本格的な出番を前にオリヒメ顔出しを兼ねて、今後の展開のために一石を投じる感じで。
オリヒメ以外の名古屋トレセン生徒会のメンツについてはまた追々…。
人物紹介はこちら↓
https://syosetu.org/novel/342309/1.html
君はアイドル
名古屋レース場、日の出賞。折良くレースを観戦できたメイケイエールは眼前を駆けていくウマ娘達に檄を飛ばす。
「みなさーん! 頑張ってくださーいっ!!!」
ゴールに近づくほどに足音轟き、砂塵が高く舞い上がる。中央のレース場とは一味違う臨場感に胸が高鳴る。それはまさに、出走者達の鼓動が伝わってくるようだった。
しかし隣のオリヒメは、周囲の観客がメイケイエールの存在に気づき始めているのを感じ取っていた。今はまだレース中だからか、遠巻きに様子見をしているだけだが……。
『さあ第四コーナーを回って最後の直線! 先頭を逃げるのはナンプウハヤテ! その後を追うメイスペース! 後続のウマ娘も前に前に上がっていきます!』
ほぼ一団となったラストスパート。地響きと共にゴールに向けて走る様は圧巻の一言に尽きる。
『先頭はナンプウハヤテ! 追いすがるメイスペース! おっと後方からチョコレイトサンデーが強襲、一気に追い抜くか!?』
ゴール前残り100メートル。ここで後ろにいた焦げ茶にも似た深い鹿毛のウマ娘が、怒涛の追い込みで先頭を奪い取る。最後の最後まで脚を溜め、ここぞという場面で解き放ったのだった。
『チョコレイトサンデーがナンプウハヤテをかわし――そのままゴール! 一着はチョコレイトサンデーです!』
そして完全に抜き去ったところがゴール板。見事な追い込み劇にメイケイエールはもちろんのこと、観客席のあちこちから拍手が上がった。
「すぐ目の前を走っていくのは凄い迫力ですね!」
自身が走るのとはまた違った興奮に頬を上気させる。大型ビジョンには、一着となったウマ娘が観客席に向けてアピールする様子が大映しにされていた。
「レース後はスタンド棟に隣接する芝生広場に移動します。そこに円形ステージがありますので、上位三名でのウイニングライブとなります」
「三名だけなのですね」
「はい。重賞レースならフルメンバーでのライブですが、通常のレースなので」
これも地方と中央の違いのようだ。確かに、上位三名の娘コースから専用通路で広場に向かおうとしている。細かい形態に差異はあれど、レースの決着からウイニングライブまでの慌ただしさは変わらないらしい。
「ではメイケイエールさん。私達も――」
オリヒメに促され、ライブステージの方へ移動しようと腰を上げたその時だった。
「……あの、エールちゃん……ですよね? あ、明けましておめでとうございます」
遠巻きに伺っていたファン。その一組がこのタイミングで声をかけてきたのだ。
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「はい。明けましておめでとうございます」
急な声かけながらもメイケイエールは落ち着き払っていた。居住まいを正し、
「すごーいっ! 本物のエールちゃんだっ!」
「もちろん正真正銘、本物ですよ。近くにお住みのお方でしょうか?」
「あっ、私達ウマ娘のレース観るのが好きで……名古屋なら新年から走ってるって調べてきたんです! あっあの――もしお時間あったら握手してくださいっ!!」
周囲もにわかに慌ただしくなりつつあった。間近に中央で華々しく活躍するウマ娘がいるのだから、当然といえば当然でもあるが。
そして、オリヒメが誰にも聞こえないよう、細心の注意を払ってささめいた。
「今はプライベートですし――」
――断るのでしたら、私も一緒に頭を下げますから。そう、彼女は
しかしメイケイエールは首を横に振る。
「いえ、こうしてお声を掛けてくださった方を
「ぅわーっ!? そんなことないですよ!? あのエールちゃんに握手してもらえるなんて――一生の思い出にしますよっ!?」
「もう、そんなたいそれたものではありませんよ。いつも応援、ありがとうございます」
差し出された手をメイケイエールは両手で包むように優しく握る。ファンの緊張がほぐせるよう、向ける微笑みを絶やさずに。
「あ――ありがとうございますっ!」
「今年、高松宮出ますよね!? エールちゃん絶対に応援しますから!」
そんなことをされては、ファンのテンションはうなぎ上りである。最高潮を突き抜けてなお勢いは天井知らず。
「オフィシャルな話ですので明言できなくてすみません。ですが、出た時は精一杯の走りをお見せしますので、応援よろしくお願いします」
