Blooming☆Yell!!   作:ルブク

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奈落に沈み、絶望に浸る。
自分自身の無自覚な業に、少女の心は砕け散る。

前話から続き、安田記念が終わったその後。時期的にはおよそ六月中旬くらいです。
文量が普段の1.5倍ほどになりましたが、曇らせの展開を長々やっても疲れてしまうので。あえて分割せずに光が差し込むところまで書き上げました。
例の如く、AI生成したイメージイラスト付き。

人物紹介はこちら↓
https://syosetu.org/novel/342309/1.html


The 34th Yells 奈落のエール

アンダー・ザ・レイン

 黒い雨雲が空一面に広がり、水無月の空を覆い隠す。まだ昼間というのに、外は夜のように薄暗かった。

「ひと雨来そうね」

 栗東寮の自室にて、マシロが窓ガラス越しに呟く。これから大雨が降るとの予報である。多少の雨ならばトレーニングは行えるが、豪雨ともなれば別の話。早めに引き揚げて部屋に戻ってきたのだった。

「……雨か。堪らんな」

 ルームメイトのベネベネはベッドの上に座っていた。広げたファッション誌を眺めながら、苦々しい顔で左足首を撫でる。

 ――そこは以前に骨折した部位。

「とっくに治っとるとに……嫌やわ」

 天気が悪くなると左の足首が疼く。その度に足首を擦り、痛みが治まるのを静かに耐える。いまだに過去の呪いの呪縛に苦しんでいたのだ。

「お茶淹れるわ。何がいい?」

「いつもん」

「分かった。玉緑(たまりょく)ね」

「おう。やっぱ故郷ん味が一番よ」

 いつもの、という一言で通じるほどにベネベネは地元熊本の銘柄の緑茶を好む。特に、美味しい淹れ方には一家言あるほどだった。

 薫陶(くんとう)を受けたマシロも、今では緑茶のプロフェッショナルである。

「でしょうね。待ってて――」

 窓からふと顔を逸らした時のこと。

 

 て……。

 

 耳がほんの微かな音を拾う。どこから聞こえたのかも分からないほど、今にも消え入りそうなか細さだった。

 ベネベネの呟きかもしれないと振り返る。しかし彼女は今もファッション誌に目を向けたままだった。

「ベネ、今何か言った?」

「うんにゃ、なんも」

「そう……」

 ただの気のせいだったのかも。そう思いもう一歩。

 

 ――たすけて……。

 

(なに……!?)

 今度ははっきりと。聞こえるはずもない誰かの声が。

「ベネ、今聞こえた?」

 もしかするとベネベネも。念の為確認したが、彼女は皆目知らないと首を横に振るのみだった。

 それから程なくして、大粒の雨が窓ガラスを叩き始める。

(気のせい? でもその割に……)

 自分自身、何かの空耳とはついぞ思えず。気のせいとするには明確に聞こえすぎだ。

 一層強くなる雨足に、焦燥感に揺さぶられるマシロの心。聞かなかったことにもできる。しかし、無視してしまえば取り返しのつかない待っている気がしてならなかった。

「ごめんなさい。ちょっと出てくるわ」

 マシロは口を強く結ぶ。一分一秒も無駄にはできなかった。すぐさま部屋の玄関に向かい靴を引っ掛ける。

「出るって。こん大雨なんに?」

 ベネベネは事態をまるで飲み込めず、目を白黒させていた。むべなるかな、お茶を淹れるはずが急に出かけると言い出したのだ。しかも外はどしゃ降りの大雨。理解の範疇を超えているに違いない。

「急用を思い出したの。悪いけど、お茶は自分で淹れてね。それじゃ」

「いや、ちょっ待ち」

 しかしマシロは気に留める様子もなかった。返事を待たず部屋を飛び出し、後に残るはベネベネのみ。ぽかんと口を開けて扉を見つめるばかりだった。

 恐らくすぐには戻らない。そう察知した彼女は、ベッドの上で膝を抱えるように座り直す。そして口元へ膝を寄せる。

「――マシロん茶が、飲もごたるとに……」

 マシロが淹れた茶が飲みたかったと、耳を垂らして残念そうに一人ごちるのだった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 外はバケツをひっくり返したような大雨だった。傘を持って出たのは良いが、この勢いの前には無力にも等しい。大して離れていない寮から学園間を移動するだけで、既に靴の中まで水浸しである。

 マシロは学園の正門の前に立った。どこへ行けば良いのか分からないが、不思議と脚は迷うことなく突き進む。

 正門を通り大雨にけぶる(・・・)校舎を正面に臨みつつ、脇手に進路を変えた。様々なチームが入っているチーム棟を横目にして更に脇道へ。

(どうしてこんな場所へ……)

 校舎と茂みの狭い隙間。これまで一度たりとも、このような道を通ったことはない。であるにも関わらず、自身の身体は知っているかのようだった。

 迷うことなく辿り着き、そして見つけたのだ。

 

 ――地面に倒れている誰かを。

 

「大丈夫ですか!?」

 マシロは傘を放り投げ、一目散に倒れている人へ駆け寄った。このような人気がない所で、大雨の下。ただならぬ事態に違いない。

 救急車、いやまず医務室。トレーナーにも連絡を――刹那の中で思考が巡る。焦りながらも冷静に、最適解の行動に務めようとした。

 倒れているその人が河削だと知るまでは。

「――河削さん!!??」

 心臓が荒縄できつく縛り上げられたような感覚が襲う。少なくとも数秒は呼吸が止まり、その間に頭の中で構築したプランが全て消え去った。

 

 どうしてこんな所に。

 どうして倒れて。

 意識は。

 エールは。

 どうすれば。

 どうしたら。

 

「河削さん! ちょっと河削さん!!」

 彼女はうつ伏せで顔を横に向けて倒れていた。右手は地面に落ちたスマホへと伸びている。助けを呼ぼうとしていたのだろう。当のスマホは地面の窪地にあったことが災いし、すっかり水没してしまっていた。

 どれほど声をかけても無反応。血の気を失った青白い頬がマシロへ絶望感を呼び起こす。

(まず、まず医務室!)

