定はありませんでした。
短距離路線を走った同期ということで、自分なりにストーリーに上手く組み込めたかなぁというところです。

人物紹介はこちら↓
https://syosetu.org/novel/342309/1.html


The 19th Yells 揺動のエール

心残りに秋の空

 日差し柔らかな秋晴れの空。レース当日を迎えた日曜日の朝、メイケイエールは学生寮の正面玄関で河削の車を待っていた。

 彼女は大きめのボストンバッグを一つ両手で提げるのみだった。その中に収められているはシューズや身の回りの道具等。

 今回の目的地は中山レース場。学園から車で一時間程度と比較的近く、前日入りする必要もない。勝負服も発送済みであり、手荷物一つで向かえるレース場なのだ。

 

 ――スプリントの祭典、スプリンターズステークス。

 

 名実ともにナンバーワンのスプリンターを決める一戦。我こそはという快足自慢が集い、一分弱という時間の中で激しい火花を散らす。

 前走、セントウルステークスでコースレコードを叩き出し、鮮烈な勝利を飾ったメイケイエール。事前の人気投票でも他の走者を抑えての一番人気となった。まさに三度目の正直、念願のGⅠタイトル獲得か! と方々で話題にもなっている。

 しかし、当の本人の顔は冴えなかった。抜けるような青空を見上げる横顔には一抹の寂しさがよぎる。それは数日前のこと、ベネベネから当面は実家で療養すると聞かされたのだ。

 

『ウチ……しばらく家に帰ることにしたよ』

 骨折による長期離脱が報道されてほどなくして、実家に帰ると本人から直接聞かされた。

『マシロはいっちょん構わんって言いよるけど、レースもあるとに……ウチなんかん世話で迷惑かけたくなか』

 マシロが目指す秋華賞もスプリンターズステークスの翌々週。そのような大詰めの時に足手まといになっては合わす顔もないと、彼女本人からの申し出を頑なに断ったのだった。

『授業はオンラインで受けらるるけん、まあ……何とかなるかな』

 学園側としても、一度実家に帰って療養することが最良であるとの判断だった。教育機関でありアスリート養成機関でもあるトレセン学園。重い怪我で走れなくなった者に対し、決して優しくはないのである。

 

 別れの挨拶もそこそこに、彼女は迎えに来た母親と共に熊本へ帰っていった。母親は和服を綺麗に着こなす人で、担当トレーナーへしきりに頭を下げて感謝の念を述べていた。

 まさか、自分に近しい人がこうなってしまうとは。身体を使う以上、負傷でしばらく休養というのは珍しい話ではない。

 しかしそれが足首ともなればウマ娘として致命的。現に、ベネベネはほぼ一年活動休止となってしまったのだから。

(ベネベネさん……)

 メイケイエールはボストンバッグをじっと見下ろす。ベネベネとの、果たさねばならない約束がこの中にある。例え気持ちが暗くとも、前を向いて走らなければならない。

 そうこうしている内に、河削が運転するワゴン車が寮の前に停まった。そそくさと荷物を後部座席に置き、当人は助手席へ。

「いいの? 後ろでもよかったのに」

「良いんです、ここで」

「エールが良いんなら……じゃ、いざ中山!」

 メイケイエールがシートベルトを着用したのを確認し、アクセルをゆっくり踏み込む河削。決戦の地、千葉県船橋市は中山レース場へ向け、一路車を走らせていった。

 

それは魂魄の赤

 朝の早い時間だからか、高速道路はスムーズに流れて昼前には中山レース場に到着した。宿舎の食堂で早めの昼食を済ませ、レース前の最終調整に(いそ)しんでいた。

 車内で縮こまった手脚を伸ばすかのように、メイケイエールは調整用のダートコースを走る。他のレースに出るウマ娘もいる中で、GⅠレースの出走者はやはり耳目を集めるようだった。

