Blooming☆Yell!!   作:ルブク

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起死回生の策、それはたった一つの冴えたやり方。
そして少女は輝きを取り戻す――。

シニア級前半、これで終了です。
メイケイエールでしかできないストーリーとは何かを考えた結果、この流れに至りました。その他、アドリブで諸々の小ネタも追加。

人物紹介はこちら↓
https://syosetu.org/novel/342309/1.html



The 35th Yells 転進のエール

憧憬(どうけい)

 午後の日差しが厳しい時分。

 河削は個室の病床で穏やかな寝息を立てていた。ようやく一時の休息を得た彼女に幼い頃の記憶が去来する。

 あれは忘れもしない小学校低学年の頃。父親に連れられ、レース場に初めて赴いた日だった。

『すっごぉい! 人がたっくさん! ジーワン? レースがあるんだよね、お父さん!』

 観戦スタンドに座り、遊園地もかくやという人の入りに目を白黒させる。彼女の父親もまた、中央のトレーナーだったのだ。

『お父さんが教えてるウマむすめのお姉さんってだれ? どこ走るの?』

 ウマ娘のレースがどういうものなのか。父親から聞かされてはいたが、まだ半分以上は理解できていなかった。大雑把に運動会のかけっこのようなもの、としか。

 本バ場へ繰り出す、様々な勝負服を身にまとうウマ娘達。遠巻きながら、綺羅びやかな彼女達はまるで別世界の英雄だった。

 そしてレースが始まり、ゲートから数多のプリズムが

飛び出す。沸き立つ周囲の歓声に思わず耳を塞ぐ。しかし、目は大型ビジョンに釘付けだった。

 

 刻々と変わるポジション争い。

 苦しげに歯を食いしばりながら命の輝きに溢れる瞳。

 何も聞こえなくなる歓声の豪雨。

 その雨の壁を抜き抜け轟く無数の脚音。

 

 時間にして一分半あまり。しかしながら、童心には残像の如く強く焼き付いた。

『勝ったー!!!』

 結果は、父担当のウマ娘が外から差し切りゴールイン。身体が内側からひっくり返りそうな、周りの大音声につられて声が出た。

『やったぁ〜! やったねお父さん!』

 河削は自分のことのように喜び、両手を挙げて跳ねる。きっと隣の父も同じだろうと横を向く。しかし、父は静かに涙を流していた。

 どうして勝ったのに泣いているのだろう、嬉しいはずなのに。幼少の河削はただ不思議に思うばかりだった。

 

 事の真相を知ったのはその数年後。

 長らく結果が出せておらず、一年振りの勝利であったこと。本人の進退を賭けた、言葉通りに正念場であったこと。諦めることなくトレーニングを続ける姿を隣で見ていたからこそ、込み上げるものがあったこと。

 ウマ娘のレースには心を動かす力がある。眩く輝く星の近くに立ってみたい、その熱を感じてみたい。そう願うのに時間はかからなかった。

 

 河削美鐘(みかね)――彼女がトレーナーを志すに至った、一番初めの思い出である。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

 

 冷たく乾いた空気に、熱く湿り気のある風が割り込んだ。寝息を立てていた河削の前髪を揺らし、額をくすぐる。

「――」

 暑くもなく寒くもなく。ちょうどいい塩梅(あんばい)の温感で、ごく自然に彼女の瞼が開いた。

「あ、起こしちゃった?」

 窓際から良く知った声。上体を持ち上げると、母が換気のために窓を開けた所だった。着替えや身の回りの世話のため、実家から一時的に来てもらったのだ。

「ううん、ちょうど起きたとこ」

 すっかり白髪も多くなり、皺も増えたが声は思い出のまま。河削がトレーナーとしてでなく、河削美鐘として振る舞える数少ない人である。

「ならよかった。そうそうこれ、代わりに出しておいたからね」

 ひとしきり換気が終わり、窓が閉められた。そして母がポケットから配送票の控えを出し、ベッドのサイドテーブルに置く。品目の欄には衣類品と記されていた。

「ありがとう。しばらく自由に出歩けないからさ、ホントに助かったよ」

 安田記念にて破損したメイケイエールの勝負服。その修繕依頼の代行を母にお願いしたのだ。といっても事前にメールで話は通しており、発送作業のみ残っていただけなのであるが。

