映画クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ『   』   作:カシ

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金矛編が終わるまではポンポン更新していきたいと思っています。


第4話 小さな鳥は

 

 

 しんのすけの茶化しから抜け出し、夜風が吹き抜けるいつもの公園へとやってきた。

 深夜の公園はシンと静まり返っていて、遠くでかすかに虫の音が聞こえるだけだった。俺たちは、俺が今夜の寝床にするはずだった複合遊具の前に並んで腰を下ろした。

 隣に座るマタは、ターバンを深く被り直し、膝を抱えて小さく丸まっている。

 

「……ごめんね。ボクが目を離したせいで、しんちゃんをあんな危険な目に……」

 

 ポツリとこぼれた声は、今にも消え入りそうだった。

 自分の責任感に押し潰されそうになっているマタを見て、俺は内心、盛大に頭を抱えていた。

(違うんだよ! 全部俺のせいなんだよ!!)

 本来の原作ルートなら、マタはちゃんとマックの襲撃のタイミングでしんのすけの元に現れて、空中で華麗に助け出していたはずなのだ。俺というイレギュラーがこの世界に転移してきて、あろうことかマタの警戒心ビンビンに引かせてしまったせいで、彼女の行動を縛ってしまった。

 とはいえ、「いや実は俺、別世界から来た未来視持ちのオタクでして、原作の展開を変えちゃった俺のせいなんです」なんて、口が裂けても言えるわけがない。

 俺はどうにかしてこの重い空気を変えようと、頭をフル回転させた。

 

「……いや、マタは何も悪くない。全部、俺が怪しすぎたせいだ」

「いや、でも…」

「よく考えなくてもわかるだろ。夜中の公園で、サトーココノカドーの袋を抱えて『体が痛い』ってボヤきながらウロウロしてる正体不明の家出高校生。どう考えてもヤバい奴だ。俺がマタの立場でも『こいつ絶対ドン・クラーイの回し者だろ、排除しなきゃ』って警戒度マックスになる」

 

 俺が真顔で自分をボロクソに貶し始めると、マタは目を丸くしてこちらを見た。

 

「しかも俺、あろうことか『推しを助ける』とか意味不明なこと口走ってたし。客観的に見て完全に不審者通り越して変質者だろ。そりゃマタもしんのすけより俺のマークを優先するわ。むしろ通報されなかっただけマシだと思ってる」

 

「ふ……っ、ふふっ」

 俺のあまりにも自虐的なまくし立てに、マタが思わず吹き出した。

 

「自分でそこまで言うかい……? 変質者って……」

「事実だからな。だから、マタが責任感じる必要なんて一ミリもない。不審者オーラ全開だった俺の圧倒的敗北だ」

「あははっ、なんだいそれ」

 

 マタの口から、ようやく楽し気な笑い声が漏れた。

 肩の力が抜け、いつもの爽やかな表情が戻ってくる。その笑顔を間近で見て、俺の心臓がトクンと大きく跳ねた。ヤバい、笑った顔、破壊力高すぎる。

 ひとしきり笑った後、マタは少しだけ真面目な顔になり、俺の横顔をじっと見つめてきた。

 

「……ねえ、かける。キミは本当は、何者なんだい?」

 

 核心を突く質問に、俺は一瞬息を詰まらせた。

 なんて答えればいい。気の利いた嘘なんて、俺のポンコツなスペックじゃ瞬時に思いつかない。視線を泳がせる俺を見て、マタは小さく首を横に振った。

 

「……ううん、ごめん。言いたくないなら、聞かないでおくよ」

「マタ……」

「キミがどこから来て、なんでドン・クラーイのことを知っているのか……不思議なことはたくさんあるけど」

 マタはそっと身を乗り出し、俺の瞳を真っ直ぐに覗き込んできた。

 月の光に照らされた彼女の顔が、ドキッとするほど近い。

 

「キミは今日、ボクと一緒にしんちゃんを命懸けで守ってくれた。それに……ボクを元気づけようとしてくれた。だから、キミが何者でも、ボクはもうキミを信じてるよ」

 