「やっぱり本命はメイケイエールか……? あのレコード勝ちは強烈だったな」

「でも暴走癖がなぁ。ラムナクリスやアイガーも良い感じじゃないか?」

「セントウルと同じ走りができれば問題ないって。不安要素としたら前走とあんまり間が開いてないってことくらいじゃないか? こりゃもう決まったようなもんだろ」

 コースの外で控える記者達も、八割方はメイケイエールが勝利すると予想しているらしい。ああだこうだと評する声を背中に受けながら、河削はコーナーの出口に視線を移した。

 コーナーを回り、彼女が帰ってくる。脚の動き、身体のブレは全く問題なしでいつもの走りだった。目の前を走り去るのと同時にストップウォッチを止める。

「――うん、いいね」

 急遽(きゅうきょ)セントウルステークスの予定を入れたため、これまでのスケジュールより詰まったものとなってしまった。

 スプリント戦なので疲労の蓄積は比較的軽いとは考えていたが。しかし当日、タイムを見るまではその不安は頭の片隅に常にあった。

「オッケー、エール。身体もほぐれたからいったん上がろうか」

「はいっ」

 後は控室に戻り、パドックの時間までに身支度を整えるのみ。このままそそくさと戻ってしまってもいいが、まだ余裕もあるので記者の質問に答えるのも良いだろう。

「――エールは先に戻ってて。ちょっと記者の人達にも挨拶してくるから」

「分かりました。勝負服に着替えておきますね」

「よろしくね〜」

 記者達の本命はメイケイエール本人へのインタビューだろうが。さすがにレース前のデリケートな時期、トレーナーとしてそのような愚を犯すはずもない。

「さてさて……皆さんお疲れさんです!」

「河削トレーナー! お疲れ様です!」

「おっ、高木ちゃぁん。何かインタビューする? 他の方々も……一つ二つなら質問答えられますよ」

 控室へ戻るメイケイエールを見送り、河削は記者の一群へ。高木を始め、調整の完成度はどうだの何だの浴びせられる質問。それらに対し、真正面から答え、あるいはいなすかのようにはぐらかしながら。

 メイケイエールへの注目度は依然高い。しかし個性派から実力者へと、その見る目が変わってきているのを河削は肌で感じ取っていた。

 

 勝負服を着るのは桜花賞ぶりである。光沢感のある黒の生地を金糸で飾り、シックに仕立てたパンツスタイルの勝負服。トップスはショート丈のジャケットで、背中側が燕尾服のように長い独特なスタイルである。

 ジャケットの前を首元まで締めても息苦しさは一切ない。サイズ直しをテーラーの荻野に依頼していたが、全くもって見事な出来栄え。合宿での成長分を完全に見切っていたかのようだった。

「エール、入っても平気?」

「あっ、はーい。どうぞ」

 丁度いい頃合いに河削が戻ってきた。控室の扉を開けて招き入れる。

 入ってくるなり、彼女はメイケイエールの頭の天辺から爪先までしげしげと眺める。二度三度と視線が往復し、陶然としながら感嘆の声を漏らした。

「……いつ見てもイイよねぇ。エールの勝負服」

「褒めても何も出ませんよっ。それと」

 黒く小さな革張りの箱を手荷物から取り出した。両手で収まるサイズであり、蝶番で開けられるようになっている。

「――リボンが、まだです」

 箱を開けると、中には黒いメッシュ地のリボンの耳飾り。河削が買ってくれたとても大切な物である。普段使いはどうにも畏れ多く、いざという時に着けるようにしていた。

「うん、そうだった」

 河削が耳飾りを両手ですくい上げるように箱から取り出し、メイケイエールの左耳の根元に留める。

 これで完璧。そう言いたげに河削は鼻息荒く頷いた。

「実は、まだありまして――」

「え? 何か足りないのあったっけ」

 持参したボストンバッグをゴソゴソ探し、件の物をその手に握る。

「これ、です」

「赤い……リボン? 妙に長いけど……こんなのエールの勝負服にあったっけ」

 メイケイエールが差し出したのは赤く細長い布。ベルトのような趣きで、折り畳まれた状態で透明な袋に納められていた。

(たすき)です」

「襷ってなん……」

 言いかけて、はたと止める河削。眼前の物が何であるのか察しがついたようで、袋の上から丁寧に撫でる。

「……ベネベネちゃんのか」

「はい。せめてこれだけでもと、私に」

 

『エールさん。厚かましかとは重々承知やけど――この赤襷。いっとう大切なもんやけ、せめてこれだけでん……連れて行ってくれんね……?』

 