「それくらいなら別に構わないわよ」

「そういえばさ。あの人今何してんの?」

 河削は花瓶を手に取った母に尋ねる。

「お父さんならジュニアユースの娘達に教えてるわよ」

「まだやってんだ。とっくにトレーナー引退してんのに」

 河削がトレーナー免許を得て、中央で働く頃には父は既に一線を退いていた。過去には担当ウマ娘がGⅠタイトルを獲得したこともあり、海千山千のトレーナーとは比ぶべくもない。

「思春期の自分の娘よか、担当してた娘と向き合ってたのが長いくらいだし。いい加減若い娘の尻尾追っかけんのよせばいいのに」

 口の端を歪めて鼻で笑う。普段、メイケイエールにはとても見せないような顔だった。

「ちょっと美鐘、そんなこと言わないの! お父さんだって一生懸命、あの娘達のことを考えてるんだから」

 中央のレースは基本土日に行われる。そのため、物心付いた時から学校行事で父の姿を見たことがなかった。トレーナーなのだから、それが当然の仕事である。頭では分かってるとはいえ、父と娘の関係が歪になるのは不可避であった。

「第一、あんただってトレーナーになってるじゃない。しかも担当してるコに迷惑までかけて……どの口が言えるのかしらねぇ?」

 しかし血筋とは奇妙なもの。それ程までに嫌っていたのに、気がつけば父と同じ道に進むことに。

「それは言わない約束でしょ」

 母からの指摘は至極真っ当である。河削はただ苦笑するしかなかった。

「まったく調子の良いこと言って。でも、美鐘からお父さんの話をするなんて珍しいじゃない。何か良いことでもあったの?」

「夢をね、見たの。初めてレース場に連れてもらった時の――あの人が担当してた娘が勝ってさ」

 昔を懐かしむ穏やかな笑み。それでいて、彼女の瞳の輝きはまるで弱まっていなかった。

 

【挿絵表示】

 

 あの時に感じた興奮と情熱。今も昨日のように思い出せるほど、深く心に刻まれていた。父に対して思うことは一つ二つどころではなくとも、トレーナーとしての父は嫌いになりきれなかったのだ。

 

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「随分と古い話ねぇ。そうそう、お父さんから伝言ありますからね」

「伝言? わざわざ?」

「子は親が見ぬ間に成長するもの、ですって」

「まるで自分が育てたみたいに言って……」

 こういう時だけ親の顔をされても。しかし真っ向から否定できる材料もなく、ただただ再三の苦笑い。

 惚れ込んだ相手――メイケイエールにご執心なのは事実なのだから。好きになったのだから致し方なしだが、自分自身かなり深く関わっていたのには間違いない。

「とにかく。あんたも少しは休みなさい。まだ次の、えっと……」

「スプリンターズね」

「それそれ。スプリンターズステークスには間に合うんでしょ?」

「まあ一応は」

 自身の体調面で言えば問題はない。懸念事項といえば、メイケイエールのトレーニングをどうするかという一点。夏合宿への参加登録に間に合わず、代替手段を探さねばならなかったのだ。実に悩ましい問題が残されている状態である。

 

 ――コンコン。

 

 扉よりノックの音。河削の思考は一時中断となり、そちらの方へ目を向けた。来訪者のシルエットが窓の磨りガラス越しに確認できる。間違えようもない、見覚えのある背格好。

「はいはい、待っててくださいね――」

 母がパタパタとスリッパを鳴らしながら扉を開けた。

「――こんにちは」

 扉の向こうにいたのはメイケイエール。一日と余さず見ていた、深みのある美しい鹿毛の髪。そして、前髪にある一輪の薔薇の(つぼみ)の模様だが、どことなく元気がなさそうにしていた。

「あら、美鐘が担当してる娘ね? わざわざ来てくれてありがとうね」

「はい。メイケイエールと申します。こちら、ささやかではありますが――」

 傍らに用意していた紙袋から、水色をした平たい紙の箱を取り出した。

「水菓子をお持ちしました。ぜひお召し上がりください」

 事前に買ってきてくれたのだろう。お見舞いの品を母に手渡し、流暢(りゅうちょう)な動作で深々と頭を下げた。

「あらやだ素敵。本当にありがとうございます――こんな良い子なのにウチの美鐘が迷惑かけちゃってゴメンナサイね。色々五月蝿くて大変だったでしょう?」

「いえ、あの。そんなことは……」

「母さん。エールが困ってる」

 明らかに萎縮(いしゅく)しているメイケイエールへ助け舟を出した。当人のことについて、その家族に言うのはなかなかに神経を使う。ましてや、初対面の母親相手では尚更である。

