深夜の野原家は、すでに異様な冷気に包まれていた。
リビングの窓は不気味な紫色に染まり、床には不自然な影が伸びている。
その影の中心で、パジャマ姿のしんのすけが、小さな体を強張らせて後ずさっていた。
目の前に立つのは、異様に背の高いシルクハットの男。マック・ラ・クラノスケ。
「大きな大人が、小さい子供をいじめていいの!」
しんのすけの切実な、五歳児としての真っ当すぎる抗議。
だが、マックは歪んだ笑みを浮かべ、冷酷に言い放った。
「俺はなぁ、しんちゃん……『大きな大人』として、『小さな子供』をいじめるのが大好きなのさ」
ゾッとするような声だった。
ただの悪役じゃない。純粋な悪意と、圧倒的な力の差をひけらかす、真性のサイコパスの顔。それが原作におけるマックの、得体の知れない恐ろしさだ。
マックが一歩、しんのすけへと歩み寄ったその瞬間――。
バンッ!! と、リビングの扉がけたたましい音を立てて蹴り開けられた。
「――ッ!!」
背負っていたマタを咄嗟に床へ降ろし、俺はそのままの勢いで床を蹴る。スペックに任せた全力の踏み込み。狙うは、あのふざけたシルクハット野郎の顔面一択だ。
「そんな大人、殴られても文句ないよな?」
「がッ……!?」
俺の拳が、マックの頬にクリーンヒットする。
マックの巨体が床を転がり、壁に激突して止まる。
(い、痛ぇぇええええ!!)
カッコよく言い放ったものの、内実は最悪だった。
人なんて殴ったの初めてだ。手が、拳が、信じられないくらいジンジン痺れて痛い。骨折れてないよな? 人を殴るってこんなに痛いのか。
痛みに顔をしかめそうになるのを必死に堪え、俺はしんのすけを背中に庇うように立ち塞がった。
「おおー! マタ! それに、行き倒れお兄さん!」
しんのすけがパァッと顔を輝かせる。だから行き倒れてはないって。
よろよろと立ち上がるマックを睨みつけながら、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
「俺は、そういう大人が大っ嫌いなんだよ!!」
脳裏に浮かぶのは、孤児院の院長の顔だ。
子供には抗う力がないとわかっていて、自分の私腹を肥やすために大人の権力を振りかざすクズ。俺の3億円の口座から理由をつけて金を毟り取ろうとした、あの薄ら笑い。
「……ッ、よくも……よくも私の顔を……!」
マックが拳を握り直し、怒りに顔を歪ませる。
不意に、背後から荒い息遣いが聞こえた。
振り返ると、マタが、どことなく目に覇気のない虚ろな表情で俯いていた。
「ボクが……ボクが目を離した隙に、しんちゃんが……」
俺を探りに公園へ来ていたせいで、勇者であるしんのすけを危険に晒してしまった。その強烈な罪悪感と責任感に、彼女の心は一瞬で押し潰されそうになっていた。
「マタ! しっかりしろ!」
俺の怒声に近い呼びかけに、マタの肩がビクッと跳ねる。
ハッと顔を上げたマタは、目の前のマックと、俺の背中に隠れるしんのすけを見て、ギュッと唇を噛み締めた。彼女の瞳に、再び強い意志の光が宿る。
使命を思い出したんだ。
「……逃げよう、二人とも!」
マタの叫びと同時に、俺たちは弾かれたように玄関を目指して走り出した。
だが、廊下へ飛び出した瞬間、足元のフローリングがぐにゃりと歪み、周囲の壁がドロドロと溶け出すように変形していく。
「ヘンジられた!」
「どうなってんの!?」
俺としんのすけが同時に声を上げる。
「ドン・クラーイから空間が染み出しているから、ア法を使って自分の好きな空間に置き換えているんだ。マックを倒すために、ボクたちもヘンジルよ!」
「お、俺も!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「わからない! ボクとしんちゃんは力を合わせれば何にでも変身できるけど、三人でってなるとどうなるかわからない! でも、なりふり構っていられないよ!」
マジか。
三人でヘンジル? そんなの原作に一切ない展開だぞ。
そもそも、しんのすけの想像力とマタの魔法が合わさって成立する奇跡なのに、そこにただの高校生の俺が混ざって大丈夫なのか?
でも唯一、しんのすけが何を想像してるのか何に変身するのか原作知識で知っている俺なら合わせられるのか?わからない!
