Blooming☆Yell!!   作:ルブク

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黒に堕ちる――。
それは終焉の始まり。

ダイジェスト気味の安田記念。
どちらかというとレースそのものはそこまで重要ではなく、その中のイベントが目的です。

ベースである2023年の安田記念はソダシも出てますが、そのまま再現してしまうと作中では鬼ローテになってしまうので居ないことにしています。
それもあってのダイジェスト。

・安田記念の出走者の読み替え表
ソングライン → ドリームトラック
ナランフレグ → ダライサエン

人物紹介はこちら↓
https://syosetu.org/novel/342309/1.html


The 33rd Yells 絶望のエール

疑心

 五月晴れの空は既に過ぎ去り、ここ数日は灰色の雲が広がるばかり。梅雨の時期に差し掛かっているからか、空気も湿り気を含んでどこか重く感じられた。

「はっ……はっ――くぅっ……」

 六月初旬に安田記念を控えたメイケイエール。芝の練習コースにて、今日何本目かも分からぬ一杯の走り込みを行なっていた。

 安田記念は1600メートル、マイルのGⅠレースである。マイルの経験はあるとはいえ、これまでの彼女の主戦場は短距離レース。レース感覚をマイル用に仕上げ直す、最後の調整段階に入っていた。

「〜〜っ!」

 第四コーナーを曲がり、メイケイエールは直線で一層の加速を見せる。疲労はあるにしても、力強い脚の動きは非常に頼もしい。河削は彼女が目の前を通り過ぎたと同時にストップウォッチを止め、これまでのラップタイムと見比べた。

「エールお疲れ。想定ラップもいい感じだよ」

「……は、い……」

 息を切らしながらメイケイエールが戻ってくる。幾度となく全力で走ったからか、後ろ髪は乱れ前髪は汗でべったりと額に張り付いていた。

「――うん。ペース配分の感覚も取り戻してる。猛練習の甲斐があったね」

 五月始めのヴィクトリアマイルが終わってからというもの、トレーニングへの取り組み具合はかなり熱を帯びていた。それはオーバーワークと言っても差し支えなく、脚腰が立たなくなるほど走った日もある。

 きっかけはリコンスタの激走――あの姿が脳裏に焼き付いていたためだった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 ――精密検査の結果、リコンスタは両脚の至る所に筋断裂が見つかった。幸いにもアスリート生命を奪うほどではなく、しっかり休養すれば問題なく走れるようになるという。

 限界以上の走りをしながらも、怪我がこの程度に収まったのはまさに奇跡である。一生車椅子のお世話になる可能性もあったと聞いた時は肝が潰れてしまった。それを当の本人がケロリとした顔で言うのだからなおさらである。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 だからこそ、メイケイエールは次の安田記念に賭けていた。GⅠを勝つため、認められるために。その(はや)る気がトレーニングへ無我夢中に打ち込ませたのだ。