「――あら失礼。いきなり言われても困っちゃうわね」

 諌められ、片手で口を押さえながらメイケイエールと河削を交互に見やった。

「じゃあ、お母さん少し席外してるから。病院の中庭にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」

 年長者の経験からか、空気を察知してそそくさと病室から母が出ていく。口煩く感じることも多々あれど、母親の勘というものに助けられることしばしば。今回も間違いなくソレだろう。

 母が抜け、病室には河削とメイケイエールの二人きり。彼女の耳が落ち着きなく動いているのは不安の表れ。

「エール、お見舞いありがとう。来てくれて嬉しいよ」

 緊張をほぐす、優しい語り口。表情が強張る彼女を見ると、ジュニア級での初対面の一幕を思い出す。

 あの頃とは状況も関係もまるで異なる。しかし、別の意味で初めて対面することになるかもしれない。口がまごつくメイケイエールを見守りながら、頭の片隅で思う。

 数秒か、数十秒か。河削は静かに待った。

「――あの、河削さん」

 やがて、メイケイエールは絞り出すように声を出す。不安な心を紛らわすためか、両手を強く握っていた。

「お身体の具合……いかが……ですか?」

 悩み抜いて出てきた言葉はとてもシンプルなもの。ただ、まず身体を気遣ってくれたのはエールらしいなと、愛しさに河削の目が細くなるのだった。

 

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「うん。術後は良好だよ。腹腔鏡って凄いよね、昔ならお腹開かないといけないのにさ。小さな穴を幾つか開けるだけで済むんだもの」

 河削は笑いながら、手刀で腹を横に切る仕草をしてみせた。おどけたのはともかくとして、メイケイエールの愛想笑いは未だに硬い。

 ひとまず、立たせたままは良くない。手招きして彼女をベッド近くの椅子に座らせた。

「胃潰瘍自体は一週間くらいで治るらしいけど。でも私の場合は経緯がアレだから……大事を取って一ヶ月半は休めって言われちゃった」

 トレーナー業に起因する様々なストレス。本人の不摂生もあるにしても、大きな要因としてはそれである。一ヶ月半といえば八月の末頃まで。ちょうど夏合宿期間が終わる頃だった。

「一ヶ月半、ですか」

「エールどころか、皆にも迷惑かけちゃってさ。本当にごめんね」

「そんな! そんなこと」

 倒れた時の状況や、搬送されるまでの経緯等は後から聞かされた。雨でずぶ濡れになりながら運んでくれたマシロとマンハッタンカフェ。手伝いに尽力してくれたユキノビジン。搬送先の病院まで付き添ってくれたメイケイエール。そして、その彼女を隣で支えてくれたミロワダーレとリコンスタ。

 それだけでなく母や学園およびレース関係者――至るところにまで影響が及んでいたことを知った。

「自分でさ、溜め込みすぎちゃったみたい。エールにはなるべくレースに集中してもらうためだったけど……」

「すみません。メッセージを勝手に」

 自分がしでかしたことのように、メイケイエールは俯き顔に影が差した。何も気に病むことはないというのに、彼女には本当に悪いことをしてしまった。

「アレもさ、人気商売だと仕方ないところもあるから。最初からエールに伝えて、知ってもらえたら良かったかもしれない。そこはね、単純に私のミス」

 いいえ、こうなってしまったのは全部私のせい。そうメイケイエールの顔に書いてあった。

 彼女は驚くほどにひたむきで真面目一直線。自分が悪いと思えば頑として譲らない。その気質は頼もしくあるが、また時として非常に脆くもある。今ばかりは、ボタンを大きくかけ違ってしまったのだ。

「だからね。私も、エールも……一生懸命になりすぎただけ。お互いにやれることをやろうとした結果なんだよ、きっと」

 隣に座るメイケイエールに右手を差し出す。グロスも塗らず、横に線が入った不健康な爪を見せるのは実に忍びない。

 彼女は初め、静かにその手を見ていた。まだ心の内では葛藤があるのかもしれない。誰が悪いということもなく、気持ちが大きくすれ違ってしまったのだと。

「……難しいですね。本当に」

 わずかにメイケイエールが微笑む。責任感の強い彼女も、自分なりの落としどころを見つけたのだろうか。

「そんなもんだよ。たまにはぶつかったり、すれ違ったりして――本当に大事なのはこれから」

 ゆっくりと、メイケイエールと河削の手が重なった。互いの指が相手の掌をなぞり、柔らかく握る。繋がった手と手から体温が混ざり、一つに溶け込もうとする。

 もう言葉は要らなかった。肌が触れ、指でお互いを確かめ合う。ただそれだけで心のわだかまりが綺麗に溶けてゆくのだった。

 

