俺の決死の忠告とそれに伴う後悔も虚しく、野原しんのすけは見事に巨乳の誘惑に敗北した。
プリリンに誘われるがままビデオ屋へと向かい、ドン・クラーイとこの世界を繋ぐ『扉』を開けてしまった翌日の夜。
事態は、俺のあずかり知らぬところで静かに、そして確実に進行していた。
◇
「……ボクはマタ・タミ。君を守るためにやってきた」
深夜の野原家。しんのすけがトイレトイレと向かった廊下。
謎のカラフルな箱の中から現れたその少女――マタ・タミは、真っ直ぐな瞳で目の前のパジャマ姿の五歳児を見据えていた。
金矛の勇者である彼を、迫り来るドン・クラーイの魔の手から護衛し、導く。それが彼女の使命だった。
「君は、ドン・クラーイとの世界を結ぶ扉を開けてしまったんだよ」
しかし、勇者であるはずのしんのすけは、マタの凛々しい姿を見ても特に驚く様子もなく、ぽりぽりと尻を掻きながら首を傾げた。
「ふーん。マタ……。じゃあ、あの『行き倒れのお兄さん』のお友達?」
「行き倒れ……? 誰のこと?」
予想外の単語に、マタは思わず眉をひそめる。
「んーとね、一昨日の夜、マックって変な歌うたうシルクハットのオジサンに絡まれてた時、オラを抱えてものすっごい速さで逃げてくれたお兄さんだゾ。あの時も『ドン・マーイ』がどうとか言ってたし、お仲間かと思ったゾ」
「ドン・クラーイね……なんだって?」
マタの表情が、スッと険しいものに変わる。
マック・ラ・クラノスケ。ドン・クラーイの重役であり、冷酷で計算高いあの男から、この子供を奪って逃げおおせた人間がいる?
「その人は……どんな人だい?」
「んー、昼間オラたちがいつも遊んでる公園にいて、なんかずーっと『家がない』『体が痛い』って言いながらサトーココノカドーの袋持ってウロウロしてたゾ」
「昼間にも……公園に……」
しんのすけの無邪気な言葉を脳内で反芻し、マタは警戒心を跳ね上げた。
太陽の光が降り注ぐ昼間の人間界を、何の制限もなく歩き回れる。それはつまり、その『お兄さん』とやらがヘンジられた空間にしか存在できないドン・クラーイの住人ではないという決定的な証拠だ。
――だとしたら、一体何者なんだ?
人間界の住人でありながら、こちらの世界ドン・クラーイを知っている。
しかも、あのマックの隙を突いて勇者を連れ去るほどの身体能力を持っている。
そんなイレギュラーな存在、マタは聞いたことがない。
……味方とは限らない。ドン・クラーイの言葉を知っているのなら、ダーク側に寝返った人間のスパイという可能性もある。あるいは、何か別の目的があって勇者に近づいている……?
少なくとも、ただの『行き倒れの高校生』であるはずはない。
高度な訓練を受けた者か、あるいは魔法使いか。どちらにせよ、勇者に近づく得体の知れない危険人物。
「しんちゃん」
マタは声を低くし、真剣な眼差しで五歳児の肩を掴んだ。
「その人には、なるべく近づかないほうがいいかも。ボクの仲間じゃない。ドン・クラーイを知る、正体不明の危険な人だよ」
「えー? でもあのお兄さん、オラのこと『推しを助けるキーマン』だから守るって言ってたゾ? 推しってなんだ?」
「言葉巧みに君を騙そうとしているだけかもしれない。いいかい、絶対に信用はしちゃダメだよ。もし次にその人が現れたら、ボクが対応するよ。夜だったら出てこれるから」
マタは決意を込めて、闇夜に溶け込むように姿を消した。
勇者を守るために……その確固たる意志を胸に秘めて。
◇
「……へっくちゅっ!!」
同じ頃。
深夜の公園の複合遊具の中で、俺は盛大なクシャミをぶちかましていた。
「あー……さっむ……」
サトーココノカドーで買った毛布を頭まで被り、ガタガタと震える。
風邪か? いや、なんか猛烈に嫌な寒気がした気がする。誰かが俺の噂でもしているのか?
「マジで……勘弁してくれよ……体が痛い……」
俺の最愛の『推し』であるマタ・タミに、得体の知れない人物としてゴリゴリに警戒されていることなど露知らず。
俺はただひたすらに、遊具の床の硬さと春の夜の冷え込みに文句を垂れながら、不毛な夜を明かそうとしていた。
◇
次の日の夜。
サトーココノカドーで調達した毛布に包まりながら、俺は複合遊具の中でぼんやりと考えていた。
こういう超常現象――いわゆる異世界転移ってやつを解決するには、この世界の絶対的主人公である『野原しんのすけ』を頼るのが一番手っ取り早いとは思う。
だが、俺の不用意な介入で原作のストーリーが変わってしまうのはマズい。もしバタフライエフェクトが起きて、ドン・クラーイに地球が支配されでもしたら元も子もないのだ。
ここはぐっと堪えて、しばらくは関わらずに大人しくしていよう。
アセ・ダク・ダークを倒し終わって、世界に平和が戻ってから、しんのすけに「実は俺、元の世界に帰れなくてさ」と相談するでも遅くはないはずだ。
「……でも、マタに会えないのはちょっと、いやかなり悲しいかな……」
夜の静寂に、俺のオタク特有の未練たらしい独り言がポツリと漏れた。
我ながらキモい。さっさと寝よう。そう思って毛布を被り直そうとした、その時だった。
「……ボクに会えないのが、なんで悲しいのかな?」
――ビクッ!!