「この分なら問題なさそうだね。エール的にはどう? 感覚は」

「全く未経験の距離ではありませんから……懸念になるような所は、特には」

「うん。そうね――」

 河削は一つ思案する。その間にメイケイエールはタオルを肩にかけながらドリンクを口に含んだ。

「――もう、根を詰める必要はないかな。明日から安田まで軽めの調整にしようか」

「軽め……ですか? レースは来週ですが……」

 メイケイエールは思わず手を止め、河削に聞き返した。安田記念の開催は来週末。一週間以上先であり、もしや日程を勘違いしているのではないだろうか。

「把握してるよ。今まではレース当週までみっちりやってたけど、今回は少し変えてみようかと思って」

 手元のタブレットを操作し、これまでのトレーニング内容とラップタイムを見せてくる。

「私が思うに、エールのフィジカル面は文句なし。どちらかというとメンタル面てとこかな……悪い意味じゃなくて」

 セオリーとしてはレース当週の木曜頃に仕上げの追い切りトレーニングを行う。その後は休養を兼ねた移動日という流れである。

「レースの週に追い切りしないのも珍しくないし。これまでの流れを、ここでちょっと変えてみようかなと。短距離からマイルに変わるからね」

「身体が鈍ってしまいそうなんですが。一週間以上も空くとなると……」

「大丈夫、トレーニング自体はするよ。強度が落ちるってだけで」

 二人の意見はここに来て食い違いを見せていた。河削が言うことも分からないではない。

 しかしマイルへの唐突な復帰なのだから、念には念を入れて準備すべきなのではなかろうか。のんびり構えずに一本でも多く走り、不安を潰しておくべきなのでは。

「怪我を防ぐためでもあるかな。距離も伸びたからこれまでより疲労具合も変わってくるし。だから中途半端にするより、思い切ってしっかり休む方がいい刺激になると思うんだ」

 果たして狙い通りにいくものかどうか。確かに身体は休まるだろうが、心も同じとは限らない。答えあぐねるメイケイエールの肩を河削が軽く叩く。

「これまでちゃんとトレーニングしてきたんだから、少しくらい休んでもバチは当たらないよ。験担(げんかつ)ぎついでにリフレッシュしてさ、安田に乗り込もうじゃない!」

(験担ぎするくらいなら、なるべく走りたいんですが……)

 不承不承(ふしょうぶしょう)ながらも河削のプランに従うことにした。思うことはあるとはいえ、休養が大切なこともまた事実である。

 言いようのない不安と焦りがチラチラと心の奥底に振り積もってゆく。しかし彼女はそれを感知できず、ただ晴れない気分と向き合う他なかった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

焦燥

 カン、カン、カン――。

 

 時は瞬く間に過ぎ去り、いよいよ安田記念当日。メイケイエールは控室にてシューズの調整をしていた。勝負服を身に着けた状態で、ハンマーを振るい蹄鉄の釘を打つ。

 いつもは没頭するほど集中して行う作業である。しかし今日は眉間に皺を寄せる渋い顔で、明らかに集中を欠いた様子だった。

(皆して、好き勝手……!)

 当日の人気投票にて、彼女は十二番人気。しかしそれはさしたる問題ではない。桜花賞以来のマイル戦であるため、どうしても当時のことが話題となってしまうのだった。

 

『危険な実力ウマ娘、メイケイエール! 久々のマイル戦で暴走か!?』

『気性面は落ち着いてきたが、やはり暴走グセに懸念あり』

『メイケイエール、因縁のドリームトラックと再戦! 勝者はどちらか!?』

 

 ――気が焦り、我を忘れて他者と接触したのは事実である。しかしそれも昨年の話。様々な対策を行い、以前のように慌てふためくこともなくなった。それを皆も分かっているはずなのに、注目を集めるための派手な見出しは変わらない。

 

 カン!

 

(大体、私だって好きでそうしていた訳ではないのに……)

 それらの雑誌やネット記事の影響を受けたのか、SNSサイトでも似たような意見が散見された。応援してくれるファンの方が圧倒的に多いとはいえ、一度気になるとそればかり気になってしまう。

 

 カン!

 

(河削さんも河削さん。ちゃんと周りに説明してくれれば、こんなことには……)

 これはただの当てつけだ。

 レース後のコメントもフォローを欠かさず、河削がネガティブな発言をすることはほぼないと言っていい。レースに勝つ為に様々な創意工夫を試みているのも認識している。であるからこそ、上手く事が運べない苛立ちをトレーナーに転嫁してしまうのである。

 当の河削本人は同じ控室で、タブレットを睨みつけながらレースの情報を収集している。近頃、目の下のクマと傷んだ髪が目立つようになってきていた。

(こんなことで足踏みしている場合ではないのに……)

 

 焦っている?

 何に対して?

 実績の乏しい二人に立つ瀬がないから?

 そんな筈が――。

 

 ガッ!

