Blooming☆Yell!!   作:ルブク

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甘い香りに想いを乗せて。

という訳でバレンタインデーのイベント的な話。ゲストとしてユキノビジンを再登場させましたが、最推しなのでもう何回か登場してもらおうかなと。

人物紹介はこちら↓
https://syosetu.org/novel/342309/1.html



The 26th Yells 慈しみのエール

Sweet Sweety Sweets

 二月某日、トレセン学園内は甘美な香りに包まれる。ある者は目を閉じ恍惚(こうこつ)に浸り、ある者ははち切れんばかりに高鳴る胸を抑え、またある者はその想いを形に作り……。

 そう。来たる二月十四日の聖バレンタインデー。乙女にとっては運命をも変える一大イベントと言えよう。めいめい、その日に向けて慌ただしく動き始めていた。

「ミロワに、リコに、河削さん、マシロさん……クラスの皆へも……」

 送り先を記したメモを片手に廊下を歩くメイケイエールもその一人。もう片方の手には、はち切れんばかりに膨らんだエコバッグが。中身はチョコやマシュマロといった製菓材料でいっぱいだった。

 

 向かう先は学園の調理実習室。普段なら担当教諭に一言伝えれば使わせてもらえるのだが、この時期だけは事前予約制に変わってしまう。それだけ、特別な人には手作りのチョコを渡したいということなのである。

 予約の時間が近づいたので向かっていた時のこと。廊下の角を曲がったところで、長い白毛の生徒とばったり鉢合わせとなった。

「わっ、マシロさん?」

「あら」

 ぴたと立ち止まり、互いに目をぱちくり。

「すみません。少し考えごとをしていまして」

 ぶつかりそうになってしまい、頭を下げて詫びるメイケイエール。

「いいのよ。それより――」

 全く気にする様子もなく、マシロはおもむろに膝を曲げて腰を落とした。彼女が床から何かを拾い上げるのと同時に、自らの手からメモが滑り落ちていたことに気づく。

「――これ、落としたわよ」

「あっ、ありがとうございます」

「バレンタインデーのリストでしょ? 結構大勢に渡すのね」

「はい。友人やお世話になっている人とか考えたらこの人数になってしまって……」

 リストに挙げた人数はざっと十人以上。そこまで大がかりなものでなくとも、全員分用意するとなるとなかなかに骨が折れる作業だ。

 しかしこれも恒例行事であるがため。避けては通れない道なのである。

「その、良かったらなんだけど……」

 珍しくマシロが所在なさげな様子だった。自らの白毛を人差し指に巻きつけながら、きまりが悪そうに視線を落とす。

「……私も手伝っていいかしら? で、その代わりに――幾つか分けてほしいのだけど……」

 思いがけないマシロのいじらしい姿を前に、メイケイエールは即座に彼女の手を取る。

「もちろんです! どなたにあけるんですか!? もしかしてトレーナーさんとか?」

「――ベネにあげようと思って。いいかしら?」

「それはもう!」

 マシロの答えはほんの少しだけ想定外だった。しかしその願いを断る者がどこにいようか。いやいるはずがない。この時期、乙女の願いを阻む者は誰であっても万死に値するのである。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 話は即刻纏まり、メイケイエールはマシロと二人で調理実習室に向かった。

「そういえば、ベネベネさんの脚の具合はどうですか?」

 話題は自然とベネベネに。風の噂ではチーム練習にも戻ってきているというが。

「ええ……怪我はすっかり良くなったわ……怪我はね」

 しかし台詞とは裏腹に、マシロの表情は暗く淀む。

「では……?」

「……怖いらしいの。走るのが」

 メイケイエールはぱたりと脚を止めた。時折顔を合わせるベネベネはいつもと変わらず溌剌(はつらつ)としていた。その様な悩みがあるとは露とも思わず。

「無理もないわ。下手をしたら本当にレースに二度と出られなくなっていたんだもの。怪我が治っても心の傷は――そう簡単に治るものではないみたい」

 先をゆくマシロの表情は見えない。しかし彼女の背中が、細かく震える髪が、悲痛な心境をありありと表していた。

「……悔しい。ベネに何もしてあげられないのが。だからせめて、バレンタインに贈り物をして、一緒にお茶でもと思ったの」

 マシロの心痛はいかなるほどか、メイケイエールにはまるで想像もつかなかった。悩み苦しむルームメイトに自分は何をしてあげられるのだろうか。考えを巡らせるも、答えは一向に出てこなかった。