 助けを呼んでいる暇はない。大荒れの天気、人気のない学園の裏手側。人を見つけるのに時間を費やすくらいなら、背負って医務室に駆け込む方がマシというもの。ウマ娘ならばヒト一人担ぐなど造作もない。

 倒れた河削の身体をひとまず起こそうとする。しかし脱力した人体は想像以上の重さであり、担ごうとしたマシロはバランスを崩しそうになった。

「くっ! 何よ慌てて!」

 焦りと不安で手が震え、彼女は毒づく。河削の脈拍は微かに感じるものの、その身体は異常なほどに冷たくなっていた。じっとり汗ばむ六月の気温とはいえ、雨で体温が急激に奪われてしまえばどうなるか。低体温症となることも十分に考えられるのだ。

 しかもメイケイエールのトレーナー、河削である。幾度となく言葉を交わし、従姉妹と苦楽を共にしている姿を見てきた。それがこのような、変わり果てた姿でいるなどとは。

「もう一度!」

 背負う体勢にしようと、もう一度河削の上体を起こす。しかし、支えのない首がだらりと後ろに傾く。

「しまっ……!」

 バランスを崩し、背中側へゆっくり倒れ込みそうになる。マシロは支えようと慌てて手を伸ばす。

 だがそれは逆効果だった。更に姿勢が崩れ、横倒しとなりそうなほどに身体が傾く。

 このままでは、助けるどころか――。

 終焉が一刻一刻と近づきつつあるのを覚える。焦りは身体を余計に強張らせ、徒に時を浪費するばかり。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 ところが、傾きゆく河削の身体がピタリと止まった。

「肩を貸します……!」

 一体いつ来たのか、一人のウマ娘が反対の肩を支えていた。

 雨に濡れ、額に張り付く漆黒の長い髪。前髪のただ一房が白く、ぴょこんと三日月の如く跳ねていた。

「カフェ先輩!?」

 ――マンハッタンカフェ。

 シニア級、長距離を主体に華々しい活躍を挙げている上級生である。その彼女が、何故このような所に。

「”ともだち”が……いえ。胸騒ぎがしたので……」

 理由はともかく。こうして手を貸してくれるだけで百人バ力である。これで河削の姿勢が安定する。

「カフェさん! マシロさん! あたしは医務室さ伝えてきます!」

 マンハッタンカフェだけではない。少し離れた所には傘を差したユキノビジンまでもが。

「お願いします……私とマシロさんはトレーナーさんを連れていきますので……!」

 彼女は頷き、医務室へと駆けてゆく。仔細についてはまるで見当もつかない。しかしこれで救うことができる。雑念の一切を捨て、マシロはマンハッタンカフェと協力し河削を慎重に運ぶのだった。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

絶望の淵へと

「ユキノビジンさんから話は聞いてます! 急いでこの上へ!」

 医務室に辿り着くなり、直ちに養護教諭がマシロ達を招き入れる。事前に話をしていたことが功を奏し、河削の受け入れ体制が整っていたのだ。

 指示の元、河削を診察台の上に寝かす。雨に濡れたスーツとシャツがべっとりと身体に張り付いていた。

「とりあえず身体を温めないといけないから。服を脱がしましょう」

 マシロとマンハッタンカフェは、シャツのボタンを上から外していく。普段はどうということのないボタンであっても、今回ばかりは指が滑り外すのに難儀した。

 スラックスは鋏を入れ、引き裂くように。これで上はキャミソール、下はオーバーパンツの姿に。

「変わったデザイン……なのかしら」

 養護教諭が河削のキャミソールを見て呟いた。肩紐はベージュであるのに、胴の部分は赤いという色違い。シャツから移ったのか、元からそういうデザインなのかは見分けがつかなかった。

「二人ともありがとう。後は私がやりますから」

 大きな毛布で河削の全身を覆う。その状態で教諭が両手を差し入れ、濡れた衣服を下着に至るまでまるきり脱がした。仕上げに温めた湯たんぽを両脇に挟む。

「――これで大丈夫。後は河削トレーナーが目を覚ますのを待ちましょう」

 一通りの処置を終え、教諭は額の汗を拭った。河削が目を覚ませば、何故あのような所で倒れていたのかも分かるだろう。

 マシロの緊張もようやく一段落。ほっと息をつき、身体がずっしり重くなるのを感じた。

「あれっ、マシロさん。そン髪……?」

「髪? 何、これ」

 彼女はユキノビジンからの指摘で、初めて自らの異変に気がつく。純白の長い髪の毛先付近が赤色に染まっていたのだ。河削のキャミソールの色と関係があるのだろうか。

「……ぅ……」

 (あらた)めようとしたが、体温を取り戻した河削が目を覚ました。

「良かった、河削トレーナー。ここがどこか分かりますか?」

 教諭が声をかけ、次いでマシロ達が安堵した視線を向ける。意識を取り戻したのならもう心配ないだろう。後ほど、正式に医療機関で診てもらえば万事解決である。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 河削が身体を起こそうと横に向けた、その拍子のことだった。

「ぐ……ごホぉ゙っ!」

 

 びちゃっ!