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「――河削さん。今日はそろそろお暇しようと思います」

 目を閉じて手を握ることしばらく。どちらともなく手が離れ、メイケイエールがやおらに腰を上げた。

 彼女の顔からは、病室に入ってきた時の様な硬さは消えていた。見目麗しい令嬢そのものである。

「うん。来てくれてありがとう。お見舞いの品もね」

 そして、河削自身もどことなく肌艶が良くなったような。本調子とはまだ言えないにしても、頬に赤みが戻ってきたのは確かだった。

「あ、エール。次のレースについてだけど」

 九月のスプリンターズステークスに向けて。そう続けようとしたが、一瞬メイケイエールが見せた悲しげな顔で思い留まった。

「いや、また折を見て話すよ」

 まだ彼女の心は完全には固まっていない。あまり意識させてしまうとネガティブな方向に傾く恐れが。トレーナーとしてチャンスは逃したくないが、相手の立場で考えると強行はできなかった。

「――すみません。少し、もう少しだけ……」

 メイケイエールもまた闘っている。少なくとも、今は話題とすべきではない。

「そうだね、了解」

 為すべき時に為すべきことを為す。ただそれだけのこと。河削は寂しげな背中のメイケイエールを見送った。

 一息ついてから、ちらりと壁の時計を見る。まだWi-Fiが使える時間だった。

(エールにあんな顔させたまま、終わらせる訳にはいかねぇってのよ)

 サイドテーブルに置いていたタブレットを起動する。医師からは仕事は控えるよう釘を刺されていた。しかし河削は止まらない。これは生きる意味そのもの。仕事などという薄っぺらいものではないのだ。

 ふと、脳裏に父の言葉がよぎった。

 

 ――子は親が見ぬ間に成長するもの。

 

「まったく。因果なもん(・・・・・)だこと」

 自嘲気味に河削が笑う。それは自身の業というのを改めて思い知ったもの。そしてメーラーを立ち上げ、怒涛の勢いでメールをしたため始めた。

 

▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽ ▲

莫逆の友

 七月に入って一週間ほど。肌が痛くなるほどの強い日差しの中、メイケイエールは練習用コースを一人走っていた。青々と伸びる芝を蹴る感覚はまったく問題ない。安田記念での落鉄で負った傷も完治したようだ。

 第三コーナーを回り、第四コーナー、そしてスタート兼ゴールのポールポストへ。多数の生徒が夏合宿に出たからか、練習用コースを悠々と走ることができた。

「ふう……」

 一本走り終え、額に噴き出る汗を拭う。息をついて周囲を窺った。

 

 ――そこはかとない居心地の悪さ。

 

 この所、学園内でどうにも肩身の狭さが続いていた。どこに行っても誰かの視線を感じて落ち着かない。

 理由は既に分かっている。河削が自分のせいで倒れたという噂が、尾ひれ背びれがついて広がったためだ。表立って言われることはないとはいえ、色眼鏡がかかった目で見られて良い気はしないもの。

 その状態ではトレーニングに身が入らないのは必定。いわゆる不完全燃焼だった。

(これでは……)

 とてもレースに出られる仕上がりではない。メイケイエールは顔を伏せた。汗が額から鼻へ伝い、鼻先から雫となって落ちてゆく。しかし彼女には、どうあってもしがみつかねばならない理由があった。

 それは、ミロワダーレとリコンスタの二人と交わした約束のため――。

 

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 夏合宿の出発当日、メイケイエールは参加する二人を見送りに出た。希望と不安、そしてこれからの躍動を夢見る熱気がない混ぜとなった独特の空気感。自分も去年はこのような感じだったと、しみじみしながら参加者を眺める。

『んじゃ、オレ達も行くわ』

『はい。お気を付けて』

 ミロワダーレは大きめのボストンバッグを肩に担ぐ。彼女の目的はダートの走力をより強化するため。妥当ライムトニックをスローガンに掲げ、リベンジを果たすため躍起になっていた。