「……きっと、ベネベネさんも喜んでくれると思います」

「そうだといいけど。『また慣れんことして、明日は槍が降るんじゃなか?』とか言われそう」

 マシロによる、恥ずかしさを滲ませながらのモノマネはお世辞にも上手とは言えなかった。しかしそれほどまでに大切に思っているのであり、茶化す気分など小指の先ほどにも生じなかった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 そうこうする内に調理実習室が見えてきた。部屋の方から微かに何か聞こえてくる。

 

 ――ん。

 

 ――りん。

 

 近づく毎に大きくなる。発生源は調理実習室であり、既に先客がいるようだったが。

 不思議な音にメイケイエールとマシロは顔を見合わせる。

 

 ――ぱりん。

 

 何かが割れた、乾いた音。

 それは聞き間違いでも、ましてや幻聴でもない。ヒトよりも耳が利くウマ娘が二人が揃って同じ音を聞いたのだ。これは部屋の中からの音に間違いない。

「誰かいるのかしら」

 他者の予約した枠は確認できるが、プライバシーの関係上それが誰かまでは分からない。少なくとも、メイケイエールが取った予約と被った枠が一つあった。

 広い調理実習室の一卓のみ借りるだけであるので、被ることはなんら問題ない。とにかく、調理実習室から普段聞こえないような音が響くのが不可解だった。

「とりあえず、そっと覗いてみましょうか……」

 扉の前で佇む二人。中にいるのは鬼か蛇か、音が立たないように、ゆっくりと引き戸を開ける。

「いちまーい」

 

 ぱりん。

 

「にまーい」

 

 ぱりん。

 

 見えたのは明るい茶色、栗毛のウマ娘の後ろ姿。短めに切り揃えたボブカットから白い耳覆いが覗く。

 そのウマ娘は丸く平べったい、クッキーのような物を手に取った。

 

 ぱりん。

 

「これは……トレーナーさん」

 

 彼女はそれを両手で小さく割ってボウルに入れる。そしてまたもう一枚。

 

 ぱりん。

 

「これはカフェさん」

 

 同じように割り入れる。

「そンで、これは――」

 更にもう一枚、片手でしっかりと掴んで持ち上げる。

 

 ぱグシャア!

 

「――シチーさん」

 

 勢い余って粉々に砕け散る、クッキーのようなもの。それを見ながら、栗毛のウマ娘の尻尾が右に左に大きく揺れる。

「うふふ。楽しみだなぁ……」

 メイケイエールはそっと扉を閉めた。

 そして、中の様子を共に窺っていたマシロに、青白い顔で力なく首を振る。

 

 ――ちょっと、お取り込み中のようなので。

 

 ――その、ようね。

 

 マシロも無言で頷いた。明らかに入ってはならない雰囲気であり、迂闊(うかつ)に足を踏み入れたら粉微塵のクッキーと同じ運命を辿るかもしれない。

 これはもう触らぬが仏。足音を消し、ゆっくり立ち去ろうとしたその時だった。

 

 ガラッ。

 