 

 激しく咳込んだのと同時に、赤黒い血の大きな塊を床に吐き出したのだ。

(……!?)

 一瞬、内臓を吐き出したのかとマシロは仰天した。よくよく見ればそれは大きな思い違い。血が固まったものだった。

 だが、それは風雲急を告げる事態であることを示していた。すぐさま教諭はスマホを手に取り、何処かへ連絡を始める。

「ま、マシロ、ちゃ……」

 弱々しく伸ばされた河削の手。マシロが応えるように握る。

「エー、ルに……伝えて。トレー……ニングのメニュ……」

 かすれた喉で絞り出した言葉。それはメイケイエールのための。この人は本当にどこまで――普段なら微笑ましいかもしれないが。

「今そんな場合じゃないでしょう!?」

 マシロの抗議に、消え入りそうな笑顔で河削は答えた。まずは自分の身が大切だろうと。文句の一つでも言ってやろうと思ったが、それきり彼女は再び気を失った。

「何回か吐血している可能性があるわね。救急車を呼ぶのでもう少し手伝いお願いできる? 駿川(はやかわ)さんにはこのこと伝えておいたから」

 教諭がすぐさま河削を横向きに寝かせた。普通の怪我や疾病ならまだしも、この状況ともなれば。医務室の設備では十分な対応は難しいと判断したらしい。

「――はい、救急です。東京都府中市晴見町――日本ウマ娘トレーニングセンター学園の医務室です。女性トレーナーが吐血の後に意識混濁。複数回の吐血で多量の失血の可能性があります……はい。はい、屋外で倒れていて、長時間雨に打たれていたため中程度の低体温症に……はい。低体温症は対応済みで――」

 予断を許さぬ状況ではあるが、教諭は淀みなく119番通報を進めていく。有識者だけあり回答は的確、直ちに受け入れ先の病院が決まり、緊急搬送される運びとなった。

「――分かりました。学園の裏手側から入ってもらった方が近いかと。はい、通話はそのままで……ユキノビジンさん。これから救急車が来るから裏門で待っててもらえる?」

「はい。門のトコで待ってます!」

「でしたら、私も……」

 救急隊員の出迎えにユキノビジンが向かおうとする。するとさも当然とばかりに、マンハッタンカフェも追随しようと腰を上げた。

「貴方は暫く休みなさい」

 しかし教諭は許可しなかった。首を横に振り、マンハッタンカフェへ戻るように促す。

「ですが……」

「雨でずぶ濡れでしょう? 身体も冷えて……唇なんて真っ青よ。着替えを用意するから、まずは温まって。まずはね」

 平時でもマンハッタンカフェは肌の青白さが際立つ。普段からそれなのに、今回は更に激しい雨に長時間打たれたのである。河削程ではないにしても、唇が不健康な紫色となりつつあった。

「カフェさん。こンぐらいならあたし一人で大丈夫だから。着替えて休んでてくなんしぇ」

「分かりました……レインコートも羽織っていってくださいね。雨、強いですから……」

「はい! 行ってきます!」

 マンハッタンカフェは残念そうな素振りを隠さなかった。しかし気を取り直してユキノビジンを送り出す。ともかくこれで、救急隊が到着するまで束の間の休息である。

 マシロは自らのスマホを手に取り、医務室の扉に向かう。

「待ってマシロさん。貴方も着替えたら? 髪も汚れているし」

 髪が血で汚れた姿のままを怪訝(けげん)に思ったのか、教諭はマシロを呼び止めた。

「すみません。先に連絡したい所があるので」

「構わないけど。でも誰に?」

「この人が担当している()へ――まだ知らないと思うので」

「そう、ね。早く連絡してあげて」

 恐らく、メイケイエールは何も知らないに違いない。でなければ、いの一番に駆けつけていただろう。

 医務室を出て、扉から離れた場所で彼女へ発信する。マイク付きのイヤホンを持ち合わせておらず、音量控えめのスピーカーモードへ。

 どう伝えれば良いものか。伝えなければならないが、できれば伝えたくない気持ちもあった。残酷な事実を告げ、そして彼女がどう反応するのか。想像に難くないのが嫌だった。

『はい、もしもし――』

「エール。私よ』

『珍しいですね。どうしましたか』

 ――怒っている?

 電話の向こうのメイケイエールは心なしか不機嫌そうだった。回線の具合か、もしくはスピーカーの調子によるものかもしれないが。

「時間がないから単刀直入に言うわ。河削さんが学園の裏手で倒れていたの。医務室へ運んで応急措置をしたけど、吐血して意識が戻らなくて」

『えっ待ってください。河削さん、が? えっでも少し前に……』

「すぐに救急車が来るから。貴方も医務室まで来なさい。良いわね。すぐによ?」

『そんないきなり。詳しく――』

 マシロは強制的に通話を終えた。

 救急車が到着し次第、病院へ搬送される。電話越しに悠長に話している時間はなかった。

「寒い……」

 不意に全身が激しく震え始める。張り詰めていた緊張が解け、冷え切った身体をようやく自覚したのだ。いずれにせよ為せることは為した。歯痒いが、後は事の成り行きを見守るしかないのだ。

(お願い。あの人を――エールは、あの人でないと駄目なの……!)