 

「あっ」

 手元が狂い、振り下ろしたハンマーが釘の頭から逸れた。横から打ち据える形となり、頑丈な筈の釘が容易く折れてしまったのだ。

「――どうしたの? 変な音したけど」

「いえっ大丈夫です。何でもありません」

 咄嗟にメイケイエールは折れた釘を隠し、何事もないよう誤魔化した。中途半端に刺さった部分を抜くには特殊な道具が必要だ。

 レース間近なこのタイミング、余計なことで時間を浪費したくない。折れた釘の部分を指でなぞる。引っかかりは感じられず、どうやら出ている部分が綺麗に折れたようだった。

(一本くらいなら……)

 何本もある内の、たった一本の打ち損ないである。走行感が大きく変わる訳でもないのだから、安田記念が終わった後に処置すれば問題ないだろう。

 ――ただ、それにしても。

(子どもでもしないのに……)

 蹄鉄の釘を折ってしまうという、らしからぬミス。自分の不注意が原因とはいえ、だからこそ認めるのに強い抵抗があった。

(釘が不良品だったんです。きっとそう――)

 メイケイエールはそのままブーツに脚を通す。平然と、いつも通りの様相だったが、薄い虚飾で塗り固めた心は既にヒビ割れが始まっていた。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

『多くの実力者が集まりました東京レース場、本日のメインレース、GⅠ安田記念! 芝の1600メートル、上半期のマイル王者の称号はどのウマ娘が手にするのでしょうか!』

 

 空は一面白い雲に覆われている。梅雨特有の重くじっとりした空気がこの場を満たし、少し動いただけでも額に汗が浮かぶ。

 メイケイエールはゲート入り前の試走を入念に行った。観客や他の走者、そして河削でさえもコースのコンディションを確認する為だと思ったことだろう。しかし、その実――。

(やっぱり大丈夫。心配しすぎだったかも)

 蹄鉄の釘を一本欠いている右のブーツ。それと知られないよう感触を確かめ、特に問題はなさそうなことに安堵する。

 

『フルゲート十八名、順調にゲートへ収まっていきます――』

 

 大きく開かれたゲートが、まるで未知の生物に見えた。大口を開けて獲物が飛び込むのを待ち構えている。何故だろうか。普段と何ら変わらないゲートであるのに、メイケイエールの動悸は激しくなるばかりだった。

「……大丈夫、そう、大丈夫だから……」

 誰にも聞こえないほどの小さな声で、自分自身を奮い立たせる。

「私はエール、メイケイエール……大丈夫。きっと、きっと勝てるから……」

 震える掌を握り締め、自身の胸に当てる。心の水面は激しく波打ち、鼓動は激しく地鳴りの如く。未だかつて経験のない感覚に全身を縛られ、息を吐くことすらもままならない。

 ――呼吸ができない。いっぱいに吸っても身体から全て抜け出ていく。落ち着かなければ。もうレースが始まってしまう。落ち着かないと――。

 

 そして、メイケイエールは気が付いた。

 ゲートが開いていることに。

 

「――っ!? あぁぁっ!」

 

 考える間もなく、脚が反射的に飛び出した。

 

『各ウマ娘一斉にスタート! 二番メイケイエールと一番ダライサエンは後方から!』

 

 出遅れた?

 どのくらい?

 なぜ気づかなかった?

 

 答えが出ることのない問い。ただ結果として分かるのは、出遅れて後方からのスタートとなったということ。

 左手側はすぐに内ラチ、前には何人ものウマ娘が進路に立ちはだかり、右手側には初手を控えたウマ娘達が。

 完全に閉じ込められた状況であり、それでもメイケイエールは必死に抗おうとした。少しでも前に出て、外への進路が開かないかしきりに目を配る。

(今日に限って……!)

 呪いの言葉が喉元まで出かかったものの、彼女は頭を振って邪念を払う。出遅れただけ。挽回の機会は必ず来るはずだ、と。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

破綻

 風を切り、大地を踏み鳴らしながらターフを駆ける。徐々に位置を押し上げ、第三コーナーの入り口に差し掛かる頃には中団のポジション。スタミナは使ってしまったが――まだ許容範囲内。

 勝負は最後の直線。それまでに位置取りを決めなければ。

 

『600メートルは34秒2で通過!』

 

 コーナーに入る。遠心力により、ある程度のまとまりがあった隊列が綻びを見せた。右手前方が開け、大外のルートが照らし出される。

 大きく進路を変えられるのはコーナー中。ホームストレッチに入ってのコース変更は進路妨害にもなりかねない。

(このタイミングなら――!)