『リコも……気を付けて』

 そしてリコンスタ。今回の夏合宿では一切走らずに遠泳等を中心に行う予定らしい。脚の回復を待ちつつ、できる限りの身体強化を図るのだと。

 キャリーバッグを傍らに、相変わらずぽやっとした表情の彼女。あの一件の和解は果たしたとはいえ、どことなく気まずさを感じていた。

 そのリコンスタが一歩、二歩と歩み寄る。特に怒っている訳でもなく、いつもの顔で。何をするのか読めず、メイケイエールは反射的に腰が引けてしまう。

『――!』

 しかし次の瞬間、リコンスタに抱き締められていた。逃さないと言わんばかりにぎゅっと強く。しかしながら、密着した身体から不安に急く鼓動が伝わってきた。

『……合宿から帰ってきたら……食べよ、パフェ。三人で……』

 声を震わせながら、リコンスタが続ける。

『……だから。居なくならないで……友達が居なくなるのは絶対に嫌……』

『リコ……』

 メイケイエールも背中に手を添わせた。どのような心境で、どのような覚悟なのか、窺い知ることは叶わない。ただ一つ言えるとしたら、リコンスタは必死に繋ぎ止めようとしてくれていたのだ。

『オレからも頼む。ルームメイトが変わるなんて二度とゴメンだからな』

 二人は信じてくれている。寄り添ってくれている。沢山の思いを受け、メイケイエールの目の奥が熱くなった。

『分かりました――約束します。絶対に食べに行きましょう』

 抱き合った身体を離す。リコンスタの瞳は潤み、鼻の頭が赤みを帯びていた。ずっ、と鼻を勢いよくすすり、彼女は右手を差し出した。小指をピンと突き立てながら。

 そう、例のお約束。メイケイエールも何も語らず、自らの小指を優しく絡ませる。

『……ゆーびきーりげーんまーん……』

『嘘ついたら針千本飲ーます、指切った』

 そのままお決まりの文句と共に手を上下に振る。そして、絡ませた互いの小指を離した。

『……エールが飲む時はわたしも……一緒に逝こうね……』

『クソ重ぇって』

 終わり際にリコンスタが放った超重量級の一言。待ってましたと言わんばかりに、間髪入れずミロワダーレが突っ込んだ。

『……ミロワもだよ。特別に一阿僧祇(あそうぎ)にしてあげるから……』

『道連れにすんな! しかも何だその単位』

『……おや、一那由多(なゆた)の方がよかった? このい☆や★し☆ん★ぼ……』

『だからな!?』

 安定の漫才芸が目の前で繰り広げられている。前に見たのはいつ頃だったか、怒涛の勢いの日々にすっかり忘れてしまっていた。

 暫く会えなくなってしまうのは実に寂しい。だからこそ、このいつもの光景が一際輝く。メイケイエールは遠慮気味に頬を綻ばせ、二人が言い合うのをただ静かに眺めていた。

 

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 三人集まってパフェを食べる。ささやかながら非常に大きい約束。すっきりした気持ちでその日を迎えたいものだが、今の所は難しいと言わざるを得なかった。

 メイケイエールは渋い顔を上げる。幾ら走っても手応えがなく、ただ疲労が蓄積していくのみ。スプリンターズステークスまで残り二ヶ月弱。期間があるように見えても、怪我で走れなかった期間もある。とても楽観視はできなかった。

「いけない。そろそろ時間……」

 練習用コースの端に建てられている時計を見る。病院の面会可能時間が迫ってきていた。まずシャワーで身体をさっと流して、それから身支度を整えて、である。

 時間に遅れてはいけない。急いで荷物を纏め、足早に練習場を後にした。

 

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私は信じる。誰よりも貴方を

 河削の術後の経過は良好だった。肌や髪の色艶が徐々に戻ってきており、傍目にも回復傾向と見て取れた。ただ、出される病院食について不満たらたらのようで。胃に負担をかけない消化しやすいものばかりで、食べ応えがなく満足できないらしい。