 不意に開かれる扉。

 メイケイエールとマシロはその場に凍りつく。驚愕が張り付いた顔をぎこちなく扉の方へ向けた。

「誰かと思ったら、エールさんとマシロさんでねぇか。一体どうしたンです?」

 朗らかな声に、少し間延びしたような独特の(なま)り。メイケイエールには聞き覚えのある声だった。

「――ユキノさん!?」

 件のウマ娘はユキノビジンだった。制服の上から着るフリル付きのエプロンが絶妙に似合っている。

「はいっ。お二人ともこんにちは!」

 白い歯を覗かせ、パリッとした笑顔が眩しい。

「こ、こんにちは……」

 様子を窺いながら、恐る恐る頭を下げるマシロ。素手でビスケットを粉砕する姿を目の当たりにしたからか、普段の彼女にしては随分と及び腰だった。

「ユキノさんもバレンタイン用のチョコですか?」

「そうでがんす。お世話になってる皆さんに、なンか贈るべかと思いまして――」

 ユキノビジンはハッとして目を大きく見開いた。両手を合わせ、メイケイエールとマシロへと交互に視線を送る。

「お二人もチョコですよね!? えがったら一緒に作りませンか? 他の人の意見も聞いてみたかったので!」

「あぁ……」

 元より、バレンタイン用のチョコを作るために来ていたのだ。特段異存はないものの、ちらりとマシロの方を見やる。

「――私は別に……というか着いてきた身だもの。エールが決めて」

 しかし無碍(むげ)なく返されてしまった。三人で分担して作ればあっという間に終わるだろうし、何より賑やかである。断る理由は元よりなかった。

「でしたらご一緒させてください。私も材料持ってきてますから」

「わあ、嬉しいです! じゃあ皆でうンめぇチョコを作るべ!」

 拳を振り上げてユキノビジンが高らかに宣言する。他の二人からも自然と拍手が沸き起こり、三者三様の想いと共にチョコ作りが始まったのだった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 メイケイエールとマシロもエプロンを身に着けた。長い髪を団子に纏め、更に頭巾も被って準備万端。他に予約していた組も空いている卓を使い始め、調理実習室はにわかに賑やかになっていった。