 メイケイエールは右脚を強く、大きく踏み込んだ。

 

 ドッ!!

 

「ぅぐっ……!」

 左の足首へ激しい衝撃が襲う。苦痛に顔が歪み、崩れたバランスを立て直す。何が起こったのか確認する暇はなかった。今はただ、レースに集中するのみ。

 ――しかし。

 

 ずくん。

 

 ずくん。

 

 ずくん。

 

 左脚を踏み出すごとに焼けるような痛みが。しかもそれだけではなく、右脚も踏み込みの感覚が軽い。

(何が……何で……!)

 既に第四コーナーの出口、二つ並ぶ観戦スタンドがもう間近に迫っていた。進路は変えられず、足取りも覚束ない。

「……ふざけないでっ!」

 メイケイエールは苛立ちをぶつけるしかできなかった。スパートで取り残され、追いつくことすら叶わない――情けない自分自身へと。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

『一着は十八番ドリームトラック! マイルの頂点に上り詰めたのはドリームトラックです!』

 

 勝者の凱旋に沸き立つ観客を他所(よそ)に、河削は力なくその場に座り込んだ。

 道中は中団に控えながら好位につけ、そして直線の坂を登り切った直後に猛烈な末脚での強襲。非の付けようがないレース運びには感服するしかなかった。

 一方、メイケイエールはというと……。

「十五着、か……出遅れたのが響いたか……」

 出遅れで良いポジションが取れず、良い所なしの十五着である。しかしラストスパートで彼女自慢のスピードが鳴りを潜めていたのが気がかりだった。

 始めは戦意が失われてしまったかと思ったが、メイケイエールはとにかく一途に取り組む娘である。途中でレースを投げ出すようなことは考えられなかった。

(であれば、やっぱりレースで前が詰まったとかが原因かな……)

 少ない情報からレースの敗因を予測する。最終的には本人から聞かなければならないが、まだレース直後である。ナーバスになっているだろうし、下手に触れるのはよろしくない。

「あれ? メイケイエール怪我してない? 脚引きずってるけど……」

 とある観客の呟きが耳に飛び込んだ。誰が言ったのか、どこから聞こえてきたのかは分からない。そんなまさか――河削は疑りながらも顔を上げた。

 

『全ウマ娘が無事にゴールを……メイケイエールが左脚を引きずっています。負傷でしょうか――』

 

 大型ビジョンに映し出される、痛々しく脚を引きずるメイケイエール。

 心臓が握り潰される感覚とはこのことだろうか。血の気が一瞬で失せ、目の前が暗澹(あんたん)たる闇に包まれる。脚の怪我はウマ娘として非常に厄介なものだ。

 骨折でなければ大丈夫、という単純な話でもない。レース中の怪我をきっかけにトラウマとなり、レース自体を忌諱(きい)してしまうケースも報告されている。

 ――怪我は、外から見て分かる部分だけではないのだ。

「……ちょっと、通ります! 通らせてください!」

 いまだ沸き立つ観客を押しのけながら、河削は地下バ道へ向かう。可能ならばターフへ飛び出していきたいところだが、規則上それは不可能。

 せめて怪我の程度が重くないことを。藁にもすがる思いに焼き付きながら、ひたすらに急いだ。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

「いたっ、たた……」

 左の足首の辺りが痛みに(うず)き、熱までもを感じる。ゴールしてからようやく、メイケイエールは自身に何が起こったのか把握した。

 

 右脚の落鉄である。

 

 恐らく、何らかの弾みで外れた蹄鉄が、不運にも左脚にぶつかったのだろう。裂けた勝負服の裾がその衝撃を物語っていた。

(右の蹄鉄……まさか……)