「今、一人でトレーニングしてるんだって? 上手くいってる?」

 メイケイエールは定位置と化した、ベッド脇の椅子に腰掛ける。

「それが……あまり集中できなくて」

「ふ〜ん。今のエールに学園はノイズが多いか……他人の不幸は蜜の味ってやつね。やだねぇどいつもこいつも」

 河削は団扇で扇ぎながら、頭を掻いてぼやく。室内は冷房が弱めに設定されており、少し動くだけでもじんわり暑さを感じた。

「あの、河削さん。一つ聞いてもいいですか」

「うん? 何かな?」

「――本当にGⅠ勝てると思いますか? 私が、今の状況でも」

 メイケイエールは単刀直入に問う。これまでさんざ挑戦しても届かなかったGⅠの壁。それが越えられると、今でも思っているのだろうか。

「もちろん。エールなら間違いなく勝てる」

 その質問に河削は間を置かず断言した。真正面に見据え、力強い視線を向けて。

「どうして……こんな状態なんですよ?」

「理由は特にないかな。でも、エールなら間違いなくやってくれるって確信してるから」

 迷いの一つもなく、さも当然と言わんばかりの様子だった。一切の淀みのない姿には呆れるやら感心するやら。一体その原動力はどこから来るのか、心底不思議でならなかった。

「まあ強いて言うなら、エールが好きだから。かな?」

 予期せぬ答えに、メイケイエールは思わず河削をまじまじと見てしまった。

 確かに、出会うきっかけは向こうの一目惚れによるもの。それがこの場でも出てくるとは。

「一番初めは好みの見た目だったっていうのもあるけどね。でも選抜レースを見た時はさぁ……惚れ惚れしたよ」

 河削は遠い目をしながら天井を仰ぎ、しみじみと呟く。

「本当に綺麗で飛ぶようなフォームにさ、もうエールしか目に入らなくなっちゃって。その時、見えたんだよね――エールが、GⅠのウイナーズサークルに立ってる姿を。沢山の人に祝福されて、笑いながら手を振ってて。もう、絶対にこの娘の担当になりたいって思った。貴方が輝く姿を現実にしてみたいって」

 照れ臭そうにはにかみ、河削が視線を戻した。まるでレースを初めて見た子供のように、頬を赤くさせて。

「トレーナーらしからぬ答えだけど。これが理由」

 名誉欲も何もなく、ただただ理想と情念のためだけに。その瞬間、メイケイエールは理解した。

 

 ――ああ。この人は、きっと……。

 

 胸の内に今まで感じたことのない感覚が湧いた。それが何であるのか、彼女にはまだ分からない。少なくとも、抱えていた不安さが徐々に和らいでいく。

「――とは言っても。無策で勝たせてくれるほどGⅠは甘くない。学園だとやり辛いなら別の場所を探さないといけないんだけど」

 ここから先は現実の話。夢と希望だけでは、GⅠで勝てないのは嫌というほど身に染みている。どれだけ汗を流し、勝利のために力を尽くしたか。クラシック級の新進気鋭の娘も上がってくるタイミングであり、胡座をかいて構えている訳にはいかない。

 

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 夏合宿で生徒が少なくなったとはいえ、学園では他の耳目(じもく)に晒されてしまう。とにかくここ以外で、集中できる環境の確保が必須だった。

 解決すべき課題が肩にのしかかる。ウマ娘が走れるコースなどそうそうあるはずもない。無理に一般道を使用して怪我でもすれば、全てが水泡に帰してしまうのである。

「探すにしても見当がまるで」

 メイケイエールには解決策はないと思われた。しかし河削は――。

「エールが伸び伸び練習できるよう、コース確保しておいたよ。条件付きだけど貸切で、八月いっぱいくらいまで」

 などと、こともなげに言う。

「コースを!? 貸切で!?」

 にわかには信じられなかった。個人に貸し出しできるコースがどこにあったのだろう。それより、病床の身で大丈夫なのかというのもあるが。どこから触れればよいのか困惑するレベルだった。

「うん、頑張ったよ〜。芝ダート併設で、芝一周1700メートル、ダート1500メートル。ま、使えるのはダートのみだけどね」

「芝ダート併設で、そんなに広い……信じられません」

 国内最大規模の東京レース場は芝2100メートル、ダートは1900メートル。比較的小さい小倉レース場でも芝1600メートル、ダート1400メートルである。

 要するに、河削は国内レース場とほぼ同規模のコースを抑えたというのだ。その上、八月末までとなれば費用も尋常ではないはず。

 口から出任せと思わずにはいられない。しかし、これまでの流れで糠喜(ぬかよろこ)びさせる嘘をつくものだろうか。半信半疑の眼差しで河削を見つめるしかできなかった。

「あれ? ピンと来なかった?」

「来る訳ないじゃないですか。陸上のトラックとは違うんですから」

「なるほど、じゃあヒントを――エールの庭、ってとこ」

「……庭?」

「庭」

 ふと脳裏に浮かぶのは実家の庭。芝生が広がり、色とりどりの花が咲く花壇が――それはどう見てもあり得ない。今一度、メイケイエールは頭の中を整理し始めた。

(庭と言うくらいなら私も知っている所。それに芝ダート併設ということは……)