 空は雨が未だ降り止まぬ。嘲笑うかのような黒雲を鋭く睨みつけ、マシロはただ強く祈る。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 メイケイエールと救急隊の到着はほぼ同時。診察台で横たわる、生気がまるで感じられない河削の姿に酷く彼女は狼狽した。しかし詳緊急搬送の準備が進められていく中、詳細を聞くに聞けなかった。

『お願いします、彼女も付添(つきそい)に……あの人と契約を結んでいるんです』

 救急車への同乗は原則一名である。通報した教諭のたっての願いで、どうにかメイケイエールも許可が下りた。当然ながら、河削には指一本触れないという約束の元で。

 

 大雨の中、赤色灯を迸らせながら走る救急車。車内の片隅で、メイケイエールは身体を縮こませて座っていた。手早く処置を施してゆく救急隊をただ眺めながら。

 

 まるで現実味がなかった。

 

 約束をすっぽかされたことに腹を立て。感情を露わにしたことをモヤモヤしながら反省して。そして河削が倒れ病院へ搬送されて。

 ストレッチャーに横たわる河削に、心電図のケーブルや点滴の管がつけられていく。隣の教諭が救急隊員と不思議な言語で会話していた。

 場違いと思う程の希薄な存在感。困惑しながら、メイケイエールは身動き一つしない河削をずっと眺めていた。

『へっへ〜! ドッキリでした〜! ビックリした? ビックリしたでしょ〜』

 ――などと言いながら、急に飛び起きることを期待して。

 

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 手術室の表示灯が煌々と灯る。ドラマ等でしか見ることがなかった代物が頭上で確かに存在していた。

 タイル調の廊下は不思議なほどに静まり返っている。いささか座り心地が悪いソファーが並ぶ他は、壁面を医療用のポスターが彩る程度。

 手術が終わるのを待ちながら、メイケイエールは教諭からことの経緯を改めて聞かされた。人気がない裏手側で倒れていたのをマシロとマンハッタンカフェらが見つけたと。大雨で流れていたが、恐らく大量の吐血によって意識を失ったのだろうということも。

「……電話を、したんです。河削さんに。約束の時間になっても来なかったので」

 通話に出たが河削は一切の無言。痺れを切らして一方的に切ってしまったが、あれはもしや。

「私が切らなければ。探しに行けば見つけられたかもしれなかったんです……私のせいで……! 私が自分勝手なことをしたから」

「メイケイエールさん。貴方のせいではないから、思い詰めないで。こんなことになるなんて誰も分かるはずないもの」

「河削さんは約束を忘れるような人ではないんです! なのに私が、なんていい加減な人なんだって……っ」

 体内で内臓が煮え繰り、のたうち回っている。どこにも逃がしようのない強烈な自己嫌悪。体の内側から焼き尽くされる感覚に吐き気を(もよお)し、手を口に当ててえづく。

 河削が倒れたのは全て自分のせい。メイケイエールの心はただその一色に染まっていた。自分さえいなければ、このようなことにはなっていなかったのだ。

 メイケイエールは両手を固く握り締め、手術が終わるのを待っていた。いや、待つことしかできなかった、と表現するのが正確である。

 その只中、ひたすら自己嫌悪の繰り返し。病院に搬送される際にちらりと見た河削の横顔。ジュニア級の頃に初めて会った時と比べ、頬が明らかにやつれていた。

 

 ――そんな風にさせたのは誰?

 

 気がつくタイミングは幾らでもあったはずだ。なのに何故、彼女を省みようとしなかったのか。なんと謝罪すればいいのかも分からない。謝っても許してもらえるかどうかさえも。

「手術、終わったみたい」

 教諭の言葉に首を上げた。確かに表示灯の明かりが消えている。

 手術は? 

 河削さんは? 

 メイケイエールはその場でじっとしていられなかった。いち早く結果を聞こうと、手術室へ続く扉の前に立つ。許されるのならば、いっそこのまま扉を開けてしまおうかと。

 しかしそれはできない。時計の秒針が一つ進む度に魂が削られ、次第に呼吸をしているかもあやふやに。長い長い数分間の後、待ちに待った男性の担当医師がようやく姿を現した。

「あの! 河削さんは……!? 手術はどうなりましたか!?」

 張り付かんばかりに詰め寄るメイケイエール。医師もたじろぐ程の勢いで河削の容態を確かめる。

「大丈夫です。手術は無事に終わりました。患者さんの命も別状はありません」

 医師の口から告げられた言葉、それは待ち望んでいたもの。安堵のあまり脚から崩れ落ちかけたが気力で踏みとどまった。横からさりげなく教諭が寄り添う。

「大量に吐血をしていたと思いますが、それは――?」

 教諭が医師へ更に詳細を尋ねる。すると、彼の柔和な顔つきに影が差した。

「それなのですが。胃の何箇所かに潰瘍ができていて、そこからかなりの量の出血がありました。幸い穿孔――胃に穴が開くまでには至らず、紙一重という状態でしたが。少し遅ければ本当に命の危険もあったかと……」

 続く言葉は、浮ついた心を絶望の淵に引きずり込む。

「胃潰瘍はいずれもかなり進行していました。恐らく、日常でもかなりの痛みがあったはずですが……普段、そのような兆候はありましたか?」

「……いえ……」

 吐血するほどに進行していた潰瘍。しかし当の本人の口からはそのようなことは一切。確かに疲れているような素振りを見せたことはあった。

 

 ――違う。

 ――それはただ、私が気づいていなかっただけ。

 

 疲れているだけだと思い込み、面と向き合おうともしなかった。自分のトレーナーだから隣にいて当然なのだと。垣間見ることすら放棄し、ただ看過してしまった自身の罪。

 眼前を黒い(もや)が覆い尽くし、意識は闇の中へ。それから何があったかはよく覚えていない。医師と教諭が会話しているのは見えたが、内容については皆目。

 気がつけば夜になり、寮の自室の扉の前だった。ミロワダーレが迎え入れてくれて二言三言を交わす。そして着替えるだけ着替え、倒れるようにベッドに就いたのだった。

 