最悪、得体の知れない肉の塊とかになったらどうしよう。異世界転移して三日目で、謎のキメラ化エンドとか死んでも死にきれない。
でも。
背後からはマックの禍々しい気配がすぐそこまで迫っている。
迷っている暇なんて、一秒もなかった。
「念じて! 唱えて! 『ヘンジル』って!」
マタの必死の叫び。
「おぉ! わかったゾ! 行くゾお兄さん!」
しんのすけの、一切の迷いがない力強い声。
……くそっ、やるしかないのか!
俺は痛む右手をギュッと握り込み、二人と呼吸を合わせた。
「「ヘンジル!!」」
◇
光に包まれ、視界が真っ白に染まる。
次に目を開けた時、俺たちは空に浮かんでいた。
「おおーっ! ひこうきだゾ!」
風鳴りが耳を打つ。俺の原作知識による想像が補正として働いたからか、原作とは少し形が違い、機体には後部座席が追加されていた。前方の機銃席に機嫌よく座るしんのすけ、そしてその後ろの操縦席に俺がいる。
「いいぞー、このまま逃げちゃえ〜」
呑気にはしゃぐしんのすけに、機体そのものとリンクしているマタが切羽詰まった声を上げる。
「そんなに手ぬるい相手じゃないよしんちゃん! あっ……」
背後から響く、鼓膜を裂くような重低音。
振り返ると、巨大な戦闘機が一機、そして小型の戦闘機が四機、紫色の雲を引き裂くように現れた。
「逃がさないぜ」
マックの歪んだ声が空に響き渡った直後、けたたましい銃撃音が連なり、無数の銃弾が俺たちの機体を掠めていく。
「うわっ、うわぁーーっ!」
「くそっ!」
激しい揺れに、しんのすけが悲鳴を上げる。被弾の衝撃が操縦桿を通してビリビリと伝わってくる。本格的なドッグファイトの開幕だ。
「スピードでは勝てないけど、運動性能ではこっちの方が上だよ!」
マタが叫ぶ。
「ボクの意思だけでも操縦はできるけど……キミ、ボクと息を合わせて操縦桿を引いて! 二人で感覚を共有できれば、もっと機敏に動けるはずだよ!」
「わかった、合わせる!」
理屈はよくわからないが、要はシンクロしろってことだ。俺の反射神経を総動員して、マタの呼吸を感じ取りながら操縦桿を思い切り引いた。
機体が垂直に跳ね上がり、空中で見事な一回転マニューバを決める。俺たちの機体を追い越してしまった小型戦闘機1機の背後を、完璧に取った。
「しんちゃん、ねらいをつけて撃って!」
「おおっ! これか〜!」
しんのすけが機銃のトリガーボタンを見つけ、容赦なく乱射し始める。
ダダダダダッ!! という轟音とともに、小型戦闘機は火を噴いて墜落していった。
(原作見てても思ったけど、なんであんな正確に狙えるんだよ。最強の五歳児すぎるだろ……)
俺が内心で呆れ半分、感心半分でツッコミを入れていると、しんのすけが不思議そうに首を傾げた。
「お、ほかのが消えたゾ」
「そんなはずない!」
マタが鋭く否定する。
「その通り」
マックの嘲笑う声が脳内に響いた。嫌な予感がして上空を見上げる。
「上だ!」
真上の太陽――いや、ヘンジられた空間に浮かぶ強烈な光源の中から、マックたち残りの敵機が急降下しながら撃ち下ろしてきた。
「右に逸れるぞ!」
「うん!」
俺とマタの意識がリンクする。俺の反射神経とマタの魔法がこれ以上ないほど噛み合い、機体は紙一重で弾幕を躱し、正面へと回り込んで撃ち返す。ギリギリのところで被弾は最小限に抑えられた。
「おシリがガラ空きだぜ」
背後を取ろうとするマックの声。
激しい攻防戦が続く中、敵機とすれ違った瞬間、凄まじい風圧が機体を襲った。
「いや〜ん、あ〜〜〜っ!」
「しんちゃん!?」
強風に煽られ、しんのすけの小さな体が機銃席から弾き飛ばされる。
だが、最強の五歳児はダテじゃない。空中に放り出されたしんのすけは、自分のズボンを脱いでパラシュート代わりに風を孕ませ、マックの機体との激突を鮮やかに回避してみせた。
「うまいぞしんのすけ!」
俺は操縦席から身を乗り出し、限界まで腕を伸ばして、風に乗って流れてきたしんのすけをガシッと掴み、強引に機内へ引き戻した。
「反撃だ!」
体勢を立て直し、正面から迫ってきた二機目の小型戦闘機を撃墜する。
