第1話 肉怖い
その後の俺たちは、どこかぎこちなく、特に会話もしなかった。
無理もない。だって、あまりにも恥ずかしすぎるから。
夜ご飯の食卓についたとき、みさえさんが不思議そうに首を傾げた。
「なんか二人とも顔赤いわね? 熱かしら」
「ちゅーーでもしたんじゃないの〜?」
しんのすけが唇をタコのように尖らせながら、ニヤニヤとふざけて聞いてくる。図星を突かれた俺たちはギクゥッ!と肩を跳ねさせたが、なんとか顔を引きつらせながら誤魔化した。みさえさんは「えーっと、体温計は……」とキッチンへ探しに行ってしまったが、もちろん熱などない。あるのは顔の火照りだけだ。
その後、お風呂上がりの少し火照ったマタの姿に見惚れてしまい、またしてもしんのすけに「お〜、思春期だねぇ〜」といじられた俺は、逃げるようにお風呂へと向かった。
だが、一人になった湯船の中で、ついさっきまでこのお湯にマタが浸かっていた、という健康的な男子高校生ならではの気持ち悪い邪念が頭をよぎり……俺は「いかんいかん!」と顔をブンブンと振った。
湯船にぼーっと浸かっていたが、出来心で一度だけお湯の中に顔まで潜ってしまったことは、どうか許してほしい。
なんとか風呂から上がり、この先1ヶ月も続くこの同居生活に慣れることができるだろうか……と一人で悶々とする。
その後もマタとは特に会話らしい会話もなく、一緒に2階へと上がった。
俺の書斎と、マタがア法で作った左右反転の書斎。二つの扉の前で立ち止まる。
「じゃあ、おやすみ」
「……うん、おやすみ」
お互いに一言だけぎこちなく挨拶を交わし、マタは自分の部屋の扉へと入っていった。
一つ屋根の下、壁一枚隔てたすぐ隣の部屋に、マタがいる。
俺は自分の部屋の布団に潜り込み、頭まですっぽりとシーツを被って、ぐるぐると回る思考を強制終了させるように眠りについた。
「お、おはよう、マタ」
「おはよう、か、かける」
次の日の朝、顔を合わせた俺たちは、いまだに昨日の気まずさを引きずっていた。お互い普通に接したいのに、なんと言葉をかければいいのかわからない。
そんなとき、俺の目の前で、マタが自分の頭のてっぺんにちょこんと跳ねた寝癖をなんとか潰そうと、一生懸命手で押さえつけていた。
最初は片手でやってたが、全然直らないので両手でペタンと押さえつける。しかし、手を離すと「ぴょこっ」と元気に髪が跳ねてしまう。
その必死な様子がどうにも可愛くて、俺はつい吹き出してしまった。
「な、なおらないよ!」
顔を赤くしてムキになるマタ。可愛すぎるだろ。
「水っ、付けてくるっ!」
恥ずかしさを誤魔化すように、マタは小走りで階段を降りていく。しかし焦っていたのか、終わりの一段を少し踏み外し、「いてっ」と小さく声を漏らしながら洗面所へと向かっていった。
そんなマタの後ろ姿を見て、なんだか変に意識してぎこちなくなっていた自分が馬鹿らしくなり、俺も自然な笑みを浮かべて洗面所へと後を追った。
洗面所を覗くと、マタは一生懸命寝癖と格闘した結果、大変なことになっていた。
「髪、びしょびしょじゃんか」
蛇口の水をつけすぎたマタの前髪や横の髪から水滴が滴っているのを見て、俺はまた笑ってしまった。
「だって全然直らなくて!」
マタは、寝癖があった部分をポンポンと叩きながらぷりぷりと怒っている。
「そのままだと髪が傷むぞ」
俺は優しく微笑んで、洗面所にあったハンドタオルでマタの頭を軽く拭いてやり、ドライヤーのスイッチを入れた。
マタの後ろに立ち、温風を当てながら手櫛で優しく髪を乾かしてあげる。
「……そういう優しいところ、すごく好きだ」
ドライヤーの風に紛れて、マタが小さく呟いた。
「えっ、なんて!?」
ドライヤーの音のせいでよく聞こえず、俺は聞き返した。
「ありがとうって言ったのさ!」
聞こえていなかった俺の間の抜けた顔が面白かったのか、マタはケラケラと笑いながら答えた。
「よし、これでオッケー」
