昭和十年の冬のことである。帝都から遠く離れたある街に霧が煙って夕闇が迫る中、古びた神社の鳥居をくぐる足音が、鈍重に聞こえていた。
神社は郊外に位置し、周囲は人家もまばらで、ただ古木が風にそよいでいる音だけが聞こえる。足音の主、気だるげな足音を響かせる男は心の中で、なぜ自分がこんな場所に来たのかと問うてみた。しかし答えが木霊することはなく、ただ男の息遣いと本殿から漏れる僅かばかりの灯りが、夜の静寂に溶け込んでゆく。
青年、帝国大学の学生であり、政治学を専攻している佐々木達也はこの不確かな時代に国家の行く末への不安を抱え、何かしらの指針を幾ばくか求めてこの古社へと足を運んだしだいであった。
訪問は、決して単なる信仰心からというわけではなく、個人的な好奇心が多分に含まれていた。
達也がゆっくりと神社へと続く石段を上がり始めると、まるでそれを待っていたかのように、木々の間から冷たい風が彼の頬を撫でる。
石段を一歩一歩昇りながら、達也は己の馬鹿げた行為を嘲笑する気持ちと、どうとすることもできぬ古い好奇心の間で心を揺さぶられていた。
一体なにかというと、日本の未来への深い懸念で重く沈んでいたのだ。なぜ学士風情がそんなことに頭を悩ませているのか。疑問に思う読者も多いことだろう。
というのも近年になって国際的孤立を深め、軍事拡張を進める日本の政策は、彼の学んだ政治理論、特に国家間の力の均衡を尊重し、国際協調を重んじるリベラリズムとはかけ離れたものだった。
これらの政策が国家にとって真に賢明なのか、また、その倫理的正当性について、常々学問的な疑問を持たずにはいられなかった。
しかし、同期との討論や書庫の書物からは、達也の抱える重たい問いに対する完全な答えは得られなかった。内に渦巻く不安を解消するには至らず、今日まで過ごしていた。
そんな折であった。ある話を聞いたのだ。
この夜、達也が訪れた神社は、過去に多くの指導者たちが国の未来を占うために祈りを捧げた場所である…と妙に熱っぽく教授が話していた。
「国家の守護神」として知られるらしいその神社の空気は、重厚でありながらも、何か語りかけるような神秘性を漂わせていた。思い込みかもしれぬ洞察は、達也の中にある昨今の天皇至上の思想の広まりに対する危機感を思い起こさせた。
本当にこの土地の神々が日本の政治文化に影響を及ぼしてきたのであれば…
――国家神道、天皇は現人神とはいうが、それならば諏訪氏だって現人神といわれるはずだ。
まぁ残念ながらそんなことを表立って言えば、ただでは済まない時代になりつつあるのが今の情勢なのである。
コツコツ
足音が響く。
達也は時折、立ち止まっては深く呼吸を繰り返し、どれほどのぼればいいのかと思案した。その都度、自らの意志を鼓舞し、もう一度階段を登り始める。しかし、どれだけ登っても、目の前にはただ階段が続いているだけで、目指す聖域の門はいつまで経っても現れない。
階段に足を踏み入れた瞬間から、不思議な錯覚には襲われていた。一歩一歩を踏みしめるごとに、上へ上へと進んでいる感覚はあるものの、周囲の景色はまるで変わらない。霧に煙る空間は、始点も終点もなく、達也を取り巻く環境は常に同じ風景を繰り返しているようだった。
汗ばむ額を手の甲で拭いながらも、歩を進め続ける。しかし、どれだけ時間が経過したのか把握できず、階段はじわじわと達也を疲労へと追い込んでいった。薄暗い石段は冷たく湿った触感で、体温を奪うかのような錯覚を与える。
どれほど段を踏み越えたであろうか。
ようやく姿を見せ始めた神社の本殿にはぽつんと灯された灯籠が影を潜めている。
古木の枝は時折り、風に揺れ、高級な革靴が地面を踏みつける音と木の手すりが軋む音が静寂に木霊する。灯籠の光がほのかに揺れる中、達也は重々しく石段を上り終えた。
神社に到達すると、息を吸うよりもまず、本殿に向かって深く頭を下げた。その時、達也は自らの中に静かなる何かが呼応するのを感じ取った。それは、階段を上り終えた達成感であったかもしれぬし、あるいはもっとよからぬものかもしれなかった。
境内に足を踏み入れると、特に変わったことはない。
そこにはただ古びた神社が一つあるだけだ。少し気になる点を挙げるとすれば境内には誰一人として姿が見えぬことであった。
何処かで犬が吠える声が聞こえるが、それもまた遠く離れた事象のように、ただひたすらに達也の心に切ない響きを与えるだけだ。都市の片隅にそびえ立つ古びた諏訪の神社は、その古木の枝に垂れる苔の色と同じように、時間の流れに身を任せたかのように佇んでいた。
境内は落ち葉が敷き詰められ、誰の足音もない静寂が支配し、古木の枝が風に軋み、達也のある違和感を煽った。