高松宮、スプリンターズと出ることは確定事項なのだが、正式な出走予定の発表はこれから。どこから話が漏れるか分からないため、こういったファンとの会話は一番気を使う。決して疑っている訳ではなく、線引きは厳にしておかなければならないのである。
そうでなくとも――。
カシャッ
「あっ」
メイケイエールはカメラの音で、周囲に人が集まっていることに気がついた。皆スマホを片手に、写真を撮るなり何なりしている。
「あの……俺も握手いいっすか?」
「あ……はい、もちろんです」
ついで、照れくさそうにしながら青年が前に進み出る。同じようにお礼の言葉と共に、両手で優しく青年の手を握る。手の動きがぎこちなかったのは寒さのせいか、緊張のせいか。
「ありがとうございます! 次のレースも応援しますっ!!」
礼儀正しく青年は頭を下げた。
「――メイケイエールさん。少し集まりすぎているようです」
少し離れていたオリヒメから再びの耳打ち。
周囲を見回すと先ほどよりも取り囲む人数が多くなってきていた。メイケイエールが名古屋レース場でレース観戦とSNSで話題となり、レース場内の方々から人が集まってきていたのだ。
それはスタンド棟の中からであったり、ライブステージのある広場からも。
「ここでは目立ちます。レース場の運営の方に相談しまして、スタンド棟の二階の一部を間借りさせてもらえました。続きをなさるのならそちらに移動しましょう」
「――すみません、わざわざお手数を」
「構いません。ファンの方を大切にしたいのは私も同じですので」
さすが生徒会長を務めているだけある手回しの早さ。もしメイケイエール一人であったのなら、人が集まりすぎて収拾がつかなくなっていただろう。案内役がオリヒメで非常に助かったと言う他なかった。
「――皆様、レース場の方に場所を用意していただきましたのでそちらに移動します。メイケイエールさんとの握手をご希望される方は
オリヒメが一歩前に出て声を上げる。とにかく、ここはスタンドの観戦エリアである。レースに関係なく人が集まるのは望ましくない。
「ということですので場所を変えたいと思います。ご面倒おかけしますが……どうぞよろしくお願いします」
二人して頭を下げる姿に、ファンから文句が出るはずもなかった。むしろ思いもよらないイベントに心躍らせるほど。
しかしオリヒメはわずかながら表情が曇っていた。これから先ほどのレースのウイニングライブが始まるというのに、広場から握手会目当ての人の流れが増えていたのだから。
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亀裂
メイケイエールの即席握手会、当初は数名で終わるはずが、最終的に二百名は優に下らない結果となった。訪れる一人一人の手を両手でしっかり握り、目を見て一言二言交わすという一連の流れ。数名ならどうということもないが、それが三桁ともなるとそれなりの時間を要することに。
事前告知もない突発的なイベントなのに、よくぞここまでの人数が集まったものだ。
「メイケイエールさん、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした――列の整理まで手伝っていただいて、本当に――」
握手会が終わり、諸々の片付けを済ませて一段落。スタンド棟二階のベンチに腰掛けたメイケイエールは最大の功労者、オリヒメに深々と頭を下げる。臨時の握手会を滞りなく終えられたのは、間違いなく彼女の功によるところが大きい。
人が過密して混乱が生じる前にレース場側と調整して臨時の場所を設け、移動した後も待機列の整理等に気を配ってくれた。もしレース場の案内役が彼女でなかったのなら今頃どうなっていたことか。
「冷たいお茶ですが、どうぞ」
「あ、どうも――」
「右手は平気ですか。必要なら救護室で
オリヒメからペットボトルのお茶を受け取る際、自身の右手が赤くなっていたことにようやく気づいた。一人一人は訳なくとも、それが数百人に及べば話は別である。
それにしても良くやったものだとメイケイエールは感慨に浸る。
「ありがとうございます。これくらいなら少し置いておけば治りますから」
「そうですか――」
ふとメイケイエールのスマホから、着信を知らせるバイブ音が響く。河削からだった。
オリヒメに目配せをすると、彼女は小さく頷いた。振動し続けるスマホ片手に建物の隅に移動し、スピーカーモードで電話に出た。
「もしもし、河削さん?」
『ゴメンね、私んとこ今終わったとこ! ちょっと話が盛り上がっちゃってさ〜』
「大丈夫です。私も用事が今終えたところですので」
『もしかして握手会? ネットで話題になってたよ、エールがここでゲリラ握手会やってたって。手とか痛めてない? 大丈夫?』
「はい、全然へっちゃらです」