すぐに髪が乾き、すっかり寝癖も直った。ドライヤーを片付けながら、俺は昨日の夜、布団の中で考えていた予定をマタに提案する。
「今日は、服を見に行かないか? ほら、マタの今の格好だと外を歩くには少し目立っちゃうからさ」
表向きはそんな尤もらしい理由を口にしたが、本音を言えば『こっちの世界の服を着たマタも見てみたい』という、俺の完全な下心だった。
「服? あぁ、そうだね! ボクのこの格好は、こっちの世界だとかなりヘンテコな感じだよね。ボクもこっちの服、見てみたいかも!」
マタが嬉しそうにパァッと顔を輝かせる。だが、俺はその言葉を見過ごせなかった。
「ヘンテコじゃない! 俺はマタのその格好も好きだ!」
俺が真っ直ぐに彼女の服装を肯定すると、マタは一瞬きょとんとした顔をした後、呆れたように小さくため息をついた。
「君のそういう、思ったことを真っ直ぐ言うところ……本当に、垂らしだね……」
「ん? どういう意味だ?」
垂らし? なにかの罠か?
俺が言葉の意味を理解できずに首を傾げていると、居間の方から声がした。
「あー、二人とも起きてたのね。朝ごはんできてるわよー」
みさえさんの声だ。
「今行きます!」
俺たちは連れ立ってキッチンへと向かった。
食卓では、すでにスーツ姿のひろしさんが朝食を食べ始めていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう二人とも。昨日はよく眠れたか? 俺なんて昨日は色々ありすぎてクタクタだったから、もうぐっっすりだぜ」
ひろしさんは、アジの開きを美味しそうに頬張りながら上機嫌に言う。
「俺もぐっすりでした」
「ボクもです」
お互いに顔を見合わせて苦笑しながら答える。
「朝からこんなに美味しいご飯、すみません。ありがとうございます!」
椅子に座りながらマタがお礼を言うと、俺も「毎日ありがとうございます」と頭を下げた。
「あぁいいのいいの、そういうの! 今日はマタちゃんが来たばっかりだから、こうやってアジの開きとかちゃんとした朝メシが出てるけどさー」
ひろしさんはガハハと笑いながら、調子に乗って捲し立てた。
「かけるくんはもうすっかり分かってると思うけど、2、3日もしたらこれが食パン1枚だけになるからね!」
「……あー、」
冗談なのか本当なのかわからないマタが、困ったように苦笑いする。
その瞬間、空気が凍りついた。
「……はい、じゃあいらないわね」
背後から、地獄の底から響くような低い声がした。
「えっ?」
ひろしさんが振り返る間もなく、みさえさんが疾風迅雷の如きスピードで、ひろしさんがまさに頬張ろうとしていたアジの開きをむしり取り、置いてあった白米、味噌汁、納豆を「シュッ! シュッ! シュッ!」と音を立てて取り上げていった。
一瞬にして、ひろしさんの目の前から朝食が消え去った。すごいスピードだ。残像すら見えなかった。
「ああっ!? み、みさちゃんごめん! 許して! 事件に巻き込まれて数日まともな飯食ってなかったせいで、俺もう栄養足りてないのよ! みさちゃん、この通りッ!」
ひろしさんは空っぽの食卓に向かって、両手を合わせて必死に懇願する。
しかし、みさえさんは冷酷無比だった。
「ダメ。さっさと会社行けば?」
「そんな殺生な〜〜っ!」
「あと、明日から自分の分は自分で用意し・て・ね・!」
笑顔でさらにトドメを刺すみさえさん。
ひろしさんは「ウソだろぉ〜……」と涙目で肩を落とし、胃を押さえながらとぼとぼと会社へ出勤していった。
その哀れな背中を見送った後、みさえさんはひろしさんが使っていた箸をギリ……ッと握りしめながら、俺の方をスッと向いた。
「……あんな男になっちゃダメ! よ! かけるくん!」
「ハイッ!!!」
俺は背筋をピシッと伸ばし、軍人のように力強く返事をした。
ひろしさん……今のご時世、食パン1枚でも用意してくれることに、海よりも深く感謝しないとダメですよ……。