 まるで彼女は縋りつくかのようだった。一縷の望みで蜘蛛の糸に手を伸ばして――実家へと帰る前に託されたのだ。

 和装がモチーフであるベネベネの勝負服。袖をたくし上げる襷を新調して大一番を迎えようとしていたらしい。

「この襷、私が身に着けるのはいけないでしょうか……?」

「うーん……服飾として未登録のものを着けて出るっていうのはマズいかも。バンデージみたいに脚や腕に巻けば、あるいは――」

 河削は口をへの字に曲げながら頭を捻った。レースにおける服飾はURAによって厳密に定められている。個々の勝負服も事前に申請した上で、レースでの着用が認められているのだ。

「ベネベネさんが託してくれた気持ちを、無駄にしたくないんです」

「――分かった、ちょっと考えてみるから。エールはパドックに行っちゃって。そろそろ時間だよ」

 言われて壁掛けの時計に目をやると、パドック開始まで後数十分というところ。河削にこの件を押し付けてしまうのはいささか心苦しい。だからといってパドックに遅刻する訳にもいかない。

 ただでさえ、本日最も盛り上がるメインレースなのだから。

「すみません――よろしくお願いします」

「任せて。行ってらっしゃい」

「行ってきます!」

 右手の親指と人差し指でOKサインを作り、河削は笑顔を見せた。きっとこの人なら何とかしてくれる。ふんわりとしながらしっかりとした確信と共に、後を任せてメイケイエールはパドックへと向かっていった。

 

 パドックの観覧席は隙間がないほどで、むしろ立ち見するスペースすら完全に観客で埋め尽くされていた。最大収容人数十七万人を誇り、国内で二番目の規模の中山レース場。メインレースの注目度は文字通り桁違いだった。

 

『一番、テムシュヴェルト――』

 

 アナウンスを合図に、それぞれの勝負服に身を包んだウマ娘がランウェイを()く。ポージングをしたり、パフォーマンスを披露したりと十人十色。

 推しの娘のアピールに拍手を送り、力いっぱい声援を飛ばす。GIIIやGⅡともまた違う、エネルギー溢れる空間が広がっている。

 メイケイエールはパドックの薄暗い舞台袖から様子を窺っていた。十三番で外目の枠番なので出番はまだ先。初GⅠで緊張している娘もいれば、威風堂々としている娘も。彼女自身、GⅠ経験は豊富――結果はさておき――なのでこの独特な雰囲気は少し懐かしくもあった。

 次々に呼ばれ、アピールを行い、そして下手側の舞台袖にはけてゆく。インカムを着けたスタッフがいつになく忙しそうに動き回り、この次の予定に先んじて対応している。レース場のスタッフ達がいるからこそ、ウマ娘はパドック、そしてレースに集中できるのである。

 

『十二番、ヴィエントボス――』

 

「メイケイエールさん、次なのでスタンバっといてください!」

 いよいよ十二番。スタッフに告げられ、舞台袖ギリギリに立つ。

 初めてではないのに、まるで初めてかのような心臓の鼓動。それはこのレースに絶対の自信があるゆえか。緊張とは少し異なる不思議な高揚感だった。

 

『十三番、メイケイエール。本日一番人気です』 

 

 さあ出番。

 颯爽と右脚を踏み出し、ゆっくり舞台に向かって歩みを進めた。

「メイケイエール! 待ってました!」

「エールちゃん、今日も頑張ってぇ!」

 弾けんばかりの一斉の歓声を浴びる。この場はまさに一人舞台。

 

『前走のセントウルステークスではレコードタイムでの見事な勝利でした。良い感覚で今日を迎えられているようですね』

 

 観客に向かって伸びるランウェイを進む。歩幅を広く、背筋をしゃんと伸ばして。

 

『直前の調整もかなり良い具合です。メイケイエールのGⅠタイトル、三度目の正直となるでしょうか。これは期待できると思います』

 

 パドック解説員のアナウンスもメイケイエールが栄冠を掴み取ることを予想している。一色に染まりつつある雰囲気の中、ランウェイの突き出た先端部で彼女は一回転。鹿毛の尻尾をなびかせつつ、蹄鉄を踏み鳴らしてピタリと止まる。