――赤く腫れてしまっている以外は。
それにしても噂が伝わるのが早い。遠巻きで写真を撮っている人がいたのは認識していたが、河削が認識するほどに広がるとは思っていなかった。不用意な発言をしなくて良かったと、改めてメイケイエールは胸を撫で下ろした。
『じゃ、エールのお父さんに声かけてくるから。正門前のとこで待ち合わせね』
「分かりました。それではまた」
『うん。じゃあね〜』
通話を終え、オリヒメの元に戻る。
「すみません、お待たせしました」
「いえ。トレーナー様のご用事がお済みになりましたか?」
「はい。正門の前で待ち合わせになりました」
「分かりました。そこまでお送りしましょう」
疲れたような素振りが一切見えない、涼しい顔のスラリとしたオリヒメの立ち姿。握手会の最中は待機列の整理や注意事項の呼びかけ等で、一瞬たりとも休む暇もなかったはずなのだが。
大人そのものの立ち居振る舞いにある種の尊敬の念が湧く。歳もそれほど変わらないはずなのに、自分自身との違いはどこから来るのだろう。前をゆくオリヒメの背中に羨望の眼差しを向けつつ、メイケイエールはスタンド棟を後にした。
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「お忙しいのに、今日は本当に、本当にありがとうございました」
正門口のゲート前で、メイケイエールは改めてオリヒメに頭を下げた。
「いえ、私は何も」
彼女は正に頼れるお姉様という印象。むしろ本当に姉であれば良かったと、少々突飛な妄想に至るほど。
「あ、あのっ……また名古屋に来ることがあれば名古屋トレセンやレース場にお伺いしてもいいでしょうか……?」
テーブルを挟み、オリヒメとお茶会を。東京から茶菓子を持参して、色々なことに話を咲かせる。きっと彼女となら、有意義な時間となるだろう。
メイケイエールはそう期待していた。していたのだった。
「――そのことですが」
オリヒメはメイケイエールを正面に見据えた。
そして平然と言い放つ。
「今後、名古屋トレセンおよび名古屋レース場にお越しいただくのはお控えいただきます」
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交わらない正義
淡々と、まるで世間話をするかのようだった。怒りも憎しみも何もなく、それはごく自然に。
「え、あっ……?」
頬に全力の平手打ちを食らったような衝撃をメイケイエールが襲う。一体何を言われたのかまるで理解が追いつかなかった。ただ呆然と口を開いては閉じるを繰り返す様を見ながら、オリヒメはなおも続ける。
「メイケイエールさん。名古屋は貴方を望んでおりません」
それは明確な拒絶。
「待ってください! 確かに……案内してくださっている時に不用意な真似をしてしまい、ご迷惑をおかけしたことは私に非があります。ですが――!」
握手会の開催でオリヒメを初め、レース場の職員にも多大な迷惑を及ぼしたのは紛れもない事実。それについて
「――そうではありません」
食い下がろうとするメイケイエールを振り解くかのように、オリヒメは静かに首を横に振る。
「貴方はファンの方の申し出に
では何がいけなかったのか。不気味なほどに表情が変わらない彼女の、次の言葉を待つ。
「気づかれていましたか? 貴方が外の観戦エリアでファンの方と握手をなさっていた際、隣の広場から多くの方がこちらに流れてきていました。これから広場でウイニングライブが始まるというにも関わらず、です」
「……!」
言葉が出ない。
目の前のファンに対応するのに集中していて、人の流れを意識できていなかった。自らの軽率な行いが、一生懸命に走って勝ち取った勝者の権利に泥を塗ったのだ。気づかなかった、で済むような問題ではない。
「レースをご覧になった通り、私達も日々切磋琢磨を繰り返しています。ですが――何もかも違うのです。中央とは」
オリヒメは
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年々開くばかりの中央との実力差。中央所属のウマ娘も出走可能である交流重賞、その勝者は十年以上
レース場の集客も頭打ちを迎えていた。ナイターでレース数を増やし、ネットでの視聴体制を整えてやっとの有様だと。
「弱々しく光る星々は、明るく輝く一等星の前には夜空に紛れるばかり……メイケイエールさん。貴方の光は私達には強すぎるのです」
明瞭に、はっきり聞き取れる彼女の声。険しい顔をする訳でも、声を荒げるでもなく。淡々に伝えるその様に確固たる決意を感じ、メイケイエールは恐怖すら覚えた。
「確かに……私は無遠慮でした。中央と地方での違いを気にすることもなく、ただはしゃぐばかりで……」