 柔らかく、けれど力強い言葉だった。

 推しからの『信頼してる』宣言。オタクとして、これ以上の誉れがあるだろうか。いや、ない。俺は沸騰しそうになる顔を誤魔化すように、鼻の頭を掻いて視線を逸らした。

 

「……そ、そうかよ。まあ、面倒なことは俺に任せとけって」

「ふふ、頼もしいね」

 

 そんなやり取りをしているうちに、東の空が白み始めていることに気がついた。

 夜明けだ。

 マタの体が、足元から少しずつ淡く透け始めていた。夜の世界の住人である彼女は、太陽の光の下では形を保てない。

 

「あ……もう、時間だね」

 

 自分の透けゆく両手を見つめながら、マタが少しだけ寂しそうに眉を下げた。

 

「……朝が来たら、お別れか」

「うん。ボクは、夜しか動けないからね」

 完全に姿が消えかかる直前、マタは俺を見上げ、名残惜しそうにフワリと微笑んだ。

「夜以外にも……昼間とか、明るい時間にも、キミに会えたらいいのにな」

 

 その破壊力抜群の一言を残して、マタは完全に朝の光の中に溶けて消えてしまった。 

 後には、誰もいない静かな公園と、俺一人だけが残された。

 

「…………っっっっっっっっ!!!!」

 

 俺は両手で顔を覆い、遊具の中で一人、身悶えした。

 可愛い。可愛すぎる。なんだ今の「昼間にも会えたらいいのに」って。そんなヒロインムーブされたら、こっちの心臓が持たないだろ。

 結果として。

 俺はその後、プラスチックの床の硬さなんか全く気にならないくらいマタの可愛さに脳内を支配され、完全に目が冴えきってしまい……一睡もできなかったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

次の日の夜。

 春日部の街を見下ろす電柱の天辺で、マタは一人、夜風に揺れていた。

 細い足場の上で、まるで重力など存在しないかのように、片足でしなやかにバランスをとる。ターバンとゆったりとした服が風にはためく中、彼女は夜空を見上げて静かに歌を口ずさんでいた。

 

『小さな鳥ははばたく事も上手くできない

 だけど胸に希望はいっぱい空に向かって走りだした

 鳥よ鳥よ明日はきっと

 よい日になるよ 自分の力でそうしよう』

 

 透き通るような歌声が、静寂の街に溶けていく。

 歌いながら、マタの脳裏には様々な思いが巡っていた。ドン・クラーイの平和のために命を落とした、大好きな父のこと。闇に閉ざされた故郷がこれからどうなってしまうのかという、押し潰されそうな不安。

 そして――昨夜、自分のために無茶をしてくれた、一人の少年のこと。

(……かける)

 彼の顔を思い出すだけで、不思議と胸の奥が温かくなるのを感じる。

 一人で抱え込んでいた使命という重い荷物を、彼が不器用な優しさで少しだけ軽くしてくれたような気がしていた。

 

「……上手だな」

 

 不意に、真下から声が響いた。

 ビクッとして視線を落とすと、見慣れたシルエットが街灯に照らされて立っていた。

 

「か、かける……!」

 

 聞かれていた恥ずかしさで、マタは少し照れたようにターバンの端を握りしめる。

 

「な、なにしてるの?」

「コンビニ帰り。ちょっと買い出しにな」

 

 かけるは片手に提げたビニール袋を軽く持ち上げて見せた。

 

「一緒に食べるか? コーヒー牛乳と菓子パンだけど」

 

 その何気ない誘いに、マタの顔がパッと明るくなる。

 

「うん、食べようかな」

 

 マタの返事を聞くや否や、かけるは身を翻し、すぐそばにそびえ立つ鉄塔へと向かった。そして、足場を的確に捉え、まるで重力を無視するかのような滑らかな動作でひょひょいっと金属の骨組みを駆け上がり、あっという間に中腹の太い鉄骨の上に腰を下ろした。

 暗黒世界で訓練を積んできたマタでさえ、その人間離れした身体能力には目を見張る。

 

「……ボクが言うのもなんだけど、すごい身のこなしだね」

 

 ふわりと鉄塔の中腹へ舞い降りて隣に座りながら、マタは素直な感嘆の声を漏らした。

 