 浮かばれない面持ちで、左脚を引きずりながら地下バ道へ降りる。まさか打ち損じの一本が影響しているのだろうか。あるいはただの偶然かもしれないが、自分自身の大切なブーツを無碍(むげ)に扱った罰なのかもしれない。

 地下バ道から伸びる通路は延々続いているようだった。帰らなければならない。だが応援してくれる人達になんと伝えれば良いのだろう。

 壁に寄りかかり、握った手の底で打つ。

 

 ――悔しい。

 ――どうして肝心な時に。

 

 歯が食い込むほどに唇を噛み締める。できる限り力を尽くしているというのに、現実がそれを嘲笑う。

 何故。

 何故いつも。

 心が煩悶(はんもん)となり、ぐちゃぐちゃにかき乱される。シニア級もこれで半分が終わる。果たしてもう半分、まともに走れるのだろうか――。

「エール!」

 聞き覚えのある、それでいて鋭く尖った声に顔を上げた。

「河削さん……」

「怪我したの? 具合は? 何か踏んだ?」

 焦燥し、息を荒げる河削が左の足首に手を当てる。

「右脚が落鉄したみたいで。恐らくそれが左脚に……」

 河削の指が右のブーツの爪先から側面にかけて沿う。

「――ああ……」

 そして、本来あるべき物がないことを認めると、がくりと(こうべ)を垂れた。彼女が今、どのような顔になっているのか知るのが怖かった。安堵、落胆、憤怒、そのいずれでもないかもしれない。

「動かせる? 感覚はある?」

「どちらも大丈夫です……痛みで上手くできませんが」

「うん、ならまずは一安心。とりあえず医務室へ……肩貸すから、歩ける?」

「あ、はい……」

 左肩を河削に預け、そのまま医務室へ向かう。ネタを求めて殺到する記者陣には一瞥もくれず、逃げ込むように飛び込んだのだった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 医務室の担当医に告げられた言葉。それはメイケイエールの心を揺らし、そして崩壊させるに余りあるものだった。

『……メイケイエールさんは特殊な蹄鉄を使っておられましたね?』

 傷口を診るため、容赦なく鋏を入れられた勝負服。裾を切り裂くと、抉れたような傷口が露わとなった。皮膚が破れ、真っ赤な肉が覗く。

『はい。スパイク蹄鉄ですが……』

『これはあくまでも可能性ですが……』

 傷口の処置を進めながら、医師は躊躇いがちに告げる。

『蹄鉄のスパイク部分が当たり、この様な傷になったかもしれません。普通の蹄鉄だったなら、もしかすると擦過傷止まりで……』

 蹄鉄の外縁部に数ミリの突起を施したスパイク蹄鉄。土をよく噛み、加速力の向上を図る一環だった。それがこの期に及んで牙を剥いたのではないか、と。

 メイケイエールの中で、これまで積み重ねてきたものが音を立てて崩れてゆく。より速く、更に勝てるように付き従っていたのに、その結果はいたずらに自身を傷つけただけ。

 縫合が必要な怪我ではなく、湿潤療法で回復可能な範疇だったのが不幸中の幸いだろうか。しかし少なくとも、当面の間走るのが難しいことには変わりない。

「……ありがとうございました……」

 医務室を出た二人の顔はひどく重苦しい。勝てなかっただけではなく、負傷し、あまつさえ勝負服まで修復が必要な事態に。

「――エール」

 河削がメイケイエールの肩に手を添える。

「今回は残念だったけど……落鉄じゃどうしようもないよ。勝負服も直してもらえるし、貴方の落ち度はないから」

 優しく語りかけ、常に寄り添ってくれる彼女。普段ならば何とも思わないだろう。

「気を取り直して次に進もう。ねっ?」

 しかし今日は。

 河削の言葉があまりにも無神経に聞こえた。弱り、疲れ果てた心を紙ヤスリで乱雑に削られる不快感。

「……!」

 反射的にメイケイエールは肩に乗せられた手を振り解く。私なら貴方のことは何でも分かってあげられる――とでも言いたげな、大人の傲慢な微笑み。

 いったい何が分かる? どれだけ積み重ねても、ものの数分後には無に帰してしまう虚しさが。ハラワタが煮えくり、のたうち回り、真っ赤になって弾け飛んだ。

「私が――」

 身体に溢れ出るモノを無意識に吐き出そうとする。どうしてこのようなことをするのか、自分でも説明ができなかった。

「私が勝てないのは――!」

 

 ――ダメ、言ってはダメ!