俺は心の中で、可哀想な大黒柱に向けてそっと合掌した。
合掌していると、
「しんのすけ! いつまで寝てるの!!!!」
みさえさんの凄まじい怒鳴り声が響き渡った。
見ると、しんのすけが台所と寝室の境界線あたりで、見事なうつ伏せ状態で寝落ちしていた。一度は起きて歩き出したものの、途中で力尽きたらしい……。
「ほ、ほぉい……」
みさえさんに両肩を掴まれ、ブルブルと激しく揺さぶられたしんのすけが、フラァ……とゾンビのように起き上がる。そして、そのままの足取りでトイレへと向かっていった。
「早くしてよ! もう幼稚園バス来ちゃうんだから!」
うーん、この流れは……。
俺は野原家、もとい『クレヨンしんちゃん』特有の朝のお約束パターンを予感し、先回りして動くことにした。
幼稚園バスが来るまで、あと20分ほど。俺はいつもの半分の時間でササッと朝食を胃に流し込み、「ごちそうさまでした」と手を合わせて食器を片付けると、すぐさまトイレの前へと向かった。
しんのすけがトイレに入って5分経過。
……確実に、中で寝ているだろう。
「しんのすけー、おーい! しんのすけー、入るぞー」
コンコンコンとノックをしてから、ガチャリと扉を開ける。
案の定、便座に座ってズボンを下げたまま、器用に目を閉じて爆睡しているしんのすけの姿があった。しかも、しっかりにおいもする。こんな状況でよく寝れるな……。
「ほら、しんのすけ起きろ! かーちゃんに怒られるぞー!」
『かーちゃん』という絶対的なNGワードに反応して、しんのすけの肩がビクッと跳ねた。
「かーちゃんやめてぇ〜、オラのバナナうんち、朝ご飯にしないでぇ〜……」
……どんな悪夢を見てるんだ。完全に寝ぼけてやがる。
「バカなこと言ってないで早く出ろよ」
俺はペシッと、しんのすけの広いおでこにデコピンをお見舞いした。
「イテッ! お、かけるお兄ちゃん! なんでここにっ、もしかしてオラを襲いに来たーー」
「みさえさん今日機嫌悪いから、乗り遅れたら多分チョコビ抜きだぞ」
寝起きの面倒くさい絡みが始まりそうだったので、俺は要件だけを手短に伝え、バタン!と無慈悲にトイレの扉を閉めた。
ジャーーッ! ガチャ、バタンッ!!
扉の向こうで凄まじい音がしたかと思うと、一瞬でトイレを済ませたしんのすけが飛び出してきた。
「うおおおおおっ!」と雄叫びを上げながら、猛ダッシュで朝ごはんを食べにリビングへ向かう。現金な奴め……。
俺がキッチンに戻ると、しんのすけはすでに幼稚園の制服に着替え終わり、猛烈な勢いで朝ごはんをかき込んでいた。
「マタ! マタおはよう!」
「おはよう、しんちゃん」
なにかと『また』と付ければいいと思っているしんのすけの変な挨拶だが、マタはもうすっかり慣れたのか、スルーして普通に微笑み返している。
「かける兄ちゃんが来た時と一緒だゾ! マタが来たばっかりだから、朝ごはんが豪か――もがもごっ!!」
「んんっ!!」
このままでは、しんのすけもひろしさんと同じ運命を辿ってしまう。そう察知した俺は、背後から急いでしんのすけの口を両手で塞いだ。
「それ以上言ってたら、バス関係なしにチョコビ抜きになるぞ……」
口を塞いだまま顔を近づけ、俺は小声で囁いた。そして、顎でクイッと『さっきの被害者の残骸』を指し示す。
しんのすけは、ひろしさんの取り上げられた飯たちを見てすべてを察したのか、コクコクコクと必死に頷いた。
チラリとみさえさんの方を見ると、どうやら今の失言は見逃してくれたようだ。
「ごちそうさまーっ!」
しんのすけが最後の一口を飲み込んだその時。
『プップー!』
ちょうど外から、幼稚園バスのクラクションが響いた。
「ほら、行くぞ」
俺はしんのすけの手を引き、玄関を飛び出す。
バスから降りてきたよしなが先生と園長先生に挨拶をして、しんのすけを急いでバスに乗せた。
「おはよう、かけるくん」