「そういえば、私達が来る前まで何を作っていたの? クッキーみたいなのを割ってたみたいだけど」

「クッキー? あ、多分コレのことだべ」

 マシロからの質問に、ユキノビジンは蓋つきのタッパーを差し出した。閉じられた蓋をバカリと勢いよく開け、二人に中身がよく見えるよう両手で持ち上げる。

「南部せんべいでがんす! これを使って『ちょこくらんち』を作ってみようかなって」

「確か――岩手のお菓子だったわね」

「はい! 実家からがっぱり送ってきまして――あ、一枚どうぞ」

 ユキノビジンに勧められ、それぞれ一枚ずつ南部せんべいを手に取る。

「いただきます」

「いただくわ」

 一口囓ると素朴な甘みが口の中いっぱいにじんわりと広がった。パリッと適度な歯ごたえもあり、生地に練り込まれているピーナッツの食感と風味もあって飽きが来ない。

「ピーナッツ入ってて、香ばしくて美味しいですね」

 煎餅と呼ぶより、堅焼きのビスケットの方が近いかもしれない。マシロはメイケイエールの後ろで、両手でしっかり持って子リスの様に一心不乱に食べていた。

「んだなはん。でもちょっと硬ぇから、くらんちをいくつも食べると顎が疲れンじゃねぇかとちょっと心配で」

「そうですねえ――」

 チョコクランチに混ぜ込むのはコーンフレーク等が一般的だ。軽い食感故のサクサク感であり、その点南部せんべいは少々重め。

 歯応えのあるチョコクランチを好む者もいれば逆もまたしかり、食感の問題は非常に重要かつデリケートな問題だった。

「あ! でしたら」

 思案するメイケイエールの脳裏に妙案が浮かぶ。すぐさま持参したエコバッグからお菓子の袋を一つ取り出した。

「小さいサイズのカラーマシュマロ、これも混ぜてみませんか? 食感にメリハリが出て良い感じになると思います!」

 青、桃、黄、緑、彩り豊かなパステルカラーの小粒のマシュマロ。チョコのトッピングに良いかもしれないと買っておいたものだった。

 それを見たユキノビジンのどんぐり眼がより真ん丸に、そして眩い輝きに満ち満ちる。

「わあぁ、らずもねく(・・・・・)めんこいマシュマロ! これ、ほんに使ってしまっていいんだか?」

 彼女は鼻息荒く袋を手にした。透明なビニールから覗く、おとぎ話の雲の様なカラフルなマシュマロ。乙女ならば誰しも頬を染め歓声を上げるだろう。

「もちろんです! とびっきり美味しいチョコを作りましょう!」

「うん! けっぱるべ!」

 手を取り合って気炎を上げるメイケイエールとユキノビジン。バレンタインデーのチョコを作るという至上の命題をクリアするため、強力なタッグの結成である。

 そして、マシロは一歩引いた所でそれを眺めていた。

「じゃあ、エールとユキノさんがチョコを作って、私が味見役ということね」

 

 ガッ!

 

 間髪入れず、メイケイエールはマシロの右手首を掴んだ。そしてにこりと満面の笑みを浮かべつつギリリと締め上げる。

 

 ――ダメかしら。

 

 ――ダメですよ。

 

 メイケイエールが笑い、マシロも後ろ暗いものを感じさせながら笑う。そんなことはつゆとも知らず、仲の良い二人を見てユキノビジンも笑うのだった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

病理

 日は過ぎいつの間にかバレンタインデー。河削がトレーナー室で一人、にたにた気味悪い笑みを浮かべてひたすらに上機嫌だった。

「エール手作りのチョコだぜヒャハァ!」

 デスクの上にはラッピングされた箱に可愛く収まるチョコクランチ。河削には蓋を開けた時に漂った甘い香りが、メイケイエールの吐息のように思えてならなかった。

「んはぁ〜。多分私世界で一番幸せな人間かも」

 顔を寄せ、漂う芳香に心を(とろ)かせる。惚れ込んだ相手から心の籠もった贈り物である。これで舞い上がらない方がおかしいというもの。恭しい手つきで一粒摘み上げ、丁寧に口の中へ運ぶ。

 じんわり溶けるミルクチョコレートに歯応えのあるクランチ。噛む毎にパリポリと小気味よい音を奏で、香ばしい風味に舌鼓を打つ。

「――おっ? ピーナッツにマシュマロも……凄い凝ってる。何だろこのクランチ、いやめっちゃ美味しい!」

 少し硬めのクランチに。歯ごたえ柔らかなマシュマロが良い塩梅となっている。これまで食べてきたクランチとはまた違う、新しい食感の逸品だった。

 マシロとユキノビジンとの三人の合作らしいが、それも関係しているのだろうか。

「とにかくエールに元気を貰ったから――」

 一粒食べ終わったところで、河削はデスクの端の方に目を向けた。

「――お仕事頑張ろうかね」

 視線の先に鎮座する折り畳み式のコンテナボックス。手紙やメッセージがしたためられた紙でいっぱいであり、ボックスから溢れ返りそうな状態となっていた。

「しばらくサボってたからなぁ。ヤバイヤバイ」

 この全てがファンからの手紙、あるいはウェブサイトからのメッセージである。こうしたファンレターを選別し、担当する娘に渡す分を選定するのもトレーナーの役目。

 メイケイエールは同世代の中でもトップランクの人気度を誇る。それ自体は非常に喜ばしいことではあるが、それはそれで悩みの種ができるのである。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 気合を入れ、コーヒーとエールのチョコを傍らにファンレターの選定を始める。

「よしよし、どれどれ――」

 まず初めはシンプルな茶封筒。ペーパーナイフで封を開け、中の便箋を手に取った。

 

『はじめまして。京王杯でエールちゃんの綺麗な走る姿を見てファンになりました。それまでウマ娘のレースはほとんど知らなかったんですが、エールちゃんのかわいくてカッコいい姿を見てから毎週レースを観に行くくらいに好きになりました。高松宮記念でエールちゃんが勝てるよう応援してますので頑張ってください!』

 

 丸みを帯びた柔らかな文字に、差出人の人となりが浮かぶようだった。

「嬉しいねぇ。京王杯も良い勝ち方だったなぁ」

 心の籠もったファンレターに河削の頬も綻ぶ。これはメイケイエールにもぜひ読んでもらいたい。

 続いて、雪の白兎のワンポイントが入った便箋を取った。子供なら誰もが知る超有名ヒーローのシールで封をしており、裏には贈り主の名が連名で記されている。どうやら親子で送ってきてくれたようだ。