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パンドラの箱

 翌日、午前の一般教科を終えると河削のトレーナー室へと赴いた。見舞いは容態が安定するまでは不許可。その間トレーニングをする気にもなれず、かといって無為に過ごすのもどこか居心地が悪かった。

「……何はともあれ、河削さん手術成功して良かったじゃん……」

「そうそう。まずはそれだけ考えようぜ。エールの責任じゃねぇって」

「はい……」

 傍らにはミロワダーレとリコンスタが伴う。自身のトレーニングを休んでまで付き合ってくれたのだ。二人にも迷惑をかけ心苦しい反面、隣に居てくれるのは心強い限りだった。

 鍵を開け、戸を開ける。重苦しい空気がトレーナー室に満ち満ちている。

「誰もいねぇトレーナー室も新鮮だな。しかも自分の担当でなく」

 本来なら、今日も河削はここで色々と作業をしていたはずだ。しかし部屋の中はがらんどう。キャビネットに並ぶバインダーや真っ暗なモニターが物悲しく佇んでいた。

「……ココア、飲みます? ホットですけど」

「……よろ……」

「あ、オレも頼むわ」

 部屋の水道から電気ケトルに水を注ぎ、湯を沸かす。その間に三人分のカップを出し、粉末のミルクココアをそれぞれ適量。二年以上も通っていれば、もはや第二の自室。それ程までに部屋のレイアウトを熟知していた。

「そういや、河削さん見つけたのってマシロだったんだよな。あんな天気の中でよく見つけたよ」

「私もマシロさんに聞いてみたんですが、ちゃんとは答えてくれなくて」

「……虫の知らせ、ってやつ……?」

 淹れたてのココアへ吐息を吹きかけ冷ます。他愛ない会話に花を咲かせていると、リコンスタがデスクの下からファンレターのボックスを見つけた。

「……これさ。あれだよね……ファンレター……」

 蓋を開けると、ボックスの半分以上を埋める手紙の数々。封筒やWEBサイトからのメッセージ等多岐に渡っていた。

「――スゲェな。オレもここまで多くねえよ」

「……まだもう一箱あったよ……」

「マジか」

 中を覗くと、確認が終わっていないと思しき手紙やメールがいくつも収められていた。恐らく、時間がある時に読もうとしていたのだろう。

 広げた掌をポンと叩くリコンスタ。

「……時間あるしさ。三人でやらない……? お手紙の仕分け……」

「それってさ。オレ達がエール宛の手紙読むってことだろ? 本人的にはそういうのってどうよ」

「……まあ、それはそう……」

 リコンスタの案にミロワダーレが疑問を呈した。あくまでもファンレターはメイケイエールに届いたものである。それを本人やトレーナー以外の者が読んでも良いものかどうか。

「あ、私は全然。むしろ私だけの方が……」

 塞ぎ込んでしまってよろしくない、と。

 複数人で賑やかにやるのとプライバシーの両面。メイケイエールにはリコンスタとミロワダーレの両方の意図が理解できた。

 しかし赤の他人ならいざ知らず、二人は大切な友人である。リコンスタの申し出を断る理由はどこにもなかった。

「そっか。じゃあ早速始めようぜ」

「……あ、ミロワはもう一つの方をお願い……」

「下にあるやつ? よし分かった」

 デスク下にあるもう一つのボックス、ミロワダーレはそれを別のテーブルに置いた。そしてやる気旺盛な様子で前のめり気味に構える。

「では、急なお願いですが。ミロワ、リコ。よろしくお願いします」

 メイケイエールはその場で立ち上がる。居住まいを正し、二人に向けて頭を下げた。律儀な挨拶に応えるように温かい拍手が上がる。そしてめいめいに割り当てられたボックスからレターを取り出し、恭しく目を通し始める。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 レターの確認は順調に進んでいた。ことメイケイエールとリコンスタは特に。

「……エールのファンって幅広いね……」

「そうですか?」

「……うん。ちっちゃな子からご年配の方まで……い〜な〜……」

「リコだって色んな人に人気じゃないですか」

「……んん。ちょっとマニア受けが強めでさ……」

 手に取るファンレターはいずれも好意的なものばかりだった。中には手製のイラストを同封しているなど、かなり力を入れてくれているものも。

「それにしても皆さん、本当に力が入っていて――嬉しいですね、こういうの頂けると」

「……ね〜……」

 便箋一枚のサイズながら、宿る熱意は無限大。手にする毎にエネルギーが流れ込み、頬を染め胸が熱くなる。

 順調に進めば今日中に終わるだろう。ファンからの温かな言葉は終えてしまうのが名残惜しいほど。ささくれ立っていた心へ、実に沁み入るのである。

 和気藹々(わきあいあい)としながら、メイケイエールとリコンスタはレターを読み進める。しかしその間、ミロワダーレはずっと押し黙っていた。ボックスへ伸ばす手も彼女だけ明らかに重い。