震える手に上ずる声。顔面蒼白になりながらも、メイケイエールはオリヒメの手を取った。
「でも、私達だからこそ、名古屋レース場やオリヒメさん達のためにできることがきっと……!」
具体的な策がある訳ではない。まったく衝動的な行動だったが、もしここで手を取り合うことができれば、名古屋の現状も変えられるのではないか。
何でもいい。何でもいいから動いていなければ膝から崩れ落ちてしまいそうだった。この底なし沼から抜け出せるよう、オリヒメの手に
「貴方は、レースを観てくれる方々に元気を送るべく走っているのでしたね」
「は、はい。そうです――沢山の人に元気をお送りできるように……」
プロフィールではそのようになっている。レースに出て、走り、そして勝ち。それを通じて、レースを観てくれる人達に恩返しをと。もっとも、今は絶賛迷走中ではあるが。
「ならば問います」
彼女の冷たい視線が心を貫く。
「その元気を送る先には――レースに勝てない者、出たくても出られない者は含まれていますか?」
「えっ、あ、その……申し訳ありません」
「謝られても困ります。私は貴方に
無言の圧力にメイケイエールの息が詰まる。首根っこを掴まれ、そのまま頚椎諸共握り潰されそうな感覚だった。
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「か、考えも……して、いませんでした……」
やっとのことで声を絞り出した。脚が竦み、身体にかかる重力にすら負けてしまいそうになってしまう。
「貴方は恵まれています。優れた才能に優れたトレーナー、優れた施設……全てを持つ貴方に、背後でもがき苦しむ持たざる者は見えないことでしょう」
ジュニア級とクラシック級で合わせて重賞五勝。GⅠタイトルはまだであるが、むしろそれだけである。重賞を一つ勝つのも難しい世界で既に五勝、しかもその中にはレコードタイムでの勝利も含む。
メイケイエールが持つ才能を疑問視する声は最初は確かにあった。しかし勝利を重ねるにつれ消えていくのと同じく、彼女の心の奥底に勝って当然という黒い塊ができあがっていた。気がつく間もなく、それは徐々に大きくなっていったのである。
「考えた上で除外されていたのなら私は何も言いません。しかし、考慮もされていないと貴方は仰いました。要するに目に見えた分だけ、貴方ご自身が見たいものだけしか見えていないことに他ならないのではないでしょうか」
助けを
「それでいて、貴方は人々にあまねく元気を送ったつもりになっておられて――不完全です。貴方の理論は肝要な部分が欠落した、まったくもって不完全なものです」
要するに、自分でやったつもりになっているだけだと。
「先程のお申し出――確かに、中央と地方が手を取り合い、現状を打破することは私もやぶさかではありません。ですが、今の貴方とではうまく事が進むとも思えず――」
一歩二歩と後ろに下がり、オリヒメは畏まって頭を下げた。
「申し訳ありませんが、名古屋トレセンの生徒会長としても私個人としても、貴方のお話には乗りかねます。メイケイエールさんの今後益々のご活躍をお祈りさせていただきます――ごきげんよう」
その場で踵を返し、オリヒメは平然とした足並みで立ち去ってゆく。一連のよどみのない所作に、メイケイエールは何も言えずにただ立ち尽くし、見送ることしかできなかった。
自己という木の根元が大きく抉られ、右に左にと危なげに揺れる。自らの名にもある、他者への応援――エール。今まで行ってきたことはただの自己満足なのだろうか。走って勝って皆を勇気づけて、というのはエゴなのだろうか。そもそも、皆を勇気づけるなどただの思い上がりではないだろうか。
地面に張り付いた脚のまま、思考はひたすら堂々巡り。身体を繋ぎ止める糸は蜘蛛の糸よりも細くか弱い。しかしそれでも、風がそよと吹いただけで崩れ落ちる自らを食い止める、頼みの綱に他なかったのである。
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オリヒメと別れてほどなく、入れ替わりのような形で河削および父親と合流した。それぞれ目的を果たせたようで、メイケイエールはただ一人心折れる寸前である。
「今日は同行させていただきありがとうございました。おかげさまで有意義な意見交換ができました」
「それは何より! エールもオリヒメ君に案内してもらえて良かったんじゃないかい? 握手会を手伝ってもらったようだね?」
「ええ、まあ……」
車のバックミラーに映る父親へ、ぎこちない笑顔を向けるメイケイエール。とてもではないが、オリヒメの一件について話すことはできない。
話して河削に慰めてもらうのか? 父親に泣きつくのか?