 考えが纏りつつあるが、比例して顔に広がる困惑の色。既に一つの可能性は挙がっていた。が、荒唐無稽であり口に出すことも憚られた。

「あの、どんなコースなんでしょう……」

 思い違いがないように、おずおずと。

「えっとね。芝はスタート位置から中盤まで緩やかな上り坂。で、そこからホーム直線に入るまで下り坂。下り切ったら高低差2メートルの坂を上って、平坦な200メートルを走った先がゴール、ってとこかな」

 

 ――まさか。

 ――そんなまさか。

 

 耳の毛が逆向きにそば立ち、噴き出る汗で背中がじっとりと濡れる。思い当たる場所は一つしかない。一つしかないのであるが、本当に本当なのだろうか。

 顔に緊張が走るのを見て取ったのか、河削がにんまりと笑っている。彼女のこの表情ということは間違いないはず。

 

「……中京、ですか」

 

 メイケイエールは慎重に尋ねた。

 確かに中京は中央で唯一、民間の株式会社にが運営するレース場である。URAには施設を貸与する形でレースを執り行っている。そして、彼女の父親がその会社社長である。

 可能不可能と言えば可能だろう。ただ、一個人がレース場のコースを貸し切るなど前代未聞。

「御名答!」

 河削は拍手で正答を讃えた。

「エールのお父さんに直談判して、OK貰ったんだ。中京レース場のダートコース貸し切り! まあ条件は色々あるんだけど……帰省って形で帰れるし、エールにもそれが一番負担が少ないかなって」

「正直なところ、まるで信じられなくて……一体どうやったんですか?」

 トレーナーといえど、一個人が一企業を動かしたのだ。しかも一人のウマ娘の為だけに。並大抵の情熱では到底成し得ない偉業と言えよう。

「ふっふっ。世の中はね、ヒトとヒトとの繋がりで回るものだからさ。エールも覚えておいてね」

 河削は得意満面に胸を張る。威張り散らしてもお釣りが来るほどの成果を挙げたのだ。むしろ謙虚すぎるほど。

 その姿をメイケイエールは不思議な感情と共に眺めていた。羨望とも畏敬とも違う、もう少し柔らかい感覚。触れれば温かく、時に冷たく、はたまた熱く。何かが、胸の内をこそばゆく撫でるのである。

 ふにゃりとした眼差しを知ってか知らずか、河削は更に続ける。

「知ってるかな。”ヒトがいて、ウマもいて、そしてまたヒトがいる”――トレーナーの基本原理。元々はとあるレジェンドトレーナーの座右の銘なんだけど」

 メイケイエールはただ横に首を振る。

「エールの周りには誰が、どんな風にいるんだろうね。改めて考えてみるのに良い機会かも……さて。ちょっと脱線しちゃったかな。細かい条件について説明するから――」

 自分の周りに誰がいるのか。身近な範囲でしか考えたことがなく、浮かぶのはミロワダーレやリコンスタらの顔。しかし河削の話はそういう次元ではないはず。

 それでも分かっていることが一つある。

(私の隣にいるのは――)

 河削の横顔、緩みのない顎のラインを見つめながらメイケイエールは想う。

 

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そして瞳は遥かなる

 河削から言い渡された出発の日は三日後。荷物の準備や帰省の手続き、そしてミロワ達へ連絡等。慌ただしくしていると瞬く間に過ぎ去っていった。

 そうして当日を迎え、メイケイエールは東京駅構内を歩く。最小限の着替えとトレーニング用品が詰め込まれた、ずっしり重いキャリーバッグを引きながら。

(確か、付き添いの方が新幹線の乗り換え改札に――)

 今回、河削の代わりに帯同者が一名付いてくれるとのこと。新幹線のチケットはその相手に託しているというが、誰かまでは明かされなかった。河削の知り合いならばトレーナー関係者だろうか。そのようなことをぼんやりと考える。

 まだ早朝、普段なら朝食の時間である。国内でも有数規模のターミナル駅は時間などお構いなし。衝突を器用に回避しながら、ひっきりなしにヒトが行き交っていた。

 移動途中のエレベーターを待つ最中、彼女は河削から出された課題を思い返す。

 

 一つ、トレーニングは平日昼間のみとする。

 ――トレーニングはレースがない平日の、レース場が開いてる時間までだからね。トレーニングが終わったらゆっくり身体を休めること。居残り厳禁!

 

 一つ、土日はレース場の手伝いをすること。

 ――あくまでもレース場を使わせてもらう立場を忘れずに! 中京の開催期間だから何かしらお手伝いをすること。その辺りは先方にお任せしてるから指示に従ってね。

 

 一つ、必ずトレーニング相手を見つけること。

 ――一人でウェートトレーニングとか、ランも重要だけど。でもエールはもうその段階じゃない。トレーニング相手と一緒に走って、実戦感覚を鍛えてちょうだい。もちろん相手は自分で探すこと!