 そして頭を下げ、(うやうや)しく一礼。顔を上げると、期待に瞳を輝かせる観客達の表情が見えた。

 

 ――これだけの人が、私に期待してくれている――。

 

 脚元から強い力が湧き起こるのを感じながら、メイケイエールはにこやかに微笑んだ。

 

重すぎた『想い』

「運営に確認取ってみたけど、やっぱり勝負服に何か追加するっていうのはこのタイミングじゃ無理みたい」

 蹄鉄の音が響く地下バ道内、最終検査場への道すがら河削がメイケイエールに襷の件について説明する。

「ならバンデージやテーピングはどうかって聞いたけど、事前登録してないもの自体が駄目だって」

 電話越しに二言三言で終わらせパドックへ駆けつけるつもりだったが、蓋を開けてみれば認める認めないの押し問答。衣装を急に変更しようとしていると誤認されてしまったのが原因だった。

 どうにか誤解は解けたものの、そのせいでメイケイエールのパドックを完全に見逃す結果となってしまった。後から聞く限り、それはそれは素晴らしい立ち振る舞いだったらしい。つくづくもURAなど爆発してしまえと、内心毒づく河削であった。

「やっぱり難しいですね……」

「こればかりはねぇ。ひとまず検査場までは持ち込みできるから持ってきたよ」

 ジャケットの内ポケットから真っ赤な襷を取り出し、寂しげに笑うメイケイエールに手渡した。

「ありがとうございます。本当なら、ここで一緒に――」

 良いライバル関係になれるであろうベネベネが、完全に予想外の出来事でレースから離れることになってしまった。河削ですら唐突な離脱に唖然としたのだから、メイケイエールの受けた衝撃はそれこそ計り知れないだろう。

 彼女は真新しい真っ赤な襷を両手で伸ばし、頭上に掲げる。まるでベネベネの魂を表したかのような色鮮やかさ。無機質な地下バ道の天井で一層に映える。

「――これってさ、手縫いじゃない?」

 二人で眺めていて、河削が気づいた。

「えっ」

「ほら。すごくきっちりしてるけど、ミシンの縫い目じゃないよ」

 襷の端にある縫い目を指でなぞる。生地と同じ色の糸で、そこに縫い目があるとは思えないほどの馴染みよう。機械で縫ったものとはまるで違う感触だった。

「ベネベネさんが作ったということでしょうか」

 メイケイエールは何気なく襷を裏返す。そこに疑問への答えがあった。

「あっ……」

 ――熊本の星! ベネちゃんガンバレ!

 ――うまのおねいちやんだいすき!

 ――必勝祈願 目指せGⅠウマ娘

 裏側にマジックペンでメッセージが記されていた。様々な筆跡があり、達筆なものから小さい子が頑張って書いたと思われるものまで。老若男女、襷にメッセージを残していたのだ。

「これ、地元のファンの人達の手作り……かな。北九州記念の時に渡したのかも」

 九州出身のウマ娘はあまり多くなく、それゆえにベネベネの注目度は相当に高かった。

 それが地元で重賞タイトルを獲ったのだから、現地のファンが沸きに沸いたのは想像に難くない。有志を募って彼女に襷を贈る――メッセージを書き込む時の心境が心に浮かんでくるようだった。

「私……私、浅はかでした……」

 襷が細かに震える。いや、これはメイケイエールの――。

(まずい……!)