年季の入った柱を見る。はて、ここは誰も手入れをしていないのだろうか。
いいや、それはありえない。諏訪大社は長い歴史を持つ分、後生大事にされていたはずであった。
考えてもどうにもならぬ悩みを解消するため、訪れた場所でこれ以上考えていても仕方ないので、達也はひとまず一礼三拍手することにした。
歩を進めるにつれ、霧に輪郭を覆われていた本殿の構造がはっきりと見えてくる。漆黒の屋根は重厚で、その曲線美が達也の心に深い印象を残す。社の前に近づくと、ぼんやりと神聖な空間との境界を目で見るわけでもなく感じた。
達也は本殿の前の広場に足を踏み入れると、再び深く頭を下げ、ゆっくりと目を閉じて八百万の神々への敬意を表す。そして、静かに手を合わせて一礼三拍手を行う。
拍手が響くたびに、乾いた音がしっとりした空気に伝わる。
三拍手が終わると、達也はしばらくの間、静かに祈りを捧げる。その祈りに何がこもっていたかは神のみぞ知るといったところだろう。
祈りを終えた達也はゆっくりと目を開き、周囲を見渡す。心は一層清々しく、重要な決断を下す前の静けさと確信に満ちていた。彼は本殿に向かって最後に深く一礼をし、その場を後にする準備を始める。
達也がそっと本殿から離れると、そのとき唐突に悪寒を覚える。
両側には枯れ枝を落とした古木が立ち並び、かすかに風に揺られる音が帰り道を辿る足音に混じっていた。目の前に広がる霧は、周囲の景色をぼんやりとした影に変えていたが、突如、白い何かが視界を横切った。
最初はただ霧が風に吹かれたかに思われたその動きだが、よく見るとそれは白蛇だった。蛇は見るも無残な白さで、まるで冬の初雪を纏ったかのように純白であり、月明かりに照らされて幽玄の光を放っていた。
蛇はゆっくりと本殿の階段を這い上がり、一条の白い光線が暗闇を裂いて進むかように達也の足元を通り過ぎて石畳の水の流れるように上を滑る。
白蛇はしばらく達也と本殿との間を静かに這い回った後、本殿の暗がりへと消えていった。その姿が見えなくなると、ふとした寂寥感と共に、強烈な空気の変幻を感じる。
ーーなんだ?
声のようなものが聞こえる。それは意味のある音ではないがなぜか声であると認識できた。
達也はあたかも自身が時間を超えて古の人々と対話しているかのような錯覚に陥る。心の中には、先人たちの声が響いているようで幻聴などではないという確信があった。
しかし不思議と恐れはなく、それどころか声が今日の達也の疑問に対する何らかの示唆を与えてくれるのではないかという期待を抱いた。
そんな期待とは裏腹に、いや応えたからこそだろうか。さらに濃さを増す霧が境内を更に幽玄な場所に変えていく。
そしてふいに、声が、どこからともなく聞こえてきた。
「何用か?」
それは先ほどまでの不明瞭で、なんともいえない偉人たちの声とは違い比較的はっきりと聞こえた。
達也は振り返ったが、誰もいない。声は耳元でささやくようでありながら、遠く霧の中から聞こえてくるようでもあった。心臓が速く打ち始める。恐怖と好奇心が同時に心を駆け巡る。
「何を求めてこの地に足を踏み入れたのか」
今度は、はっきりと声が達也の耳に落ちる。またも驚いて周囲を見渡すが、その声の主を見つけることはできなかった。声はあたかも霧の中から、または心の奥底から聞こえているのやもしれぬ。
「なぜ人の子がかような場所に踏み入れるのか?」
背後を…先ほどまで正面であった方向を振り返ってみたが、声は、背後からというよりも、むしろこの場全体から発しているかのようですらあった。
達也はどうしていいか分らず、やはりもう一度振り返るが、誰も見当たらない。
ただ霧だけが、やけに人の形を模しているようにも見えた。
声はまたもや聞こえた。
「心の奥底を見せてみよ」
あまりにも突然で、そして恐ろしいものであった。達也は何度目かの試み、声の主を確認しようとする。しかし先ほどまでと違うのは、何か気配というものを感じたことである。
そして本殿の暗闇へと目を凝らした。
しかし、やはり何者の存在も見出すこともできず、視線を霧に漂わせる。観念したように、やがて達也が口を開いた。
「私は…日本が…日本がどうなるのか、知りたいのです」
その答えが空中に消える間もなく、霧がさらに濃密になり、やがてその中から一つの姿が現
れた。形は不定形で辛うじて帽子をかぶっていることと背丈がかなり低いことが分かった。
「運命を知りたいか。だが、知ったならば……」
少女の声は再び響き、彼女の言葉が霧と共に達也の意識に溶け込んでいく。目の前で形作られた神の姿は、闇夜と同じく、深く、暗く、そして、何よりも恐ろしいものだった。