遊具の入り口付近から、静かで、鈴を転がしたような爽やかな声が響いた。
心臓が跳ね上がる。ゆっくりと声のした方へ顔を向けると、月明かりを背にして一人の人物が立っていた。
青いターバン、ゆったりとした服装。そして、男の子にも見える中性的な顔立ち。
「……キミは、何者なんだい?」
マタ・タミ。俺の最愛の推しが、そこにはいた。
待て待て待て。なんでここにいるんだ。
いや、理由はだいたいわかる。昨日しんのすけから俺の話を聞いて、警戒してわざわざ公園まで様子を探りに来たのだろう。
それにしても、だ。推しに直接会う心の準備なんて、俺は微塵もできていない。
「あ……えっと……」
あたふたとする俺の口から、無意識のうちに本音が漏れ出た。
「……実物のマタ、かわいい……」
「えっ?」
マタが虚を突かれたように目を瞬かせる。やべっ、キモいオタクの心の声がダダ漏れだ。
「あ、いや! なんでもない! えっと、あんたは……」
誤魔化そうとする俺に対し、マタはすぐに真剣な表情に戻り、真っ直ぐな瞳でこちらを見据えてきた。
「昨日、しんちゃんからキミの話を聞いたんだ。ボクがしんちゃんにドン・クラーイの説明をしようとしたら、すでにキミから『ヤバい連中だ』って聞いていたみたいでね」
静かで優しい口調だが、その瞳にははっきりとした警戒の色が宿っている。
「なんでキミは、暗黒世界ドン・クラーイのことを知っているんだい? ボクには、しんちゃんを守る使命がある。だから……キミの目的を教えてほしい」
静かに問いただされる俺。
どうする? なんて説明すればいい? 「アニメで見て知ってます、俺あなたのファンなんです」なんて言ったら完全に精神を疑われる。そもそも原作が変わるのもマズい。
必死に言い訳を考えていた俺の脳裏に、ふと、ある疑問がよぎった。
……ん? 待てよ。
昨日、マタがしんのすけと初めて会ったんだとしたら、今日の夜の展開はどうなるんだっけ?
しんのすけがマックから契約書を迫られるのが四日前
一昨日、ビデオ屋の扉を開けてしまう。
昨日、マタと会う。
ということは、四日目の今日の夜は……。
『マックが、野原家を襲撃しに来る日』じゃないのか!?
本来なら、そこでマタが助けに入り、初ヘンジルで飛行機バトル、ドッグファイトをする展開だ。
なのに今、マタは俺を警戒して、野原家ではなくこの公園に足を運んでいる。
「……ッ!!」
クソッもう原作が変わってるのか!
俺は弾かれたように立ち上がった。
「し、しんのすけは今大丈夫なのか!?」
「えっ?」
「マタ! お前ここに来てていいのかよ! しんのすけが危ない!」
突然声を荒げた俺に、マタが驚いて肩をビクンと揺らす。
俺は遊具を飛び出し、全力で野原家の方角へ駆け出した。
「ま、待って! しんちゃんがあぶないって!?」
マタが慌てて後を追ってくる。さすがは暗黒世界の住人、身軽で足が速い。
だが、俺の身体スペックと焦りには敵わない。このままマタのペースに合わせていては間に合わないかもしれない。
俺は急ブレーキをかけ、後ろから走ってきたマタの前にしゃがみ込んだ。
「俺がおぶった方が速い! 乗れ!」
「は、はい!? なにを言ってるんだい、キミは……っわぁ!?」
戸惑うマタの警戒を強引な圧でねじ伏せ、半ば無理やり背中に背負い上げる。
「ちょ、ちょっと! 降ろしておくれよ……!」
「暴れんな! 舌噛むぞ!」
推しをおんぶしているという超絶役得なシチュエーションを噛み締める余裕なんて、今の俺には一ミリもない。
俺はマタを背負ったまま、再び夜の街を全力ダッシュした。風を切り裂くような尋常じゃないスピードに、背中のマタが「ひゃっ!?」と小さな悲鳴を上げる。
「これからマックの野郎が、しんのすけの家を襲いに来るはずなんだ! 急がないと手遅れになる!」
走りながら叫ぶ俺に、マタが背中で息を呑むのがわかった。
「襲いに来るって……なんでキミがそんなことまでわかるんだい!?」
「勘だ!」
「勘!? そんなわけないだろう! やっぱりキミは、あいつらの仲間……!」
耳元で疑いの声を向けられるが、今はどう思われたっていい。
とにかく野原一家が無事じゃなきゃ、俺の精神が持たない。そしてマタが使命を果たせなくて悲しむ顔も見たくない。
面倒くさいことには関わりたくないと言いながら、俺は自ら特大の面倒事に首を突っ込んでいた。
「仲間じゃねえよ! 俺はただの……お前のファンだ!!」
「ふ、ふぁん!?」
意味不明なカミングアウトを春日部の夜風に響かせながら、俺は野原家を目指して一直線に駆け抜けた。
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