さらに空中戦は激しさを増す。俺たちは正面から迫る三機目と、背後から迫る四機目に挟み撃ちにされた。
衝突の直前、俺とマタは絶妙な呼吸で急上昇し、機体を真上に逃がす。目標を見失った二機の小型戦闘機は、そのまま空中で正面衝突し、ド派手な爆発を遂げた。
「すごいね!」
マタが興奮気味に声を上げる。
「マタが上手いんだ!」
俺が相槌を打つと、マタの声がさらに引き締まった。
「あとはマックだけだ!」
だが、相手はドン・クラーイの重役。そう簡単にはいかない。
「お遊びは終わりですよ、ガキども」
マックの機体が背後にピタリと張り付く。
「さぁお片付けだ、そーらぁ!」
マックからの理不尽なまでの弾幕。俺たちは一方的に撃たれ続け、回避行動を取るだけで手一杯になる。
このままじゃジリ貧だ。だが、俺には『原作の記憶』という最大のチートがある。
前方に見えてきた巨大な橋。あれを使えば、勝てる。
「マタ! 奥の橋を利用して、タイミングよくマックの下に張り付くんだ! 隙を突いて全弾浴びせてやろう!」
大声で作戦を伝えると、マタがパッと表情を輝かせた。
「奇遇だね! ボクも同じことを考えてた!」
何度も息が合い、テンションが上がり気味のマタ。
一方の俺はといえば、(いや、俺は原作を知っててズルしてるだけなんだよなぁ……)と、少しだけ罪悪感に苛まれ、テンションが落ち気味だった。
だが、作戦は完璧に遂行された。
橋をくぐる瞬間、俺たちは急減速し、頭上を通り過ぎるマックの機体の真下にピタリと張り付いて隠れた。
「ん? あのガキどもはどこだ?」
マックが周囲を見回し、完全に隙を見せたその瞬間。
「今だ! しんのすけ!」
「すきありーっ!!」
しんのすけがトリガーを引き絞る。
ゼロ距離からの、容赦のない一斉掃射。機銃の弾が、マックの大型戦闘機全体をボロボロに引き裂いていく。
「ぐあぁっ!!」
機体が黒煙を吹き上げ、爆発の連鎖が始まる。
「まさかこのオレ様……マックがぁああああっ!!」
断末魔の叫びとともに、マックの機体は爆発し、世界がパズルピースのように弾けた。
無事、俺たちは勝利を収めたのだった。
◇
ヘンジられた紫色の空がパツンと弾け、視界が真っ白に染まる。
次の瞬間、俺たちは野原家の庭のベンチにドスッと尻餅をついていた。周囲はすっかり元の、静かな夜の春日部に戻っている。
「ふー……死ぬかと思ったゾ」
しんのすけが額の汗を拭う素振りをしながら、ベンチの上に大の字に寝転がった。まったく、こいつの肝の太さには恐れ入る。
「頑張ったね、しんちゃん」
マタがホッと息を吐き、優しく微笑みかける。それから、彼女はスッと立ち上がり、俺の方へと向き直った。
「キミも、ありがとう」
その真っ直ぐな瞳には、先ほどまでの強い警戒心は微塵もなかった。
「あと、疑ってごめん。ここまで一緒に戦ってくれて……キミが敵じゃないってことは、はっきりわかったよ」
「いいんだよ。こんな不審なやつがいたら、疑われるのも仕方ないからな」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。実際、自分がマタの立場でも絶対に警戒する自信がある。
「その……ずっと『キミ』呼びもなんだし。ボクはマタ・タミ」
「俺は、とき・かける。……かけるでいいよ」
「オラ、野原しんのすけ!五歳!」
ここに来て、ようやくまともな自己紹介が交わされた。
俺は小さく息を吐き、密かに腹を括った。異世界転移の超常現象だの、バタフライエフェクトだの、面倒くさいことは山ほどある。でも、目の前で自分の推しが体を張って戦っているのを見てしまった以上、もう「関わらずに傍観する」なんて選択肢は消え失せていた。
(ドン・クラーイの連中をぶっ飛ばして……絶対に、マタを救う)
原作知識があることや、俺が別世界から来たことなんかは伏せたまま、俺はこの世界で彼らと共に戦うことを決意した。
「しんちゃん。これで終わりじゃないよ」
マタがしゃがみ込み、寝転がるしんのすけの顔を覗き込んだ。
「これが、始まりなんだ」
「えぇ〜? オラ、こわいのやだなぁ」
「大丈夫。ボクが必ず、助けてあげる」
――キタキタキタ!