 心が揺れ動くのを感じ取り、河削はすぐさまメイケイエールの手に自らの手を添える。

「ベネベネさんがこんなに……沢山の方の想いを背負っているのに、気づかないで襷を着けたいだなんて……」

「エールは間違ってないよ。想いに応えようとするのは何も悪いことじゃないから……!」

 ――何と冷たい手だろう。

 これが、じきにレースに出る者の手なのだろうか。揺り動く心を落ち着かせようと彼女に声をかけ続けた。

「違うんです。そうじゃないんです」

 しかし、空虚な瞳で首を横に振る。

「ベネベネさんは地元の期待を背負って……それに、マシロさんも白毛のプライドと戦って……なのに、私は」

 か細く震える声。戸惑いと悲しみ、そして混じるわずかな怒り。

「何も考えず……レースに出て、勝って皆さんに元気を届けるだなんて……薄っぺらいにもほどがあるじゃないですか」

「エール。走る理由は人それぞれだから。誰かと比べられるものじゃないし、比べてはいけないの。あなたのだって十二分に走る理由だから、胸を張って。ねっ?」

 走る理由に重いも軽いも、ましてや尊いも卑しいもない。現にメイケイエールは多数のファンがいて、こうして支持を受けている。今までレースに真摯(しんし)に取り組み、(つちか)ってきた結果なのだ。これは揺るぎない事実。彼女が後ろめたく思う必要は一切なく、むしろ今までの実績は誇って良い。

 しかし、一度傾いた心を立て直すには時間があまりにも足りなかった。

「それでも……不安になってしまうんです。私は何のために走っているんだろう、と……」

「不安になるのは分かるよ。今この場で解ける問題じゃないってことも……」

 河削は俯くばかりのメイケイエールの両肩に手を乗せた。

「……でもね、覚えといて。あなたの後ろには、あなたの走りを待ってるファンがいるってこと。綺麗な走りに惚れ込んだファンが沢山いて、ずっと背中を押してくれてるってことを――」

 彼女の実力は本物だ。確かにレースでの挙動は怪しいものがあったが、それも(たゆ)まぬ努力によって評価されつつある。ファンが増えているのはまぐれでも偶然でもない。眩い輝きを持つからこそ注目を浴びているのだから。

「――はい」

「うん。エールがしてることは間違ってない。自信持って!」

 背中を軽く叩いて送り出す。

 しかし、河削から見ても今のメイケイエールは非常に危うい状態だった。セントウルステークスでの快勝、ベネベネの長期離脱と大きな出来事があったが、それが逆に心の均整(きんせい)が取れていたのだろう。

 そして託された赤襷によって、負の方向に一気に傾いてしまった。恐らく誰も悪気があってのことではない。メイケイエールを信用しているからこそ、せめてもの思いで託した。ただ、歯車が噛み合わなかっただけなのだ。

 そう、致命的に。

(エール……!?)

 メイケイエールの背中が透き通り、向こうの本バ場が見えた。

 しかし目を瞑って頭を振り、もう一度目を開けると黒い勝負服の背中だった。

 そして本能的に河削は悟る。

 

 ――メイケイエールの敗北を。

 

『さあ電撃六ハロン、スプリンターズステークス。十六名の精鋭が今年、どんな歴史を刻むのでしょうか。秋のGⅠ開幕戦、間もなくです』

 

 全員のゲート入りが終わり、観客はスタートを待ち望む。この場のほとんどが、お転婆お嬢様の勝利を確信していた。

 

『スタートが切られました! まずまず揃ったスタート……その中で内からは――逃げウマ、アイガーが先に行った! メイケイエールは外目を突いて前に、前から三、四人目辺りというところ!』

 

 先頭集団に取り付き、メイケイエールは順調そうに見えた。ただ一人だけ真実を知る河削は、ただの杞憂(きゆう)になって欲しいと切に願った。

 

『前半六百メートルの通過は三十二秒七、少し速いペースで行きました!』

 

 ペースも特に問題ない。前走と似たような展開で、観客もセントウル再びと言わんばかりに握り拳に力を込める。

 

『やはり逃げました! 先頭は一番テムシュヴェルト! そして続く二番アイガー! 十三番メイケイエールは前から四、五人目!』

 

 そして最後の直線へ。

 目が覚めるような脚がまた見られると誰もが期待した。

 しかし。

 

『坂を駆け上がって! 二番アイガーが先頭! 三分どころからラムナクリスも上がってくる! しかしまだ行く! まだ行く! アイガーが行く!』

 

 前に出るどころか、全く伸びずに後退していくメイケイエール。あまりの様相に、もしや故障ではないかと悲鳴を上げる観客もいた。

 

『外からも来ているが……勝ったのはアイガーだ! スプリンターズステークスを制覇したのは二番アイガー!』

 