――それこそオリヒメに笑われてしまう。
これはあくまでも自分自身で答えを見出さなければならないのである。
「オリヒメ君も正月早々から忙しそうだったねえ。さすが名古屋のレジェンド」
「生徒会長と現役アスリートの二足の
やがて車は一般道から高速道路へ。本線に合流するため、三人を乗せた車が力強く加速する。
「それはそうでしょう。中等部一年の夏にデビューして毎月二つ三つはレースに出てますからねぇ」
「彼女、今年で高等部三年になるんですよね? 五年ずっととなると、単純計算でも出走回数が百二十回近く……」
「NAUとしての公式記録だけなら、ですけどね。彼女は下部組織のプレユース、ユースとずっと走ってきてるので、かれこれ十年くらいは走ってるはずですよ。延べ出走回数は――三百くらいだったような」
「マジすか!」
思わず素の反応が出てしまい、河削は咄嗟に自らの口を手で押さえた。数年間の現役生活で二桁に到達すれば十分走っている方。二十、三十ともなれば、その頑健さから『鉄の娘』という異名がつき始めるほどである。
芝とダートでの脚への負担の違い、また全体的に距離が短い幼年期のレースを考慮に入れたとしても、三百はもはや異次元の数字。十年近く走れるコンディションを維持してきたことに他ならず、まさにレジェンドという呼び名が相応しい。
「名古屋トレセンといえば誰か、を聞いたらオリヒメ君の名前を挙げる人がほとんどだと思いますよ。なんといっても、一日警察署長を務めたこともあるくらいですからね――まあ、うちのエールも負けてはいませんが」
「なるほど……いつか本人に体調維持の方法とか聞いてみたいですね」
湾岸線を流れに沿って進む。高速で過ぎ去る港湾を眺めつつ、メイケイエールは河削と父親の会話を気もそぞろに聞いていた。
――私は何のために。そして何をしているのだろう。何で勝とうとしているのか、何で勝たなければならないのだろうか。勝負の向こうには何があるのだろうか。
彼女は分からなかった。
分からないことが分からなかった。
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太陽はいつしか天頂を過ぎ、徐々に西の空へ傾きつつある。名古屋レース場での諸用を済ませたオリヒメが広場のベンチに腰かけ、テイクアウトしたブラックのコーヒーを飲もうとしていた。レースも一旦は中休み。元日ということもあり、人の入りは普段よりも気持ち少なめといったところ。
「――っ」
湯気が立つコーヒーを一口、そして顰める眉。それはコーヒーの苦さではなく、自らの愚かな言葉を思い出したから。
『今後、名古屋トレセンにも、レース場にも……お越しいただくのは控えて頂きたく』
『メイケイエールさん。貴方の光は私達には強すぎるのです』
(何という愚かな――)
レースに出ようとした訳でもなく、名古屋を茶化しに来たのでもなく。ただ親御に付き添い、名古屋レース場に観戦に来ただけの彼女に無礼極まりない発言。
「きっと、来ていただけることはないのでしょう」
寂しげにポツリと呟く。丁重に
メイケイエール――名古屋トレセンの生徒にも彼女のファンが数多くいる。同郷の者ということもあるだろうが、目の前にして改めて彼女の魅力を再認識した。
ただそこにいるだけで雰囲気が華やぎ、周囲が柔らかな輝きに満ち溢れる。これが中央の第一線で活躍する者なのだと、多くの生徒が憧れるのも頷けた。しかしそれと同時に、住む世界がまるで違うのだということも。
――♪♫♪♫♪♫♪♫
陰鬱で重苦しい溜息を吐いている最中、スマホが着信を知らせた。生徒会のグループチャットからの発信だった。
「もしもし? ええ、はい。一通り終わったのでこれから戻るから――そうね、皆で行きましょう。初詣」
生徒会メンバーからの帰りの催促。スピーカーの向こうから、おどけながらもオリヒメを非難するような声が聞こえた。ありふれたいつも通りの雰囲気に、幾ばくか軽くなる心。
――名古屋のためなら、喜んで泥水を
身も心も礎にするという揺るがない決意。残りのコーヒーをぐいと飲み干してハンカチで口元を拭う。そして白く濁る息をその場に吐き残し、帰るべき場所へ帰っていった。
次話は新学期のイベントいくつかとシルクロードステークスを予定。
これでようやく、メイケイエールの勝ち鞍を網羅できます。