「そうか? まあ、昔から体動かすのだけは得意なんだよ」

 かけるは気怠げに笑いながら、ビニール袋からコーヒー牛乳と丸い菓子パンを取り出し、マタに手渡した。

 

「今、なるべく夜は起きるようにしてるんだ。マタがいつ来てもいいようにさ」

「えっ……ボクのために?」

「俺が夜型になればいいだけの話だからな、敵は夜に来るんだし

 さらりと言ってのけるかけるの横顔を、マタは少しだけ見惚れるように見つめてしまった。

 ストローを刺したコーヒー牛乳を一口飲み、菓子パンをかじる。その瞬間、マタの瞳が驚きでまん丸に見開かれた。

 

「おいしい……! なにこれ、すごく甘い!」

「ドン・クラーイには、こういう甘いものってないのか?」

「うん。あっちの世界は暗くて冷たいから……こんなに甘くて美味しいもの、初めて食べたよ」

 

 マタは幸せそうに頬を緩め、大事そうにパンを口へ運ぶ。その姿を見ながら、かけるも自分のコーヒー牛乳に口をつけた。

 

「さっき電柱の上で歌ってた時、マタの動き、サーカス団みたいで綺麗だったな」

「さーかす……? それは、なんだい?」

「あー、そっちには無いのか。テントの中でアクロバットな動きを見せたり、動物が芸をしたりして、みんなで楽しむ娯楽だよ」

 

 かけるの説明に、マタは少し寂しそうに目を伏せた。

 

「娯楽か……。今のドン・クラーイには、みんなで笑って楽しめるような場所なんて、どこにもないよ。ただ、支配と恐怖があるだけだ」

 

 沈みかけた空気を吹き飛ばすように、かけるがドンッと自分の膝を叩いた。

 

「だったら、アセ・ダク・ダークを倒したら作ろうぜ」

「え……?」

「その暗黒世界の親玉ぶっ倒して平和になったら、甘いものを売るお店も、サーカスも、遊園地も、全部作ればいい。マタが笑って暮らせる場所にしよう」

 

 マタは息を呑んだ。

 彼がなぜ、ドン・クラーイの支配者である『アセ・ダク・ダーク』の名前まで知っているのか。一瞬、その事実に驚きが走った。けれど、そんな疑問はすぐに別の感情に塗り潰されていく。

 彼は、絶対に勝てると信じているのだ。

 強大な敵に怯えるでもなく、絶望するでもなく。すべてが終わった後の、明るくて甘いドン・クラーイの未来を、ごく当たり前のように語ってくれている。

 

「……うん。そうだね。作ろう、一緒に」

 

 マタは小さく頷き、夜風の中でふわりと微笑んだ。

 隣で気怠げに夜空を見上げるこの少年に、自分がどれほど惹かれているか。

 甘いコーヒー牛乳の味が、なぜか少しだけ、胸の奥をくすぐるように温かく感じられた。

 その心地よい余韻を破るように、夜空を見上げていたかけるが、ふと悪戯っぽく口角を上げた。

 

「あ、でもそうなったら……サーカスの大トリはマタだな!」

「えっ? おおとり……?」

「一番最後に、一番すげえ技を見せて客を沸かせる主役のこと。さっきの電柱の上のバランス感覚なら、絶対大歓声もらえるって。俺が保証する」

 

 ニカッと笑いかけてくるかけるに、マタは目を丸くした後、たまらず釣られるようにクスッと吹き出した。

 

「もう……からかわないでおくれよ。でも、うん……かけるが言うなら、少し頑張ってみようかな」

 

 鉄塔の冷たい骨組みの上に、二人の穏やかな笑い声が夜風に乗って溶けていく。

 まだ見ぬドン・クラーイの明るい未来を語り合うこの時間は、手の中の菓子パンよりもずっと甘く、そして優しかった。

 

 ひとしきり笑い合った後、ふと、かけるの表情からからかいの色が消えた。

 空になったコーヒー牛乳のパックを見つめながら、何かを考え込むように少しだけ眉間を寄せる。そして、真剣な眼差しをマタへと向けた。

 