 目を疑う光景だった。メイケイエール、まさかの十四着。凄まじい加速力は見る影もなく、何の見せ場もなく終わってしまった。

「エール……」

 スタンドには歓声と溜息が入り混じる。その只中、河削はメイケイエールの身と、その心を案じた。

 

私は何のために

(脚に、力が……)

 まるで達成感のないゴール。惨敗となったメイケイエールは肩で息をしながら呆然と立ち尽くしていた。両脚が自分のものではないようだった。

 どれほど力を込めようと全く前に進まない。気持ちだけは前に前に行こうとするも、それと反比例して後退するばかり。

 

『やりましたアイガー! 初のGⅠタイトルです!』

 

 大型ビジョンには一着となった黒鹿毛のウマ娘、アイガーが大きく映る。弾む足取りでスタンド前に赴き、全身でその喜びを表現している。

 

 ――もう、私はここにいるべきではない。

 

 他の出走者達を追って、メイケイエールも本バ場を後にしようとした。

「エールちゃん! 頑張ったね〜!」

 地下バ道の入り口に差し掛かった時、不意に声をかけられて脚を止めた。そして顔を上げる。

「今回は残念だったけど! また次があるから! 応援するからね〜!」

 ファンからの声援だった。

 あのような無様な姿を晒してもなお、変わらずに応援してくれている。見える範囲だけでも何人も。しかし、明らかに失望の表情をしているファンも少なくない。彼らの期待をも裏切ってしまったのだと、心も脚も重くなる。

 せめて、何かできることはないのだろうか。

「――応援、ありがとうございました……っ!」

 スタンド三方に向け、ひたすらに頭を下げる。これで足りるとは思えないが、これしかできなかった。

 

「お帰り、エール」

「河削さん……」

 地下バ道に戻ると、いの一番に河削が出迎えてくれた。何も言わずにただ穏やかに、メイケイエールを抱き寄せて頭を撫でる。

「頑張ったね。お疲れ様」

 あのレース振りは彼女も見ていたはずだ。

「この後ライブだけど……大丈夫? ココアか何か持ってこようか?」

「……いえ……ありがとうございます」

 それなのに何も言わず、ただ労ってくれる。彼女もこのレースに大いに期待していた一人に違いない。それすら応えられなかったことに、鼻の奥がツンと痛くなる。

「河削トレーナー、エールさん――」

 レース後のインタビューをしに来た高木も声をかけ難そうにしていた。しかしそれを生業とする身である以上、その役目は果たさなければならなかった。

「今回、残念な結果となりましたが……敗因としては何が挙げられますか?」

 それは、レース直前で心を乱した自らの弱さ。少なくともメイケイエールはそう自覚していた。

「そうですね……ちゃんと分析しないと何とも言えませんが……」

 だが自らの意思に反し、言葉は一切出てこなかった。代わりに河削が淡々と応対していく。

「前がレコード勝ちでしたからね。意識してなくてもその疲れがあったのかもしれないです」

「そうですか――次の予定は決まっていますか?」

「いえ、まだです。レースの疲れの残り具合を見極めてから判断したいと思います」

 至って事務的に対処する河削が実に頼もしい。もし自分自身がインタビューに答えようとしていたら、変な憶測や誤解を生んでしまうかもしれない。全く関係ないベネベネにも迷惑が及んでしまうかもしれない。

 そうなっては、もう彼女に顔向けなどできなくなってしまうだろう。

「分かりました。ありがとうございます――エールさん」

 メイケイエールの名を呼ぶと共に、高木はボイスレコーダーの電源を落としジャケットのポケットに収める。

「は、はい」

「どんなことがあっても、私はエールさんのファンですよ」

 眼鏡の奥に輝く瞳はとても優しげにメイケイエールを映していた。

 それはとても心強く、ありがたいことに違いない。しかし時として心の重しとなることを、改めて身を以て実感するのだった。

 