よしなが先生が笑顔で言ってくれる。たまにみさえさんが乗り遅れた時、俺が自転車でしんのすけを幼稚園まで送り届けたりしているため、すっかり顔見知りになっていた。
最初は面と向かって俺に『あ、野原家の隠し子……!?』と失礼な勘違いをしていたが、なんとか誤解は解けている。
「お願いします」
と頭を下げて、バスを見送る。
「かける兄ちゃ〜ん、いってらっしゃ〜い!」
走り出したバスの最後尾の席から、しんのすけが窓に張り付いて元気に手を振ってくる。
「逆だ、逆!」
俺はツッコミを入れながら手を振り返した。窓越しに見える隣の席の風間くんが、声こそ聞こえないものの『逆だろ……』と呆れた顔でツッコんでいるのが見えた。ナイス、風間くん。
ふぅー、なんとか今日の乗り遅れは防げたな。
家に戻ると、エプロン姿のみさえさんがホッとした表情で出迎えてくれた。
「ありがとう、かけるくん! 助かったわ!」
「いえ、全然。このぐらいは気にしないでください」
俺が苦笑しながら答えると、みさえさんは少しだけ目を細め、優しい顔になった。
「しんちゃん、本当にお兄ちゃんができたみたいで喜んでるわよ? ……ま、私もだけどっ」
そんな、胸が温かくなるような嬉しい言葉をかけてくれる。
「俺も……弟ができたみたいで、なんか……楽しいです」
俺は照れくささを誤魔化すように、少しだけ視線を逸らしながら返した。
……まあ、とびきり手のかかる弟だけどな。
「あ、みさえさん。実はこの後、マタと一緒に服を買いに行こうと思ってるんです」
「服? あぁ、確かにマタちゃんの今の格好だと、春日部じゃちょっと目立っちゃうわね」
「ええ。サトーココノカドーにでも行ってこようかと。クロは……まあ、お留守番でいいですよね。俺が一緒にいるんで」
縁側でシロと鼻を突き合わせて丸まっている黒犬ギンギンを一瞥して言うと、みさえさんも笑って頷いてくれた。
そして俺たちは二人でサトーココノカドーの衣料品フロアへとやってきた。
エスカレーターを降りた瞬間、目の前に広がる無数の衣服に、マタは目を丸くして立ち尽くした。
「どれにしたらいいんだろうね……」
圧倒されたように呟くマタ。正直、俺も全く同意見だった。
なにせ俺は、同年代の女の子と学校以外で出かけたことなんてない。どういう服が流行っているのか、女の子がどんな服を好むのか、知識は完全にゼロだった。
「んー、こっちかな?」
「いや、さっきのほうがいいかな?」
二人でハンガーラックの前で頭を抱える。
あ、一応お金に関しては「俺が出すから気にしないで」とマタには伝えてある。俺の口座にはまだ残り2億7500万ぐらいあるのだ。一般人の一生分以上あるんだから、使い切れるわけがない。こういう時にどんどん使わないとな。
お互いファッションについては全くの素人でチンプンカンプンだったが、なんだかんだと服を体に当ててみるマタは、とても楽しそうだった。
鏡の前でクルッと回ってみたり、袖を通してみたり。その姿は、一人の普通の女の子として純粋に可愛かった。
とはいえ、いつまでも迷っていても仕方がないので、最終兵器である店員さんに声をかけ、何着か見繕ってもらうことにした。
最初は一人だった店員さんだが、試着室から出てきたマタを見るなり顔色を変えた。
「なにこの子! なんでも似合うわ!」
その声を聞きつけ、わらわらともう二人の店員が集結。いつの間にか三人体制のプロ集団が結成されていた。
アパレル店員の魂に火がついたのか、それとも完全に着せ替え人形として楽しんでいるのか、マタは次から次へと服を取っ替え引っ替えされることになった。
シャワッ、と試着室のカーテンが開く。
「ど、どうかな……?」
少し恥ずかしそうに身をよじるマタ。ちなみに、店員さんたちが選んだ服はマジで全部似合いすぎていた。
天使だ。
サトーココノカドーの3階に、間違いなく天使がいる。
カーテンが開けられるたびに、色々な魅力を見せてくれるマタに、俺の好きな気持ちは天井知らずに増大していった。