 

 そして、三つの課題のどれか一つでも未達の場合、スプリンターズステークスの出走登録を見送るという。一つ目と二つ目はしっかり守ればいいだけなので支障はない。最も肝要なのは三番目の、トレーニング相手を見つけるということだった。

 地元名古屋に帰るとはいえ、活動していたのは中央である。そのため人脈はないに等しい。中京でのレース開催は七月末頃からであまり日がなく、早々に着手しなければならない問題だった。

(一緒に来てくださる人は、要するに――)

 監視役、ということだろう。厳しい条件に厳しい罰、これは河削の覚悟の表れとも言える。それはメイケイエール自身も分かっていた。

 これくらい乗り越えなければ、もうきっと次はない、と。

 

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 待ち合わせ時間の五分前に、新幹線の乗り換え改札脇に到着した。周囲を見回して帯同者を探す。誰が来るか知らされてない以上、それと思しき人を見つけるしかなかった。

「エールさん! すみません遅くなりました〜!」

 ふと、聞き覚えのある声が遠くから飛んできた。雑踏に負けないくらいにハツラツと明るく、メイケイエールの耳に真っ直ぐ届く。

 

 ウマ娘?

 それとも他の人?

 

 顔を向けると、黒縁メガネでボブカットの小柄な女性が手を振りながら歩いてきた。大きなキャリーバッグを運び――もとい、大きなキャリーバッグに運ばれながら。それはメイケイエールも良く知る人物だった。

「高木さん!?」

 正真正銘、高木記者である。キッチリした折り目のスラックスと薄手のブラウスという装い。首からいつものカメラも提げており、仕事中という雰囲気だった。

「おはようございますっ」

「おはようございます……あの。高木さんがいらっしゃったということは」

「はい! 河削トレーナーの代理で、私が同行させていただきます!」

 高木の黒縁メガネがキラリと光り、鼻息荒く胸を張る。知った顔が着いてきてくれるのはありがたい。しかし、それはそれで不安になる部分があった。

「同行いただけるのは嬉しいのですが。お仕事の方は……」

 これから一ヶ月以上も名古屋へ行くことになる。その間、記者としての業務に支障はないのだろうか。夏季のレースは地方開催が主となるため、各地を飛び回らなければならないはずだ。

「――ふふっ、そう来ると思ってました」

 素敵な笑みを背景に、メガネのつるをくいっと上げる。

「実はこの夏、特別企画を担当しまして――その名も、”メイケイエールの夏休み”!」

 突如として高木の眼鏡が怪しく輝いた。そして、ふんすふんすと鼻息荒く。

「スポットを当てた一人のウマ娘に密着取材を行い、その魅力をより多くの方に知ってもらおうと! 故に、ふつつかながらこの高木、エールさんのお供に参った次第です!」

 なるほどそういうことか。代行して帯同する代わりに、その間は密着取材が行われると。河削と高木、どちらにとってもWin-Winの内容だった。

「……まあ実は。お声がけ頂いてから突貫で企画書作ったんですけどね。三日三晩、会社に泊まり込んで頑張っちゃいましてぇエヘヘ」

 照れ臭そうに話す姿は同性から見ても可愛らしい。が、発言の内容はその真逆。これも鉄火場で培った根性の賜物なのだろうか。

「あ、もちろん事情は伺ってます。なので帯同者としての務めもしっかり果たしますのでご安心を!」

 高木は頼もしげに胸を張る。姿形はまるで異なるのに、どことなく河削を彷彿とさせた。

 

『暫く離れることになるけど――これもね、お互いに必要なことだと思う。この夏で体調バッチリ取り戻すから、エールも頑張って。二人でGⅠ、今度こそ獲るよ』

 

 三日前、去り際に河削からかけられた言葉を思い出す。

 

 不安はある。

 しかし恐れはない。

 

 かすかに震えた手を強く握り、メイケイエールは高木に向き直った。

「高木さん。暫くの間、よろしくお願いします!」

 大きく頭を下げる。そして再び顔を上げた時、焦茶色の瞳は一点の曇りもなく透き通っていた。

 




という訳でいよいよ名古屋編に突入。
本格的に名古屋トレセン組と絡んでいくことに。

その前に……次話は最後の番外編。
メイケイエールのために奔走する大人達の話。
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