「マタ。……落ち着いて聞いてほしいんだけど」

「うん? どうしたんだい、そんな改まって」

 

 かけるは一度深く息を吸い込み、意を決したように口を開いた。

 

「明日の夜、マタには一度……『封印』されてほしいんだ」

 

 その言葉に、マタの瞳がわずかに見開かれる。だが、彼女は何も言わず、かけるの次の言葉を待った。

 

「明日、たぶんしんのすけは……巨乳の女に騙される。言葉巧みに『マタは悪者だ』って吹き込まれて、マタを封印する呪文を使おうとするはずだ。……そこで、マタには一芝居打ってほしい」

「一芝居……?」

「ああ。嫌がっているふりをして、そのままわざと封印されてくれ。もちろん、マタが封印されても俺が絶対に解除する。だから……俺を信じて、その時が来たら堪えてほしいんだ」

 

 自分で言いながら、なんて身勝手で無茶苦茶な要求だろうと思う。

 ドン・クラーイの住人にとって『封印』がどれほどの恐怖を伴うものか、正確にはわからない。だが、しんのすけを守るために戦っている彼女に対し、味方であるはずのしんのすけの手で封印されろと言うのだ。

 

「こんなお願い、無理言ってるのもわかってる。でも――」

「うん、わかった」

 

 必死に言葉を続けようとしたかけるの声を、マタの涼やかな二つ返事が遮った。

 

「……えっ?」

 

 かけるが間の抜けた声を漏らすと、マタは困ったように、けれど優しく微笑んだ。

 

「もちろん、不安がないって言ったら嘘になるよ。封印されるのは怖いしね。でも……ボクはもう、キミを信じるって決めたから」

「マタ……」

「だから、キミがそう言うなら従うよ。……でも、なるべく早めに解除しておくれよ? 暗くて狭いところは、あんまり好きじゃないからさ」

 

 冗談めかしてウインクしてみせるマタの姿に、かけるは雷に打たれたような衝撃を受けた。

 なんという器の大きさ。なんという健気さ。自分のような得体の知れない人間の言葉を、己の危険を顧みずにここまで真っ直ぐに信じてくれるなんて。

 

(……あー、やっぱ、好きだな)

 マタの人間性に心の底から惚れ直し、かけるの口からオタクとしての、いや、一人の男としての特大の感情がボソッと漏れ出ていた。

 

「え? 何か言ったかい?」

「いや! なんでもない! 絶対すぐ助けるから! 約束する!」

 

 かけるが慌てて顔の前で両手を振ると、マタは「ふふっ」と笑い声を漏らした。

 だが、その直後。

 マタの笑みがピタリと止まり、スッと温度のない視線がかけるに向けられた。

 

「……ところで、かける」

「お、おう。なんだ?」

「さっきの話だけど。しんちゃんを騙すっていう……『巨乳の女の人』」

「あ、ああ。プリリンって名前の敵で……」

「……かけるも、そういう『巨乳』の女の人が好きなのかい?」

 

 空気が凍った。

 マタの口元は笑っている。声のトーンも、からかっているような軽いものだ。

 だが、目が。

 ターバンの下から覗くその真っ直ぐな瞳が、一切笑っていなかった。ガチのトーンで査定に入っている人間の目だ。

 

「なっ……!? ち、違う! 俺は別にそういうわけじゃ……!」

「ふーん? さっき『巨乳の女』って口にした時、なんだかすごく実感がこもっていたように聞こえたけど?」

「気のせいだ! ただの敵の特徴を説明しただけで!」

 

 地上数十メートルの鉄塔の上で、規格外のスペックを持つはずの高校生が、一人の少女のジト目を前に冷や汗を滝のように流している。

 

「……そっか。じゃあ、かけるは巨乳が好きじゃないんだね」

「好きじゃない! 断じて! 俺はマタみたいな……あーくそ、とにかく敵の作戦の話だからな!」

 

 必死に弁解するかけるを見て、マタは小さく息を吐くと、今度こそ本当に嬉しそうにくすくすと笑い始めた。

 夜の春日部の空に、二人の賑やかなやり取りがいつまでも溶けていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