「彼氏さん、どれにしますか?」
メインで接客してくれている店員さんが、ニコニコと俺に尋ねてきた。
「てか、彼氏さんも何着せても似合いそうですね……」
後半の危ないぼやきは全力で無視した。俺まで着せ替え人形になるつもりはない。
それよりも――『彼氏さん』という響きに、俺の心臓はドキンと跳ねた。
そっか。俺、マタの彼氏なんだよなぁ……。
改めてその事実を突きつけられ、どうしようもなく幸せな気持ちになり、口元が緩みそうになるのを必死で堪える。
「……とりあえず、全部ください」
「え?」
「全部似合ってたんで、今着たやつ全部買います」
店員さん三人がポカンと口を開けたが、俺は大真面目だ。結果、合計15着ほどの服を一括でお買い上げすることになった。
「ひとまず今日は、これを着て帰ります」
そう言ってマタに着替えてもらったのは、青色のパーカーに、カーキのハーフカーゴパンツを合わせたコーディネート。足元はハイカットのスニーカーだ。
店員さん曰く
「元々のお客様の服装のイメージを、現代風のストリートにアレンジしてみました」
とのことだった。
「なんか、慣れないよ……!」
紙袋を提げたマタが、自分のハーフパンツの裾をモジモジと引っ張りながら照れている。
「でも……すごく似合ってる」
あまりにも可愛すぎて直視できず、俺は少し俯き気味に答えた。
「そ、そうかい……?」
俺の言葉に、マタも照れたように少し視線を逸らし、頬を赤く染める。
ふと横を見ると、三人の店員さんたちが「眩しっ……!」と言わんばかりに、手で顔を覆いながら悶えるジェスチャーをしていた。
そんな感じの俺たちの賑やかな日常は続いた。
みさえさんが宣言通りひろしさんの朝ごはんを用意しなくなってしまったので、代わりに俺が早起きして目玉焼きとウインナーを焼いてあげたり。
『クレヨンしんちゃん』という世界のお約束には勝てない日もあり、結局幼稚園バスに乗り遅れたしんのすけを自転車の後ろに乗せ、マタと一緒に猛ダッシュで幼稚園まで送り届けたり。
縁側でひまわりの子守りをしながら二人でうたた寝したり、夕方にシロとクロを連れて土手を散歩したり。
そんな野原家でのドタバタしつつも温かい過ごし方を、一通りマタにも教えることができた。現代の生活に少しずつ馴染んでいくマタの姿を見るのは、俺にとってもすごく嬉しい時間だった。
そんな感じで数日が経った、ある日の夜ご飯。
俺は一人、猛烈に警戒していたーー
……何にって? 『肉』にだ。
「ジャジャーン! 今日は奮発して、特売でとびっきり良いお肉を買ってきちゃいましたー!」
みさえさんがドヤ顔でテーブルのど真ん中にホットプレートを置き、ラップに包まれた霜降りの牛肉のパックを掲げたのだ。
「おおおっ!? 焼肉じゃねえか!!」
「オラ、お肉食べるー! ワーッハッハ!」
ひろしさんとしんのすけが大歓声を上げる中、俺の背筋にはツーッと冷たい汗が流れていた。
焼肉? 野原家で焼肉だと……?
まさか、『栄光のヤキニクロード』が始まるのか……!?
俺は震える声で、ひろしさんに探りを入れた。
「あ、あのー……ひろしさん達って、家族で『熱海』とか行ったことあります?」
「んー? なんだい急に。熱海かぁ……家族では行ったことないなぁ。仕事の付き合いで一度だけ行ったことはあるが、それっきりだな」
「……仕事の付き合いぃ???」
ピクッ、とみさえさんのこめかみに青筋が浮かんだ。
「そんなの初耳ですけど?? もしかして、そういう怪しいお店じゃないでしょうね!?」
「ち、ちがうって! 取引先の会社が熱海にあって、挨拶で行かされただけだって! ほんとだよみさちゃん!」
背後で即座に修羅場が展開され始めたが、今の俺には全く頭に入ってこなかった。
(『ヤキニクロード』の経験もなしか……ってことは、まさに今日のこの焼肉で、あの指名手配逃亡劇が起こる可能性があるってことか……!?)