冷焔は消えることなく

 九州の夕空は真っ赤に燃え上がる。

 雄大な阿蘇山を背景にして、立派な枯山水を備える邸宅がベネベネの実家である。その広々とした居間の大型テレビで、彼女は松葉杖を傍らにレース中継を見ていた。

 華道の家元というお家柄、部屋着として紺地に紅葉の浴衣姿で。

「あ……」

 その彼女の震える手からリモコンが離れ、畳の上を音を立てて転がってゆく。

「あら……どぎゃんしたと?」

「……かあさま」

 偶然通りがかった彼女の母親がリモコンを拾い上げる。

 テレビに目をやると、レースの勝利者インタビューが始まるところだった。黒鹿毛のウマ娘が額に汗を輝かせながら、溌剌(はつらつ)とした受け答えをしている。

「これ、貴方(あた)が出ろうとしよったレースね」

 母親は拾ったリモコンを返そうと差し出した。しかし、俯いて彼女は力なく首を横に振るのみ。

「……ウチが、いたらんことしたばっかりに……エールさんを勝てんくしてしもうた……」

「詳しゅう、聞かせて?」

 力なく項垂(うなだ)れるベネベネの元で母親は膝をつき、娘の手を両手で包む。そして、ぽつりぽつりと語りだした。

 皆が作ってくれた赤襷。その想いを無駄にするのが惜しく、せめてこれだけはとメイケイエールに託したこと。その彼女がレースで大敗を(きっ)したことを。

「――そうやったんね」

「大切なレース前なんに、ウチんわがままでエールさんに負担かけてしもうて……勝てんだったんも、きっと」

 メイケイエールも多数のファンの期待を背負っている。それこそ自分の比ではないほどに。そのような状態なのに、自分本位な考えで押し付けてしまったのだ。

 彼女は優しいからきっと受け取ってくれる。だから中山レース場に襷だけでも連れて行ってくれるはず。

「どうしようかあさま、エールさんに顔向けでけんよ……!」

 声を上擦らせながら、母親の袖に縋りつく。

 あれは自分で持っていかなければいけなかったのだ。安易に頼ってしまったから、人の善意につけ込んでしまったから。

 スプリンターズステークスという大舞台を台無しにすることをしでかしたのだ。どの面を下げてメイケイエールに会えようか。

 

 バン!

 

「ぅ!?」

 突如、背中に強い衝撃が襲う。一瞬、呼吸が止まった感覚に陥った。

「ほら、しっかしなっせ!」

 母親が、空いている方の手でベネベネの背中をしたたかに打ったのだった。目を白黒させながら母親の方に顔を向ける。

「あん子もプロんアスリートなら、勝負ん世界が厳しかことだって分かっとろうよ。もう済んだこと、それば貴方はメソメソと……そっが一番失礼なんやなかと? 違う?」

 傷心などお構いなしの容赦なさ。

 衝撃も落ち着き、じんと痺れる背中を擦りながらベネベネは苦笑い。

「まったく……かあさままでマシロみたいなことを……」

「言われとうなかったら、まずは背中ばしっか伸ばしなっせ。話はそれからよ」

「華道ん家元とは思えん雑さやなぁ……」

 母親はその世界ではそこそこ名のしれた人物である。活ける花は繊細さと優美さ、そして豪胆さを兼ね備えていると専らの評判だった。

「それ以前に、うちゃ貴方(あた)ん母親よ! 何考えとるかなんてまるっとお見通し!」

 立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花――人は母をこう評する。もし今の姿を見たらなんと思うだろう。

 まあ、他人がどう思おうが頼りになる母親に間違いないのであるが。

「さて……」

 裾を押さえながら母親がゆっくり腰を上げる。

「今日は太平燕(たいぴーえん)作ったけん、貴方(あた)好きやろ。沢山食べなっせ」

「学園戻るまでに相当太りそうやけど」

「あら、昔みたいにコロコロぷにぷにしとっとも好きよ?」

 ベネベネとその母が顔を見合わせ、ふふっと笑う。

 暮れなずむ火の国、その中で一つの火が灯る。それは弱々しいものだったが、決して消えることなくゆらりゆらりと燃え続けていた。

 

 




次話は武蔵野ステークス。
次でクラシック級のレースは一段落って感じになるかと。

※スプリンターズステークスのウマ娘読替え一覧
ジャンダルム→アイガー
テイエムスパーダ→テムシュヴェルト
ナムラクレア→ラムナクリス
ヴェントヴォーチェ→ヴィエントボス
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