 

『エールおねえちやんがダイスキです。はしるのが、はやくて、とってもかつこいいです。しようらいは、エールおねえちゃんみたいなうまのおねえさんになりたいです』

 

 所々書き損じは見られるものの、本人が精一杯真心を込めた手紙である。文末には勝負服を着て、人参を手にしたメイケイエールの可愛いイラストがクレヨンで描かれていた。

「あはっ、エールそっくり! 頑張って書いてくれたんだねぇありがとう!」

 まだ幼い子供がこうしてファンレターを送ってくれるというだけで、これまでの苦労が報われる気がする。

「よーし、じゃあ次々!」

 河削のエンジンが徐々に温まってきた。上機嫌で何枚ものメッセージが綴じられたファイルを手にした。URAの特設サイトからのもので、ファンレターも最近はこの形式が多くなってきている。

「どれどれ――」

 

『GⅠも勝てないくせして』

 

(――おっと)

 その文言が目に入った瞬間、河削は視線を反らした。呼吸を落ち着かせ、コーヒーを一口含む。濃いめに淹れたその苦味で気持ちを改めた。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 そして再度、メッセージへと目を向ける。 

 

『GⅠも勝てないくせして、GⅡやGⅢで弱いものいじめなんてみっともないと思わないんですか? すぐにやめるべきです』

『口先だけでGⅠ勝ててないのダッッッサwwwww 常識的にありえねーwwwwww』

『蹄鉄変えるズルまでして勝つって必死すぎ。八百長かよ』

 

 他にも一通りメッセージに目を通し、コーヒーをもう一口。小さい溜息をつき、ファイルをデスクに放り投げるように置いた。

「ったく、気持ちだけでGⅠ勝てたら苦労しないっての」

 GⅠを勝つのは並大抵のことではない。数百、数千ともいるウマ娘の中でたった一握りの頂点である。

 また、GⅡやGⅢも同様である。GⅠの注目度に霞んでしまうが、それでも全体の上位数パーセントという世界。一勝するだけでも快挙であるのに、既に六勝している彼女の実力が一線級なのは疑いようもない。

「んなの分かってるよ。エールは勝てるの。勝ってなきゃおかしいの」

 誰に聞こえるともなく、河削は苦々しく呟いた。GⅠを勝つには実力だけでも、ましてや運だけではいけない。実力と運の両方が噛み合って初めて、偉大なるタイトルを獲得することができるのだ。

 

『簡単に言わないでください。走りもしないで気楽でいいですね』

 

 シルクロードステークスでのメイケイエールの言葉。それが鮮明に蘇り、深々と心に突き刺さる。あくまでも走るのは彼女達。トレーナーはその姿をさも当然とばかりに見ているのみなのだから。

 それで勝つ勝たないなどと口にするというのは、あのメッセージと一体どこが違うというのだろう。結局のところ、自身の名誉欲や虚栄心のためであり、ウマ娘達のためというのは半分口実である。

「エールはもっと、輝けるから……」

 メイケイエールの魅力はこんなものではない。今以上の輝きを放てる逸材だ。その彼女が長くその場で足踏みしているのは、トレーナーが力不足である訳で――。

 

 ずきっ。

 

「いたッ、たったっ」

 不意に鳩尾(みぞおち)の下辺りが痛んだ。胃袋が強く締め付けられる感覚に少しばかりの吐き気。痛む部分に手を当てつつ、河削は急いで薬箱から胃薬を取り出す。

「ぅうっ……」

 コップに水を注ぎ、所定量の白い錠剤を飲み下す。これまでは胃のムカつきやモヤモヤで収まっていたのが、ここ最近は痛みまで現れるようになっていた。

 なるべくなら市販薬ではなく、病院で薬を出してもらいたいところだが。

「――いや、来月で終わる。終わらせてみせる」

 中京レース場、GⅠ高松宮記念。そこでメイケイエールが文字通り輝く日となるだろう。そうすれば、何もかもが丸く収まるのだから。

 河削は濡れた口元を手の甲で拭い、険しい目つきで未だ残る手紙の山に向かっていった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