夜の帳が下りた野原家のリビング。

 マタは静かに立ち尽くし、目の前で繰り広げられている異様な光景を見つめていた。

 

「さあ、しんのすけ君。あっちの変な格好をした人が、あなたを騙そうとしている悪いヤツなのよ〜」

「ほっほ〜い! プリリンおねいさんの言う通りだゾ〜!」

 

 グラマラスな体をこれでもかと密着させてくるプリリンに対し、勇者であるはずのしんのすけは完全に骨抜きにされ、デレデレと鼻の下を伸ばしていた。

(……かけるの言っていた通りだ。しんちゃん、本当に大人のお姉さんに弱いんだね……)

 勇者のあまりのチョロさに、マタは内心で少しだけ呆れ果てていた。

 だが、今のマタの心境を複雑にさせているのは、しんのすけの態度だけではない。

 彼女の視線は、プリリンの豊満な胸元へと自然に引き寄せられていた。

 

(巨乳……たしかに、かけるの言っていた通りだけど。でも……なんでかけるは、この女の人の特徴を知っていたんだろう)

 

 ただの敵の情報を知っているというレベルではない。まるで実際に会って、その姿をまじまじと見たことがあるかのような口ぶりだった。

 まさか、かけるはこの女と顔見知りなのだろうか。それとも、やっぱりああいうグラマラスな大人の女性が好みなのだろうか。

 そう考えた瞬間、マタの胸の奥底から、自分でも驚くほどどす黒く、モヤモヤとした感情がじわりと漏れ出しそうになる。

(あー! いけないいけない!)

 マタは心の中で慌てて首を振り、湧き上がる邪念を必死に落ち着かせた。

 今はそんなことを考えている場合じゃない。かけるが立ててくれた作戦を、完璧にやり遂げるのが自分の役目なのだから。

 

「さあ、しんのすけちゃん。呪文を唱えてあの悪者を封印するのよ」

「お任せだゾ〜」

 

 さあ、ここからが本番だ。マタはグッと表情を引き締め、いかにも焦燥しきったような悲痛な声を上げた。

「しんちゃん! 騙されちゃダメだ! ボクはキミの味方なんだ!」

 

 必死の抵抗を演じるマタの姿に、プリリンとしんのすけは微塵も疑いを抱いていない。プリリンは勝利を確信したように歪んだ笑みを浮かべ、艶かしい声で呪文を唱え始めた。

 

「さあ一緒に。『フーイン・フーイン・ボインボイ~ン』」

 

 それに合わせて、しんのすけも元気よく声を張り上げる。

 

「『ふーいん・ふーいん・ぼいんぼい〜ん』!」

 

 二人の呪文が重なった瞬間、マタは全身を拘束するような力を感じた。

 光の渦に飲み込まれ、体がどんどんと霞み、視界が闇に閉ざされていく。

 

「いやだ、だめだーっ!」

 

 表面上はそう叫びながらも、マタの心の中は驚くほど穏やかだった。

 暗くて狭い封印の中。

 本来なら、ドン・クラーイの住人にとって身の毛もよだつほどの恐怖と苦痛を伴うはずの空間。

 けれど、今のマタには何も苦しくなかった。恐怖なんて一切なかった。

(『絶対すぐ助けるから! 約束する!』)

 鉄塔の上で、顔を真っ赤にして必死に弁解していた彼の不器用な横顔。

 その言葉を、そして彼という存在そのものを、マタは心の底から信じ切っている。

(待ってるよ、かける……)

 完全に意識が封印の闇に沈むその直前、マタの口元には、誰にも見えない小さな、けれど確かな笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 ◇

 

 

ほんとにこれでよかったのか。

 手の中にある、ペラペラの下敷きになってしまったマタを見つめながら、俺は一人で深くため息をついた。

 原作の知識があって、これから何が起きるかわかっていても、俺の不用意な介入で未来が変わってしまう可能性がある以上、結局は原作の道すじをなぞるしかない。そんな自分の無力さに、どうしようもなく落ち込む。