白スーツの男が壁をぶち破って入ってくるかもしれない。俺はその場合、マタを連れてどう逃げればいい!? と、一人でパニックになっていると、マタが心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫かい? かける、すごい汗だけど……」
「あぁ、ちょっとな……俺、焼肉が怖くて……」
「怖い……? 肉を焼くのが……?」
マタは完全に「?」を浮かべていた。そりゃそうだ。
俺はその日、終始気が気じゃなかった。
みんなが「うまい、うまい!」と楽しそうに焼肉をつついている間も、俺はホットプレートの肉と、居間の壁を交互に睨みつけていた。
いつ車が壁を突き破って突っ込んでくるのか。いつ謎の組織が押し入ってくるのか。ヒヤヒヤしながら肉を口に運んでいたせいで、高級なはずの霜降り肉の味なんて全くしなかった。
しかし。
「「「ごちそうさまでしたー!」」」
「いやー、食った食った!」と爪楊枝をくわえるひろしさん。
「うまかったゾ〜」とお腹をポンポン叩くしんのすけ。
「焼きたてのお肉だから、余計美味しいですね!」と笑顔のマタ。
……終わった。
壁も無事だ。誰も追ってこない。その後、普通に順番にお風呂に入り、 何事もなく夜が更けていった。
自室に戻り、マタに「おやすみ」と言って布団に潜り込んだ俺は、天井を見つめていた。
……何も、起きなかった。
(俺の焼肉の味、返せよ……!! ふざけるな……!!)
味わえなかった高級肉への未練と理不尽な怒りがフツフツと湧き上がる。
が、しかし、逆に考えよう。
もう映画のような異常現象は起きないのではないか?
『金矛の勇者』の件も、『暗黒タマタマ』の件も、ただのイレギュラーが重なっただけで、これからはこの平和な日常が続くんだ。
そうポジティブに捉えることにした俺は、スッと心を落ち着かせ、深い眠りについた。
――次の日の朝。
(まじかよ。映画、始まるじゃんかぁ…)
昨夜のポジティブな思考は一瞬で打ち砕かれた。
俺は深く、重たいため息を吐き出す。
「……とりあえず、確かめに行くか」
ボソッと呟き、俺は気怠い体を起こすと、一階へと続く階段を降りていくのであった。
◇
「おはようかける。あれ?」
朝、目を覚ましたマタが隣の部屋を覗き込むと、そこにはかけるの姿はなかった。
布団はすでに綺麗に畳まれており、部屋はもぬけの殻だ。
(もう下に降りたのかな?)