 理性が必死に押し留める。

 しかし、(せき)を切ったような感情の奔流(ほんりゅう)は止まらなかった。

 

「私が勝てないのは! 貴方のせいではないんですか!? 貴方が色々言うから! 上手くいかないのではないんですか!?」

 違う、そんなことはない。河削はいつでも隣で悩み、考えてくれていたではないか。全部自分が不甲斐ないから、だから結果が出せないだけなのに。

 そして気が付いた。河削の驚愕と絶望に満ち満ちた表情に。

「エール……!」

 拒絶をされても、彼女はなおも手を差し伸べようとする。それは何が何でも、縋りつこうとしていたのかもしれない。途切れてしまいそうなか細い糸を繋ごうとするために。

 メイケイエールは目を伏せ、一歩後ずさる。罪悪感が全身を締め付け、まともに河削の顔も見ることすら叶わない。

「……先に、戻ります……!」

 必死に絞り出したのは、心からの謝罪ではなく卑怯な逃亡の言葉だった。絡みつく黒い糸から逃れるように背を向け、急いでこの場から離れようとする。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 河削はメイケイエールにぶつけられた激情に困惑していた。慢心もあったのかもしれない。聞き分け良く、トレーナーに素直に従ってくれるという存在に。

「ちょっと、待って……!」

 頭の中の整理が追いつかない。ただ、今この場に彼女を留めておかなければならない。さもなくば全てが終わってしまうと警鐘が鳴らされている。

「……ぅぉ……!」

 しかし伸ばした手はメイケイエールには届かなかった。胃袋が口から飛び出さんばかりの嘔吐感。むしろそのような生ぬるいものではなく、全身が裏返るような感覚だった。

 どこが床で、どこが天井なのか。身を委ねているのは本当に壁なのか。滝のように汗が流れる中、離れていく愛しの背中をただ眺めることしかできなかった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

暗転

 安田記念の翌日、河削とメイケイエールの間はまだぎこちないままだった。

 考えてみれば、メイケイエールはウマ娘である以前に一人の人間なのだ。自分で考え、悩み、そして選択してゆく。彼女がどう思うかという考慮をせず、ただ勝たんとして様々なことを押し付けてきた。

「嫌な大人だな、私も……」

 河削は忌々しく呟く。このすぐ後、メイケイエールと夏合宿について打ち合わせの予定である。様々なプランを考えつつ、自分のトレーナー室へ足早に。

 空は気が滅入るほどの黒い雲に覆われ、いつ雨が降り出してもおかしくなかった。

 

『簡単に言わないでください。走りもしないで気楽でいいですね』

 

 前から兆候はあった。

 シルクロードステークスでの控室、スパイク蹄鉄に変更した初戦のことである。この時はただ、道具を変えたばかりでナーバスになっているのだとばかり。実際はより根深く、真剣に向き合わねばならなかったのだ。

 目先の勝利、そしてGⅠ勝利に囚われて大切なことを見失っていた。本当に大切にしなければならないのは、彼女自身の他にないというのに――。

(――せめて、夏合宿は万全のコンディションで臨まないと。今やるべきは――)

 河削の足は自然とより速くなる。

 昏倒しかけた昨日とは打ってかわり、今日の体調は良好だった。朝起きると胃の激痛が不思議と治っていたのだ。食欲はなかったものの、朝はいつも軽く済ませているので問題なし。

「最優先は怪我の治療と、メンタルケアか……」

 アスリートとしての身体という意味であれば、メイケイエールはほぼ完成している。ジュニア級から走り続けても大きな怪我をしない頑丈さは一級品であり、まさに文句のつけようがない。であるからこそ、今回の怪我は彼女も非常に(こら)えたことだろう。