分水嶺

 陽が出て暖かい日中も、夕暮れともなると肌を突き刺すような寒さがやってくる。寒さに耐えかねたウマ娘達が早々にトレーニングを切り上げる中、ただ一人居残りで黙々とダートコースを走っていた。

 切り揃えた前髪に、真っ直ぐで幅広な白い流星――ミロワダーレである。コーナーを回って直線に入ると、上体を前傾にして体勢を低くした。

 そして、土くれを後ろに撒き散らしながらありったけの力で飛び出してゆく。冷たく固まった空気を切り裂き、豪快な脚音を轟かせて。

 その勢いのままゴール板代わりのハロン棒を駆け抜け、ゆっくりと脚を緩めて立ち止まった。

「――ふ〜っ!」

 肺に溜まった二酸化炭素を一気に吐き出すミロワダーレ。二月の夕暮れでありながら、全力で駆けた彼女は滝のような汗を流していた。全身から湯気がもうもうと立ち昇り、身体はかつてないほどに昂る。

(……しっくりこねぇな)

 しかし、本人は全く納得していない様子。視線を落とし、首を大きく左右に振る。

「ダメだ、まだ追いつけねぇ」

 その目は焦燥の一色に染まっていた。というのも、先月出走した根岸ステークスが発端である。

 フェブラリーステークスの前哨戦でもあるが、同じく出走したライムトニックに走り負けてしまったのだ。

(二、三ヶ月くらいしか経ってねえってのに)

 ラストの直線で集団から抜け、ぐんぐん加速するライムトニック。武蔵野ステークスの時とはまるで違う、一切の隙のない走り。

 ミロワダーレも必死に追走するが半バ身届かずの二着。自身は全力で追っていたにも関わらず、である。

「もうちょっとやるか……」

 額から流れ落ちる汗を手の甲で拭い、その手を払う。走っても走っても走り足りない。きっとライムトニックも同じように走っているに違いなく、これ以上遅れを取る訳にはいかないのだ。

 水分補給し、もう一走りしようとした時のこと。

 

「今日はもうやめたら?」

 

 スタートに立ち、まさに今走り出そうとした瞬間。唐突に背中から声をかけられた。

「もうレースも近いんだし、詰め込んでもいいことないよ」

 一体声をかけてきたのは誰なのか。そう疑問に思う前に、ミロワダーレは背中を向けたまま答える。

「つってもさあ。どうも走らないと不安なんだよ」

 聞き覚えのあるような、しかし覚えがない不思議な声。どことなく身近にも感じたそれに、反射的に返事をしたのだった。

「走ってる時は気も紛れるし――」

 一拍遅れて、ミロワダーレは声がした方へ振り返った。しかし背中には無人のダートコースが広がるばかり。

「いや……えっ?」

 声の主はおろか人っ子一人すら見えなかった。あの声は確かに背中の方からしたはずなのに。

 奇妙な感覚を前に、寒風(かんぷう)が衣服の熱を奪ってゆくのを実感した。火照った身体が急激に冷たくなり、思わず身震いが始まる。熱を失った衣服は酷く重く、更にずっしりと身体にのしかかった。

「やっば寒っ」

 ぶるりと身体が震え、両腕で抱くように縮こまる。

「……あんま詰め込んでもアレか。帰ろ帰ろ」

 手早く荷物を片付け、背中を丸めながら練習コースを後にするミロワダーレ。

 その後ろ姿を彼女と同じ髪型、同じ流星のウマ娘が眺めていた。その娘は微笑みを(たた)え、風で舞い散る木の葉と共にいずこへと吹き抜けていった。

 




次話はフェブラリーステークスで丸々一話。
シリーズ開始当初から書きたいエピソードなので気合入ります。
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