「――なぁ。これさ、河削さんがもう読んだ後なんじゃねぇの?」

 温かな雰囲気をしたたかに打ち据える、彼女の冷たく低い声色。メイケイエールとリコンスタの手が止まった。

「……どぉ〜した〜……?」

 おどけた調子でリコンスタが尋ねる。担当する量に不満があるのだと思ったからだった。

 しかしミロワダーレは、ファンレターを読みながら耳を全力で後ろに引き絞っていた。眉間には皺が寄り、奥歯を強く噛み締めて。

「……どうしたの……?」

 ただならぬ雰囲気を感じ、リコンスタが改めてもう一度尋ねる。

「リコ。ちょいこっち」

 手招きしてリコンスタを呼び寄せる。メイケイエールを呼ばずにわざわざ彼女だけ、である。

「これ、読んでみ」

「……どれどれ……」

 言葉少なく手渡された一枚に目を通すリコンスタ。すると、みるみるうちに顔が色を失い、耳が力なく垂れる。

「……ずっとこんな感じ……?」

「六、七くらい読んだけどさ。今んとこ全部」

「……えっっっっっっぐ……」

 そしてメイケイエールそっちのけで声を潜めて話し合う二人。自分自身のファンレターというのに、本人はすっかり蚊帳の外である。

「リコ、ミロワ。一体どうしたんです?」

 まるで要領が得られず、頭には大きなクエスチョンマークが上がる。両名を戸惑わせる何かがあったようだった。

「いや、な……」

 ミロワダーレがバツが悪そうに振り返った。歯切れ悪く口ごもり、仔細を話すのを躊躇う。チラチラとリコンスタへ視線を送っているが、彼女の方も対応を決めかねているようだった。

「……その。ちょっと内容が良くないのがあってさ」

「どういう風にですか? 別に批判的のも珍しくないですけど」

 ジュベナイルフィリーズや桜花賞の諸々もあり、批判的な意見を多く受けた時期がある。注目される分ネガティブ面も比例すると河削がフォローを入れてくれたのを覚えている。

 当初は一つ一つに気を揉んだりしたものだが、それは人前に立つ者の必定。まるで平気とまでには至らずとも、ある程度の心構えはできている。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

「もう読んでもらう方が早ぇか……ほら、これ」

 そしてミロワダーレから一通のメッセージを手渡された。

「……無理して読まなくてもいいから……」

 同時にリコンスタからの忠告。あまりにも不自然なよそよそしさに、メイケイエールは不思議でならなかった。

 ――何もそこまで。少しくらいなら気にしないのに。

 二人が思うほど私は軟ではない。その様に見られていたのに不本意さを覚えつつ、何気なくメッセージへ目を通した。

 

『短距離しか走れないキチガイが短距離も勝てなくなって草』

 

 思考が止まる。

 意見とは名ばかり。これはただの誹謗中傷。

「ちょっと、他のを……」

 ボックスから直接、何通かを纏めて取り出す。矢継ぎ早に確認していくが、最初に読んだものがまだ可愛いと思えるほどだった。

 

 (うら)み。

 (ねた)み。

 (そね)み。

 (ひが)み。

 

 意見が欠片ほどもあるならまだまとも。ほとんどが事実誤認あるいは思い込みによる一方的な中傷だった。しかもごく一部ではあるが、女性としての尊厳を(おか)す犯罪紛いの内容すらも。

「何ですか、これ……」

 どれを読んでも概ね似た内容。この世のありとあらゆる悪意が集まり、ボックスの中で渦巻いていた。

「河削さん、まともなヤツをエールに渡してたんじゃねえかな」

「……うん。でないとエールが……」

「でも河削さん、そんなこと今まで一言も」

 口にしかけてはたと気がつく。もし自分が河削の立場だったのならどうするか。きっと何も言わず、彼女と同じように問題ない物だけを渡すだろう。

 さっと確認しただけでももれなく精神が削り取られる。河削がこれらと向き合ってきたのは昨日今日ではないはずだ。それこそジュニア級の頃から――。

 例え破棄するメッセージであっても。その身に晒され続ければ白も黒に変わる。彼女の笑顔の下ではどのような顔となっていたのだろう。

「……もしかして」

 この世界は結果が大きく問われる。GⅠを勝つということは何物にも代え難い盾となろう。確実に悪意の声の何割かは相殺できるはずだ。

 

 ――河削さんがGⅠを勝ちたがっていたのは。

 

「もしかして、私の……」

 

 執拗なまでのGⅠへの想い。

 倒れる程のストレス。

 襲い来る悪意。

 

 メイケイエールの中で点と点が一つの線となり、始まりと終わりが循環する。河削が倒れるきっかけを作ったのも、最後の一押しをしてしまったのも。

「全部、私のせいで……?」

 スタートで目を瞑っていなければ他者に害を及ぼすこともない。そうすれば今ほど批判の声はなく、河削の心が躙られることもない。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 GⅠさえ勝てていれば――。

 視界が大きく揺らぐ。喉が詰まり息ができない。全身に黒い毒が回り、たちまちに心の奥底まで浸潤する。

「エールは悪くねえよ。あんなの送ってくるヤツが悪いんだっての」

「……そうだよ。だから気にしちゃダメ……」

 

 違う。

 私がこんな体たらくでなければ。

 河削が倒れることもなかった。

 

 いや違う。

 何故気づかなかった? 

 何故気づこうとしなかった? 

 

 常に隣にいた河削。時に励まされ、時に後押ししてくれ、何らかの形で支えてくれていた。それなのに、それだというのに。向き合うこともせず、それが当たり前だと享受に甘んじていたのだ。

 ただ一つの事実――河削が背中一つで世界の悪意を防いでいたことに目を瞑り。

 

 ――メイケイエール。

 

「何がエール……」

 

 ――レースをご覧いただいた方に元気を与えられるような、そういった存在になるのが私の夢ですね。

 

「何がメイケイエールよ……」

 自らに宿命づけられた名を恨む。

「河削さんのことも気づけないで、何が……!」

 大層なことを言いながら、そのじつ隣にいる人ですら。

 メイケイエールは開けてしまったのだ。最後の希望を入れ損ねたパンドラの箱を。

 彼女は膝から床に崩れ落ちた。辛うじて渡っていた一本のか細い綱。とうとう足を踏み外し、底のない奈落へと落ちてゆく。

「私、もう……」

 漆黒の感情が四方八方から押し寄せる。幾重にもひび割れた身体を侵し、内も外も絶望に浸る。そのまま顔を上げ、ぽっかり空いた瞳を天井へ。

 そして、うわ言の様に呟いた。

 