俺は少し離れた壁際に寄りかかり、腕組みをしながら深々と頷いていた。
原作屈指の名シーン。マタの母性と使命感が溢れるこのやり取りを、まさか特等席で生で見られる日が来るとは。オタク冥利に尽きるというやつだ。
「おおー! マタがいれば安心だゾ〜!」
と、そこまでは良かった。
調子に乗ったしんのすけが、起き上がりざまにマタの胸元へ「ポンポン」と触れようと手を伸ばしたのだ。
原作なら、ここでしんのすけが彼女の胸の膨らみに気づき、「男だと思ってたのに女だった」と発覚するコミカルなシーンである。
だが、現実は俺という厄介なオタクが介入している。
「っと、ストップだ」
パシッ。
俺は凄まじい反射神経で身を乗り出し、しんのすけのスケベな両手を空中でガシッとホールドした。
「女の子の胸を、気安く叩こうとするんじゃないの」
俺はしんのすけをジト目で窘めた。
(推しの胸にタッチなんて、たとえ五歳児でも許せるわけないだろ!!)という俺の心の叫びは、辛うじて胸の奥に封じ込めた。
「えっ……」
不意に、マタが小さく息を呑む音がした。
見ると、マタが少しだけ頬を赤らめ、目を丸くして俺を見つめている。
男装じみた格好で、戦士として振る舞ってきた彼女にとって、俺がごく自然に「女の子扱い」して庇ったことが、ひどく新鮮に映ったらしい。
「おんな……のこ……? えぇっ!?」
しんのすけが俺の手を振り解き、信じられないという顔でマタを指差した。
「マタって、おねいさんだったの〜!?」
「う、うん……。そうだよ」
マタが照れくさそうに、ターバンの端を指でいじる。
「だったらなんで、自分のこと『ボク』って言うの?」
純粋な疑問をぶつけるしんのすけ。
俺は腕組みを解き、面倒くさそうに頭を掻きながら横槍を入れた。
「しんのすけが自分のことを『オラ』って言うのと一緒だよ。俺が自分のことを『俺』って言うのもな。ただの呼び方だ」
「ほ〜ほ〜。なるほどだゾ」
しんのすけが納得したように何度も頷く。
マタが、パチパチと瞬きをして、その瞳の奥で、再び小さなときめきが揺れた。しかし、彼女はすぐにコホンと咳払いをし、戦士としての凛々しい表情を取り戻す。
「……と、とにかく! ボクはこの世界では、夜しか動けないんだ。でも、敵も夜しか動けないはずだよ」
「なるほどな。なら、昼間の護衛は俺に任せとけ」
俺はしんのすけの頭にポンと手を置いた。
「俺は昼間、例の公園にいるからさ。何か困ったことがあったら、頼りに来いよ」
しかし、『公園』というフレーズが出た瞬間、マタの表情がサッと暗く曇った。
(……俺の様子を探りに公園へ出向いたせいで、しんのすけを危険な目に遭わせた、とかか)
その強烈な後悔が、再び彼女の心を苛んだのだ。
マタは俯き加減になり、ターバンの陰で表情を隠した。
「……じゃあ、ボクは行くね。またね、しんちゃん。かけるも」
どこか元気のない、弱々しい声。
そのまま闇に溶け込むように去ろうとする彼女の背中を見て、俺の心の中で何かが警鐘を鳴らした。
このまま一人にさせたら、あいつは自分の責任感に押し潰されてしまう。
「……マタ。待てよ」
気づけば、俺は彼女を呼び止めていた。
「もし時間あるなら……少し、話さないか? ……公園でさ」
勇気を振り絞った提案だった。我ながら柄にもないことをしていると思う。
足を止めたマタが、驚いたように振り返る。
「ひゅ〜ひゅ〜! かけるお兄さん、夜中におねいさんをナンパだゾ〜! お熱いね〜」
空気を読まないしんのすけが、ニヤニヤと笑いながら冷やかしてきた。
「うるさい。子どもはとっくに寝る時間だろ、寝なさい」
俺が冷たく突っぱねると、しんのすけは「二人だって子どものくせに〜」と、思い切りほっぺたを膨らませた。
夜風が、そっと吹き込んでくる。
俺とマタは、静かに視線を交わした。
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