マタは階段を降り、キッチンへと向かった。
「おはようございます」
キッチンでは、すでに野原一家が朝食の席についていた。
「おっ、マタおはよ〜。かける兄ちゃんは? もしやお寝坊ですかな? ムムッ」
しんのすけがスプーンを持ったまま探るような目をする。
「あれ? かける、下に居ないの? 上は布団も片付けられてて、居ないんだよね」
マタが不思議そうに首を傾げると、みさえが味噌汁をよそいながら振り返った。
「私、朝方玄関のガチャッって音で一度起きたのよね。かけるくん、朝の散歩にでも行ったのかしら」
「んー……かけるなら、誰かに言ってから出かけそうだけど……」
マタは少し違和感を覚えた。かけるは何も言わずにふらりと消えるような真似はしないはずである。
「まあ、男なんてのはたまに一人でふらっと散歩したくなるもんさっ。そのうち帰ってくるだろ。俺も若い頃は——」
と、ひろしが新聞から顔を上げて語り出そうとした、その時。
「とーちゃんの若い頃の話なんてどうでもいいゾ!!」
しんのすけがバンッと机を叩き、ひろしの言葉を遮った。
「そんなことより!! オラ……オラ……」
「夢に出てきたきれいなおねいさんが忘れられないゾッ!!」
「なにっ、しんのすけも見たのか!?」
ひろしがガタッと身を乗り出す。どうやら、ひろしも全く同じ夢を見ていたらしい。
「私も見たわよ?」
と、みさえ。
「たぃやたぃや!」
「アンアン!」
ベビーサークルの中のひまわりと、庭から顔を出したシロまでが声を上げる。
「ひまわりとシロも見たって言ってるゾ」
しんのすけの通訳に、マタもハッとして手を挙げた。
「あ、あの……ボクも見ました。着物に身を包んだ、綺麗な女性の夢……」
なんと、この家にいる全員が、全く同じ夢を見ている。
「そうそう、それそれ!」
ひろしが我が意を得たりと激しく同調する。
「不思議ねぇ、全員が同じ夢を見るなんて……」
みさえが首をひねるが、男性陣はすっかり夢見心地であった。
「それにしても、綺麗だったなぁ〜」
とひろし。
「着物着て、時代劇みたいだったわよね?」
というみさえの言葉は完全にスルーされている。
「若そうだけど落ち着いててて…」「…そこはかとないソフトなフェロモン出してて……」
ニヤニヤとだらしない顔で笑い合う、ひろしとしんのすけ。
「でも、ちょっと寂しそうだったわよね?」
みさえが再び真面目な感想をこぼすが、やはり無視。
「ん〜〜、おねいさ〜〜ん……チュッチュッチュッ……」
親子揃って目を閉じ、空中の幻に向けて唇をタコのように尖らせる二人。
「おらぁおらぁ! チュッチュチュッチュ!!」
ブチッと音を立ててキレたみさえが、二人の後頭部を鷲掴みにし、ひろしとしんのすけの唇を思い切りくっつけさせた。
「「んぐっ!?」」
むせる二人を放置して、みさえはふと呟く。
「にしても、なんで全員が同じ夢を見たのかしらね。かけるくんも見たのかしら?」
「きっとそうだゾ〜。きれいなおねいさんが忘れられなくて、探しに出てっちゃったんじゃな〜い?」
しんのすけがおちゃらけて言うと、マタがムッとして頬を膨らませた。
「かけるはそんな人じゃないよ! だって、ボクがいるもの!」
ドン、と自信満々に胸を張るマタ。
の横の時計に目をやったひろしが絶叫した。
「あああああっ!!」
「ど、どうしたの!?」
「遅刻だ遅刻!! やばい! 行ってきまーす!!」
ひろしは鞄をひったくり、トーストをくわえながら嵐のように家を飛び出していった。
「あーもう、ほら! しんのすけも幼稚園バス来るわよ! はやくはやく!」
「ほぉーい」
バタバタと慌ただしく駆け回る野原家。朝の日常のドタバタに飲み込まれ、誰も、いなくなったかけるのことを深くは気にしていなかった。「すぐ帰ってくるだろう」と、ただそれだけを信じて疑わなかった。
ただ一人、マタだけが。
「ほんとにどこ行っちゃったんだろう……」
胸元の太陽のネックレスをギュッと握りしめ、得体の知れない不安に胸をざわつかせていた。
――だが、彼らは気づかない。いくら待ってもかけるが帰ってこないことに。気づけるはずもなかった。
この平穏な春日部の朝の光の裏側で、すでに世界の理が致命的に歪んでしまっていることに。
かけるは「誰にも告げずにふらりと消えた」のではない。
少年は今、この空の下のどこを探しても、絶対に『存在』していないのだから。
このまま残酷な世界の歯車が順当に回れば、かけるを待つのは「死」である。
彼を護れる可能性のある――伝説の盾『ギンギン』でさえ、隔絶された理の壁を越えて干渉できない。今のギンギンには、危機を察知することすらできないのだ。
運命とは奇なるもの、神の気まぐれと、抗えぬ運命の強制力に完全に委ねられる。
ーー1人の少年の運命が今決まるーー
ーーこの物語を始めたのは他でもない、その少年なのだからーー
かけるが映画始まるじゃんかぁとなったところで映画を当てれた人は、クレヨンしんちゃん検定1級です。胸を張ってください。
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