 ――ウマ娘、やめます。

 

「や。んなの、やめるってどうやって」

 不明瞭な言動に、ミロワダーレが戸惑いながら質す。しかしメイケイエールは問いかけに答えず、ただ両手を頭上に掲げた。

「こんなものが……」

 両耳の根元を強く握り締め。

「……こんなものがあるから!」

 ありったけの力で引っ張る。自らの耳を引きちぎるために。

「おいおい待て待て。別に耳取ったって……取れるもんでもねぇし。なぁ?」

 ブラックジョークと捉えたのか、あえての明るい調子のミロワダーレ。不要に刺激すまいとリコンスタも頷いて同意した。

「こんなもの! 私には要らないんです!」

 それでもメイケイエールは半ば絶叫しながら、なおも引っ張る力を緩めない。最早正気の沙汰ではなかった。錯乱しているだけなのは間違いない。

 しかし、このままでは最悪の現実が訪れる可能性が。それ程までに鬼気迫る勢いだった。

「――オレが後ろから抑えるから、リコは前から頼む。あんなバカ止めさせるぞ!」

「……りょ……!」

 ミロワダーレが後ろから羽交い締めにし、リコンスタが両手を引き剥がそうと試みた。本当にちぎり取ってしまう前に。

「やめて! 離して!」

「離してって言われて離すかよ! 落ち着けっての!」

「……からだ、だいじに……!」

 メイケイエールは身を捩るなどして振り解こうとする。しかし同じウマ娘同士、二人がかりで来られては分が悪い。意外と力強いリコンスタががっしり掴み、耳から手が徐々に引き剥がされていった。

 そうなると多勢に無勢。抗う意思がなくなったメイケイエールは力なくうなだれる。

「……私は河削さんに、迷惑を……何もしてあげられなくて……」

「あの人はそんな風には思ってねえって」

「私は何もできない、しない方がいいんです。そんな資格すら、もう」

「んなことない。エールが出来ることが必ずあるから。それをしていけばさ――」

「……何ですか、何なんですか」

 ミロワダーレが差し伸べた言葉が酷く心に障る。不甲斐なさに打ちひしがれる顔を彼女へ向け、恨み百倍に睨みつけた。その眼差しは友人へ向けるものではなく、敵を見るかの如く。

「できることって何ですか。私なんかに何ができるっていうんですか」

 ミロワダーレの胸ぐらを掴み、眼前へ引き寄せる。怯えた彼女の瞳に顔が映っていた。どこか自分に似た、絶望に染まった何者かの顔だった。

「ねぇ、教えてよ。ねぇ……」

 答えを求めて縋りつく。だが圧倒されたミロワダーレはただ絶句するのみだった。

「……黙ってないで教えてよ!!!」

 慟哭(どうこく)(つんざ)く。

 救いも、(ゆる)しも、メイケイエールの元には来ない。世界の全てから捨て置かれ、彼女は一人真っ暗闇にへたり込んだ。残された手段はもうなくなった。

 

【挿絵表示】

 

 ――赤子のように声を上げ、泣きじゃくる以外は。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

両隣にある希望

 少し経ち、メイケイエールはソファーに座ってうな垂れていた。これ以上変な気を起こさぬよう、ミロワダーレとリコンスタが脇を固める。

「……落ち着いたか?」

 落ち着いたには落ち着いた。が、それは流す涙が枯れ果てただけのこと。暗澹(あんたん)とした泥濘(でいねい)に首まで浸かっていることに変わりはなかった。

「ま、とりあえず。まずお見舞い行けるようになったら行こうぜ。スプリンターズには間に合うだろうし」

 スプリンターズステークスの開催は九月の末。このタイミングで河削が一時離脱をしても、それまでには復帰できるだろう。

 今の状況は良くないが、最悪ではない。だからこそ下手に動かず、冷静に対応すべきだとミロワダーレの言。しかしメイケイエールは大きな嘆息と共に首を横に振った。

「もう良いんです。私、諦めますから」

「は? 諦めるってどういう……」

「トレーナーを駄目にしたウマ娘に出る資格なんてありません。レースはもういいです。出なければいいんでしょう。夏合宿も間に合いませんし」

 感情がろくに籠もっていない硝子玉の双眸。抑揚もなく淡々と話しているのは真意なのか、それとも。ミロワダーレとリコンスタはともかく、本人にも分からなかった。

「応援してくれてる人が沢山いるじゃねぇか。諦めるって、それが全部無駄になるんだぞ? 今まで頑張ってきたのに……」

 ミロワダーレは細心の注意を払ってなだめすかそうとしていた。言葉を選び、慎重に。

「――知りません。そんなの」

「!!」

「勝手に応援してるだけでしょう。なら勝手にがっかりすればいいんじゃないですか。私の知ったことではないです」

「エール、お前……」

 メイケイエールはぷいと顔を背けた。心の木の根元は既に大半が削られ、今にも折れそうになっていたのだ。

 自暴自棄にも等しい彼女へどう接すればよいのか。良い考えが浮かばず、ミロワダーレは言葉に窮した。ボタンを一つかけ違えることすら許されず、白刃の上を渡るかのよう。

「二人に分かります? ずっと期待されている中で、結果を出せない苦しさが――」

 メイケイエールを挟み、隣で聞いていたリコンスタがおもむろに腰を上げた。そのままゆらりと当人の前に立つ。

「……エール……」

 視界にリコンスタの脚が入り、メイケイエールは一度頭を上げた。しかし漏れ出るため息と共に再び俯く。

「気持ちは分かる、なんて言わないでくださいね。重賞もろくに勝ててな゙っ゙!!」

 

 暗転する視界。

 いくつも飛び散る流れ星。

 

 一体何が?