声は、達也に対する警告であるようにも、また誘いであったようにも聞こえた。
「それでも…それでも、知りたいのです」
達也は自らも知らずに囁くように答えた。すると、霧が一層濃くなり、本殿の前で人の形を取り始めた。その形はやがて、一人の女性、いや少女として認識できるほどに明確になった。
それの目は、この世のものとは思えぬほどに深く、暗く輝いている。
それは、古びた装束を身にまとい、目が深く沈んだ幼子の形をしていた。達也は息を呑む。
すぐにその姿の後ろにもう一つ姿を見たからだ。
霧の中から、ゆっくりと、また一つの姿が現れた。その影は、いにしえから語り継がれる神、蛇の化身のようであった。
白蛇の皮膚は、冬の光に反射する雪のように白く、光沢がありながらも、触れれば冷たく、硬質の感触があるはずの石のように感じられた。その冷たさは周囲の空気を凍らせるかのようで、その体を這わせるたびに、地面からは霜が生じ、草木はみるみるうちに枯れていった。蛇の体は、動くたびに石がぶつかり合うような音を立て、それは遥か遠くの雷鳴のように周囲に響き渡った。
蛇の頭部は特に印象的で、その顔は彫りが深く、まるで石匠が何世紀も前に一つ一つ手作業で彫り上げたかのような精緻さを持っていた。目は細長く、深く凹んだ窪みから覗くその眼からは赤い光が煌々と放たれていた。光は、見る者の心を一瞬にして凍りつかせる。
顔からは時折、熱い息が吹き出し、その息が触れるものはすべて灰と化してしまいそうだ。
その動きは遅々としており、そのたびに周囲の空気が凍りつく。
蛇の口からは、不毛の大地を生むと言われる赤い光が漏れ、その吐息は周囲の草木さえ枯らせる。蛇の体からは冷たく湿った空気が放たれ、達也は恐ろしさに呼吸すら忘れそうになった。
「面白いことをいう…」
霧が一瞬にして達也の目の前に凝集し、一つの形を成す。人の形をしたその霧が、ゆっくりと幼子の姿を取り、彼女は達也の目の前に立った。その目は、暗闇の中で不自然に輝いていた。
「お前は…そうかお前だったか、ならば話は簡単だ」
それはかつて人々が祀り、今は忘れ去られた神の形をしていた。彼女の目は、人の魂すら呑み込むような山吹色に輝いている。
幼子…神は達也に向かって、静かに言葉を続けた。
「@@p@」
声が再び響き、その言葉が意識に深く沁み込む。彼女の姿は霧とともに変幻し、都の夜と同じように、深く、暗く、そして何よりも恐ろしいものとして達也の目に焼き付いた。
この時、達也は自分が何を望んでこの場に来たのか、そしてその望みが何をもたらすのかを初めて知った気がするのだ。
彼女の目は閉ざされ、口元からは不気味な崩れた微笑みがこぼれていた。
「運命を求める者よ、真実は時に苦痛を伴う。お前の運命は、山の如く、霧に覆われ、道は見えず。だが、その先に何があるか、それを見たいというのなら、私は見せてやろう。」
達也は、心臓が高鳴るのを感じ、声が出ない。しかし首は別の誰かが宿ったようにその提案に頷いた。
すると、少女は彼の手を取り、霧の中へと誘った。二人が霧に包まれると、達也の目の前には未来の光景が浮かび上がった。それは戦火と混乱に満ちた世界であった。達也はその光景に息を呑み、何も言えなくなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
霧はますます深く、心にも同じように重たくのしかかっていく。
霧が晴れ、諏訪子は達也を元の場所に戻した。彼女は達也の目を見つめながら、
突如、低く、重い声が達也の背後から聞こえた。振り返ると、諏訪子の姿が霧の中から浮かび上がる。
怪物が笑う。薄く、赤い舌が見えた。
「求める未来は、ここにある。だが、その代償は大きい…」
達也が何を返答する間もなく、神は彼に近づき、冷たい手を彼の肩に置いた。その触れる感覚は、まるで死の予感を感じさせるようで、青年の心は恐怖で凍りついた。
諏訪子の口から次に漏れた言葉は、運命を暗示するものだった。
「心の闇を抱える者よ、その闇がやがて己を呑み込むであろう。」
赤く燃えゆ瞳が、達也を焼いた。そして、再び冷たい風が達也の肌を撫でた。
その夜、達也は何者かに追われる悪夢にうなされた。目覚めた時、達也は自分の部屋で震えていたが、国の動乱が現実となり、自身が見た悪夢と同じ運命を辿ることを夢とは思うことはない。
諏訪の言葉は、啓示なぞではなく、魂を狂わせる呪いであった。この地に渦巻く暗い力が、達也の心を完全に支配下に置いたのだ。帝都の夜はさらに暗く、寒く、さらに恐ろしいものとなるだろう。
だが、どうすることもできはしないのだ。
続く。なんでもいいから意見をください。