「ゆっくり時間が取れて、腹を割って話せるような所は――」

 さて、そのような所はあるのだろうか。

 頭を(ひね)りながら河削は校舎と校舎の隙間、薄暗い隘路(あいろ)を通る。トレーナー室へ向かう一番の近道であり、ごく一部の者しか知らないため通り放題である。噂によれば、理事長秘書の駿川(はやかわ)たづなは学園内のこのような通路を熟知し、使いこなしているのだとか……。

 ひとまず、メイケイエールが来るまでには間に合うだろう。ココアを淹れて、簡単にお茶菓子も添えて。

 そう考えた矢先だった。

「――うッ……」

 河削は口元を手で覆い、上体を屈めて足を止めた。何の前触れもなく、腹の底から湧き上がる強烈な嘔吐感。咄嗟にトイレを探す――が、ここでは遠すぎる。ならばせめて草むらの陰で、と一歩を踏み出した。

「――!」

 掌に温かい感覚が広がり、抑えきれずに指の間から(こぼ)れて地面へと落ちてゆく。ばたっ、ばたたっと音を上げながら地面に広がるのは――どす黒い赤。

 口から流れ出る勢いは一向に収まらず、袖口から腕を伝い、身体をも(なまぐさ)く染め上げた。

(まずい――!)

 そして悟る。もう間もなくだということを。

 それでも河削は何としてでも抗おうとした。まだ汚れていない方の手を使い、スラックスの尻ポケットからスマホを取り出す。歪む視界と震える手元に苦しみながら、通話先を選択し――。

「――ォっ……ゴホぉ!」

 しかし発信するよりも二度目の吐血の方が早かった。体内の血を全て吐き出すのではないかという勢いで、自身の命と共に。

 血溜まりに膝をつき、河削はその中に力なく横たわった。既に全身の生気は喪われ、再び立ち上がることすらままならない。

 

 ――♪♫♪♬♪♪♫♬

 

 傍らに転がっていたスマホから着信音が鳴った。発信者の表示は見えない。腕が辛うじて動かせる程度であり、目に見える世界は黒の(とばり)

 感覚を頼りに、崩れ落ちそうな指先を這わせる。助けを呼べるようスピーカーモードで。

『河削さん。私です。メイケイエールです……』

 エール! 

 彼女の声に、河削は身を奮い立たせる。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 ――あ、エール? ゴメンねえ、ちょっとトラブっちゃって。今行くからね。

 

『もう打ち合わせの時間なんですが。トレーナー室に居ないので……今どこにいるんですか?』

 

 ――学園の裏手側の、まぁ抜け道みたいなとこかな? ここからなら五分くらいで着くから待っててくれる?

 

『……あの』

 

 ――ゴメンゴメン! 呼び出した側が遅刻するなんて駄目だよねえ。怒るのも当然だよね。

 

『どうして何も言わないんですか?』

 

 ――え? あれぇちがうよ? ちょっとでんわがとおいのかな。きこえる?

 

『何のつもりなんですか。悪戯ですか?』

 

 ――で、で ぱのちょ しがよ ないの も。い いどうする ら。

 

『もう良いです。分かりました』

 

 ――ご  なさい。きら  でエール。おねが  すけて。

 

『お話があるなら明日聞きます――失礼します』

 

 ――だめ   いでエー   すけて。

 

 ――た    ール    。

 

 ――     ール。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 指先をスマホに乗せたまま、口元を僅かに開閉させるばかりの河削。通話は既に終わり、画面には発信者のメイケイエールと通話時間が表示されていた。

 血の気を失った彼女の頬に、天が大粒の雨を打ちつける。一つ二つが、たちまちに十、二十、百へと増えてゆく。それは地面の(けが)れを洗い流すと共に、ほんの小指の先ほどの、微かな命の灯ごと消し去ろうとしていた。

 




次は夏合宿の手前くらいまで…もうそろそろでシニア級前半のクライマックス。色々とギミックを思考中…。
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