 痺れるような頭頂部の痛み。反射的に顔を上げ、そして見えた。

 

 ――拳骨を大きく振り上げるリコンスタが。

 

 先程の衝撃は一発目。次いで二発目が飛んでくる。

 それは夢でも幻でもなかった。握り締めた指の関節が赤く、痛々しい色となっていた。

 

 ゴッ!

 

「――い゙っ゙! たっ!」

 まるで図ったかのようなタイミング。顔を上げたがため、額と拳が正面衝突。

 骨と骨がぶつかる大きな音が部屋に響き渡った。メイケイエールは額を抑えて悶絶しきり。

「……昔の(ことわざ)にこうある……可愛い子の顔も三度まで叩け、と……」

「混ざってます! 混ざってますから!」

 奇妙奇天烈なキメラ諺に、脈絡のない暴力。目眩がする頭を抑えながら全てに面食らう。

「リコ、こんな乱暴どういう――!」

 頭を叩かれるなど初めてのこと。このような理不尽な真似、何の意図があってなのか糾弾しようとした。しかし、メイケイエールは言葉を失う。

「……エールのばか……」

 悔しさに歯を食いしばり、小刻みに肩がわななくリコンスタ。紫の瞳には涙がいっぱいに溜まっていた。

「……そんな悲しいこと、エールの口から聞きたくなかった……」

 勢いよく身体を翻らせた。その拍子に悲涙が一つ二つ飛び散る。鈍色の粒が歪ませながら落ち、寂しく床を濡らす。

「……エールのばか……!」

 震える声を絞り出す。次の瞬間には、振り返ることなく部屋から走り去った。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

「待って! リコ!」

 追いかけようと慌てて身体を起こす。

「行くな」

 にわかに、傍らより手がメイケイエールの肩に伸びた。ミロワダーレだった。下にぐいと押し込められ、ソファーから立たないよう(ぎょ)される。

「そっとしといてやれ」

 彼女の静かな声色。それが呼び水となり、いくばくかの冷静さを取り戻した。

「でも」

「追っかけて何て言うつもりだよ。私が間違ってましたごめんなさい、とか謝るつもりか?」

「それは……」

 答えに窮した。正直な所、ただ追いかけようとしていただけだった。先のことは頭の片隅にすら。

「やめとけやめとけ。下手なこと言うと次は顔面にグーパン飛んでくるぞ」

 闇雲にかき乱すより、あえて触れずにしておけという。どの道、説得できる言葉を持ち合わせていないのだ。結果的には同じこと。

「それより大丈夫か? 思いっきり殴られたろ」

「まあ、何とか」

 忘れた頃に後頭部と額の疼痛(とうつう)が強くなる。どうやらリコンスタは全力で殴りつけてきたようだった。少なくともたんこぶはできていない模様。

「それにしても、リコがそこまで怒るなんて……」

 逆鱗に触れたとは正にこのこと。普段は温厚な彼女があれほどまでの激昂ぶりである。よほどのタブーであったに違いない。

 あれもこれも、問題が山積みで一体どうすれば良いのか。自分で対処できるのかも危うく、もはや頭を抱えるしかなかった。

「エールはさ、んな意識してなかったと思うけど。オレとリコにとって一番の目標はエールなんだよ」

「私?」

「だってそうだろ。デビューは一番遅かったけどその後がさ。重賞いくつも獲って、GⅠにも出て。エールがGⅠいつ勝ってもいいように二人でこっそり準備してたんだぜ?」

 ミロワダーレはソファーから立ち上がり、壁に飾られている記念写真を眺める。京王杯、セントウル――その写真にいる自分は、別人かと思うほどの会心の笑みだった。

「すぐ隣の友達がさ、こんな眩しく輝いてんだから。そりゃオレ達も負けられないってなるさ――去年の夏合宿、覚えてるだろ? リコのド根性」

「はい……」

「だから、ちょっと熱くなりすぎたのかもな、リコも。目標の人が急にこれからのレース諦めるって言ったもんだから」

 自身の限界を超えてみせた夏合宿のロングトレイル。確かにリコンスタは二人――メイケイエールとミロワダーレと走っていたいと言っていた。それが、ここまでの熱意を伴っていたものだとは考えにも及ばなかった。

 だとすれば。彼女には何と残酷な仕打ちをしたのか。これまでとは異なる痛みがこめかみを打ち、顔が歪む。

「……私、本当にどうすれば」

 心からの問い。答えは得られずとも、吐き出さずにはいられなかった。

「ま、とりあえずここ片付けてさ。寮で飯食って風呂入って寝ようぜ」

 どんより漂う空気の中、あえて軽く答えたミロワダーレ。遊びの誘いをするかのように片手を差し伸べる。

「そんで、まずは河削さんと話さねえとな。夏合宿とか、これからのことも含めてだぜ?」

 (いさ)めることも、(たしな)めることもせず。きめ細やかながら、悠然と開かれた頼もしい手指。その手を握るのに迷いはなかった。離れてしまわないように、爪が食い込むほどに強く。必死になって求める手を、ミロワダーレの掌は優しく包み込む。

 

 ――ようやく、メイケイエールは奈落の泥沼より一歩抜け出すことができたのだった。

 




次話はシニア級前半ラスト。
河削との対話と、夏合宿不参加の問題解決について。
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