 封印されてくれなんて、マタからすれば恐怖でしかないお願いだったはずだ。それなのに彼女は俺を信じて、文句一つ言わずに受け入れてくれた。

 でも、これは仕方ないことでもあるんだ。

 この後、春日部全体……いや、世界全体の様子が明らかにおかしくなる。突然『男性専用車両』なんてものが作られたり、テレビの中のアクション仮面が微分積分を教え始めたりするカオスな事態。この異常な違和感に気づけるのは、野原一家だけなのだ。

 

 そして、しんのすけが家の窓がパズルピースのようになっていることに気づき、そのピースを剥がす。夕方だったはずなのに、窓の外、世界全体が夜になっていることに気づく。ヘンジられ、時間が常に『夜』に固定されたと悟った野原一家が家族会議を開き、マタの封印を解く。そしてプリリンを倒し、アセ・ダク・ダークとの決戦に挑む……。

 

 もし俺が下手に介入してこの流れが変わってしまったら、ダークを倒す決定打が失われるかもしれない。俺はこの道すじが壊れないように、裏から最低限のアシストをすることしかできないのだ。

 

 その『最低限のアシスト』で、マタの心の負担を少しでも減らせるならと思って、封印の件は前もってネタバレさせてもらった。

 原作で、命懸けで守ろうとしたしんのすけから「悪者」だと疑われ、信じてもらえずに封印されるあのシーンは、マタにとって相当辛かったはずだ。だから、前もって真実を知らせることで、その絶望を少しでも和らげたかった。

 

 封印を絶対に解くという約束が、暗闇の中にいるマタの支えになってくれているかはわからない。でも、そうであってほしいと願うしかない。

 それにしても。

 

「……五歳児とはいえ、マジ許せねぇ」

 

 しんのすけの奴、あろうことか下敷きになったマタを、自分の部屋の床にポイッと放り投げたままにしやがったのだ。

 原作では、復活したマタが怒ってしんのすけを叩く『フリ』をするシーンがあるが、俺ならマジで引っぱたいてしまうかもしれない。(絶対ダメだが。相手は五歳児だし主人公だぞ、落ち着け俺)

 今は朝の八時。いつもの公園だ。

 しんのすけが幼稚園のバスに乗って出かけた直後、俺は野原家に潜入し、シロにお願いして窓の隙間からマタ(下敷き)をくわえて取ってきてもらった。

 本来ならマタは夜しか出現できないが、プリリンの力によって世界はもう常に『夜』という扱いになっている。だから、今の時間でも封印を解けばマタは元の姿に戻れるはずなのだ。

 よし、と俺は小さく息を吐いた。

 封印を解く。約束したし、約束してなくてももちろん即効で解くのだが……問題は、その手段だ。

 

「……解く呪文が、なぁ……」

 

 公園のベンチで、俺は少し身じろぎした。

 やるしかない。推しのためだ。俺は覚悟を決め、すうっと深呼吸をして、自分の中にあるすべての羞恥心と感情を完全に押し殺した。真顔だ。今の俺は心を失ったサイボーグだ。

 マタの下敷きを両手で掲げ、俺は口を開いた。

 

「『んーいぼんいぼ・んいーふ・んいーふ』」

 

 ボンッ!

 気の抜けた音と共に白い煙が上がり、手の中にあった下敷きの感触が消えた。

 煙が晴れると、そこには見慣れたターバン姿の少女が、尻餅をついた状態で座り込んでいた。

 

「……ふー。マジで恥ずかしかった……」

 

 俺がどっと疲労感を感じて肩を落としていると、目の前のマタがパチパチと瞬きをして、自分の両手を見つめた。

 そして、目の前に立つ俺の姿を認めた瞬間、パァッと顔を輝かせた。

 

「かける……! 本当に、助けてくれたんだね……!」

 

 言うが早いか、マタは勢いよく立ち上がり、そのままの勢いで俺の胸に飛び込んできた。

 ギュッと、力強く抱きしめられる。

 

「ありがとう! かける!」

 

 心底嬉しそうな、弾むような声。

 推しからの突然のハグという致死量の供給に、サイボーグと化していた俺の感情は一瞬でショートし、ただただ硬直することしかできなかったのだった。

 

 

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